投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月24日(火)14時16分48秒
私も自分に古文書学の素養がないことは十分に自覚しており、古文書や古記録そのものについて専門家の領域に踏み込むことは遠慮しているのですが、小川剛生氏の「事書案」の復元については、本当に小川氏の見解が正しいのだろうか、という疑問が拭えません。
というのは、小川氏の復元案によると、三項目のうち、二番目の「京極大納言入道間事」があまりに肥大して全体のバランスが極めて悪くなり、しかも「京極大納言入道間事」の内容に異様に重複が多くなってしまいます。
率直に言って、こんなまわりくどい文書を送ったら相手はイライラして突き返しても不思議ではなく、とても有能な廷臣が書いた文章とは思えません。
そもそも小川氏の復元の手順はどのようなものだったかというと、次の通りです。(p35)
-------
「事書案」は『二条殿秘説』の、第五丁表から第九丁裏にわたって書写されているが、原本は文書であり、「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」というのは原本の端裏書ないし注記ではなかったかと想像される。
ところが、鵞峰が「則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」とする通り、この資料には脱落・錯簡がある。それは親本に由来するものであり、写本が行詰め等必ずしも親本の形態をとどめているものではないため、内容に即して復元する必要がある。
現在の「事書案」は、それぞれ「御治天間事」「京極大納言入道間事」「執柄還補事」に始まる三項目からなっている。「執柄還補事」には、別項の文章が途中に紛れ込んでいるが、これを除去することでこの項は完全に復元できる。ついでその別項に属する文章は、これ自体二つの部分からなるようであるが、ともに第二項の「京極大納言入道間事」の一部と判断される。後で触れるように、この項は東使安東重綱の申し入れを引用しつつ釈明を行なったものと考えられるからである。結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることになるが、まずその骨子は伝えていよう。この他の項が立っていたかは分からないが、一応この三項で完結していると見てよいのではないか。
それでは以下に私案として錯簡を正し、「事書案」の全文を翻刻した。脱落と考えられる箇所は[ ]で示した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e
ということで、第三項に交じっていた「別項に属する文章」を便宜的に【文章A】【文章B】とすると、
【文章A】
〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁
【文章B】
[ ]字及委細、随分明左右可被思
食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
不慮之御違[ ]
となります。
私は【文章A】【文章B】は正和五年(1316)三月四日の「事書案」ではなく、「事書案」に先行する別の文書の一部の可能性があるのではないかと思います。
まず、「事書案」の第一項「御治天間事」は極めて短いものですが、「子細前々事旧畢、定有御存知歟」とあり、以前に何らかの通知をしたことを前提に、六条有房が下向したと聞くが、当方の見解を歪めるような主張をしているならば糺されねばならず、軽々に信用しないでください、と言っているように見えます。
また、「事書案」第二項「京極大納言入道間事」には、「讒諂臣」を処罰したいとする主張の中に「委細被戴七〔去カ〕年事書了」とありますが、これも先行する文書に「委細」が書かれていたことを前提としているように見えます。
そして、為兼流罪の後、伏見院から【文章A】【文章B】を含む第一の文書が提出済みだとすると、「事書案」第二項の冒頭に、いきなり為兼の養子・忠兼と姉・大納言二品(為子)に関する細かい話が出てくることも分かりやすくなります。
即ち、第二項の冒頭では、為兼の養子・忠兼の所領は悉く没収したが、ただ忠兼に養育させている「姫宮」の「御扶持」のため「一所」だけは残している、とずいぶん細かい弁解をしています。
更に為兼の姉「納言二品」(為子)についても、処分をしなかった理由として、「彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰」と、永仁の第一次流罪のとき、幕府は為子の責任を免じたから、今回もその措置に従ったのだ、と弁解し、「当時之次第如此、此上可為何様乎」(事情はこのようなものです。これ以上何をしたら良いのでしょうか)と訴えています。
これらは【文章A】が先行の文書だとして、そこで「云子孫云親類、重猶可被加厳刑」と約束したにもかかわらず、忠兼には所領を残しているし、為子は放置しているのはおかしいではないか、と難詰されて、それへの弁解と考えると分かりやすいように思われます。
仮に【文章A】【文章B】が先行する別の文書の一部だとすれば、第二項はほぼ半減し、「結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることに」はなりません。
また、第二項の前半で言い尽くしている内容を後半でクドクドと繰り返すこともなく、非常にすっきりした、読みやすい文章となります。
まあ、これは本当に古文書・古記録の専門家の世界の話で、私のような素人が口を挟むのは僭越の至りですが、小川氏の復元案にはどうにも納得できないので書いてみました。
専門家の御意見を伺えれば幸いです。
私も自分に古文書学の素養がないことは十分に自覚しており、古文書や古記録そのものについて専門家の領域に踏み込むことは遠慮しているのですが、小川剛生氏の「事書案」の復元については、本当に小川氏の見解が正しいのだろうか、という疑問が拭えません。
というのは、小川氏の復元案によると、三項目のうち、二番目の「京極大納言入道間事」があまりに肥大して全体のバランスが極めて悪くなり、しかも「京極大納言入道間事」の内容に異様に重複が多くなってしまいます。
率直に言って、こんなまわりくどい文書を送ったら相手はイライラして突き返しても不思議ではなく、とても有能な廷臣が書いた文章とは思えません。
そもそも小川氏の復元の手順はどのようなものだったかというと、次の通りです。(p35)
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「事書案」は『二条殿秘説』の、第五丁表から第九丁裏にわたって書写されているが、原本は文書であり、「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」というのは原本の端裏書ないし注記ではなかったかと想像される。
ところが、鵞峰が「則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」とする通り、この資料には脱落・錯簡がある。それは親本に由来するものであり、写本が行詰め等必ずしも親本の形態をとどめているものではないため、内容に即して復元する必要がある。
現在の「事書案」は、それぞれ「御治天間事」「京極大納言入道間事」「執柄還補事」に始まる三項目からなっている。「執柄還補事」には、別項の文章が途中に紛れ込んでいるが、これを除去することでこの項は完全に復元できる。ついでその別項に属する文章は、これ自体二つの部分からなるようであるが、ともに第二項の「京極大納言入道間事」の一部と判断される。後で触れるように、この項は東使安東重綱の申し入れを引用しつつ釈明を行なったものと考えられるからである。結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることになるが、まずその骨子は伝えていよう。この他の項が立っていたかは分からないが、一応この三項で完結していると見てよいのではないか。
それでは以下に私案として錯簡を正し、「事書案」の全文を翻刻した。脱落と考えられる箇所は[ ]で示した。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e
ということで、第三項に交じっていた「別項に属する文章」を便宜的に【文章A】【文章B】とすると、
【文章A】
〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁
【文章B】
[ ]字及委細、随分明左右可被思
食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
不慮之御違[ ]
となります。
私は【文章A】【文章B】は正和五年(1316)三月四日の「事書案」ではなく、「事書案」に先行する別の文書の一部の可能性があるのではないかと思います。
まず、「事書案」の第一項「御治天間事」は極めて短いものですが、「子細前々事旧畢、定有御存知歟」とあり、以前に何らかの通知をしたことを前提に、六条有房が下向したと聞くが、当方の見解を歪めるような主張をしているならば糺されねばならず、軽々に信用しないでください、と言っているように見えます。
また、「事書案」第二項「京極大納言入道間事」には、「讒諂臣」を処罰したいとする主張の中に「委細被戴七〔去カ〕年事書了」とありますが、これも先行する文書に「委細」が書かれていたことを前提としているように見えます。
そして、為兼流罪の後、伏見院から【文章A】【文章B】を含む第一の文書が提出済みだとすると、「事書案」第二項の冒頭に、いきなり為兼の養子・忠兼と姉・大納言二品(為子)に関する細かい話が出てくることも分かりやすくなります。
即ち、第二項の冒頭では、為兼の養子・忠兼の所領は悉く没収したが、ただ忠兼に養育させている「姫宮」の「御扶持」のため「一所」だけは残している、とずいぶん細かい弁解をしています。
更に為兼の姉「納言二品」(為子)についても、処分をしなかった理由として、「彼二品事、永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰」と、永仁の第一次流罪のとき、幕府は為子の責任を免じたから、今回もその措置に従ったのだ、と弁解し、「当時之次第如此、此上可為何様乎」(事情はこのようなものです。これ以上何をしたら良いのでしょうか)と訴えています。
これらは【文章A】が先行の文書だとして、そこで「云子孫云親類、重猶可被加厳刑」と約束したにもかかわらず、忠兼には所領を残しているし、為子は放置しているのはおかしいではないか、と難詰されて、それへの弁解と考えると分かりやすいように思われます。
仮に【文章A】【文章B】が先行する別の文書の一部だとすれば、第二項はほぼ半減し、「結果的に第二項が著しく長大となり、かつ文章の脱落が二箇所以上に認められることに」はなりません。
また、第二項の前半で言い尽くしている内容を後半でクドクドと繰り返すこともなく、非常にすっきりした、読みやすい文章となります。
まあ、これは本当に古文書・古記録の専門家の世界の話で、私のような素人が口を挟むのは僭越の至りですが、小川氏の復元案にはどうにも納得できないので書いてみました。
専門家の御意見を伺えれば幸いです。