学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その5)

2022-05-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月20日(金)17時25分51秒

林鵞峰が「按、此旧記残簡、出自二条殿、而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉」と記していたように「事書案」には脱落・錯簡があり、小川氏はそれを次のように修正して翻刻されています。(p35以下)

-------
   『二條殿秘記内』(朱)
   正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔、信濃前司、>
    條々
  一、御治天間事、子細前々事旧畢、定有御存知歟、六條
  前大納言〔源有房〕下向云々、若有掠申之旨者、可被糺決、不可有
  物忩沙汰乎、
  一、京極大納言〔為兼〕入道間事、関東時議被驚思食之間、先於
  忠兼朝臣〔京極〕者被解却所職、所有勅勘也、朝恩所々悉被改知
  行、為姫宮御扶持一所被預置也、納言二品〔従二位為子〕、彼二品事、
  永仁不可及沙汰之由関東被申之、仍今度不及其沙汰、当
  時之次第如此、此上可為何様乎、凡政道事、就謳哥説可
  被糺明之由、度々被申之処、或承、或以重綱法師〔安東〕令言上
  之旨被申之間、去年十二月廿八日東使上洛、如彼沙汰者、
  頗厳密、令驚耳歟、翌日重綱法師令申之趣、入道相国〔西園寺実兼〕以
  按察[葉室頼藤]如奏聞者、入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶
  不悔先非、成政道巨害之由、方々有其聞之間、可配流土
  佐国云々、就成政失者、就其篇目、被改先非、可被慰人
  之愁歟、凡讒諂臣、縦対大納言入道、雖挿私之宿意、被
  引奸詐之我執、忘公私之礼、偽何可挙君非於遠方哉、如
  此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟、委細
  被戴七〔去カ〕年事書了、但成政道巨害之輩、被加懲粛之写〔ママ〕、更
  不可依親疎、尤可為御本意、惹起自讒者之凶害者、可被
  糾明之由、就謳歌説被触申許也、所詮今度沙汰之趣、被
  疑申 叡慮者、御合躰不変之次第、重染宸筆、可被顕御
  心底、将又為大納言入道一身罪科者、就其旨趣、且被散
  御不審、且可被休御愁鬱者也、[
  〔政〕]道巨害及其沙汰者、前々如此関東御意見有之、今度東
  使沙汰之次第、超過先規、已及流刑、随而如重綱法師申
  詞者、不悔永仁先非云々、彼度有陰謀之企由一旦及其沙
  汰、今度若為同前者、殊所驚思食也、然者云子孫云親類、
  重猶可被加厳刑歟、分明子細未被聞思食、御不審尤多端、
  若被疑申叡慮者、旁被歎思食、永仁御合躰事、最勝園寺〔北条貞時〕
  禅門慇懃御返事、正和御発願子細、定被存知歟、此上猶
  可染 宸筆、都鄙之間、雖聊不可有隔心、仍就永仁
  [            ]字及委細、随分明左右可被思
  食定也、但又成政道巨害云々、此条入道大納言、不可相
  縡当時之朝議之念〔ママ〕、偏彼張行事、此御方有御御許容、依被
  執申非拠、及乱政之由、奸邪之輩、存凶害驚遠聞歟、御
  老後恥辱何事如之哉、政道雑務御親子之間、被申合之条、
  代々芳躅也、万機無私之叡情、併任宗廟冥鑑、然而若有
  不慮之御違[             ]
  一、執柄還補事、猥被申行非拠之由、世上謳哥之旨、有
  其聞、被痛思食、再任之条、先例勿論之上、当時為有識
  之仁、為政道要須之間、且任勅約、且依器用、被還補之、
  左府〔二条道平〕為一上致公務、所申雖非無其謂、未至父祖先途之年
  齢、暫相待之条、不可有子細乎、再任毎度何時無理運之
  仁哉、且祖父〔鷹司兼平〕建治例在近歟、当時之用捨、可謂玄隔乎、
  抑関東御返事、任道理可為聖断云々、此條偏被任時議歟
  之由、被思召候間、被執申候間、若被存左府理運之由、
  被申此返事者、令沙汰之趣、令参差歟、可為何様乎、
-------

小川氏は「以上の復元により文意はほぼ明らかになったであろう」(p36)と軽く書かれていますが、これを見て大体の内容が把握できた方はどれくらいおられるでしょうか。

>㎞さん
こんにちは。
「議政官のインフレ化」、私もちょっと変なことを書いてしまったなと反省し、次の投稿で「私は漠然と両統迭立期に急激に官職のインフレ化が進んだように思っていたのですが、そうでもなさそうです」と書きました。
ただ、公卿の数量的把握は誰かやっているだろうから別に私がやらなくても、という気持ちもあって、全然フォローが出来ていません。


※㎞さんの下記投稿へのレスです。

議政官の定員 2022/05/20(金) 16:55:50
>議政官のインフレ化
正応5年の元旦現在の議政官は、
関白   九条忠教
左大臣  西園寺実兼
右大臣  鷹司兼忠
内大臣  二条兼基
大納言  堀川具守、土御門定実(2名)
権大納言 三条実実、久我迪雄、花山院家教、西園寺公衡、近衛兼教、大炊御門良宗、九条師教、、鷹司冬平(8名)
中納言  洞院實泰
権中納言 中院通重、御子左為世、花山院定教、中御門為方、一条内実、坊城俊定、洞院公尹、京極為兼、西園寺公顕(9名)
参議   花山院師藤、粟田口教経、衣笠冬良、滋野井冬季、中御門宗冬、鷹司宗嗣、二条資高、花山院師信(8名)
です。これは鎌倉前期の著である『官職秘鈔』の示す、大納言2名。権大納言8名(最大)、中納言(3人)・権中納言(最大10名 実際の補任例では正権を含めて10名)と比較しても、多いとはいえません。なお、参議は八の座と称されたように、実質定員8名です。どうやら昇進・辞任に伴う新任者も含めているようですね。
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小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その4)

2022-05-20 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月20日(金)11時26分28秒

第二節には若干の続きがありますが、そこでは「廷臣の為兼がどうして武家によって処罰されたのであろうか」という問題提起がなされています。
続いて第三節に入ります。(p33以下)

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三 「正和五年三月四日伏見天皇事書案」の紹介(1)

 林鵞峰編『続本朝通鑑』巻第一一六・正和五年三月の条に「東使入洛議事。上皇驚懼」という項文に繋けて、為兼の土佐配流について、他の資料には見えない記述がある。

  或記謂、東宮尊治春秋漸近三十、其侍臣等労待禅継、故謳歌多端、而時務有不愜
  武家之意者。旧臘東使入洛、抑損之。今年三月東使又来、與六波羅両職相議奏請
  曰、京極大納言入道<藤為兼。>往年貶謫、赦帰之後、猶不悔改、而為朝廷之巨害
  云々。上皇懼而不得已、勅責為兼収其領地。東使猶不慊之、告西園寺前相国実兼、
  実兼奏曰、宜任武家之請而流土佐国。然諸臣胥議謂、朝務不可隔親疎、若実有罪
  者、不可不罰、然亦讒愬之行、不可不察焉。東使又議改家平執柄復任冬平。上皇
  使侍臣解之曰、関白再任、先例惟多、冬平在当時、則有識之人、而熟政道、故還
  補之、左大臣道平雖可為一上、然暫猶豫云々。然東使猶嗷々、上皇使侍臣復解之
  謂、故最勝園寺入道<貞時。>推戴此皇統、而慇懃相約、則朝廷武家雖隔都鄙、何
  可齟齬哉、然今武家有所疑、則宜染宸筆告賜之、叡情不曲、万機無私者、任宗廟
  冥鑑云々。又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌
  倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。<按、此旧記残簡、出自二条殿、
  而無他可考証、則其始末雖不備、然当時形勢可推知焉。(下略)>

 この長文の記事は、最後に注されるように二条殿から出た旧記に基づいて書かれたものであり、その内容はかなり具体的である。
 すなわち、伏見院の政務には幕府の意に叶わぬところがあったため、前年冬に東使が入洛して勧告を行った。三月に東使は為兼は再び朝廷の巨害となっている、と申し入れた。伏見院は為兼の領地を没収したが、使者は満足せず実兼に諮った。このため為兼は配流された。廷臣たちは朝廷の沙汰に偏頗があってはならず、君は讒訴に気づかなくてはならないと囁いたが、東使は今度は関白に左大臣二条道平をさしおき前関白鷹司冬平を再任させたことを詰問した。院は冬平は有職の人で適任だと弁解したが、東使は納得しなかった。院は故北条貞時が持明院統を推戴してから君臣水魚の思をなしている、どうして異図を抱こうか、と弁解しなければならなかった。これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである。
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この『続本朝通鑑』の記事は、もちろん従来の研究者も気づいていたものの、「ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず」、「江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴」い、かつ、「肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明」であったので、「この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かった」のだそうです。

林鵞峰(1618-80)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9E%97%E9%B5%9E%E5%B3%B0

ところが、小川氏はこの「二条殿の旧記」を発見された訳ですね。(p34以下)

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 しかし、この「二条殿の旧記」とは、東京大学史料編纂所に蔵される林家本『二条殿秘説 附卜部秘説』のことであり、そこに収載される「条々」と題する資料が『続本朝通鑑』の記事のソースとなっていることが判明する。
 『二条殿秘説』は、鵞峰が二条摂関家より採訪した文書・典籍を一冊にまとめた「二条殿秘説」と奉幣以下の次第を載せる「卜部秘説」よりなる。前者は以下の中世の記録の抜書で構成されている。その標題を順に示すと以下の通りである。

 (1)二条殿由来。
 (2)条々(正和五年三月四日付之奉行人<刑部権少輔・信濃前司>。
 (3)明徳二年三月十三日崇光院御幸長講殿宸記。
 (4)称名院ヨリ二条殿ヘ遣ス状。
 (5)三種神器伝来事。
 (6)中陪事。
 (7)二条殿甚秘御記<二條後普光院摂政良基記也>・当御流御即位御伝授之事。

 もとより写しであるから、その資料的価値は慎重に判断する必要がある。事実(7)は二条良基が永徳三年(一三八三)に即位勧請の由来につき記したものとされるものであるが、後世の偽作である。ただし(2)の場合は、敢えて偽書をなすような背景が見当たらず、また内容も当時のものとみてよく、文章も古態をとどめており、まずは信用できると思われる。以下、(2)を「正和五年三月四日伏見法皇事書案」ないし「事書案」と仮称したい。
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とのことで(p34)、これは本当に素晴らしい発見です。
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