一応の初歩的な調査の限りでは、どうも「逆輿」という表現は慈光寺本『承久記』にしか存在せず、また、流罪に際して輿を逆さまに寄せる例を記したのは『とはずがたり』が初めてで、『とはずがたり』(とそれを受けた『増鏡』)にしか出て来ない話のようでした。
となると、『とはずがたり』がどこまで信頼できるか、という根本的な問題を検討する必要が生じてきます。
まあ、私は『とはずがたり』は自伝風小説で、あの小川剛生氏すら実在を信じている「有明の月」も架空の人物と考える立場ですが、もちろん私も『とはずがたり』の全てが虚構だと考えている訳ではありません。
「有明の月」は実在の人物なのか。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3127914da2ef6d6d1afc9ce61dbbbaec
むしろ、作者がストーリーの骨格と関係のない細部にこだわり、背景(舞台装置)のリアリティを尊重しているからこそ、全体として、とても嘘八百とは思えないリアルな雰囲気を醸し出しているのだ、と思っています。
とすると、『とはずがたり』巻四の、
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さるほどに、幾ほどの日数も隔たらぬに、鎌倉に事出で来べしとささやく。誰がうへならんといふほどに、将軍都へ上り給ふべしといふほどこそあれ、ただ今御所を出で給ふといふをみれば、いとあやしげなる張輿を対の屋のつまへ寄す。丹後の二郎判官といひしやらん、奉行して渡し奉るところヘ、相模の守の使とて、平二郎左衛門出で来たり。
その後先例なりとて、「御輿さかさまに寄すべし」といふ。またここには未だ御輿だに召さぬさきに、寝殿には小舎人といふ者のいやしげなるが、藁沓はきながら上へのぼりて、御簾引き落しなどするも、いと目もあてられず。
という第七代将軍・惟康親王配流の場面も、後深草院二条が見物する群衆の中に紛れ込んでいたかはともかく、全体としては事実の記録のように感じます。
ただ、京都の貴族である二条にとって「御輿さかさまに寄すべし」という配流の作法が「先例なりとて」(先例だとのことで)と感じられたのですから、この「先例」はあくまで東国武家社会の「先例」だろうと思われます。
とすると、この「先例」はどこまで遡ることができるのか。
『吾妻鏡』には、第六代将軍・宗尊親王、第五代将軍・九条頼嗣の鎌倉追放に際し、「逆輿」の存在もしくは不存在を推定させるような記事はありません。
ただ、第四代将軍で、退位後も「大殿」として鎌倉に残っていた九条頼経が「宮騒動」で鎌倉を追放される際には、『吾妻鏡』寛元四年(1246)六月二十七日条に「入道大納言家渡御于入道越後守時盛佐介第。是可有御上洛御門出之儀也。近習之輩多以供奉云々」、七月一日条に「左親衛被進酒肴等於入道大納言家御旅宿云々」とありますから、少なくとも「逆輿」というような露骨に殺伐とした雰囲気ではありません。
「吾妻鏡入門」(「歴散加藤塾」サイト内)
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-06.htm
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma37-07.htm
ちなみに六月二十七日条には、追放前の九条頼経が「入道越後守時盛佐介第」に移されたとありますが、九条頼嗣の追放に際しても、『吾妻鏡』建長四年(1252)三月二十一日条に「今日。三位中將家出幕府。入御于入道越後守時盛佐介亭」とあるので、こちらは立派な「先例」になっていますね。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma42-03.htm
宗尊親王の場合も、『吾妻鏡』文永三年(1266)七月四日条に「将軍家入御越後入道勝円佐介亭。被用女房輿」と佐介亭に入るのは「先例」ですが、使用しているのは「女房輿」とあるのみで、「逆輿」であったか否かは不明です。
http://adumakagami.web.fc2.com/aduma52b-07.htm
『吾妻鏡』は宗尊親王追放で記事が終わっているので、以後は他の史料を見るしかありませんが、惟康親王の場合、『とはずがたり』で先に引用した部分の少し後に「佐介の谷といふところへまづおはしまして」とあるので、やはり佐介亭に入っていますね。
ということで、九条頼経の時に「先例」が全て揃っていればすっきりしますが、「逆輿」は別扱いの方が良さそうですね。
「越後入道勝圓の佐介の第」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/901723cd1a63e83e035a45d18dddfa9d
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