投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 3日(火)12時27分32秒
※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)
西園寺実兼・公衡父子と京極為兼との関係について、年表風に整理してみます。
周辺の人物を含め、関係者の生年、そして為兼が権中納言を辞し、籠居することになった永仁四年(1296)現在の年齢を確認しておくと、
後深草院 寛元元年(1243)生 54歳
亀山院 建長元年(1249)生 48歳
西園寺実兼 同 48歳
京極為兼 同 六年(1254)生 43歳
西園寺公衡 文永元年(1264)生 33歳
伏見天皇 文永二年(1265)生 32歳
後宇多院 文永四年(1267)生 30歳
となります。
なお、井上宗雄氏は為兼の「兼」は主家の実兼の偏諱だろうと推測されています。(『人物叢書 京極為兼』、p18)
為兼にしてみれば、五歳上の実兼にはちょっと頭が上がらないけれども、公衡は十歳も年下で、主家だからといって何から何まで遠慮しなければならないような立場でもなさそうです。
さて、為兼の第一次流罪の前後の主要な出来事を挙げてみると、
弘安十年(1287)十月 熈仁親王(伏見)践祚、後深草院政開始。
正応元年(1288)七月 為兼、蔵人頭。
同 八月、公衡、中宮大夫。
同 十一月 公衡、権大納言。
正応二年(1289)正月 為兼、参議。
同 十月 実兼、内大臣。翌年四月、辞す。
正応三年(1290)二月 後深草院出家、伏見親政開始。
同 三月 浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)。公衡、亀山院を黒幕として糾弾。
正応四年(1291)七月 為兼、権中納言。
同 十二月 実兼、太政大臣。翌年十二月、辞す。
正応五年(1292)五月 公衡、右近衛大将。
同 六月 公衡、、右馬寮御監。
同 閏六月 公衡、近衛右大将を止められ、権大納言・中宮大夫も辞す。
永仁元年(1293)七月 為兼、伊勢公卿勅使。
永仁三年(1295)九月 某『野守鏡』を著して為兼を非難。
永仁四年(1296)五月 為兼、権中納言を辞し、籠居。
永仁五年(1297)八月 公衡、権大納言に還任、右近衛大将を兼ねる。
同 十月 公衡、大納言。右馬寮御監。
永仁六年(1298)正月 為兼、六波羅に逮捕される。
同 三月 為兼、佐渡に流される。
六月 公衡、内大臣。
七月 後伏見天皇践祚。伏見院政開始。
八月 邦治親王(後二条)立太子。
正安元年(1299)四月 公衡、右大臣。同十二月、右大臣を辞す。
同 十二月 実兼、出家。ただし、関東申次は維持。
正安三年(1301)正月 後二条天皇践祚。後宇多院政開始。
同 八月 富仁親王(花園)立太子。
嘉元元年(1303)閏四月 為兼、幕府に赦されて帰洛。
嘉元二年(1304)夏頃 公衡、関東申次となる。
同 七月 後深草院崩御。
嘉元三年(1305)九月 亀山院崩御。
といった具合です。
いくつか気になる点がありますが、まず、正応五年(1292)の公衡の地位はずいぶん変動が大きいですね。
五月に右近衛大将に任じられたと思ったら、閏六月に辞めさせられて、同時に権大納言・中宮大夫も辞しています。
この「中宮」とは伏見天皇の中宮、西園寺鏱子(永福門院、1271-1342)で、公衡の七歳下の同母妹ですね。
そして、散位が五年も続いた後、為兼籠居の翌永仁五年(1297)八月に公衡は権大納言・右近衛大将に復帰します。
そして公衡復活の翌永仁六年(1298)正月に為兼が六波羅に逮捕され、三月に佐渡に流されます。
為兼が流罪となっていた五年の間に、伏見天皇は後伏見天皇に譲位を余儀なくされ、伏見院政も僅か二年半で終わって、正安三年(1301)正月には後二条天皇践祚、後宇多院政開始となり、持明院統と大覚寺統の関係は大きく変動していますが、公衡は内大臣・右大臣と順調に出世していますね。
ただ、実兼は正安元年(1299)十二月の出家後も関東申次の役職におり、公衡が関東申次となるのは五年後の嘉元二年(1304)です。
さて、こうした一連の流れを見ると、為兼と公衡の動向は全く無関係とは思えません。
特に正応五年(1292)の公衡の地位の変化は失脚と言ってよいもので、これが誰の意向によるのかが気になりますが、「後深草院崩御記」(『公衡公記』)嘉元二年(1304)七月十六日条によれば、
-------
故院(後深草)先年有御約諾之旨、其詔慇懃、所詮御万歳之後事、一向可執沙汰之由也、予(公衡)又深存其旨、而近曾奉内裏(後二条天皇)御乳父事、御本意已可相違歟之由、法皇(後深草カ)常有御遺恨之気、然而於其条者、暫譲補他人、奉行凶事之条、不可有子細之由、中心存之、又奏其由了、而自去夏比、関東執奏事自東方申之旨、予已奏之、最前喪籠、奉行凶事之条、於身有憚、又関東所存殊猶予之子細非一事、仍入道殿(実兼)令申其由給之処、院(伏見カ)仰云、法皇(後深草)御意已堅固也、中々御病中申此儀者可為御心神違乱之基、誠所申難儀、皆所密示合也、只可奉行之躰ニて御閉眼以後可仰仰(衍カ)他人云々、仇予可奉行之由、被載御遺誡、又被入素服人数了、御閉眼以前、内々被仰試(堀川)具守卿 法皇執事 処、申可奉行之由、而御閉眼以後忽以変改、仍只為方卿一人可管領云々、凡予昵近故院(後深草)之後、多年之間、於事雖有快然之気、一事而未拝不快之天気、而今不奉行御没後事、不喪寵、不纏※麻、生前之本意相違、遺恨何事如之哉、筆端更難及者哉、
http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm
とのことなので、後深草院と公衡の関係は後深草院の最晩年に急激に悪化したものの、それまでは順調だったことが分かります。
となると、正応五年(1292)の公衡の失脚は伏見天皇の意向となりそうです。
おそらくこの時、何かの事情で為兼と公衡が衝突し、為兼を庇護する伏見天皇が公衡を処分したと考えてよいのではないかと思います。
※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)
西園寺実兼・公衡父子と京極為兼との関係について、年表風に整理してみます。
周辺の人物を含め、関係者の生年、そして為兼が権中納言を辞し、籠居することになった永仁四年(1296)現在の年齢を確認しておくと、
後深草院 寛元元年(1243)生 54歳
亀山院 建長元年(1249)生 48歳
西園寺実兼 同 48歳
京極為兼 同 六年(1254)生 43歳
西園寺公衡 文永元年(1264)生 33歳
伏見天皇 文永二年(1265)生 32歳
後宇多院 文永四年(1267)生 30歳
となります。
なお、井上宗雄氏は為兼の「兼」は主家の実兼の偏諱だろうと推測されています。(『人物叢書 京極為兼』、p18)
為兼にしてみれば、五歳上の実兼にはちょっと頭が上がらないけれども、公衡は十歳も年下で、主家だからといって何から何まで遠慮しなければならないような立場でもなさそうです。
さて、為兼の第一次流罪の前後の主要な出来事を挙げてみると、
弘安十年(1287)十月 熈仁親王(伏見)践祚、後深草院政開始。
正応元年(1288)七月 為兼、蔵人頭。
同 八月、公衡、中宮大夫。
同 十一月 公衡、権大納言。
正応二年(1289)正月 為兼、参議。
同 十月 実兼、内大臣。翌年四月、辞す。
正応三年(1290)二月 後深草院出家、伏見親政開始。
同 三月 浅原事件(伏見天皇暗殺未遂事件)。公衡、亀山院を黒幕として糾弾。
正応四年(1291)七月 為兼、権中納言。
同 十二月 実兼、太政大臣。翌年十二月、辞す。
正応五年(1292)五月 公衡、右近衛大将。
同 六月 公衡、、右馬寮御監。
同 閏六月 公衡、近衛右大将を止められ、権大納言・中宮大夫も辞す。
永仁元年(1293)七月 為兼、伊勢公卿勅使。
永仁三年(1295)九月 某『野守鏡』を著して為兼を非難。
永仁四年(1296)五月 為兼、権中納言を辞し、籠居。
永仁五年(1297)八月 公衡、権大納言に還任、右近衛大将を兼ねる。
同 十月 公衡、大納言。右馬寮御監。
永仁六年(1298)正月 為兼、六波羅に逮捕される。
同 三月 為兼、佐渡に流される。
六月 公衡、内大臣。
七月 後伏見天皇践祚。伏見院政開始。
八月 邦治親王(後二条)立太子。
正安元年(1299)四月 公衡、右大臣。同十二月、右大臣を辞す。
同 十二月 実兼、出家。ただし、関東申次は維持。
正安三年(1301)正月 後二条天皇践祚。後宇多院政開始。
同 八月 富仁親王(花園)立太子。
嘉元元年(1303)閏四月 為兼、幕府に赦されて帰洛。
嘉元二年(1304)夏頃 公衡、関東申次となる。
同 七月 後深草院崩御。
嘉元三年(1305)九月 亀山院崩御。
といった具合です。
いくつか気になる点がありますが、まず、正応五年(1292)の公衡の地位はずいぶん変動が大きいですね。
五月に右近衛大将に任じられたと思ったら、閏六月に辞めさせられて、同時に権大納言・中宮大夫も辞しています。
この「中宮」とは伏見天皇の中宮、西園寺鏱子(永福門院、1271-1342)で、公衡の七歳下の同母妹ですね。
そして、散位が五年も続いた後、為兼籠居の翌永仁五年(1297)八月に公衡は権大納言・右近衛大将に復帰します。
そして公衡復活の翌永仁六年(1298)正月に為兼が六波羅に逮捕され、三月に佐渡に流されます。
為兼が流罪となっていた五年の間に、伏見天皇は後伏見天皇に譲位を余儀なくされ、伏見院政も僅か二年半で終わって、正安三年(1301)正月には後二条天皇践祚、後宇多院政開始となり、持明院統と大覚寺統の関係は大きく変動していますが、公衡は内大臣・右大臣と順調に出世していますね。
ただ、実兼は正安元年(1299)十二月の出家後も関東申次の役職におり、公衡が関東申次となるのは五年後の嘉元二年(1304)です。
さて、こうした一連の流れを見ると、為兼と公衡の動向は全く無関係とは思えません。
特に正応五年(1292)の公衡の地位の変化は失脚と言ってよいもので、これが誰の意向によるのかが気になりますが、「後深草院崩御記」(『公衡公記』)嘉元二年(1304)七月十六日条によれば、
-------
故院(後深草)先年有御約諾之旨、其詔慇懃、所詮御万歳之後事、一向可執沙汰之由也、予(公衡)又深存其旨、而近曾奉内裏(後二条天皇)御乳父事、御本意已可相違歟之由、法皇(後深草カ)常有御遺恨之気、然而於其条者、暫譲補他人、奉行凶事之条、不可有子細之由、中心存之、又奏其由了、而自去夏比、関東執奏事自東方申之旨、予已奏之、最前喪籠、奉行凶事之条、於身有憚、又関東所存殊猶予之子細非一事、仍入道殿(実兼)令申其由給之処、院(伏見カ)仰云、法皇(後深草)御意已堅固也、中々御病中申此儀者可為御心神違乱之基、誠所申難儀、皆所密示合也、只可奉行之躰ニて御閉眼以後可仰仰(衍カ)他人云々、仇予可奉行之由、被載御遺誡、又被入素服人数了、御閉眼以前、内々被仰試(堀川)具守卿 法皇執事 処、申可奉行之由、而御閉眼以後忽以変改、仍只為方卿一人可管領云々、凡予昵近故院(後深草)之後、多年之間、於事雖有快然之気、一事而未拝不快之天気、而今不奉行御没後事、不喪寵、不纏※麻、生前之本意相違、遺恨何事如之哉、筆端更難及者哉、
http://web.archive.org/web/20150512051815/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-saionji-kinhira.htm
とのことなので、後深草院と公衡の関係は後深草院の最晩年に急激に悪化したものの、それまでは順調だったことが分かります。
となると、正応五年(1292)の公衡の失脚は伏見天皇の意向となりそうです。
おそらくこの時、何かの事情で為兼と公衡が衝突し、為兼を庇護する伏見天皇が公衡を処分したと考えてよいのではないかと思います。