投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月21日(土)13時18分35秒
それでは第四節に入ります。(p37)
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第一項「御治天間事」は、持明院統の治世が事件によって終わりかねないことを憂えたものである。ここには、敵失に奇貨居くべしということで、早速大覚寺統の後宇多院が腹心の六条有房を幕府に派遣した事に言及している。有房が使者に立ったことは、後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく。伏見院は、幕府がくれぐれも早まった判断をしないようにと訴えているのである。
第二項は「京極大納言入道間事」である。まず東使安東重綱は為兼を捕縛した翌日、西園寺実兼を通じ、
入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、
方々有其聞之間、可配流土佐国云々
という申し入れを行った。東使が為兼を処罰した理由を「政道巨害を成す」としたのが第一に注意されよう。『花園院宸記』の為兼薨伝には別に「得罪之故者、政道口入之故之由、関東已書載之」とあるのはこれを指し、また「事書案」の後文で「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」あるいは「但又成政道巨害云々」などとあるのは、全てこれを受けている。「政道巨害」の具体的な内容については後述する。
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いったん、ここで切ります。
「後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく」に付された注(14)には「拙稿「六条有房について」(国語と国文学73-8 平成8・8)参照」とありますが、この論文を見ると、六条有房が鎌倉を訪問した頻度に驚かされます。
先ず、
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正応五年から永仁二年にわたる、鎌倉滞在中の醍醐寺座主親玄の日記によれば、有房がほぼ毎年東下し、幕府要人と面会している事実が知られる。「有房朝臣使者入来了、為訴訟下向」(正応五・十一・十五)、「今日羽林向相州〔北条貞時〕亭、御書等持参」(永仁元・九・十八)、「有房朝臣書状到来了、廿七日罷立京都由也」(同・十二・九)、「今日羽林出仕了」(同・十二・十七)、「羽林向佐々目[頼助]了」(同・十二・廿)、「播阿使入来了、有房朝臣状到来了云々」(永仁二・九・廿五)等。亀山院の指令をうけて大覚寺統復権の為の政治工作にあたっていたと見て誤りはあるまい。
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とありますが(p32)、親玄(1249-1322)は久我通忠の子なので六条有房とは従兄弟の関係にあり、生年も有房(1251-1319)と近いですね。
ちなみに有房と従兄弟ということは、親玄は後深草院二条(1258-?)の従兄でもあります。
『親玄僧正日記』は正応五年(1292)から永仁二年(1294)までの三年分しか残っていないので、この前後の期間に有房が鎌倉を訪問していたのかは分かりませんが、三年間に限っても慌ただしいほど京都・鎌倉を往復していますね。
高橋慎一朗氏「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
土谷恵氏「東下りの尼と僧 」
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm
また、嘉元三年(1305)九月の亀山院崩御後の恒明親王騒動の際も、有房は後宇多院側の立場から同年十一月に東下し、翌年、帰京後再び慌ただしく東下しています。
記録に残っていない事例を含めたら、有房は生涯にいったい何度、京都・鎌倉を往復したのか。
ま、それはともかく、続きです。(p37以下)
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為兼は配流されたものの、その後の伏見院の処置が軽微でとかく公正を欠くものとみなされたため、幕府から重大な疑念を呈された。この「関東時議」に驚いた伏見院はさきの処置がいかに厳密であるかを詳しく説明し、幕府の疑念を払拭しようとしたのである。
これによって、為兼の周辺に罪科が及んでいる事が知られる。忠兼は解官され所領も一箇所を遺して没収された。また「納言二品」は為兼の姉従二位為子である。老齢ながら当時権勢のあった女房であるらしく、幕府はその責を糺したが、伏見院は「今度不及其沙汰」と不問に処したのである。為子が罪に問われたのは事件の性格をおのずと窺わせよう。なお、同じく養子の俊言・為基も連座したらしい。
しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。
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うーむ。
「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」とありますが、この状況で何故に小川氏が西園寺実兼を「讒臣」と考えるのか、私にはさっぱり理解できません。
その点を含め、次の投稿で私見を少し書きたいと思います。
それでは第四節に入ります。(p37)
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第一項「御治天間事」は、持明院統の治世が事件によって終わりかねないことを憂えたものである。ここには、敵失に奇貨居くべしということで、早速大覚寺統の後宇多院が腹心の六条有房を幕府に派遣した事に言及している。有房が使者に立ったことは、後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく。伏見院は、幕府がくれぐれも早まった判断をしないようにと訴えているのである。
第二項は「京極大納言入道間事」である。まず東使安東重綱は為兼を捕縛した翌日、西園寺実兼を通じ、
入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、
方々有其聞之間、可配流土佐国云々
という申し入れを行った。東使が為兼を処罰した理由を「政道巨害を成す」としたのが第一に注意されよう。『花園院宸記』の為兼薨伝には別に「得罪之故者、政道口入之故之由、関東已書載之」とあるのはこれを指し、また「事書案」の後文で「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」あるいは「但又成政道巨害云々」などとあるのは、全てこれを受けている。「政道巨害」の具体的な内容については後述する。
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いったん、ここで切ります。
「後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく」に付された注(14)には「拙稿「六条有房について」(国語と国文学73-8 平成8・8)参照」とありますが、この論文を見ると、六条有房が鎌倉を訪問した頻度に驚かされます。
先ず、
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正応五年から永仁二年にわたる、鎌倉滞在中の醍醐寺座主親玄の日記によれば、有房がほぼ毎年東下し、幕府要人と面会している事実が知られる。「有房朝臣使者入来了、為訴訟下向」(正応五・十一・十五)、「今日羽林向相州〔北条貞時〕亭、御書等持参」(永仁元・九・十八)、「有房朝臣書状到来了、廿七日罷立京都由也」(同・十二・九)、「今日羽林出仕了」(同・十二・十七)、「羽林向佐々目[頼助]了」(同・十二・廿)、「播阿使入来了、有房朝臣状到来了云々」(永仁二・九・廿五)等。亀山院の指令をうけて大覚寺統復権の為の政治工作にあたっていたと見て誤りはあるまい。
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とありますが(p32)、親玄(1249-1322)は久我通忠の子なので六条有房とは従兄弟の関係にあり、生年も有房(1251-1319)と近いですね。
ちなみに有房と従兄弟ということは、親玄は後深草院二条(1258-?)の従兄でもあります。
『親玄僧正日記』は正応五年(1292)から永仁二年(1294)までの三年分しか残っていないので、この前後の期間に有房が鎌倉を訪問していたのかは分かりませんが、三年間に限っても慌ただしいほど京都・鎌倉を往復していますね。
高橋慎一朗氏「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
土谷恵氏「東下りの尼と僧 」
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm
また、嘉元三年(1305)九月の亀山院崩御後の恒明親王騒動の際も、有房は後宇多院側の立場から同年十一月に東下し、翌年、帰京後再び慌ただしく東下しています。
記録に残っていない事例を含めたら、有房は生涯にいったい何度、京都・鎌倉を往復したのか。
ま、それはともかく、続きです。(p37以下)
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為兼は配流されたものの、その後の伏見院の処置が軽微でとかく公正を欠くものとみなされたため、幕府から重大な疑念を呈された。この「関東時議」に驚いた伏見院はさきの処置がいかに厳密であるかを詳しく説明し、幕府の疑念を払拭しようとしたのである。
これによって、為兼の周辺に罪科が及んでいる事が知られる。忠兼は解官され所領も一箇所を遺して没収された。また「納言二品」は為兼の姉従二位為子である。老齢ながら当時権勢のあった女房であるらしく、幕府はその責を糺したが、伏見院は「今度不及其沙汰」と不問に処したのである。為子が罪に問われたのは事件の性格をおのずと窺わせよう。なお、同じく養子の俊言・為基も連座したらしい。
しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。
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うーむ。
「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」とありますが、この状況で何故に小川氏が西園寺実兼を「讒臣」と考えるのか、私にはさっぱり理解できません。
その点を含め、次の投稿で私見を少し書きたいと思います。