学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

大江広元と親広の父子関係(その1)

2021-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月25日(木)12時22分23秒

呉座勇一氏は『頼朝と義時』において、

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 けれども広元は「時を移せば関東武士の結束が乱れて敗れるだろう。運を天に任せて早く出撃すべきだ」と主張した。政子の演説によって御家人たちは奮い立ったが、彼らの士気は時間が経てば低下する。官宣旨の内容もいずれは御家人たちの間に広がる。「朝敵の義時さえ討てば我が身は安泰になる」と保身に走る者が出ぬとも限らない。鉄は熱いうちに打て、である。広元の卓見には感心させられる。もっとも、広元嫡男の親広が後鳥羽方についたという情報が既に鎌倉に入っていたので、疑われぬようにあえて強硬論を唱えたのかもしれない。
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と書かれていて(p297)、広元の「強硬論」が「疑われぬように」するため、即ち自身の「保身に走」った結果である可能性を主張されています。
私自身は呉座説に全く賛同できませんが、上杉和彦氏も『人物叢書 大江広元』において次のように書かれています。(p163以下)

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 かつて「合戦のことはわからない」と語った広元が、東国武士顔負けの強行論を述べたのはなぜだったのだろうか。幼い日に目の当たりにしたかもしれない保元・平治の乱や、頼朝の伊豆での挙兵、そして度重なる鎌倉幕府内部の武力抗争の勝敗の帰趨が、いずれも機敏な先制攻撃によって決してきたことを広元が熟知していたことは理由の一つにちがいない。また、頼朝の時代以来奉公を続けてきた幕府に戦いを挑んだ後鳥羽に対し、広元が心底より怒りを覚えていたという面もあっただろう。あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない。
【中略】
 広元は、承久の乱における最大の功労者の一人であった。特に義時にとっての広元の存在は、有能な文官官僚であるのみならず、精神的支えともなるかけがえのない宿老であったといえよう。乱後、後鳥羽方についた親広は処刑を免れ、父の所領の一つである出羽国寒河江に隠れ住むことになるのだが、幕府に戦いを仕掛けるという重罪を犯した親広が命を長らえることができたのは、まさに広元の多大な功績がなせるわざというしかない。
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「合戦のことはわからない」云々は比企氏の乱に際しての話ですね。
私自身は「あるいは子の親広が後鳥羽上皇軍へ参陣したことに、冷静沈着を常とする広元の気持ちが乱されていたのかもしれない」という上杉氏の見解にも全く賛同できませんが、大江広元と親広の父子関係には分かりにくいところがあります。
そもそも「親広」の「親」は源通親の「親」であって、親広の存在自体に鎌倉初期の公武関係が反映されているのですが、その点を上杉著で確認しておきます。
まずは、親広が本当に源通親の養子であったどうかですが、

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 頼家の時代には、広元の長子である親広が、父とともに頼家側近としての活動を行うようになる。『吾妻鏡』における親広の初見は、正治二年(一二〇〇)二月二十六日の頼家の鶴岡八幡宮参詣に、広元とともに御後衆をつとめた記事である。親広は、諸史料の中では一貫して源姓で登場している。その理由は、『江氏家譜』に「久我内大臣通親公の猶子となり、源を号す」とあるように、源通親の養子になったことに求めることができる。もっとも『尊卑分脈』にはこの件に関する該当記事が見えず、親広が通親の養子となったことを明記する良質な史料はない。逆に『安中坊系譜』のような史料には「摂津源氏の武士である多田行綱が親広の外祖父であったことによる」という説明が見えるが、広元と通親の緊密な関係や、親広の「親」の字が通親に通じるものなどを考慮すれば、親広と通親の養子関係は事実であったと考えてよいだろう。
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ということで(p107)、「寒河江の地に伝来する安中坊〔あんちゅうぼう〕大江家所蔵『安中坊系図』」は信頼性が劣る史料であり(p185)、通親との養子関係は間違いなく存在したと思われます。
なお、『吾妻鏡』正治二年二月二十六日条には、

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正治二年二月大廿六日壬午。晴。中將家御參鶴岡八幡宮。御除服之後初度也。於上宮被供養御經。導師弁法橋宣豪云々。
御出供奉人
 先陣隨兵十人
【中略】
 次御後衆廿人〔束帶布衣相交〕
  相摸守惟義      武藏守朝政
  掃部頭廣元      前右馬助以廣
  源右近大夫將監親廣  江左近將監能廣
【後略】

http://adumakagami.web.fc2.com/aduma16b-02a.htm

とあって、親広は「源右近大夫將監親廣」という具合いに、確かに源姓で登場していますね。
さて、では「広元と通親の緊密な関係」はいかなるものであったかというと、これは建久年間に遡ります。
コメント
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「私は泣いたことがない」(by 中森明菜&大江広元)

2021-11-25 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月25日(木)10時18分2秒

>筆綾丸さん
>広元は誠に恐るべき人で、文官なのに(文官ゆえに?)、なぜ、それほど冷徹な判断ができたのか

承久の乱の戦後処理の法的性格を問うことは、大江広元とは何者かを問うことと殆ど同じ問題ですね。
大江広元の幕府に対する貢献は大変なもので、『吾妻鏡』にも広元の業績が多々記されていますが、広元の人間性を窺う材料となると意外に少ないですね。
上杉和彦氏の『人物叢書 大江広元』(吉川弘文館、2005)によれば、そもそも「広元が残した著作物あるいは詩歌の類は一切知られていない」(p176)そうです。

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鎌倉時代前期の政治家。もとは朝廷の実務官人であったが、源頼朝に招かれ草創期の幕府の中心的存在となる。政所別当として守護・地頭制の整備に関わり、朝廷・幕府間の交渉で卓越した政治手腕をふるった。頼朝没後、将軍頼家・実朝を支えつつ、北条氏とも協調を図り武家政権の確立に貢献した文人政治家の実像を、新史料を駆使して浮き彫りにする。


そして、上杉著によれば、

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 『吾妻鏡』をはじめとする諸史料に多くの事蹟を残す広元であるが、彼にまつわる説話・伝承の類は誠に乏しい。いわゆる説話集や軍記物語などに広元が登場する場面はほとんどないといってよい(『平家物語』に登場するわずかな事例は、「第二 新天地鎌倉へ」で紹介した)。
 多くの政治的活動とその功績が具体的に知られる一方で、広元個人の人柄を語る史料は意外に見出しにくいが、『吾妻鏡』にはこんな話が見える。武蔵国の御家人である熊谷直実が、法然に師事し遁世者として晩年をおくったことはよく知られているだろう。承元二年(一二〇八)九月三日、熊谷直実の子である直家が、十四日に京都東山で死去することを予言した父の往生を見届けるための上洛を幕府に申し出た。これを聞いた広元は、「兼ねて死期を知ること、権化〔ごんげ〕にあらざる者、疑い有るに似る」と述べた上で、厚い信仰心による直実の熱心な修行ぶりを称える言葉を発している。自分の死を予言し従容としてそれに臨む父、父の予言の正しさを確信し往生を見届けようとする子の行動に対し、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない者が、前もって死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という言葉をもらさずにおれぬ広元は、よくいえば合理的思考の人、悪くいえば冷淡な性格の持ち主といえるだろう。
 また、同じく『吾妻鏡』に見える、実朝暗殺直前に凶事を察知して思わず落涙した広元が「自分は、成人してから一度も涙を流したことがない私」と語ったという記事も、広元の冷徹な人間像を強調するものといえよう。
 文献史料の上から、広元の真の人間性を十全に知ることは容易ではない。広元とは、現実に彼が行なった政治行動のみによって、その人となりを後世に伝えた人物ということになろう。
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とのことですが(p178以下)、『吾妻鏡』が伝える二つのエピソードは相互に矛盾しているようにも思われます。
即ち、広元ならば、「権化(人々の救済のために人の形に姿を変えた菩薩)でもない【広元】が、前もって【実朝の】死期を悟れるものかどうかは疑わしい」という「合理的思考」をしそうなものだからです。

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承元二年九月小三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薫修。仰而可信歟云々。


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建保七年正月大廿七日甲午。霽。入夜雪降。積二尺餘。今日將軍家右大臣爲拝賀。御參鶴岳八幡宮。酉刻御出。
【中略】
抑今日勝事。兼示變異事非一。所謂。及御出立之期。前大膳大夫入道參進申云。覺阿成人之後。未知涙之浮顏面。而今奉昵近之處。落涙難禁。是非直也事。定可有子細歟。


また、実朝暗殺記事は従来から脚色が疑われており、広元が本当にこうした発言をしたかどうかには疑問が残りますが、しかし、自分は成人してから泣いたことがないという広元の述懐自体にはリアリティがあります。
あるいは、これは広元の単独エピソードを、実朝暗殺記事の元ネタの提供者、あるいは『吾妻鏡』の編者が実朝暗殺記事に挿入した可能性もありそうですね。
なお、熊谷直実と直家の父子エピソードは、大江広元と親広の父子関係を関係を考える上で、直接の判断材料となるものではないにしても妙に気になる話ですが、この点は次の投稿で書きます。

「飾りじゃないのよ涙は / 中森明菜& 安全地帯 with 井上陽水」

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

煮え切らない男 2021/11/24(水) 12:44:47
小太郎さん
スケールがぐんと小さくなりますが、保元の乱の時、崇徳側は、頼長が為朝の夜襲案をグズグズ引き延ばしたのに対して、後白河側は、義朝がグズグズする忠通を急襲案で押しきったということに、ちょっと似ていますね。
広元がいなければ鎌倉は負けていたかもしれないと考えると、広元は誠に恐るべき人で、文官なのに(文官ゆえに?)、なぜ、それほど冷徹な判断ができたのか、不思議な気さえしてきます。
姫の前は、義時の優柔不断なところが嫌いだったのかもしれない。鎌倉時代の研究者は、ほとんどみんな、義時礼讃で終わりますが。
『鎌倉殿の13人』では、どんな義時像になるのか、期待したいと思います。
コメント
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