投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月19日(木)14時19分41秒
為兼の養子・忠兼が登場する『槐御抄』は宮内庁書陵部の「書陵部所蔵資料目録・画像公開システム」で読めますね。
リンク先で86コマ中の55コマを見ると、正和元年(1312)七月十二日の章義門院(伏見院皇女、母は洞院公宗女・英子)の御幸の記録に供奉者が列挙されていて、その中に忠兼(当時十六歳)も含まれています。
これを記した三条公秀(当時二十三歳)は「忠兼朝臣」の割注で、その華美な衣裳を批判的に記した後、「如市中虎莫言々々」と憤慨していますね。
元徳二年(1330)、従三位に叙せられて初めて『公卿補任』に登場した正親町忠兼(三十四歳)の尻付には「(正和四年)十二月廿八日東使召取為兼卿之時同車。但即赦免云々」とあり、正和四年(1315)、正四位下・蔵人頭の忠兼(十九歳)は養父・為兼と一緒に逮捕されてしまったことが分かります。
処罰されなかったとはいえ、忠兼の経歴には空白期間が続きますが、何故かこの間に忠兼は北条一門の中でも得宗家に次ぐ家格を誇る赤橋家のお嬢様、赤橋種子と結婚することになり、元亨二年(1322)には二人の間に忠季が生まれます。
種子は足利尊氏正室の赤橋登子の姉妹なので、忠兼は尊氏の義理の兄となりますが、ただ、忠兼が従三位に叙せられたのは元徳二年(1330)なので、鎌倉幕府崩壊前です。
となると、忠兼の復権は赤橋種子の兄・守時(第十六代執権、1295-1333)の口添えの可能性が高そうです。
赤橋種子と正親町公蔭(その2)
ま、それはともかく、小川論文の続きです。(p32以下)
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このように為兼は鎌倉後期の廷臣としては珍しくも印象的な人間像を結びやすいが、それは主に『花園院宸記』の記事によって得られたものである。花園院は平生より為兼に言及すること少なくないが、とくに薨去の報に接した正慶元年(一三三二)二月二十四日条には、優に一千字を越える追討の辞を記しつけた。そこから一節を掲げる。
伏見院在坊之時、令好和哥給、仍寓直、龍興之後為蔵人頭、至中納言、以和哥
候之、粗至政道之口入、仍有傍輩之讒、関東可被退之由申之、仍解却見任、籠
居之後、重有讒口、頗渉陰謀事、依武家配流佐渡国、経数年帰京、又昵近如元、
愛君之志軼等倫、是以有寵、正和朕加首服之時、為上寿任権大納言、無幾旧院
〔伏見院〕御出家之時、同遂素懐了、於上皇〔後伏見院〕并朕為乳父、(中略)
而入道大相国<実兼公>自幼年扶持之、大略如家僕、而近年以旧院之寵、与彼相敵、
互切歯、至正和□年□遂依彼讒、関東重配土佐国、
春宮時代から伏見院に仕えた為兼は、親政が始まると蔵人頭・参議・権中納言と速やかに昇進したが、「粗ら政道の口入〔こうじゅ〕に至」り、傍輩の讒言で籠居を余儀なくされ、さらに「陰謀」が取沙汰されたため永仁六年(一二九八)に鎌倉幕府によって佐渡国に配流された。赦免後に花園院の即位と伏見院の再度の院政に会い、正二位権大納言に昇ったが、今度は若い頃に家僕のようにして仕えた西園寺家と拮抗するようになり、遂に実兼の讒言によって幕府が再び土佐に流したという。
頻繁に利用される史料であり、為兼の経歴を語って間然とするところがない。それでも、ここでの為兼像は和歌の正道のために殉じた聖人とでもいうべきで、花園院一流の道学に裏付けられていることを、十分に承知しておくべきであろう。客観的ではあるが、鎌倉後期に生きた廷臣としての為兼の姿をじかに伝えるものでは必ずしもない。この整理された記述を、当時の史料をもとに検証し、肉付けしていく作業こそ重要である。
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いったん、ここで切ります。
細かいことを言うと、為兼が蔵人頭に補されたのは正応元年(1288)七月十一日、任参議は翌二年正月十三日なので、いずれも後深草院政下の人事ですね。
権中納言となったのは正応四年(1291)七月二十九日であり、こちらは伏見親政下です。