さて、慈光寺本『承久記』の「四方ノ逆輿」の問題に戻ると、『国史大辞典』によれば、「四方輿」は「屋形の前後左右に青簾を懸け垂れただけの吹放しの造作」の輿で、「四方輿」を「急坂・険阻の山路の際」に「棟や柱などを撤去して手輿(たごし)として用い」たものが「坂輿」ですから、「四方輿」の特定状況に限定した用い方が「坂輿」ですね。
そして、「坂輿(さかごし)」は他の史料にいくらでも出て来るのに「逆輿」は慈光寺本だけに出て来る言葉であり、「四方ノ逆輿」は「四方輿」の特定状況に限定した用い方である点で「坂輿」と共通ですから、素直に考えると、慈光寺本の「四方ノ逆輿」は「四方ノ坂輿」を転写する過程で生じた単なる誤記である可能性はけっこう高いと思います。
『新日本古典文学大系43 保元物語 平治物語 承久記』(校注担当は益田宗・久保田淳氏、岩波書店、1992)の「四方ノ逆輿」の脚注には、
-------
進行方向と逆にかく輿。逆馬逆輿は罪人を送る時の作法。「先例なりとて、「御輿さかさまに流すべし」といふ」(とはずがたり四)。
-------
とありますが(p355)、「逆馬」はともかく、「逆輿」が「罪人を送る時の作法」とされる例は朝廷側には存在しないようであり、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)の記述が単なる誤記である「四方ノ逆輿」の解釈に影響を与えた可能性が高そうです。
後鳥羽院は「逆輿」で隠岐に流されたのか?(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6c216879037a93f3989708b69e538359
ま、以上のように、私は慈光寺本『承久記』と『とはずがたり』(&『増鏡』)は全く無関係という身も蓋もない結論に達している訳ですが、仮に「四方ノ逆輿」が誤記でないのであれば、この表現は慈光寺本の作者と制作年代の問題に関わってくることになります。
即ち、「逆輿」は関東で将軍を鎌倉から追放するときの作法であり、その作法を借用すれば後鳥羽院の配流の場面がより劇的になって面白いと考えた人が慈光寺本の作者であって、かつ、慈光寺本の成立年代は、関東で当該作法が確立された時期以降、という話になります。
そして、(その4)での検討の結果、関東での「逆輿」の作法は、早くても建長四年(1252)三月、第五代将軍・九条頼嗣が鎌倉を追放された時が初例となりそうなので、慈光寺本の成立もそれ以降となるはずです。
しかし、この結論は従来の国文学界の理解と異なります。
ま、大晦日も近いので、慈光寺本の作者と制作年代の問題は来年の課題となりますが、この問題は「四方ノ逆輿」を離れてもけっこう面白そうですね。
佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号)には、「日下によれば、『保元物語』、『平治物語』、慈光寺本『承久記』、『平家物語』の原型は一二二〇・三〇年代に成立したという」とあり(p13)、注を見ると、これは日下力氏の『平家物語の誕生』(岩波書店、2001)です。
ネットでは、呉座勇一氏も「慈光寺本『承久記』は『承久記』諸本の中では成立が最も古いと考えられているが、それでも成立は1230~40年頃と推定されており」と書かれていますが、これも多分日下説ですね。
久保田淳氏などはもう少し遅いとしています。
「ついに完結!鎌倉幕府方はいかにして承久の乱を制したのか?」(講談社サイト内)
https://gendai.media/articles/-/103332?page=2
私は『平家物語の誕生』は未読ですが、日下氏の『中世尼僧 愛の果てに 『とはずがたり』の世界』(角川選書、2012)を読んだ感想としては、正直、日下氏は分析の仕方が甘すぎるな、と思っています。
日下氏はおそらく慈光寺本の細かな表現から制作年代を推定されているのでしょうが、こうした手法では、作者が意図的に古くみせようと思っていたら、簡単にだまされてしまいますね。
「有明の月」ストーリーの機能論的分析(その15)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f1c8071a1e7f7a7ba567218ff7d624f5
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます