学問空間

「『増鏡』を読む会」、第10回は3月1日(土)、テーマは「二条天皇とは何者か」です。

「一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる」(by 佐藤進一氏)

2021-01-30 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月30日(土)10時49分3秒

中央大学教授の白根靖大氏(1965生)は中世前期が専門で、南北朝期はいささか苦手のようですが、それにしても「建武の新政と陸奥将軍府」はあまり感心できないですね。

https://researchmap.jp/read0180328

この論考は、

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1 鎌倉幕府の滅亡
2 建武の新政と東北
3 建武政権の崩壊と陸奥将軍府
4 南北朝の内乱へ
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と構成されていますが、第一節の冒頭の一行が既に間違っています。
即ち、

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 元弘三年(一三三三)鎌倉幕府より派遣された足利高(尊)氏勢は、畿内の反幕府勢力を追討しに行ったはずだったが、攻撃の矛先を六波羅探題に転じ、探題だった北条氏一族を滅ぼした。同じ年、新田義貞が軍勢を率いて鎌倉を攻め、ついに北条氏嫡流の得宗一族やその家臣である御内人が自刃した。
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とのことですが(p11)、足利尊氏は伯耆・船上山の後醍醐を攻めるために派遣されたのであって、「畿内の反幕府勢力を追討しに行った」のではありません。
『太平記』第九巻第一節「足利殿上洛の事」の冒頭に、

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 先朝船上に御座あつて、討手を差し上せられ、京都を攻めらるる由、六波羅の早馬頻りに打ち、事難儀に及ぶ由、関東に聞こえければ、相模入道、大きに驚いて、「さらば、重ねて大勢を差し上せ、半ばは京都を警固し、宗徒は船上を攻め奉るべし」と評定あつて、名越尾張守を大将として、外様の大名二十人催さる。
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とあり(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p35)、この「宗徒」(主だった軍勢)のうち、「名越尾張守」高家が「大手の大将」となって山陽道から、尊氏が「搦手の大将」となって山陰道からそれぞれ船上山を目指した訳ですね。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その4)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae

『梅松論』にも、

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両大将同時に上洛ありて、四月廿七日同時にまた都を出給ふ。将軍は山陰・丹波・丹後を経て伯耆へ御発向あるべきなり。高家は山陽道・播磨・備前を経て同じく伯耆へ発向せしむ。船上山を攻めらるべき議定有りて下向の所、久我縄手において手合の合戦に大将名越尾張守高家討たるゝ間、当主の軍勢戦に及ばずして悉く都に帰る。

http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou13.html

とあります。
ついで、二行目の「北条氏嫡流の得宗一族やその家臣である御内人が自刃」も、自刃したのは得宗家関係者だけではないので、あまり良い書き方ではないですね。
この後も、何だか古臭い書き方だなあ、と思って第二節に進むと、

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2 建武の新政と東北

 元弘三年(一三三三)、流されていた隠岐を脱出した後醍醐天皇は、六波羅探題の滅亡を聞いて帰京の途につき、幕府も滅んだことを知り京都に入った。そして、「自分が行なう新しいやり方は未来の先例になる」(『梅松論』)という意気込みを持ちながら、強いリーダーシップの下で新たな政治を始めた。当時の中国、宋では皇帝中心の専制政治が行われており、武官よりも重んじられた文官が支配体制を支えていた。後醍醐はこれを理想とし、自らに権力を集中させる体制の構築を目指していたとされている。
 鎌倉幕府が行なっていた武士の所領安堵についても、後醍醐は自らの綸旨(天皇の命令書)で決定しようとした。だが、広範囲にわたる合戦を経た状況で、京都の天皇がすべてを裁くことは非現実的であり、綸旨を求める武士たちが京都に殺到したり、一つの所領に複数の者が安堵の綸旨を得るなど、かえって混乱を招いてしまった。そのため、中央や地方の統治機関を整備し、現実に即した対応をとるようになっていった。
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といった具合で(p14)、2015年の書物にしては佐藤進一氏の影響が強い、というか半世紀前の佐藤進一『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)との違いを見つけるのが難しいほどの古色蒼然ぶりですね。
そして、雑訴決断所の説明などの後、先に「南北朝クラスター向けクイズ 」で紹介した部分となるのですが(p15以下)、ここは白根氏個人だけの単純な勘違いというより、佐藤氏の影響を強く受けた多くの人が導かれるであろう錯覚といえそうです。
「『梅松論』史観」に素直に追従して、元弘三年(1333)が既に「公武水火の世」だとする佐藤説の枠組みだと、「すでに義良─顕家の赴任前(九月?)に征夷大将軍を解任され、また同じころ、かれの発給した令旨を破棄する旨の布告まで出され」(『南北朝の動乱』、p45)ていた護良が同年十月に逮捕されてくれれば、非常にすっきりした流れとなります。
ところが、実際には護良が逮捕されるまでに一年以上の空白の期間があり、その間の護良の動向で確実な史料に裏付けられるのは元弘三年十二月十一日、南禅寺で中国から来た明極楚俊の法話を聴いたことだけです。
ということで、佐藤説は何だかちょっと間の抜けた感じは否めないですね。
佐藤氏は『梅松論』を極めて高く評価していて、「公武水火の世」に関しても、

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 けっきょく、御家人たちは父祖代々の特権身分を失って非御家人と同列となる。そして貴族出身の国司またはその代官(目代)に駆使される。かれらが鎌倉幕府の昔を慕って新政に反発し、他方貴族たちが尊氏勢力の強大を見て、幕府の復活を恐れたありさまを目のあたりに見た一人の歴史家は、この時期を「公武水火の世」と呼んでいる(『梅松論』)
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などと言われるのですが(p35)、実際に『梅松論』を読んでみれば明らかなように、『梅松論』の著者は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めた直後に死去したとするなど、公家社会には全く無知な人で、およそ「歴史家」といえるようなレベルの知識人ではありません。
現代であれば、せいぜいルポルタージュが得意な週刊誌の記者レベルですね。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7
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