学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その5)

2022-05-05 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 5日(木)12時38分51秒

※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)

前回投稿で「公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます」と書いてしまいましたが、これはちょっと勇み足でした。
為兼の専横が目立つようになるのはもう少し先の時期であり、正応五年(1292)の時点で西園寺家の「家礼」である為兼が公衡と正面から衝突できるのか、そしてそれを実兼が許容するか、という疑問も生じます。
まず、前提として為兼と実兼・公衡父子の関係を確認しておくと、井上宗雄氏『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、次のような具合いです。(p55以下)

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 さて、西園寺実兼(四十歳)は正応元年十月権大納言より正官に転じ、右大将を兼ね、従一位に昇り、翌年十月任内大臣、三年四月に辞したが、四年十二月太政大臣となる。この間もとより関東申次は続けている。
 以上のような状況が為兼に大きく影響したことはいうまでもなく、正応元年七月十一日蔵人頭となっている。『勘仲記』に、

 隆良朝臣、伊定朝臣、顕資朝臣、実時朝臣、宗冬朝臣五人の上﨟を超越
 すと云々、禁裏御吹挙、先途を遂ぐと云々。

とあり、超越して頭に補せられたのも深い信任による天皇の推挙であった。
 翌二年正月十三日任参議。『伏見院記』には為兼について「本自〔もとより〕無弐の志を竭〔つ〕くし、忠勤を致すの仁也」とあり、この昇進も天皇の配慮に依った。ちなみに、十五日に拝賀、そのあと西園寺邸に赴いて新任の慶を申した。「家礼〔かれい〕の仁と雖も」公卿として拝賀に来たのだからとて、実兼も公衡も対面している。
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この『公衡公記』の記述からは、為兼は本来「家礼」であって、西園寺家に従属すべき存在であるものの、しかし、公卿になった以上は西園寺家としてもそれなりに対応する、という微妙な関係が伺えます。
そして、蔵人頭・参議となって以降、為兼は、例えば後深草院が出家して伏見親政となった翌正応四年(1291)、幕府との特別な関係を背景に朝廷の人事に介入していた禅空(善空)なる真言律宗の僧侶の排除に尽力するなど、伏見天皇の信任に応えて実際に相当な活躍をしています。
為兼の専横が目立つようになったのは永仁二年(1295)あたりかららしく、正応五年(1292)ではちょっと早すぎる感じです。
とすると、正応五年に公衡と衝突したのは誰かが問題となりますが、既に二年前から親政を行っていた伏見天皇ではなかろうかと思われます。
浅原事件での対応や、正安三年(1301)、後二条天皇の即位式で花山院家定の失態を咎めたエピソード(但しこれは典拠が『増鏡』。後述)などを見ると、万事に几帳面な公衡は周囲の空気を読まない頓珍漢な正義漢でもあります。
他方、伏見天皇も芸術家肌というか潔癖症というか、政治家としては大物とは言い難い面があって、二人が衝突する可能性は高そうです。
そして、その際に公衡の側に何らかの落ち度があったならば、実兼も公衡を守りにくかったと思われます。

※『増鏡』巻十一「さしぐし」に記された後二条天皇の即位式での公衡のエピソードは次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p410以下)

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 かくて新帝〔後二条〕は十七になり給へば、いとさかりにうつくしう、御心ばへもあてにけだかう、すみたるさまして、しめやかにおはします。三月廿四日御即位、この行幸の時、花山院三位中将家定、御剣の役をつとめ給ふとて、さかさまに内侍に渡されけるを、今出川の大臣〔おとど〕、御覧じとがめて出仕とどめらるべきよし申されしかど、鷹司の大殿、「なかなか沙汰がましくてあしかりなん。ただ音なくてこそ」と申しとどめ給へりしこそ、なさけ深く侍りしか。後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん。

http://web.archive.org/web/20150918073845/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-gonijotenno-sokui.htm

「今出川の大臣」は前右大臣・西園寺公衡、「鷹司の大殿」は前関白・鷹司基忠(1247-1313)ですね。
西園寺公衡が強硬な意見を吐き、それを誰かが窘めるというパターンは浅原事件と同じですが、「後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん」という語り手の尼の感想が些か不自然で、『増鏡』作者による脚色の可能性もありそうです。
コメント
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