学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その6)

2022-05-17 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月17日(火)14時30分53秒

「そこで以下、南都の紛擾について詳しく見ていきたい」(p128)に続いて、今谷氏は「永仁の南都闘乱」を十ページに亘って説明されます。
今谷氏が依拠されているのは主として安田次郎氏(お茶の水女子大学名誉教授)の「永仁の南都闘乱」(『お茶の水史学』30号、1987)ですが、今谷氏の要約だけでもうんざりするほど複雑なので、引用は止め、小見出しだけ紹介すると、

 為兼と南都北嶺
 永仁の南都闘乱
 大乗院と一乗院の対立
 春日社頭の激戦
 春日神体の移座分置
 京都での騒ぎ
 為兼、伝奏として干与
 一乗院、蔵人宿所を襲撃

といった具合です。
「一乗院、蔵人宿所を襲撃」は永仁五年(1297)正月七日の出来事で、綸旨を持参して南都に下った「職事信忠朝臣」の宿所を一条院の僧兵・神人が破却したのですが、この綸旨は「関東執奏」に基づくもので、当該行為は実質的に幕府への侮辱であり、「武家敵対」と見做した幕府は「一乗院の荘園にことごとく地頭を設置し、大弾圧に出」ます。
これをきっかけに一乗院側も大人しくなって、「十月十八日には一乗院の地頭は廃止された。四年に及ぶ争乱はここに一まず幕を下ろすことにな」ります。
さて、以上の説明の後、今谷氏は次のように書かれています。(p139)

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幕府の硬化

 幕府は騒動を徹底的に根絶する方針で臨み、一乗院領地頭設置と併行して、堂衆らの処分を評議したものと思われる。処分の範囲は、大乗院に加勢して再三八幡神輿を動かし、京都の政務まで乱した東大寺の執行らにも及ぶことになった。こうして、翌年正月、為兼・聖親・妙智房の三人が六波羅に拘引されることになったのである。聖親は東大寺神輿の動座と、神体別置事件に東大寺衆徒として加担した責任、妙智房は白毫寺が一条院系列の寺院であることから推して、恐らく信忠宿所破却の咎であろう。
 事件が、神体別置のみで鎮静化しておれば、為兼は配流まではされなかっただろう。騒擾がエスカレートして「武家敵対」まで進んだ以上、朝廷側の責任者として、誰かの首が差出される必要があった。かくて騒乱の間中、一貫して南都伝奏の地位にあったとみられる為兼が、廷臣中の処分のヤリ玉に上ったのである。伏見天皇は恐らく断腸の思いであったろうが、幕府の強硬方針に、忠臣為兼をかばい切れなかったものと思われる。また佐渡遠島の処分も、武家敵対=謀叛の科としては、先例に照らして当然と認識されたものである。
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小川剛生氏が指摘されたように、聖親法印は石清水関係者なので、「聖親は東大寺神輿の動座と、神体別置事件に東大寺衆徒として加担した責任」は明らかに誤解です。
また、小川氏は特に言及されていませんが、叡尊再興から間もない時期の白毫寺は真言律宗の拠点なので、「妙智房は白毫寺が一条院系列の寺院であることから推して、恐らく信忠宿所破却の咎であろう」も無理筋ですね。
更に、そもそも為兼が「騒乱の間中、一貫して南都伝奏の地位にあった」と言えるか疑問な上に、為兼は永仁四年(1296)五月に権中納言を辞し、籠居していたので、翌年正月の「信忠宿所破却」で「騒擾がエスカレートして「武家敵対」まで進んだ」こととは全く無関係です。
結局、籠居前の事態までならともかく、籠居後のエスカレーションの責任まで為兼が負うというのは余りに理不尽ですね。
ということで、今谷新説は無理が多いのですが、そうかといって小川剛生氏の「京極為兼と公家政権」が全ての疑問を解消してくれたかというとそうでもなくて、いくつか気になる点があります。
そこで、次の投稿から小川論文を検討します。
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