学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

0256 桃崎説を超えて。(その21)─「二代后」についての佐伯智広氏の解釈

2025-01-30 | 鈴木小太郎チャンネル2025
第256回配信です。


一、前回配信の補足

資料:五味文彦氏「乱後の政治」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/b474b3322fdc7f881da7795b9e60d7de
資料:永井晋氏「美福門院薨去」〔2025-01-28〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e9e4606ab9924c493de3b0b74391b6d6

五味文彦氏は、

(1)「四 乱後の政治」とあるので、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終了したと扱う。
(2)平治の乱後、「後白河は院政の復活を試みることになり、また二条も親政の継続を望んだことから、二つの勢力は相争うところとなった」。
(3)平治の乱後も「二条のバックには美福門院がいた」。
(4)藤原多子(二代后)の再入内は「二条の立場を固める意図から発したものであって、『平家物語』に見えるような話は多分に脚色されたもの」。
(5)桟敷事件は「後白河が正月六日に八条堀河の藤原顕長の邸宅に御幸した時」に起きた。
(6)平治の乱後、「国政の案件については、院と天皇の双方へ奏聞を行い、前関白の忠通の内覧を経ていた」、「二頭政治が行われ」ていた。

とされる。
永井晋氏も、

①「平治の乱ののち、二条天皇は美福門院の御所八条殿に移り、後白河院は八条堀河の藤原顕長邸に移った」とされるので、平治の乱は平治元年(1159)十二月で終了したと扱う。
②経宗・惟方捕縛の「発端となる事件は、永暦元年正月六日に起きた」。
③経宗・惟方捕縛から三月十一日の配流までの経緯から「後白河院と二条天皇のあいだで、権力闘争が始まっているのは明らかである」。
④「鳥羽院のような強力な主導者をもたない二条天皇親政派は、一枚岩ではない。集団を解体させない力はもっているが、その内部をまとめきれていないところが美福門院の限界」なので、平治の乱後も美福門院は「二条天皇親政派」をまとめようとしている。

とされるので、平治の乱の終了と桟敷事件の発生時については五味氏と共通。
また、平治の乱後も二条天皇と美福門院の関係が良好であったと考える点も共通。
しかし、少なくとも桟敷事件の発生時を平治二年(永暦元年)一月六日とする点は奇妙ではないか。

後白河院は一ヵ月前、十二月九日の三条殿襲撃で従来の生活の拠点を奪われ、内裏の「一本御書所」に幽閉されていた。
そして、同月二十五日、「一本御書所」を脱出し、仁和寺を経て平清盛の六波羅亭に移動。
一ヵ月近い不安定な生活が続いた後、一月六日にやっと近臣・藤原顕長邸に落ち着くことができた。
いきなり桟敷で見物を始めるのは変。
『平治物語』の古態本(九条本)では、「二月廿日比に、院も八条堀川の皇后宮権大夫顕長卿の宿所のさしきへ常に出御ありて、四方の山辺のかすミわたれる夕けふりのけしきを叡覧有て、御慰〔なくさミ〕有けるを」とあって、桟敷事件は経宗・惟方捕縛の直前と考えるのが自然。

資料:佐々木紀一氏「永暦の変と後白河院の動機」(その2)〔2025-01-05〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/91e996dc06a8ab5940397d322dfc4e18


二、「二代后」についての佐伯智広氏の解釈

資料:佐伯智広氏「二条天皇─夭折した正統の皇位継承者」〔2025-01-30〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8d7f2e48b69e586a13acc22cd6697c68

佐伯説へのいくつかの疑問

(1)「二条が成長して政務を執ることが可能となる年齢(およそ二十歳前後)」とあるが、「およそ二十歳前後」の根拠は何か。
(2)「後白河派は、外戚である藤原氏閑院流や、近親である藤原信頼・成親、源師仲(村上源氏)・義朝らであった」とあるが、「本来は後白河の近臣であった信頼・義朝らが、後白河の院御所を襲撃している」のであるから、そもそもこんな人々を「後白河派」とまとめてよいのか。
「信頼・義朝らは、後白河を見限って、二条派に乗り換えを図った」のではなく、平治の乱の前から「後白河派」「二条派」という強固な二つの派閥があって、両者は対立していたとする前提自体が間違いではないか。
(3)佐伯氏は「後白河にとって最大の支持基盤であった外戚の閑院流は、乱の原因に一切関与しておらず無傷であった」などとして「閑院流」を極めて重視するが、「閑院流」はそれほど有力な集団なのか。「閑院流」を味方につけて、何か特別に良いことがあるのか。少なくとも軍事面では何の役にも立たないはず。
(4)「二条にとっての最大の庇護者であった美福門院」とあるが、「二代后」問題の発生以後も美福門院は「最大の庇護者」だったのか。
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