学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

あなたの「国家」はどこから?─平山優氏の場合(その1)

2021-11-13 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月13日(土)12時39分59秒

結局、『戦国大名 政策・統治・戦争』を最後まで読んでも戦国大名の「定義」は出てきませんが、特に分かりにくいのは「国衆」との違いですね。
「第五章 戦国大名と国衆」には、

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 ある一定の領域を支配するという意味では、戦国大名と国衆は変わらなかった。だから権力としての構造も変わらなかった。それだけではない。そうした国衆も、領国の外縁部には、自立的な領主が存在していたことも多かった。彼らも、国衆の家中には含まれない存在であり、同心、与力などと称された、やはり客のようなものだった。自立的な領主を服属させることで、より大きな権力が構成されるという関係が、重層的に展開していたのである。つまり、戦国大名と国衆の違いといったら、見た目も規模の違いくらいにすぎなかった、といっていいほどなのだ。
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などとあります。(p174以下)。
この点、丸島和洋氏はもう少し整理されていますね。

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cea66659dd786ab72c595cccb0b2c976
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ba92511f4d25dfbe46a7a9afcf796dd

そして、平山優氏の『戦国大名と国衆』(角川選書、2018)を見たところ、平山氏も丸島氏の「定義」に賛成されていますね。

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領国支配と軍事編成――その中核に誰がいたのか。
戦国大名の領国は、軍事侵攻で制圧した直轄支配地域と、彼らに従属した「国衆」(先方衆とも)が排他的に支配する「領」(「国」)とでモザイク状に構成されていた。この戦国期固有の領主たちはいかに誕生したのか。大勢力の狭間で翻弄されながらも、その傑出した実力で戦国大名とどのような双務的関係を結び、彼らの権力構造にいかなる影響を及ぼしていたのか。武田氏を主軸に、史料渉猟から浮かび上がる国衆の成立・展開・消滅の歴史を追い、戦国大名の領国支配と軍事編成の本質を総括・通覧する。

https://www.kadokawa.co.jp/product/321810000023/

同書の構成はリンク先を参照していただくとして、「第一章 戦国期の国衆と先方衆」の最後に次のような記述があります。(p43以下)

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戦国大名概念について

 「戦国領主」論に立脚しないということは、戦国大名という研究概念を支持することに他ならない。では、本書で繰り返し主張される戦国大名を、そもそもどう捉え、概念規定をするのか。それを明確にする責任があるだろう。ただ、戦国大名の研究史などの整理を行うと、膨大なことになってしまうため、ここでは残念ながら割愛せざるを得ない(それぞれの立場からの研究史整理は、矢田俊文・一九九八年、池上裕子・稲葉継陽・二〇〇一年、則竹雄一・二〇〇五年、丸島和洋・二〇一一年などが興味深い)。
 戦国大名の概念規定は、今も明確化されているとはいいがたいが、一九九〇年代までは戦後歴史学が提起してきた諸問題への対抗軸が確立されてはいなかったため、それに関する概念規定は、「地域封建権力による一国人領を超えた独自の公的領域支配制度」とするのが精一杯であった(池亨・一九九五年、平山・一九九九年)。
 しかし二〇〇〇年代以後、戦国史研究は、自治体史や『戦国遺文』をはじめとする資料集の刊行を背景に、多様性と層の厚みが増し、各地の基礎研究も進展をみせ、飛躍的に進んだと言ってもよいだろう。とりわけ、武田氏研究の進展は目覚ましいものがある(例えば、平山・丸島和洋編・二〇〇八年、芝辻俊六編・二〇一一年、磯貝正義先生追悼論文集刊行会編・二〇一一年、芝辻俊六他編・二〇一五年など。二〇〇〇年代に刊行された著書、論文集、史料集についてはインターネットホームページ「甲陽雑記」の「武田氏研究文献目録」参照のこと)。
 こうした研究成果を踏まえ、丸島和洋氏が提起した戦国大名の定義は注目される(丸島和洋・二〇一七年)。

 ①室町幕府・朝廷・鎌倉府・旧守護家をはじめとする伝統的上位権力を「名目的に」奉戴・
  尊重する以外は、他の権力に従属しない。
 ②政治・外交・軍事行動を独自の判断で行う(伝統的上位権力の命令を考慮することはあって
  も、それに左右されない)。
 ③自己の個別領主権を超えた地域を一円支配した「領域権力」を形成する。これは、周辺諸
  領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団組織に組み込むことを意味する。
 ④支配領域は、おおむね一国以上を想定するが、数郡レベルの場合もある。陸奥や近江のよ
  うに、一国支配を定義要件とすることが適当でない地域が存在することによる。

 右の定義は、戦後歴史学が提起していた唯物史観に基づく時代区分論や、封建制論の影響を受けて混迷していた状況をリセットし、一九九〇年代以来、戦国史研究が進めてきた成果と現状を踏まえて総括されたものであり、極めて説得力があるといえるだろう。今後の研究は、この概念規定を参照しつつ、これをいっそう豊かにしていく必要がある。
 戦国大名は、『今川仮名目録』にもあるように、自らの力量をもって統治を行い、それゆえに上位権力に従属しないのが原則である。この力量の内実を、多方面で分析するのが戦国史研究の大切な宿題なのだ。本書が扱う、武田氏と国衆との関係も、戦国大名領国の支配と軍事編成の特質を解明する重要な問題なのである。本書も、この戦国大名の規定を念頭に検討を進めていくことにしたい。
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「参考文献一覧」を見ると、「丸島和洋・二〇一七年」は『武田勝頼』(平凡社)とのことですが、私は未読です。
ただ、平山氏が列挙された四項目を見ると、『列島の戦国史5 東日本の動乱と戦国大名の発展』(吉川弘文館、2021)に記述された四項目と、ごく僅かの表現の異同はあるものの、ほぼ同一内容ですね。
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あなたの「国家」はどこから?─黒田基樹氏の場合(その5)

2021-11-13 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月13日(土)10時41分55秒

続きです。(p26以下)

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 「御国」の論理は、このように戦国大名が「村の成り立ち」について、一定程度担っているという自覚を持つことによって、はじめて登場することができた論理といえる。それは同時に、村が、程度の差や認識の差などはあったであろうが、平和の確保や「成り立ち」の維持において、一定程度、戦国大名に依存していたことの反映とみることができる。実際に、村の側にも、最も安全なのは大名本拠の城下町であり、最も危険なのは紛争地域にあたる領国境目である、とする認識が生まれるようになっていた。
 したがってこうした状況は、戦国大名の存立と領国内の「村の成り立ち」が一体化した関係の表現と理解されるであろう。逆に戦国大名は、村がそうした領国防衛のための負担を拒否すると、「いやならば、当方を罷〔まか〕しさるべきにてすみ候」(戦北三六二八)と、嫌ならば、この領国から退去すればいいと、領国からの追放さえ表明するようになっている。それはあたかも、日本の戦前における「非国民」扱い、あるいは国民をやめて難民になれ、というようなものであろう。
 このようにして村は、自らの帰属すべき政治領域として、戦国大名を認識するようになった。このことも列島史上においてはじめての事態となる。社会主体であった村は、それを含む領国と否応なしに、運命共同体的な立場をとらされるようになったのである。それを拒否すれば領国から追放をうけることになるが、村という組織によって生産活動を展開しているのであるから、それは社会主体としての立場を捨てるに等しく、当時においてそれは事実上、死もしくは他者への隷属を意味することになった。こうした戦国大名と村の関係は、現代の私たちが認識する国民国家と国民との関係に相似するところがある。このことから戦国大名の国家は、いわば現在に連なる領域国家の起源にあたる、ということができる。
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これで「序章 戦国大名の概念」は終わりですが、結局、最後まで戦国大名の「定義」は登場しませんでした。
さて、「序章 戦国大名の概念」は最後の方に行けば行くほど陰気な気分になりますが、恒常的に戦争と飢饉という危機状態に置かれていた「戦国大名と村の関係」が黒田氏の説明通りだとしても、それが何故に「現代の私たちが認識する国民国家と国民との関係に相似する」のか。
黒田氏の「日本の戦前における「非国民」扱い」という表現が示唆しているように、「戦国大名と村の関係」は、「総力戦」の最中の、国家総動員体制下における「大日本帝国」と「臣民」の関係には「相似」しているようにも思えますが、それが「国民国家」一般と「相似」しているのか。
私には、黒田氏の「国民国家」の認識に相当な歪みがあるように思われます。
『戦国大名 政策・統治・戦争』の奥付によれば、黒田氏は1965年生まれで「早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業」だそうですが、文学部史学科ではないにしても、おそらく西欧近代史についてもそれなりの基礎教育を受けているはずです。
私より年下で、私のように独学ではなく、歴史学の研究者として基礎的訓練を受けたであろう人が、何故にこのような「国民国家」観を持たれているのか、私には本当に不思議で、不可解です。

黒田基樹(1965生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%9F%BA%E6%A8%B9

もともと戦国時代には全く興味がなかった私ですが、それでも黒田氏が膨大な著作を執筆されていることは知っており、ある種、驚異の目で眺めていました。
そして、黒田氏のとことん史料にこだわるストイックな姿勢の背後には、黒田日出男氏の表現を借りるならば「マルクス主義理論におけるマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作に依拠した訓詁学的な理論」への忌避感、「マルクス主義やヴェーバーの国家理論そのままを振りかざ」す研究者への嫌悪感があって、そうした議論に拘らずに済む史料への沈潜の世界を選ばれたのかもしれない、などと思っていたのですが、黒田氏の極めて陰鬱な「国民国家」観には、私のそうした想像を超える何かがあるのかもしれません。

黒田日出男氏「国家の諸概念」について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80157c1c024cd9f39cad206c073edd52
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0014f4f18faededa8193ffe61d3b5100
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