学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その7)

2022-05-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月21日(土)13時18分35秒

それでは第四節に入ります。(p37)

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 第一項「御治天間事」は、持明院統の治世が事件によって終わりかねないことを憂えたものである。ここには、敵失に奇貨居くべしということで、早速大覚寺統の後宇多院が腹心の六条有房を幕府に派遣した事に言及している。有房が使者に立ったことは、後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく。伏見院は、幕府がくれぐれも早まった判断をしないようにと訴えているのである。
 第二項は「京極大納言入道間事」である。まず東使安東重綱は為兼を捕縛した翌日、西園寺実兼を通じ、
  入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、
  方々有其聞之間、可配流土佐国云々
という申し入れを行った。東使が為兼を処罰した理由を「政道巨害を成す」としたのが第一に注意されよう。『花園院宸記』の為兼薨伝には別に「得罪之故者、政道口入之故之由、関東已書載之」とあるのはこれを指し、また「事書案」の後文で「如重綱法師申詞者、不悔永仁先非云々」あるいは「但又成政道巨害云々」などとあるのは、全てこれを受けている。「政道巨害」の具体的な内容については後述する。
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いったん、ここで切ります。
「後宇多院の厚い信任と有房の公武交渉における活躍からしても得心がいく」に付された注(14)には「拙稿「六条有房について」(国語と国文学73-8 平成8・8)参照」とありますが、この論文を見ると、六条有房が鎌倉を訪問した頻度に驚かされます。
先ず、

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 正応五年から永仁二年にわたる、鎌倉滞在中の醍醐寺座主親玄の日記によれば、有房がほぼ毎年東下し、幕府要人と面会している事実が知られる。「有房朝臣使者入来了、為訴訟下向」(正応五・十一・十五)、「今日羽林向相州〔北条貞時〕亭、御書等持参」(永仁元・九・十八)、「有房朝臣書状到来了、廿七日罷立京都由也」(同・十二・九)、「今日羽林出仕了」(同・十二・十七)、「羽林向佐々目[頼助]了」(同・十二・廿)、「播阿使入来了、有房朝臣状到来了云々」(永仁二・九・廿五)等。亀山院の指令をうけて大覚寺統復権の為の政治工作にあたっていたと見て誤りはあるまい。
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とありますが(p32)、親玄(1249-1322)は久我通忠の子なので六条有房とは従兄弟の関係にあり、生年も有房(1251-1319)と近いですね。
ちなみに有房と従兄弟ということは、親玄は後深草院二条(1258-?)の従兄でもあります。
『親玄僧正日記』は正応五年(1292)から永仁二年(1294)までの三年分しか残っていないので、この前後の期間に有房が鎌倉を訪問していたのかは分かりませんが、三年間に限っても慌ただしいほど京都・鎌倉を往復していますね。

高橋慎一朗氏「『親玄僧正日記』と得宗被官 」
http://web.archive.org/web/20150107053657/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/takahashi-shinichiro-shingen.htm
土谷恵氏「東下りの尼と僧 」
http://web.archive.org/web/20150115015021/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tsuchiya-megumi-azumakudari.htm

また、嘉元三年(1305)九月の亀山院崩御後の恒明親王騒動の際も、有房は後宇多院側の立場から同年十一月に東下し、翌年、帰京後再び慌ただしく東下しています。
記録に残っていない事例を含めたら、有房は生涯にいったい何度、京都・鎌倉を往復したのか。
ま、それはともかく、続きです。(p37以下)

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 為兼は配流されたものの、その後の伏見院の処置が軽微でとかく公正を欠くものとみなされたため、幕府から重大な疑念を呈された。この「関東時議」に驚いた伏見院はさきの処置がいかに厳密であるかを詳しく説明し、幕府の疑念を払拭しようとしたのである。
 これによって、為兼の周辺に罪科が及んでいる事が知られる。忠兼は解官され所領も一箇所を遺して没収された。また「納言二品」は為兼の姉従二位為子である。老齢ながら当時権勢のあった女房であるらしく、幕府はその責を糺したが、伏見院は「今度不及其沙汰」と不問に処したのである。為子が罪に問われたのは事件の性格をおのずと窺わせよう。なお、同じく養子の俊言・為基も連座したらしい。
 しかし、事が為兼への讒言から起きたために伏見院は讒者を処罰しようとしている、という風に受け取られ、幕府にも伝わったらしい。ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない。実兼も讒臣呼ばわりされることには堪え難かったのであろう、幕府にこれを伝え、さらなる反発を招いたのである。伏見院は「凡讒諂臣、(中略)偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」と、そういう不心得の輩を探し出して罰するのは当然であって、為兼を処罰したのとはおのずと別事であると述べたのである。そして再び為兼一門への処罰の厳しさを強調し、それでも誠意を疑うのであれば、親しく宸翰を書いて遣わすつもりであるとする。
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うーむ。
「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」とありますが、この状況で何故に小川氏が西園寺実兼を「讒臣」と考えるのか、私にはさっぱり理解できません。
その点を含め、次の投稿で私見を少し書きたいと思います。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その6)

2022-05-21 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月21日(土)10時17分22秒

小川論文はサブタイトルが「土佐配流事件を中心に」となっていて、為兼の第一次流罪についての新知見はあくまでも副産物という扱いです。
ただ、「事書案」から窺われる幕府側の姿勢は、結局のところ第一次流罪(佐渡)と第二次流罪(土佐)は同一原因、即ち為兼の「政道巨害」によるものだ、ということなので、第二次流罪に関する記述も丁寧に見ておきたいと思います。
ということで、続きです。(p36)

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 以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう。すなわち「事書案」は伏見法皇の意を体したものであり、為兼の配流をはじめとする一連の事件を受けて、その責任を詰問してきた鎌倉幕府に対して朝廷側の対応を説明し陳弁に努めたものである。その筆者は明らかではないが、院の近臣であり、このような文書の起草に当たることのあった平経親がその候補に挙げられよう。それから先に原本では端裏書かと推測した「正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>」という注記は、「事書案」を公武交渉の際の窓口となった鎌倉幕府の奉行人に附した年時を指す。当時奉行人で「信濃前司」といえば太田時連(道大)である。一方「刑部権少輔」には該当者がいないが、例の「文保の和談」で活躍した摂津親鑒が当時刑部権大輔であり、正和四年には奉行人として活動している。
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正和四年(1315)十二月二十八日に東使安東重綱が上洛し、六波羅の軍勢三百余りを率いて為兼を逮捕、翌五年(1316)正月十二日に土佐に向けて出発したとされるので、「事書案」が記された正和五年三月四日の時点ではまだまだ事態は収束せず、関係者は疑心暗鬼になっていたでしょうね。
なお、「平経親がその候補に挙げられよう」に付された注(12)を見ると、

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(12)森茂暁氏『鎌倉時代の朝幕関係』(思文閣出版 平成3・6)第二章第三節「皇統の対立と幕府の対応」は、経親の執筆した伏見院の「恒明親王立坊事書案 徳治二年」を紹介している。
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とあります。
徳治二年(1307)の事書案の端書には「不出之事書案 経親卿書之 徳治二年」とあり、書いたのは平経親で間違いないのですが、森氏は「平経親自身が立案・清書した可能性が全くないわけではないが、そう断定することはできない。むしろその背後に立役者がいるようにも思われる」とし、立案者=西園寺公衡説を唱えておられます。
三浦周行は立案者を京極為兼と考えていました。

http://web.archive.org/web/20150515165002/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/mori-shigeaki-kotonotairitu.htm

さて、続きです。(p36以下)

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 さて『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない。ただ「事書案」の興味深い内容に対して、錯簡のため十分に活用できなかったものの、これを生かして記事を構成しようとした努力はやはり注意されよう。これによって『続本朝通鑑』の史料解釈、あるいは歴史叙述の態度の一班を伺うことができるであろう。
 それはともかく、為兼の土佐配流について考える時に、もはや『続本朝通鑑』の記事の替わりに、この「事書案」という一次史料を生かさない手は無かろう。また「事書案」は鎌倉後期の公武交渉史の空隙を埋めるものとしても、様々に活用される筈である。右の復元案に従って、次説では「事書案」の要旨をまとめてみたい。
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コメント
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