学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

あなたの「国家」はどこから?─黒田基樹氏の場合(その2)

2021-11-11 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月11日(木)12時20分27秒

続きです。(p16)

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「自分の力量」による領国支配

 まずは領国を支配するということについての、権原についてである。この点は戦国大名の概念をめぐる学説においても、議論がたたかわされている部分でもある。学説を大きく分けるとすれば、実力によるとするものと、上位権力からの権限移譲(守護論など)によるとするものとに、まとめられるであろう。では実際には、どのようにとらえることができるのであろうか。
 戦国大名の領国は、当時においては「国家」と称された。領国とそれを主導する大名家が一体のものと認識され、それによって生じた用語といえる。したがって領国は、実質的にも名目的にも、一個の自立した国家として存在していたととらえられる。戦国時代とは、列島各地にそうした地域国家が乱立して存在していた時代、ということになる。
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この部分、以前にも書きましたが、私には黒田氏の論理が全く理解できません。
「したがって」の前の部分は「当時における史料用語」(p14)としての「国家」を論じていますが、「したがって」の後は「後世における歴史用語、すなわち学術用語」(同)としての「国家」の話です。
「史料用語」としての「国家」と「学術用語」としての「国家」は全く別の話であり、何故、この二つが「したがって」で結びつくのか、私には全く理解できません。

『戦国大名─政策・統治・戦争』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7e4d86e7e1defbaa4453a31580ee5f04
石井紫郎・水林彪氏「国家」の再読(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/791194f06e6174bee317237f9cb3f56a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f3ed16f85882fb5ab3deeb02f13f54f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d670a05f9fff0b93af853f0bf3f50748

ま、それはともかく、続きです。

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 戦国大名の地域国家としての性格が、最も端的に表現されているのが、今川氏が制定した「分国法」(領国法)である「今川仮名目録追加」の第二〇条である。

  旧規より守護使不入と云ふ事は、将軍家天下一同御下知をもって、諸国守護職を仰せ
  付けらるる時の事なり、守護使不入とありとて、御下知に背くべけんや、只今はおし
  なべて、自分の力量をもって、国の法度を申し付け、静謐する事なれば、守護の手入
  る間敷事、かつてあるべからず、
  《訳》
  昔、守護使不入というのは、室町幕府将軍が天下を支配し、諸国に守護職を任命して
  いた時代のことである。守護使不入であったからといって、今川氏の命令に背いて
  はいけない。現在はすべてについて、自分の力量で、領国に法度を言い付け、平和を
  維持しているので、守護(今川氏)が干渉できないような事柄などは、そもそもあ
  りようがない。

 ここにみえる守護使不入とは、室町時代に、守護の使者が所領に入部してくることを拒否できる特権で、それは室町幕府将軍(正確には首長の「室町殿」)から与えられた。守護は、あくまでも将軍から任命される、地方行政・軍政官にすぎなかった。守護の管轄地域は、決して守護の所領であったわけではなく、そこには将軍に直属する多数の人々の所領があった。その所領について、守護使不入の特権を与えられることがみとめられていた。それはともに、将軍に従っているから成立しえた関係であった。
 ちなみに戦国時代を、人々はまだ「室町時代」と認識していた。「当代」として、室町幕府の治世と認識していたからである(「先代」といった場合は鎌倉幕府の統治時代を指していた)。戦国大名も、室町幕府や朝廷との間に、大名によって程度の差はあるが、幕府から守護職に任命されたり、幕府・朝廷から官位を与えられるなど、さまざまな政治関係を維持していた。とくに畿内や西国の大名に顕著にうかがうことができ、そのためそれらの地域の戦国大名については、そうした上位権力との関係で位置づけようとする研究もみられる。そうした学説が「戦国期守護論」として括られているものにあたる。
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「戦国期守護論」の主たる提唱者は川岡勉氏(愛媛大学教授、1956生)ですね。
そして川岡氏の主著は『室町幕府と守護権力』(吉川弘文館、2002)です。

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中世後期の室町幕府―守護体制は、中央権門=幕府と地域権力=守護が、相互に補完し合い成立していた。室町期から戦国期へと武家権力はいかに変わっていったのか。権力構造と秩序の実態を解明し歴史的意義を探る。

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b32757.html
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あなたの「国家」はどこから?─黒田基樹氏の場合(その1)

2021-11-11 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月11日(木)10時39分22秒

谷口雄太氏の『分裂と統合で読む日本中世史』(山川出版社、2021)を六回、山田康弘氏の『戦国時代の足利将軍』(吉川弘文館、2011)を五回にわたって検討してきましたが、谷口・山田氏のような洋風の戦国大名論に対しては純和風派の反発も強いのでしょうね。
その代表格として、黒田基樹氏の『戦国大名 政策・統治・戦争』(平凡社新書、2014)を少しだけ見ておくことにします。
思い起こせば八年前の2013年、私が中世国家論を少し勉強するきっかけになったのは丸島和洋氏とのプチトラブルでしたが、その際に丸島氏は、

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まあもう一言だけいうと、その掲示板では僕のメチエと黒田さんの新書が槍玉にあげられています。しかし当たり前ですが、僕も黒田さんも、手札をすべて切ってはいない。あそこで議論されている事の答えはもうちゃんと持っているのです。でも、一冊の本にすべてを書き切ることはできないんですよ。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a13b5bb5ba75b6b580fb6381da91abfb

と言われていました。
私自身は「黒田さんの新書」、即ち『百姓から見た戦国大名』(ちくま新書、2006)を始め、黒田氏の著書を全然読んだことがなかったので、別に「槍玉」には挙げていませんでしたが、2014年の『戦国大名 政策・統治・戦争』が丸島氏の言うところの黒田氏が保持していた「手札」ということなのでしょうね。

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『百姓から見た戦国大名』

飢饉と紛争が相次いだ戦国時代、戦国大名はどのように生まれ、地域国家の秩序を成立させたのか。
大名家と家臣団の在り方から戦争にいたる背景まで、領国経営に必要な要素を検証する。
また江戸時代へと向かう中での大名の変容をも視野に入れ、その統治構造をわかりやすく解説する。

https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063137/

同書の構成はリンク先の「目次」を参照してもらうこととして、「序章 戦国大名の概念」の冒頭から少し引用します。(p14以下)

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 そもそも「戦国大名」という用語は、当時における史料用語ではなく、後世における歴史用語、すなわち学術用語である。したがってその定義については諸説あるのが現実であり、さらには「戦国大名」という用語すら、不必要とする学説も出されている。そうはいっても想定されている対象は、相模の北条氏、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、越後の上杉氏、安芸の毛利氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏など、おおまかな一致をみている。これらに共通するのは、戦国時代に存在した一定の地域を支配する「家」権力、という性格になる。したがってこうした存在をさしあたって「戦国大名」と括ることは有効であろう。それらに共通する性格、さらには前後の時代の政治権力との相違を追究していくことで、その定義を確立していけばよいのである。
 また、そのような地域権力については、領域権力と呼んでいる。支配が及ぶ地域が面的に展開していたからである。それは当時、「国」と称された。そのため戦国大名が支配する領域を、領国と呼んでいる。領国は、線引きできるような、いわゆる国境で囲われた面として存在していた。その領国では、戦国大名が最高支配権者として存在した。領国は、他者の支配権が一切及ばない、排他的・一円的なものであった。そこには天皇や室町幕府将軍などの支配も及ばなかった。こうしたことは、戦国時代が、室町幕府が存在していたとしても、室町時代とは本質的に異なる、時代の特徴を示している。さらに政治権力が領域的に存在したことも、戦国時代以前の列島社会の歴史にはなかったことであった。排他的・一円的な支配の展開と、領域性は一体のものであった。
 以上をまとめると、戦国大名とは、領国を支配する「家」権力ということになる。念のためいっておくと、したがって「戦国大名」はある特定の個人を指すような概念ではない。一般的には、戦国大名家の当主をそのまま「戦国大名」と考えがちになるが、理屈からいうと決してそうではない。大名家当主は、「家」権力の統括者という立場であり、権力体としての「戦国大名」は、大名家当主を頂点に、その家族、家臣などの構成員を含めた組織であり、いわば経営体ととらえるのが適当である。
 本書では、こうした戦国大名の性格について、いくつかの側面から具体的に取り上げていくことになるが、ここでさしあたって、戦国大名というものがどのような特質を持っていたのか、端的にうかがうことができる事柄について、あらかじめ取り上げておくことにしたい。これによって私が考える戦国大名の特質、すなわち前後の時代の政治権力との違いや、戦国大名ととらえる政治権力が有している特徴について、簡潔に認識していただけるものとなろう。
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洋風の議論が好きな人ならば、「権力体としての「戦国大名」は、大名家当主を頂点に、その家族、家臣などの構成員を含めた組織であり、いわば経営体ととらえるのが適当である」といったあたりで、ハラーの「家産国家」論やウェーバーの「家産制」みたいな話に持って行くのでしょうが、黒田氏の「戦国大名の概念」にはそうした西欧の人名は全く登場しません。
マルクス・エンゲルスももちろん登場せず、出てくるのは「今川仮名目録」などの個別具体的な史料ですね。
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