学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

小川剛生氏「京極為兼と公家政権」(その8)

2022-05-23 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月23日(月)12時53分31秒

小川氏は「『続本朝通鑑』為兼配流の記事を、その原拠たる「事書案」とを比較するに、相当に自由な解釈を行っていることが分かる。とくに先に触れた、為兼配流後の朝廷の対応と幕府の執奏の経緯などは都合よく辻褄を合わせており、正確な記述にはなっていない」(p36以下)と書かれていますが、『続本朝通鑑』の記事と小川氏復元の「事書案」を読み比べると、確かに正確な要約とは言い難いですね。
例えば「事書案」は大きく三項目に分かれ、

一、御治天間事
一、京極大納言入道間事
一、執柄還補事

という順番なのに、『続本朝通鑑』の記事では、筆頭の「一、御治天間の事」に相当する部分が一番最後に、

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又一説曰、六条前大納言源有房者、大覚寺法皇幸臣、頃間含密詔赴鎌倉、時人皆疑、催禅代之事也。故上皇殊懐憂懼。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ed299e0d9a26605e19fd0e10d474f343

という具合いに、まるで付け足しのように書かれていたりします。
また、細かいことを言えば、「事書案」では、「先於忠兼朝臣〔京極〕者被解却所職、所有勅勘也、朝恩所々悉被改知行、為姫宮御扶持一所被預置也」と、為兼の養子・忠兼の処分が書かれているのに、『続本朝通鑑』では「勅責為兼収其領地」と、為兼に対する処分になってしまっています。
ただ、『続本朝通鑑』の記事で、『花園院宸記』と比較して一番重要な部分、即ち西園寺実兼が積極的に讒言したのではなく、あくまで幕府の判断を消極的に容認しただけ、という部分は、「事書案」の解釈としては間違いではないように思われます。
この点、次田香澄氏が重要な指摘をされており、(その4)では要約引用で済ませていましたが、改めて引用すると、「これを機会に皇太子尊治親王の践祚を待望する大覚寺統の運動があり、後宇多院の寵臣六条有房が鎌倉に下向したので、伏見院は深く憂慮した、というのである」の後に、

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 早く次田香澄氏はこれについて「『本朝通鑑』では、『花園院宸記』に見えてゐるやうに実兼自ら讒陥したのではなく、幕府に相談を持ちかけられてその提議に同意したといふことになつてゐるのである」と述べ、実兼が幕府に讒言したのではなく、あくまでも幕府の主体的な意志として為兼の逮捕が実行されたとする。つまり幕府は伏見院の失政を鳴らして朝廷政治に介入してきたとみなされる訳である。
 ただ正和五年三月に東使が入洛した事実は確かめられず、また為兼の捕縛と配流はそれ以前であるから、ここに述べられているような経緯が実際にあったとは考えにくい。それと江戸前期に成立した『続本朝通鑑』は、史論としてはともかく、史書としての信憑性にはたぶんに疑問が伴うため、次田氏もあくまで異説として触れたに過ぎず、肝腎の「二条殿の旧記」がいかなる資料か不明である以上、この記事から為兼の配流事件の真相を論ずるのは難しく、これまで顧みられることは無かったのである。
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と続きます。(p34)
ただ、「事書案」には、

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去年十二月廿八日東使上洛、如彼沙汰者、頗厳密、令驚耳歟、翌日重綱
法師令申之趣、入道相国〔西園寺実兼〕以按察[葉室頼藤]如奏聞者、
入道大納言永仁依罪科被処流刑了、今猶不悔先非、成政道巨害之由、方々
有其聞之間、可配流土佐国云々、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1859c8582f144fb8e1778d23f7fc242e

とあるだけですから、より正確には「去年十二月廿八日」の「翌日」、西園寺実兼は安東重綱が言った内容を葉室頼藤を使者として伏見院に報告しただけですね。
安東重綱は正和四年(1315)十二月二十八日に上洛して六波羅に入り、直ちに「六波羅数百人軍兵、毘沙(門)堂に馳せ向い、為兼を召取り候」(『鎌倉遺文』25702、「玄爾書状」)なので、「去年十二月廿八日」の時点では一体何が起きているのか誰も正確には理解しておらず、実兼も「翌日」に安東重綱から為兼逮捕の理由を聞き、それを伏見院に伝えた、という順番です。
従って、次田香澄氏の「『花園院宸記』に見えてゐるやうに実兼自ら讒陥したのではなく、幕府に相談を持ちかけられてその提議に同意したといふことになつてゐるのである」という解釈も不正確であり、事前の「相談」などなかった訳ですね。
さて、小川氏は「ここで讒臣と目されたのは先に東使の申し入れを伝達した西園寺実兼であることは想像に難くない」(p37)とされますが、これは私にはあまりに不自然な発想のように思われます。
もちろん実兼も為兼の専横、特に『公衡公記』に記された正和四年四月の「南都西南院和歌蹴鞠の会」での傲慢な態度などは面白くなかったでしょうから、為兼逮捕の前に幕府からの「相談」はなかったとしても、関東申次という立場である以上、あるいは何らかの意図を幕府に伝えたことはあったかもしれません。
しかし、ここで問題となっているのは実兼の意図ではなく、正和五年(1316)三月四日、伏見院が幕府に送った正式な文書中の「凡讒諂臣、縦対大納言入道、雖挿私之宿意、被引奸詐之我執、忘公私之礼、偽何可挙君非於遠方哉、如此輩被糺明真偽之条、不可限此一事、可亘万人歟」という表現の解釈です。
この時点で、伏見院が「讒諂臣」は実兼だ、処罰しなければならない、などと内心で思っていたとしても、それを匂わせるような文書を幕府に送ることがあり得るのか。
窮地に追い込まれている伏見院にとって、自身の正室・永福門院の父であり、関東申次の要職にある実兼をわざわざ敵に回すようなことを書いて、何か得になることがあるのか。
伏見院の政治的判断能力については些か懐疑的な私ですが、さすがに伏見院も、この文書で実兼の責任追及を匂わすような真似をするとは、私には到底思えません。
では、ここで伏見院が処罰したいと思っている「讒諂臣」は誰なのか。
まあ、私としてその筆頭候補は文書の冒頭に、

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一、御治天間事、子細前々事旧畢、定有御存知歟、六條前大納言〔源有房〕下向
  云々、若有掠申之旨者、可被糺決、不可有物忩沙汰乎、
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と登場する六条有房だろうと思います。
コメント
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