学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

議政官のインフレ化

2022-05-07 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 7日(土)12時11分0秒

>キラーカーンさん
>更に、(権)中納言と参議もいたのですから、議政官全体で何人になったのでしょうね。

中納言が洞院実泰(二十四)一人ですが、洞院実泰は五月十五日に権大納言となっています。
権中納言は中院通重(二十三)以下十四人、参議は花山院師藤(二十七)以下十四人ですね。
但し花山院師藤は正月十六日に権中納言となっています。
また、三条実重は十一月五日に権大納言から内大臣となっているので重複は三人です。
結局、

関白~内大臣 6人
大納言    2人
権大納言   14人
中納言    1人
権中納言   14人
参議     14人

の合計51人から3人を引いて48人ですね。
鎌倉後期には議定官のインフレ化が顕著です。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 投稿者 2022年 5月 7日(土)00時14分40秒
>>権大納言が十四人もいて
中々の壮観ですね。更に、(権)中納言と参議もいたのですから、
議政官全体で何人になったのでしょうね。
管見の限りだと、閣内大臣(≒議政官)は凡そ20人超が最大限のようですので

(権)大納言がこれだけ多いという事は、准大臣の事実上の定員も1名だったのでしょうか。

>>(正親町)三条実躬は翌永仁三年(1295)に蔵人頭
当時は、大臣家でも頭中将になれたのですね。
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京極為兼が見た不思議な夢(その1)

2022-05-07 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 7日(土)11時38分50秒

ちょっと横道に入りますが、京極為兼が有していた鎌倉人脈で、特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀との縁です。
宇都宮氏は頼綱(蓮生、1178-1259)、泰綱(1202-60)、景綱(1235-98)と続きますが、為兼の祖父・為家(1198-1275)は頼綱娘と結婚し、二人の間に二条為氏(1222-86)・京極為教(1227-79)等が生まれており、為兼にとっては宇都宮景綱は父・為教の従兄弟ですね。

宇都宮景綱(1235-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%99%AF%E7%B6%B1

ちなみに頼綱室は北条時政の娘で、母は時政の後妻・牧の方ですが、この人は頼綱と離婚後、四十七歳で前摂政・松殿師家と再婚しており、なかなか自由奔放に生きた女性のようですね。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef41bcf1a0d10ec33c2c9d187601ddc8
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a345048ef491da666beea454dbd19f97

ま、それはともかく、為兼は三代遡れば宇都宮頼綱、四代遡れば北条時政ですから、生まれたときから関東との特別の縁がある人です。
さて、『伏見院記』によれば、永仁元年(1293)八月二十七日、為兼は前夜に不思議な夢を見たことを伏見天皇に伝えています。
本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)でこの夢の話を知ったときは本郷氏の説明で一応納得していたのですが、本郷氏は為兼の第一回流罪も西園寺実兼の讒言によるとの立場です。
この夢は本郷説の当否を考える上でけっこう重要ですので、少し検討してみます。
まず、本郷説を紹介します。(p167以下)

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 永仁六(一二九八)年正月七日、六波羅は前中納言京極為兼を逮捕し、三月十六日に佐渡に流した。為兼は元来は伏見天皇の歌道の師であり、やがて政治上の諮問にも預かるようになったといわれる。天皇の側近く仕え、伝奏の代役も果たしている。彼の祖父為家は西園寺家と親しく、母は同家家司三善雅衡の娘であった。そのため為兼は、はじめ関東申次西園寺実兼と昵懇であったが、彼の権勢の増大は実兼との不和を招き、両者の激しい対立が六波羅の介入をもたらしたという。だが朝臣である為兼が、なぜ天皇や上皇でなく武家に処罰されたのか、詳細は明らかでない。
 ある日、為兼は不思議な夢を伏見天皇に語っている。父為教とは従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたというのである。景綱の母は名越朝時の娘、妻は安達泰盛の姉妹、彼はどちらの縁からも北条得宗家から警戒の目を向けられていたに違いない。こうした景綱のことをわざわざ日記に書き留めていることからすると、伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか。この推測が当を得ているならば、為兼が罪ありと認められた以上、伏見天皇の身も安泰ではあり得ない。果たして七月二十二日、天皇は譲位して後伏見天皇が践祚する。更に八月十日、後宇多上皇の皇子邦治親王が春宮にたてられた。皇統は、近い将来、再び亀山上皇の側に戻ることになった。このとき人々は、皇位の継承権が持明院統・大覚寺統に等しく保たれていること、次代の治世がどちらのものかはあくまでも幕府の裁量によって定められることを知ったのである。
-------

本郷氏が「為兼は元来は伏見天皇の歌道の師であり、やがて政治上の諮問にも預かるようになったといわれる」、「彼の権勢の増大は実兼との不和を招き」に付した注をみると、いずれも『花園天皇記』元弘二年三月二十四日条が典拠ですが、実兼との不和は第二回目の流罪については妥当しても、第一回目の流罪については説得的でないことは既に述べました。

佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5

また、宇都宮景綱が登場する夢についても、永仁元年(1293)の時点で「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していた」と考えるのはあまりに早すぎて無理があります。
では、この夢はどう解釈したらよいのか。
実は『伏見院記』永仁元年八月二十七日条において伏見天皇が最も重視しているのは永仁勅撰の議であり、この夢も永仁勅撰の議に関連したものだろう、というのが井上宗雄説です。
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