学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

『河内屋可正旧記』と「後醍醐の天皇」

2017-06-22 | 渡辺浩『東アジアの王権と思想』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2017年 6月22日(木)12時44分21秒

私の日本史に関する知識は鎌倉・南北朝あたりが極端に肥大していて、室町から江戸までは薄く、明治に入って多少は増えるという具合にバランスが悪いものなのですが、今回、天皇号再興関連の勉強を少しして、近世についてもある程度見通しがついたような感じを持てたことは収穫でした。
特に、昨年から何度か断続的に話題にしている「宗教的空白」に関しては、武士のみならず上層農民レベルでも相当早い時期に遡れることが分かって、ちょっと嬉しかったですね。
これは主として若尾政希氏の『「太平記読み」の時代』のおかげです。
同書から少し引用してみます。(平凡社ライブラリー版、p309以下)

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  『河内屋可正旧記』

 「民ハ是国のもと也。本立て末なる。しゐておとしむる事なかれ」(巻一二「雪の譜」)と、『河内屋可正旧記』(原題なし、可正自身は「来由記」と呼ぶ)も、この語を載せている。河内屋可正〔かうちやかしよう〕こと、壺井五兵衛(寛永一三<一六三六>~正徳三<一七一三>)は、河内国石川郡大ヶ塚村(現、大阪府南河内郡河南町)の上層農民(大地主)であり、酒造業を営む商人でもあった。この可正が隠居後、元禄初年(一六八八)から宝永年間(~一七一一)にかけて、子孫らへの教訓として書きためたのが『可正旧記』である。ところで可正はいったいどのようにして「民は国の本」の思想を獲得したのであろうか。
 『可正旧記』は、これまでも民衆思想史研究において取り上げられてきた。安丸良夫氏はこれを「石門心学成立の背景をもっともよく理解させる史料」と位置づけ、「「家」の没落についての危機意識がよびおこす思想形成の方向」は石田梅岩(貞享二<一六八五>~延享一<一七四四>)と「おどろくほど類似」しており、可正の立場を「より徹底して一貫性と原理性を獲得すれば、梅岩の立場となるように思われる」と述べる。具体的には、可正が「天狗、ばけ物、生霊、死霊、地獄、極楽など」を「己が心の妄乱」と見なしたことを挙げて、「「心」の哲学をおしすすめてすべての呪術を否定」する姿勢は、梅岩、二宮尊徳(天明七<一七八七>~安政三<一八五六>)、大原幽学(寛政九<一七九七>~安政五)などの重要な主張の一つでもあったとし、梅岩らの唯心論的通俗道徳形成の先駆として可正をとらえる。また高尾一彦氏は、『可正旧記』から「農村における庶民倫理」のありようを見、可正は「意識的には現状肯定の立場をとりながら」、その発言には「庶民意識の発展がもたらす政治批判意識」の「部分的」「萌芽」を見ることができると結論づけている。
 いうまでもなくこういった研究は、通俗道徳の形成なり庶民倫理の展開といった一つの流れの中に可正を位置づけることに主眼がある。よって可正がいかにして思想(体系的なものから日常の意識までを含めていう)を形成したのか、可正にとって既成の思想はどのようなものであり、可正はそれをどのように展開(あるいは克服)したのかという可正の思想形成には関心がはらわれていない。だが、可正に限らず、ある一つの思想を歴史的に位置づけるには、基礎作業として、その思想がその時代においてどのようにして形成されたかを解明する作業が必須である。こここでは、『可正旧記』に何度も登場する楠正成に着目し、可正の正成像を手がかりとして可正の政治意識を探るとともに、その形成過程を明らかにしていきたい。
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ということで、この後、若尾氏は可正が『理尽鈔』や、『理尽鈔』から更に派生した太平記関連書を幅広く享受していたことを丁寧に論証されています。
若尾氏は同様の問題意識と方法論に拠り、安藤昌益の思想形成過程に『理尽鈔』が存在することを主張されており、私も、ホントかな、と思って少しだけ安藤昌益関係の本を読んでみたのですが、そこまで手を広げると収拾がつかなくなりそうなので、今はやめておくことにしました。
なお、『可正旧記』には次のような記述があるそうです。(p320以下)

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後醍醐の天皇、笠置の皇居に楠正成卿を召せられ、東夷征伐の事、正成を頼ミおぼしめさせらるゝ時、正成の云、一天の君にたのまれ奉りて尸(かばね)を戦場にさらさん事、弓矢取身(とるみ)の面目何事か是にしかん(巻一四「処世訓(二)」)
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ま、『太平記』に「後醍醐天皇」とあるのですから、『太平記』や関連書籍の読者が「後醍醐の天皇」という表現を使うのは当たり前ですね。
近世史の研究者は至る所で「○○天皇」という表現を見ているはずですから、『幕末の天皇』の「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」という記述を見て、藤田氏は変なことを言っているなと思った人も多いと思います。
別に私が特別な発見をした訳ではなく、近世史の初心者である私が気づくようなことは当然に多くの研究者が気づいていて、直接・間接に批判したと思いますが、何で藤田氏は学術文庫版でも特に修正を加えず、未だにこんなことを主張しているのですかね。

藤田覚氏への素朴な疑問
「『後醍醐天皇』などと呼びはじめたのは、たかだか八〇年ほど前からに過ぎない」(by 藤田覚氏)

>筆綾丸さん
>日本と違って王位継承者が多すぎる国の悲喜劇

似たような名前が多すぎて、基本的な事実関係を把握するのも大変です。
イスラム国もそろそろ年貢の納め時が近づいてきたようですね。
ま、たとえ領域支配は終っても、様々な形での暴力の噴出は続くのでしょうが。

BBC:イラク・モスルでISがモスクを爆破 「国家樹立」宣言の場所

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

廃太子に伴う悲喜劇 2017/06/21(水) 17:54:09
http://www.bbc.com/news/world-middle-east-40351578
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%A4%AA%E5%AD%90
対イラン強硬派の王子(31歳)が王太子になりました。廃太子(57歳)は内務大臣の地位も剥奪されてしまったのですね。日本と違って王位継承者が多すぎる国の悲喜劇で、傍系を直系にしたにすぎない、とも言えますが。大きなお世話ながら、廃太子の側近たちは、これからどうするのだろうな。
日本の廃太子では、澁澤龍彦『高丘親王航海記』の影響もあって、高岳親王が馴染み深いのですが、『源氏物語』では、光源氏の愛人六条御息所は廃太子の元妃ですね。

http://www.rfi.fr/moyen-orient/20170621-le-prince-mohammed-ben-salmane-devient-heritier-trone-arabie-saoudite
フランスの国営ラジオ放送では、vice-prince héritier(王位継承順位第2位の副王子)が prince héritier(王太子)になった、という表現をしています。
もしかすると、サウジの法体系は知りませんが、現国王(81歳)は abdication(退位)したいのかもしれませんね(退位の前に禍根は絶っておかなければならない)。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%B3
フランスの王朝時代ならば、prince héritier はドーファン(Dauphin)に相当する地位ですね。
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