投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月 4日(木)10時46分46秒
谷口雄太氏の見解に否定的な書き方をしてしまいましたが、多くの戦国時代研究者がチマチマした古文書の世界の職人さんであることに満足している中で、谷口氏が非常に幅広く読書され、国際政治にも関心を持たれているのは立派なことです。
ただ、谷口氏は自分自身の関心に引き付けて、高坂正堯氏の『国際政治 恐怖と希望』をあまりに強引に読んでいる、というか切り取っているように思われます。
高坂著に「序章 問題への視角」「Ⅱ 国際政治の三つのレベル」とあるように、高坂氏にとって「力」「利益」「価値」は「国際政治の三つのレベル」の問題です。
高坂氏は主権国家で構成される国際社会の中で、個々の国家は「力」「利益」「価値」のそれぞれのレベルで強く結びついている(ことが多い)と指摘されているだけで、別にそれらが国家の「成立要件」だなどとは言われていません。
他方、谷口氏は「価値」の問題に特別に強い関心を持たれています。
谷口著の「第九章 天皇と将軍―戦国期にも存在しえた「価値」を探る」の構成は、
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戦国期も中心に君臨しつづけた足利将軍
「力」「利益」「価値」?国家の成立要件たる三要素
戦国期の足利将軍と大名の関係にも当てはまるのか?
戦国大名にとってのふたつの「共通利益」
家中・領国内における「共通利益」
他大名との関係における「共通利益」
これまで盲点であった、足利将軍の「価値」
戦国期日本を覆う「足利的秩序」とは?
「共通利益」と「共通価値」を統合していた足利将軍
天皇の存在も「価値」から考える
一九九〇~二〇〇〇年代にかけて盛りあがる天皇研究
天皇がいまに存続し、将軍がすでに滅亡した理由の解明
https://www.yamakawa.co.jp/product/15179
となっていて、谷口氏は一貫して戦国大名にとっての足利将軍と天皇の「価値」・「共通価値」を追求されています。
なお、「共通価値」は高坂氏ではなく、細谷雄一氏の『国際秩序 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書、2012)から借用された概念ですね。
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「均衡」「協調」「共同体」――近代ヨーロッパが生んだ国際秩序の基本原理である。本書はこの三つの体系を手がかりに、スペイン王位継承戦争から、ウィーン体制、ビスマルク体制、二度の世界大戦、東西冷戦、そして現代に至る三〇〇年の国際政治の変遷を読み解く。平和で安定した時代はいかに築かれ、悲惨な戦争はなぜ起こってしまったのか。複雑な世界情勢の核心をつかみ、日本外交の進むべき道を考えるための必読書。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/11/102190.html
さて、私は別に谷口氏の主張を否定するつもりはないのですが、高坂著の「価値」、細谷著の「共通価値」という概念と、谷口著での足利将軍・天皇の「価値」「共通価値」は相当に異なっているので、高坂著・細谷著の利用の仕方はおかしいと思います。
まず、高坂著で高坂氏が「価値」をどのように捉えているかを見ると、前回投稿で引用した部分に続いて次のような記述があります。(p17以下)
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常識の数だけ正義はある
この行動様式と価値体系は歴史的につくられてきたものだから、われわれが意識するよりはるかに深く、われわれの心のなかに食い込んでいるのであり、同じ理由から、世界のすべてに共通する一般的なものではなくて、国や地方などによって異なる特殊的なものである。そして日本と外国とを分けているのは、人間が勝手に引いた国境線ではなくて、むしろ言語や習慣に体現された行動基準と価値体系の相違なのである。つまり「常識」がちがうのだと言ってもよい。
例を身近なことにとろう。たとえば、日本人は他人にものをすすめるとき「粗末なものですが」といって謙遜するが、アメリカ人は「一生懸命作ったから食べてくれ」と正直にいう。【中略】
逆に「常識」を異にする民族が無理に国家を作ってみても、なかなか巧くいかないことは、世界のあちこちにいくつも例がある。たとえば、シンガポールが分離する前のマレーシアという国家は、マレー人と華僑とがだいたい同数くらい住んでいるところであった。この二つの民族の関係はうまくいかず、ついにシンガポールは分かれてしまったが、そのことをある人がつぎのように言っていた。
「豚を食べる人びとと豚を食べない人びととのあいだがうまくいかないのは当り前のことだよ」
中華料理を見ればわかるように、中国人は豚が好きだが、マレー人は回教徒であるために豚を食べることを禁じられているのである。豚を食べるとか食べないということはささいなことであり、豚を食べるのを禁ずる回教の戒律には問題がある。しかし、その当否はさておいて、回教は多くの人びとに行動基準と価値体系(常識)を与える重要な存在なのである。華僑もまた、彼らの「常識」に支えられて生活を送っているのであり、それは彼らにとってきわめて重要な意味を持っている。その「常識」を簡単に捨て去ることはできない。
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ということで、高坂氏が問題とする「価値」は「言語や習慣に体現された行動基準と価値体系」のことであって、異なる「価値」の間には相当深刻な、場合によっては国家の分裂をもたらすような違いがあります。
他方、谷口氏が問題とする「価値」「共通価値」はというと、足利将軍や天皇への対応に関する極めて精妙なものですね。
日本の戦国時代の場合、武田氏は宗教上の理由で豚を食べないが上杉氏は食べるとかいった、本当に深刻な「価値」の対立はありません。
それはもともと「言語や習慣に体現された行動基準と価値体系」が、地方によって多少の違いはあるとはいえ、大体は同じだった「国家」が分裂して、古い「国家」の一部が独立して戦国大名という「国家」が分立する状態になった、という経緯を考えれば当たり前のことです。
谷口雄太氏の見解に否定的な書き方をしてしまいましたが、多くの戦国時代研究者がチマチマした古文書の世界の職人さんであることに満足している中で、谷口氏が非常に幅広く読書され、国際政治にも関心を持たれているのは立派なことです。
ただ、谷口氏は自分自身の関心に引き付けて、高坂正堯氏の『国際政治 恐怖と希望』をあまりに強引に読んでいる、というか切り取っているように思われます。
高坂著に「序章 問題への視角」「Ⅱ 国際政治の三つのレベル」とあるように、高坂氏にとって「力」「利益」「価値」は「国際政治の三つのレベル」の問題です。
高坂氏は主権国家で構成される国際社会の中で、個々の国家は「力」「利益」「価値」のそれぞれのレベルで強く結びついている(ことが多い)と指摘されているだけで、別にそれらが国家の「成立要件」だなどとは言われていません。
他方、谷口氏は「価値」の問題に特別に強い関心を持たれています。
谷口著の「第九章 天皇と将軍―戦国期にも存在しえた「価値」を探る」の構成は、
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戦国期も中心に君臨しつづけた足利将軍
「力」「利益」「価値」?国家の成立要件たる三要素
戦国期の足利将軍と大名の関係にも当てはまるのか?
戦国大名にとってのふたつの「共通利益」
家中・領国内における「共通利益」
他大名との関係における「共通利益」
これまで盲点であった、足利将軍の「価値」
戦国期日本を覆う「足利的秩序」とは?
「共通利益」と「共通価値」を統合していた足利将軍
天皇の存在も「価値」から考える
一九九〇~二〇〇〇年代にかけて盛りあがる天皇研究
天皇がいまに存続し、将軍がすでに滅亡した理由の解明
https://www.yamakawa.co.jp/product/15179
となっていて、谷口氏は一貫して戦国大名にとっての足利将軍と天皇の「価値」・「共通価値」を追求されています。
なお、「共通価値」は高坂氏ではなく、細谷雄一氏の『国際秩序 18世紀ヨーロッパから21世紀アジアへ』(中公新書、2012)から借用された概念ですね。
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「均衡」「協調」「共同体」――近代ヨーロッパが生んだ国際秩序の基本原理である。本書はこの三つの体系を手がかりに、スペイン王位継承戦争から、ウィーン体制、ビスマルク体制、二度の世界大戦、東西冷戦、そして現代に至る三〇〇年の国際政治の変遷を読み解く。平和で安定した時代はいかに築かれ、悲惨な戦争はなぜ起こってしまったのか。複雑な世界情勢の核心をつかみ、日本外交の進むべき道を考えるための必読書。
https://www.chuko.co.jp/shinsho/2012/11/102190.html
さて、私は別に谷口氏の主張を否定するつもりはないのですが、高坂著の「価値」、細谷著の「共通価値」という概念と、谷口著での足利将軍・天皇の「価値」「共通価値」は相当に異なっているので、高坂著・細谷著の利用の仕方はおかしいと思います。
まず、高坂著で高坂氏が「価値」をどのように捉えているかを見ると、前回投稿で引用した部分に続いて次のような記述があります。(p17以下)
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常識の数だけ正義はある
この行動様式と価値体系は歴史的につくられてきたものだから、われわれが意識するよりはるかに深く、われわれの心のなかに食い込んでいるのであり、同じ理由から、世界のすべてに共通する一般的なものではなくて、国や地方などによって異なる特殊的なものである。そして日本と外国とを分けているのは、人間が勝手に引いた国境線ではなくて、むしろ言語や習慣に体現された行動基準と価値体系の相違なのである。つまり「常識」がちがうのだと言ってもよい。
例を身近なことにとろう。たとえば、日本人は他人にものをすすめるとき「粗末なものですが」といって謙遜するが、アメリカ人は「一生懸命作ったから食べてくれ」と正直にいう。【中略】
逆に「常識」を異にする民族が無理に国家を作ってみても、なかなか巧くいかないことは、世界のあちこちにいくつも例がある。たとえば、シンガポールが分離する前のマレーシアという国家は、マレー人と華僑とがだいたい同数くらい住んでいるところであった。この二つの民族の関係はうまくいかず、ついにシンガポールは分かれてしまったが、そのことをある人がつぎのように言っていた。
「豚を食べる人びとと豚を食べない人びととのあいだがうまくいかないのは当り前のことだよ」
中華料理を見ればわかるように、中国人は豚が好きだが、マレー人は回教徒であるために豚を食べることを禁じられているのである。豚を食べるとか食べないということはささいなことであり、豚を食べるのを禁ずる回教の戒律には問題がある。しかし、その当否はさておいて、回教は多くの人びとに行動基準と価値体系(常識)を与える重要な存在なのである。華僑もまた、彼らの「常識」に支えられて生活を送っているのであり、それは彼らにとってきわめて重要な意味を持っている。その「常識」を簡単に捨て去ることはできない。
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ということで、高坂氏が問題とする「価値」は「言語や習慣に体現された行動基準と価値体系」のことであって、異なる「価値」の間には相当深刻な、場合によっては国家の分裂をもたらすような違いがあります。
他方、谷口氏が問題とする「価値」「共通価値」はというと、足利将軍や天皇への対応に関する極めて精妙なものですね。
日本の戦国時代の場合、武田氏は宗教上の理由で豚を食べないが上杉氏は食べるとかいった、本当に深刻な「価値」の対立はありません。
それはもともと「言語や習慣に体現された行動基準と価値体系」が、地方によって多少の違いはあるとはいえ、大体は同じだった「国家」が分裂して、古い「国家」の一部が独立して戦国大名という「国家」が分立する状態になった、という経緯を考えれば当たり前のことです。