投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月27日(金)12時18分34秒
続きです。(p39)
為兼の第二次流罪についてのまとめとなります。
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このように「事書案」は、伏見院と後伏見院の不和、関白の交替など、当時の廷臣の日記・消息などによってのみ知られるところとよく符合する上、その事実をより具体的に伝えるものであって、実に興味深い内容である。為兼の土佐配流事件については、ほぼ以下のような経過を辿ったことが導き出されよう。
幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいたが、「凡政道事、就謳哥説可被糺明之由、度々被申之処」とあるように、まずは伏見院自身でそれを是正することを期待した。すなわち、為兼らを院の判断を曇らせ様々な「非拠」を行わせる元凶として、暗にこれを退けるよう求めたのである。しかしながら、伏見院にはもとよりそのような考えはなかった。幕府は苛立ちを強めたであろう。その間にも関白交替の一件が起こり、為兼を「政道巨害」とみなす説はいよいよ確乎たるものとなり、遂に重綱の入洛、為兼の逮捕という事態に至った。その契機には西園寺実兼の讒言があったかもしれないが、「成政道巨害之由、方々有其聞」うちの、一つに過ぎないのである。伏見院と幕府とでは事態に認識に相当な隔たりがあり、「事書案」においてもそれはなお解消されていなかった。巷説は止むことなく、やがて伏見院は幕府に対し、重ねて異心なき旨を陳弁する告文を送ることを余儀なくされたのである。
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「伏見院と後伏見院の不和」に関して、小川氏や井上宗雄氏は辻彦三郎「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって」に好意的ですが、私はかなり疑問を感じます。
辻氏は『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館、1977)の「あとがき」の一番最後に、「いまや校了に当り、恩師龍粛氏の御霊に本書出版のことを御報告申上げるよりほかないわが身を省みつつ、後悔の念を鎮めようと思う今日この頃である」と書かれるように、「恩師龍粛氏」の影響を非常に強く受けている方です。
そのため、上記論文にも龍粛(りょう・すすむ、東京大学史料編纂所・元所長、1890-1964)の「西園寺家中心史観」の影響が顕著で、例えば、
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伏見天皇は文永二年(一二六五)四月の降誕。洞院実雄の女で玄輝門院藤原愔子の所生である。実雄は実兼にとって祖父実氏の異母弟に当り、西園寺家では彼が後嵯峨天皇や亀山天皇の特別の信任を蒙って優勢であることを無論快しとしなかった。すなわち俗言を弄せば、実氏の孫の実兼と実雄の外孫の伏見天皇とでは前世から打解け得ない宿命にあったといえよう。況んや実兼が両統を二股にかけると見做されるにおいてをやである。
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などとあります。(p306)
辻氏の論文には基礎的な部分に「西園寺家中心史観」という歪みがあり、この歪みが実兼の伏見院宛て消息等の解釈などの個々の論点の分析にも反映されているように思えるのですが、議論を始めると長くなるので、後日の課題としたいと思います。
さて、私は「幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいた」等の小川氏の幕府に関する認識に基本的に賛成しますが、ただ、小川氏の書き方だと、まるで幕府が非常に公平な、いわば現代の裁判官のように中立的な観点から持明院統の「失政」を観察し、「非拠」を「是正」するように「期待」し、それができないならば大覚寺統への交替という鉄槌を下す存在のようにも見えます。
もちろん、実際にはそんなことはなくて、幕府は中立的な存在でないのはもちろん、朝廷が持明院統・大覚寺統の対立のみならず、大覚寺統内部での更なる分裂、また同一系統内でも伏見・後伏見のような世代間の対立があるように、幕府も決して一枚岩ではありません。
小川論文を含め。従来の研究では、為兼の流罪が幕府内でどのように決定されたのか、具体的に誰が為兼の流罪を主導し、そしてその際には当該人物と京都側の誰が連絡を取り合っていたのか、といった事実が明確になっておらず、そうした問題意識も窺えません。
しかし、史料的限界はあるとはいえ、手がかりが皆無という訳でもなさそうです。
例えば正和四年(1315)十二月の為兼逮捕、翌五年正月の土佐配流の時点で幕府の実質的な最高権力者は長崎円喜・安達時顕とされており、この二人が為兼流罪を承認していることは間違いありません。
しかし、両人はあくまで最終的な裁定者であって、個別の問題の政策立案者・責任者という訳でもなさそうです。
当時の幕府首脳部(寄合衆)の中で京都事情に一番詳しいのは、乾元元年(1302)から六波羅南方、延慶三年(1310)から六波羅南方と、二度にわたって合計十年も六波羅探題を勤め、正和四年七月に連署となったばかりの金沢貞顕です。
為兼流罪の決定に際しては貞顕の意見は相当に重視されたはずですが、後宇多院との関係が深い貞顕こそが為兼流罪を主導した可能性も充分に考えられます。
この点、まだまだ準備は不充分ですが、とりあえず貞顕周辺の気になる事実をいくつか指摘してみたいと思います。
金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95
続きです。(p39)
為兼の第二次流罪についてのまとめとなります。
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このように「事書案」は、伏見院と後伏見院の不和、関白の交替など、当時の廷臣の日記・消息などによってのみ知られるところとよく符合する上、その事実をより具体的に伝えるものであって、実に興味深い内容である。為兼の土佐配流事件については、ほぼ以下のような経過を辿ったことが導き出されよう。
幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいたが、「凡政道事、就謳哥説可被糺明之由、度々被申之処」とあるように、まずは伏見院自身でそれを是正することを期待した。すなわち、為兼らを院の判断を曇らせ様々な「非拠」を行わせる元凶として、暗にこれを退けるよう求めたのである。しかしながら、伏見院にはもとよりそのような考えはなかった。幕府は苛立ちを強めたであろう。その間にも関白交替の一件が起こり、為兼を「政道巨害」とみなす説はいよいよ確乎たるものとなり、遂に重綱の入洛、為兼の逮捕という事態に至った。その契機には西園寺実兼の讒言があったかもしれないが、「成政道巨害之由、方々有其聞」うちの、一つに過ぎないのである。伏見院と幕府とでは事態に認識に相当な隔たりがあり、「事書案」においてもそれはなお解消されていなかった。巷説は止むことなく、やがて伏見院は幕府に対し、重ねて異心なき旨を陳弁する告文を送ることを余儀なくされたのである。
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「伏見院と後伏見院の不和」に関して、小川氏や井上宗雄氏は辻彦三郎「後伏見上皇院政謙退申出の波紋─西園寺実兼の一消息をめぐって」に好意的ですが、私はかなり疑問を感じます。
辻氏は『藤原定家明月記の研究』(吉川弘文館、1977)の「あとがき」の一番最後に、「いまや校了に当り、恩師龍粛氏の御霊に本書出版のことを御報告申上げるよりほかないわが身を省みつつ、後悔の念を鎮めようと思う今日この頃である」と書かれるように、「恩師龍粛氏」の影響を非常に強く受けている方です。
そのため、上記論文にも龍粛(りょう・すすむ、東京大学史料編纂所・元所長、1890-1964)の「西園寺家中心史観」の影響が顕著で、例えば、
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伏見天皇は文永二年(一二六五)四月の降誕。洞院実雄の女で玄輝門院藤原愔子の所生である。実雄は実兼にとって祖父実氏の異母弟に当り、西園寺家では彼が後嵯峨天皇や亀山天皇の特別の信任を蒙って優勢であることを無論快しとしなかった。すなわち俗言を弄せば、実氏の孫の実兼と実雄の外孫の伏見天皇とでは前世から打解け得ない宿命にあったといえよう。況んや実兼が両統を二股にかけると見做されるにおいてをやである。
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などとあります。(p306)
辻氏の論文には基礎的な部分に「西園寺家中心史観」という歪みがあり、この歪みが実兼の伏見院宛て消息等の解釈などの個々の論点の分析にも反映されているように思えるのですが、議論を始めると長くなるので、後日の課題としたいと思います。
さて、私は「幕府はかねて持明院統の治世の数々の失政があるとにらんでいた」等の小川氏の幕府に関する認識に基本的に賛成しますが、ただ、小川氏の書き方だと、まるで幕府が非常に公平な、いわば現代の裁判官のように中立的な観点から持明院統の「失政」を観察し、「非拠」を「是正」するように「期待」し、それができないならば大覚寺統への交替という鉄槌を下す存在のようにも見えます。
もちろん、実際にはそんなことはなくて、幕府は中立的な存在でないのはもちろん、朝廷が持明院統・大覚寺統の対立のみならず、大覚寺統内部での更なる分裂、また同一系統内でも伏見・後伏見のような世代間の対立があるように、幕府も決して一枚岩ではありません。
小川論文を含め。従来の研究では、為兼の流罪が幕府内でどのように決定されたのか、具体的に誰が為兼の流罪を主導し、そしてその際には当該人物と京都側の誰が連絡を取り合っていたのか、といった事実が明確になっておらず、そうした問題意識も窺えません。
しかし、史料的限界はあるとはいえ、手がかりが皆無という訳でもなさそうです。
例えば正和四年(1315)十二月の為兼逮捕、翌五年正月の土佐配流の時点で幕府の実質的な最高権力者は長崎円喜・安達時顕とされており、この二人が為兼流罪を承認していることは間違いありません。
しかし、両人はあくまで最終的な裁定者であって、個別の問題の政策立案者・責任者という訳でもなさそうです。
当時の幕府首脳部(寄合衆)の中で京都事情に一番詳しいのは、乾元元年(1302)から六波羅南方、延慶三年(1310)から六波羅南方と、二度にわたって合計十年も六波羅探題を勤め、正和四年七月に連署となったばかりの金沢貞顕です。
為兼流罪の決定に際しては貞顕の意見は相当に重視されたはずですが、後宇多院との関係が深い貞顕こそが為兼流罪を主導した可能性も充分に考えられます。
この点、まだまだ準備は不充分ですが、とりあえず貞顕周辺の気になる事実をいくつか指摘してみたいと思います。
金沢貞顕(1278-1333)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E8%B2%9E%E9%A1%95