投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2014年 8月29日(金)10時11分10秒
私は近世史に疎くて深谷克己氏の論文はあまり読んでおらず、たまたま深谷氏が「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」などと書いていたのを知って、史的唯物論の理論家・活動家タイプの人なのかな、と思っていたのですが、「『戦後歴史学』を受け継ぐこと」を読むと、多少誤解していたカモ、と感じないでもないですね。
「宗教的要求は階級的要求の前近代的表象」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/30b01514fae81f9d6c95a6335157c7d5
このエッセイの後ろの方には南信濃の郷土史家である平沢清人氏のことが出ていますが、たまたま飯田市には年上の知人が住んでいて、私も時々訪問して地域の雰囲気は一応理解しているので、興味深く読みました。
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長らく記憶から遠ざかっていたが、あらためて思い起こされるという研究者もいる。先だって長野県伊那谷の地方史を研究し、発表し続けた平沢清人氏の没後四十年に際して、その活動歴と歴史学の意義を問い返そうというシンポジウムが「飯田市歴史研究所」の主催で開かれ、私もその報告者の一人として参加した。平沢氏は一九〇四年の生まれで、「戦時下歴史学」「戦後歴史学」を実践的に生きた地方史研究者であった。私は、若い頃百姓一揆研究に打ち込み、幕末の一揆として『日本資本主義発達史講座』(一九三二-三三年)の中で羽仁五郎が論じた信州伊那郡の南山一揆に興味を持ち、それが機縁となって、この一揆について史料発掘を続けていた平沢氏を六〇年代から認識していた。その後『歴史評論』の編集委員として平沢氏と対面して回想録を録音し、誌上に載せる仕事も担当した(「下伊那の農民の中で」同誌236号、一九七〇年四月)。
平沢氏に目を向けるだけでも、多くの研究成果(『近世南信濃農村の研究』一九五一年、『近世入会慣行の成立と展開』一九六七年、『百姓一揆の展開』一九七二年、『近世村落への移行と兵農分離』一九七三年、など)と同時に、戦後社会で近世史研究を志した人たちの生き様が浮かび上がってくる。あらためて思うのは、「在野」の研究者の存在が大きな比重を占めていたということである。平沢氏もその一人で、研究は「信州下伊那地方を中心に」と常にサブタイトルが付けられているように、ごく狭い地域の歴史を微視的に精査するものであった。平沢氏のような「非アカデミズム」研究者が各地に生まれたのが戦後社会である。
それらの人々は、戦前の小作争議に関わっていた者や戦後の文化運動・労働運動・教育運動に加わった者の中から現れた。おおむね居住地域の史料を調査し、抵抗運動や騒動の歴史を中心におき、「革命的伝統」を確かめ、封建遺制克服の民主化の課題に結びつけようとする研究活動であった。こうした地域密着型の闘士的な郷土史家ではなく、羽仁五郎や林基(はやしもとい)や藤間生大(とうませいた)等々の、学界にも知名度の高い「中央」的な歴史家で、かつ「在野」の研究者である者も少なくなく、学生・市民への影響力も大きかった。
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ま、これだけ長く引用しておきながら、なるほど、と思っただけで特に意見もないのですが、最後の「在野」の用法はよく分からないですね。
羽仁五郎(1901-83)は東京帝国大学法学部に入学するも法律学がつまらないので休学してドイツに留学し、帰国後は文学部史学科に入りなおして卒業。そして、ごく短期間ではあるものの史料編纂所にも勤務していた人ですね。
大学で継続的に教職に就いていた訳ではありませんが、それは群馬県桐生市の実家が極めて裕福で働く必要がなかったからで、戦後も横須賀の豪邸に住んで優雅な革命家生活を送っていた人ですね。
また、林基(1914-2010)は語学の達人で、慶大文学部史学科を卒業し、『歴史評論』の編集長等を経て専修大学教授を長く務めた人であり、藤間生大(1913-)は深谷氏と同じく早稲田大学文学部史学科を卒業し、共産党系の団体に勤めた後、熊本かどこかの大学教授になった人ですね。
旧制中学卒の平沢清人氏と異なり、羽仁五郎・林基・藤間生大の三氏ともおよそ学歴の点では「非アカデミズム」とは言いがたいと思いますが、深谷氏はいかなる意味で「在野」という表現を用いているのですかね。
革命的語学力
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/779badc5bafbcac08b7f6b32c5b29177
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