投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月22日(月)11時10分20秒
『頼朝の武士団』の「洋泉社歴史新書y版参考文献」を見ると、文献の多い順に野口実11、安田元久9、元木泰雄・湯山学6、関幸彦5、高橋昌明4、石井進・奥富敬之・細川重男3、となっていて(2以下略)、野口実氏の影響力の強さが窺われますが、野口氏の最近のツイートを見ると、『頼朝の武士団』をディスっているのかな、みたいに感じられるものが多いですね。
特に、
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地方武士たちが内乱に身を投じた根本的な理由が、一族間の内紛や在地支配における利害関係の衝突に基づくことは言うを俟たず、その行動が中央の政治情況に大きく規定されていたことは銘記されなければならない。こうした観点からすれば、頼朝が内乱の最終的な勝者となった理由も判然とするであろう。
頼朝が後白河院の武力を担った義朝の遺子であり、院近臣を輩出した熱田大宮司家出身の女性を母とし、少年期に院の同母姉の上西門院に仕え、従五位下右兵衛権佐という官歴をもつ存在であったことの意味は大きい。当然、「武家の棟梁」にとって必要欠くべからざる属性は「情」などではなかったのである。
というツイートは、明らかに細川著の、
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エピローグ─鎌倉幕府の青春時代─
「頼朝時代の鎌倉幕府の根幹にあったモノは、何か? 一言で答えよ」
と問われたならば、私は、
「情である」
と答える。
まだまだまったく脆弱であった組織や制度を強力に支えていたのは、良くも悪しくも、源頼朝を中心に形成されていた人間関係であった。
「感情の動物」である人間一人一人が結ぶ関係は、脆い。それが、鎌倉幕府という巨大な人間集団を形成し維持する役割を果たし得たのは、その人間関係の中心に源頼朝があったからである。蜘蛛の巣状に重要に結ばれた「情」の連鎖の中心には、常に頼朝があった。
この時代の鎌倉幕府をまとめ上げていたのは、頼朝という個性であった。
頼朝という個性を中核とした「情」の連鎖無くしては、そもそも鎌倉幕府は存在せず、よってその武力も財力も、そして勝利もあり得なかったであろう。
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という記述(p255以下)への批判なのでしょうね。
私自身は「鎌倉幕府の青春時代」までは細川氏の言われることに相当の説得力を感じますが、ただ、大姫入内問題あたりから後になると、頼朝と御家人たちの間にも相当の隙間風が吹いていたように思われます。
ま、この時期、『吾妻鏡』の欠落も目立つので、詳しい事情は分かりませんが。
さて、私の個人的関心からは、承久の乱の戦後処理の部分も気になります。
この点、細川氏は『吾妻鏡』の記述に基づき、時系列に沿って、承久三年(1221)七月八日、行助入道親王(後高倉院)の「御治世」が決定されたことについて「空前絶後」と評し、
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異例のテンコ盛りであるが、当時は院政が朝廷政治の「あるべき姿」であり、幕府を含めて、それが当時の人々の「常識」であった。そして、人は「あるべき姿」と考えるものを守ろうとするのである。
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とされ(p358)、七月十三日、
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八日に出家した後鳥羽院は、隠岐国に遷御(天皇・上皇・皇太后などが居所を変えること)するため、都を出御(天皇・上皇・将軍などが外出すること)した。事実上の配流である。
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とされ(同)、以後、順徳院(佐渡)・六条宮雅成親王(但馬)・冷泉宮頼仁親王(備前)のそれぞれについて「事実上の配流」という表現を繰り返されます。
そして「コラム⑥」(p361以下)では、政子が「事実上の将軍」であることについて詳しい説明があり、更に「9 義時・政子と御家人間抗争の終焉」では、
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『吾妻鏡』は、政子をその神功皇后の「再生」(転生。生まれ変わり)と記すのであり、すなわち政子を鎌倉殿(征夷大将軍)歴代に加えている。
これは何も『吾妻鏡』だけの贔屓の引き倒しではなく、政子を鎌倉将軍歴代に入れる史料は多い。主なものを史料名のみ記すと、『鎌倉年代記』・『武家年代記』・『将軍次第』(以上、鎌倉時代末期成立)・『鎌倉大日記』(南北朝時代末期)・『御当家系図』(密蔵院甲本。戦国時代成立)・『相顕抄』(織豊期には存在)などなど。
前近代には、神功皇后が第十五代天皇とされていたように、政子は事実上の第四代鎌倉殿とされていた。そしてこれまで見て来たように、実朝暗殺後の政子は、実際に事実上の鎌倉殿として活動していた。「尼将軍」は実質をともなっていたのである。
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とされます。(p374以下)
このように、細川氏は何度も「事実上の」を繰り返されますが、それは後鳥羽院等の「配流」は律令法の大系で説明できないからであり、また、政子が「事実上の鎌倉殿」とされるのは、政子が征夷大将軍に任官されておらず、これも律令法の大系では何とも説明しづらい存在だからですね。
この「事実上の鎌倉殿」という表現は、結局のところ細川氏が天皇を頂点とする一つの国家を疑うべからざる前提としていることを示していますが、「東国国家論」に立てば、別にその首長たる地位は他国(西国国家=朝廷)に認定してもらう必要はないので、政子は事実上でなく「合法的」な鎌倉殿といえそうです。
また、後鳥羽院等の「配流」は、律令法の大系では説明できないとしても、「西国国家」と「東国国家」が戦争し、「西国国家」が無条件降伏した結果生まれた新しい「国際法秩序」の下では、これも事実上ではなく「合法的」な配流といえそうです。
承久の乱後に形成された新たな「国際法秩序」
>筆綾丸さん
本郷著、私も読み始めました。
感想は後ほど。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
セルラー国家とGPS 2021/11/21(日) 14:55:39
小太郎さん
cellular communication system に倣ってセルラー国家とすれば、「細胞」の亡霊から自由になれそうですが、ただ、そうすると、NTTドコモや楽天モバイルの親会社のような感じになってしまいますね。
義時の起請文に関して、「見継被見継可申候」(呉座氏の一揆契状)でいえば、「見継」したのに「被見継」なかった、ということですね。『吾妻鏡』の記述は、偉大な義時は醜男だった、という婉曲表現なのかもしれないですね。
『北条氏の時代』には、「鎌倉のすぐ東隣にある三浦半島」(77頁)とか、三浦半島は鎌倉の真横にある(85頁)とか、「鎌倉は三方を山に囲まれ、南は海」(112頁)とか、地理的に変な記述があって、それらから察すると、本郷氏はどうも方向音痴のようで、GPS機能付きの cellular phone がなければ目的地に辿り着けないのではないか、と思われました。つまり、たとえば、承久の乱において、東海道であれ、中山道であれ、北陸道であれ、本郷氏が指揮していたら、瀬田や宇治はいうまでもなく、京都に進軍できなかったのではあるまいか。後鳥羽院なら、東国国家論など取るに足らず、とお思いなられたかもしれません。
付記
日々、伊豆半島に沈む夕陽を眺めていると、鎌倉の南は海、というのはピンとこないのですが、これは正しいですね。
小太郎さん
cellular communication system に倣ってセルラー国家とすれば、「細胞」の亡霊から自由になれそうですが、ただ、そうすると、NTTドコモや楽天モバイルの親会社のような感じになってしまいますね。
義時の起請文に関して、「見継被見継可申候」(呉座氏の一揆契状)でいえば、「見継」したのに「被見継」なかった、ということですね。『吾妻鏡』の記述は、偉大な義時は醜男だった、という婉曲表現なのかもしれないですね。
『北条氏の時代』には、「鎌倉のすぐ東隣にある三浦半島」(77頁)とか、三浦半島は鎌倉の真横にある(85頁)とか、「鎌倉は三方を山に囲まれ、南は海」(112頁)とか、地理的に変な記述があって、それらから察すると、本郷氏はどうも方向音痴のようで、GPS機能付きの cellular phone がなければ目的地に辿り着けないのではないか、と思われました。つまり、たとえば、承久の乱において、東海道であれ、中山道であれ、北陸道であれ、本郷氏が指揮していたら、瀬田や宇治はいうまでもなく、京都に進軍できなかったのではあるまいか。後鳥羽院なら、東国国家論など取るに足らず、とお思いなられたかもしれません。
付記
日々、伊豆半島に沈む夕陽を眺めていると、鎌倉の南は海、というのはピンとこないのですが、これは正しいですね。