投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 4日(水)12時04分25秒
※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)
正応五年(1292)の『公卿補任』を見ると、
関白 九条忠教(四十五)
太政大臣 西園寺実兼(四十四)
左大臣 鷹司兼忠(三十一)
右大臣 二条兼基(二十五)
内大臣 徳大寺公孝(四十)※八月八日上表
同 三条実重(三十三)※十一月五日任
大納言 堀川具守(四十四)
同 土御門定実(五十二)
と八人続いた後、権大納言が十四人もいて、順番に名前と年齢を挙げると、
三条実重(三十三)、久我通雄(三十五)、花山院家教(三十二)、西園寺公衡(二十九)、近衛兼教(二十六)、大炊御門良宗(三十三)、九条師教(十七)、鷹司冬平(十八)、堀川基俊(三十二)、洞院実泰(二十四)、源通重(三十三)、藤原為世(四十三)、久我通雄(三十五)
となっており、公衡は四番目に登場します。
公衡は四年前の正応元年(1188)に権大納言となっていますが、二十代で権大納言というのは相当早い昇進で、上記十四人の中でも二十代は摂関家の近衛兼教・九条師教・鷹司冬平と洞院実泰・西園寺公衡の五人だけですね。
さて、公衡の項には、
中宮大夫。五月十五日兼右大将。六月廿五日右馬寮御監。閏六月十六日止大将。同日権大納言中宮大夫同辞之。
とあります。
この日付に注目して他の人事を見ると、五月十五日には右大臣・二条兼基が兼任の左大将を辞し、権大納言・花山院家教が左大将を兼任します。
同日、権大納言・三条実重が兼任の右大将を止められ、公衡が右大将となった訳ですが、公衡が右大将を止められた閏六月十六日には花山院家教が左大将から右大将に転じ、三条実重が左大将に任じられています。
このように左右の近衛大将だけを見れば名誉職の盥回しに過ぎないような感じもしますが、公衡が権大納言と中宮大夫を辞し、以後、実に五年間も散位だったというのは本当に異常な人事ですね。
公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます。
なお、「中宮」とは西園寺実兼の娘・鏱子のことですが、その母は中院通成の娘・顕子なので、公衡の七歳下の同母妹です。
西園寺鏱子(永福門院、1271-1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E9%8F%B1%E5%AD%90
鏱子は伏見践祚の翌正応元年(1288)六月二日に入内し、八月二十日に中宮に冊立されますが、中宮大夫となったのは公衡、そして中宮権大夫となったのは母・顕子の甥、中院通重です。
中院通重(1270-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E9%87%8D
正応五年(1292)、公衡が中宮大夫を辞すと中院通重が中宮大夫となり、それは永仁六年(1298)の伏見譲位後に鏱子に女院号宣下があって永福門院となるまで続きますが、同母兄がいるのに母方の従兄・中院通重に交替したということは、公衡と鏱子との関係も悪化したことを窺わせます。
為兼と伏見天皇・鏱子は京極派の和歌の世界で固く結びついており、正応二年(1289)三月に開催された和歌御会で一首を詠んだ後は全く歌壇と縁がなかった公衡には入り込む隙がなかったのかもしれません。
さて、公衡は研究者の間では異常に詳細な日記を残してくれたことで有名ですが、一般的には『徒然草』第83段のエピソードで名前が知られている程度の人だろうと思います。
即ち、
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竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりかおはせんなれども、「珍しげなし。一上にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
「亢竜の悔あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。よろづの事、先のつまりたるは、破れに近き道なり。
http://web.archive.org/web/20150502065713/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-83-chikurinin.htm
という話ですが、西園寺家は公経・公相・実兼と三代続いて太政大臣となったので、公衡も当然に太政大臣になれたはずだが、本人が「一上」(左大臣)で十分だと判断して出家してしまった、というのは本当なのか。
公衡が極官の左大臣となったのは延慶二年(1309)三月で、同年六月に辞し、応長元年(1311)八月に出家していますが、延慶元年(1308)に花園天皇が践祚、伏見院政となっているので、公衡を太政大臣にするかどうかの決定権は伏見院にあります。
伏見院としては、かつて為兼と軋轢があり、五年の散位の間に為兼と為兼を贔屓する伏見天皇への恨みを募らせ、幕府に讒言して為兼流罪の原因を作った公衡を決して許さず、関東申次という重職の相応しい地位として左大臣までは認めたものの、太政大臣は許さなかったのではないか、そして公衡も伏見院の対応を見越して太政大臣をあきらめた、というのが実際だったのではなかろうかと私は想像します。
※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)
正応五年(1292)の『公卿補任』を見ると、
関白 九条忠教(四十五)
太政大臣 西園寺実兼(四十四)
左大臣 鷹司兼忠(三十一)
右大臣 二条兼基(二十五)
内大臣 徳大寺公孝(四十)※八月八日上表
同 三条実重(三十三)※十一月五日任
大納言 堀川具守(四十四)
同 土御門定実(五十二)
と八人続いた後、権大納言が十四人もいて、順番に名前と年齢を挙げると、
三条実重(三十三)、久我通雄(三十五)、花山院家教(三十二)、西園寺公衡(二十九)、近衛兼教(二十六)、大炊御門良宗(三十三)、九条師教(十七)、鷹司冬平(十八)、堀川基俊(三十二)、洞院実泰(二十四)、源通重(三十三)、藤原為世(四十三)、久我通雄(三十五)
となっており、公衡は四番目に登場します。
公衡は四年前の正応元年(1188)に権大納言となっていますが、二十代で権大納言というのは相当早い昇進で、上記十四人の中でも二十代は摂関家の近衛兼教・九条師教・鷹司冬平と洞院実泰・西園寺公衡の五人だけですね。
さて、公衡の項には、
中宮大夫。五月十五日兼右大将。六月廿五日右馬寮御監。閏六月十六日止大将。同日権大納言中宮大夫同辞之。
とあります。
この日付に注目して他の人事を見ると、五月十五日には右大臣・二条兼基が兼任の左大将を辞し、権大納言・花山院家教が左大将を兼任します。
同日、権大納言・三条実重が兼任の右大将を止められ、公衡が右大将となった訳ですが、公衡が右大将を止められた閏六月十六日には花山院家教が左大将から右大将に転じ、三条実重が左大将に任じられています。
このように左右の近衛大将だけを見れば名誉職の盥回しに過ぎないような感じもしますが、公衡が権大納言と中宮大夫を辞し、以後、実に五年間も散位だったというのは本当に異常な人事ですね。
公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます。
なお、「中宮」とは西園寺実兼の娘・鏱子のことですが、その母は中院通成の娘・顕子なので、公衡の七歳下の同母妹です。
西園寺鏱子(永福門院、1271-1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E9%8F%B1%E5%AD%90
鏱子は伏見践祚の翌正応元年(1288)六月二日に入内し、八月二十日に中宮に冊立されますが、中宮大夫となったのは公衡、そして中宮権大夫となったのは母・顕子の甥、中院通重です。
中院通重(1270-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E9%87%8D
正応五年(1292)、公衡が中宮大夫を辞すと中院通重が中宮大夫となり、それは永仁六年(1298)の伏見譲位後に鏱子に女院号宣下があって永福門院となるまで続きますが、同母兄がいるのに母方の従兄・中院通重に交替したということは、公衡と鏱子との関係も悪化したことを窺わせます。
為兼と伏見天皇・鏱子は京極派の和歌の世界で固く結びついており、正応二年(1289)三月に開催された和歌御会で一首を詠んだ後は全く歌壇と縁がなかった公衡には入り込む隙がなかったのかもしれません。
さて、公衡は研究者の間では異常に詳細な日記を残してくれたことで有名ですが、一般的には『徒然草』第83段のエピソードで名前が知られている程度の人だろうと思います。
即ち、
-------
竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりかおはせんなれども、「珍しげなし。一上にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
「亢竜の悔あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。よろづの事、先のつまりたるは、破れに近き道なり。
http://web.archive.org/web/20150502065713/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-83-chikurinin.htm
という話ですが、西園寺家は公経・公相・実兼と三代続いて太政大臣となったので、公衡も当然に太政大臣になれたはずだが、本人が「一上」(左大臣)で十分だと判断して出家してしまった、というのは本当なのか。
公衡が極官の左大臣となったのは延慶二年(1309)三月で、同年六月に辞し、応長元年(1311)八月に出家していますが、延慶元年(1308)に花園天皇が践祚、伏見院政となっているので、公衡を太政大臣にするかどうかの決定権は伏見院にあります。
伏見院としては、かつて為兼と軋轢があり、五年の散位の間に為兼と為兼を贔屓する伏見天皇への恨みを募らせ、幕府に讒言して為兼流罪の原因を作った公衡を決して許さず、関東申次という重職の相応しい地位として左大臣までは認めたものの、太政大臣は許さなかったのではないか、そして公衡も伏見院の対応を見越して太政大臣をあきらめた、というのが実際だったのではなかろうかと私は想像します。