学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

資料:棚橋光男氏「今様狂いの前半生」

2025-02-07 | 鈴木小太郎チャンネル2025
『後白河法皇』(講談社選書メチエ、1995)
https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000151368
 
資料:棚橋光男氏「少納言入道信西─黒衣の宰相の書斎を覗く」〔2024-12-27〕
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0f74366cc38f45aaae2d95d22c873861

p84以下
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今様狂いの前半生

 いよいよ後白河論(本論)に入る。
 まず、関係系図を掲げておこう。《後白河王朝》の創設をめざしての精力的な邁進の日々がご理解いただけるであろう。

鳥羽・後白河関係系図(要部)【略】

 雅仁親王(後白河)の践祚は、一一五五年(久寿ニ)七月二十四日。二九歳(満ニ七歳一〇ヵ月)のことだ。その践祚が鳥羽=美福門院=関白忠通の提携によったこと、むしろ崇徳の子重仁親王即位の野望を封殺し、守仁親王(当時一三歳)即位を実現するまでの"ワンポイント・リリーフ"の性格が当初は強かったこと、践祚・即位後の親政の期間は擁立に暗躍した乳父(乳母の夫)信西が政策立案・遂行の全般をリードし、"後白河親政"というよりは、"信西親政"(「信西政権」)の性格が強かったことなどは周知の事実だ(だから、「後白河が信西を重用した」というよりは「信西が後白河を傀儡にして"自己実現"をはかった」といった方が正確だ)。鳥羽=美福門院=関白忠通ラインの策謀も、信西の思惑も、後白河は少なくとも政治的には暗愚で政治的執着が希薄で、御しやすいという判断が基底にあったことは間違いない。
 ともかく白河院政以降、堀河(一〇歳)、鳥羽(五歳)、崇徳(五歳)、近衛(三歳)と幼少の天皇が続いた。二九歳の践祚はそれだけでも異例であった。そして、践祚までの後白河の前半生は、まさしく《今様狂い》の前半生であり、《今様狂い》は践祚・即位後も際限なく続く。
 まず、そのハンパでない VITA MUSICA =音楽的自叙伝『梁塵秘抄』口伝集巻十から。

【以下二字下げ】
そのかみ十余歳の時より今に至るまで、今様を好みて怠る事無し。……四季につけて折を嫌はず、昼は終日〔ひねもす〕に謡ひ暮らし、夜は終夜〔よもすがら〕謡ひ明かさぬ夜は無かりき。夜は明くれど戸蔀〔としとみ〕を上げずして日出づるを忘れ、日高くなるを知らず。その声を止まず。大方夜昼を分かず、日を過し月を送りき。その間、人数多〔あまた〕集めて、舞ひ遊びて謡ふ時もありき。四五人・七八人、男女ありて、今様ばかりなる時もあり。常に在りしものを番におりて、我は夜昼相具して謡ひし時もあり。又、我独り雑芸集をひろげて、四季の今様・法文〔ほうもん〕・早歌〔はやうた〕に至るまで、書きたる次第を謡ひ尽くす折もありき。声を破〔わ〕る事三箇度なり。二度は法の如く謡ひ交はして、声の出づるまで謡ひ出したりき。あまり責めしかば、喉腫〔は〕れて、湯水通ひしも術無かりしかど、構えて謡ひ出しにき……。

 掲載したのは、口伝集の冒頭部分。このあと、「十余歳」、今様の魅力にとりつかれた初心から治承年間(一一七七~一一八一)、五十代の「今」まで、一途な執心が回顧される
 左の系図は、『今様之濫觴』(尊経閣文庫所蔵)に記す師資相承の系譜をリライトしたもの。口伝集では、回想をたどりつつ後白河の真摯な精進が時を追って綴られていく。
 このような後白河にかかっては、『愚管抄』が「鳥羽院失せさせ給ひて後、日本国の乱逆と云ふことはをこりて後、むさ(武者)の世になりにける」とおどろおどろしく書き記した内乱の時代への突入=保元乱も、「鳥羽院崩〔かく〕れさせ給ひて、物騒がしき事ありて、あさましき事出で来て、今様沙汰も無かりしに」という表現になってくるのだ。このような表現と記述に、私は後白河の魔性と狂気を見る。
 口伝集全篇を通じて、今様という芸術の広さと深さが存分に描写されていく。そして次の叙述など、同じ一つの道、芸術を通じてのみ共有することのできる感動が惻々と我々の心を打つ。

【以下二字下げ】
法住寺の広御所にして今様の会あり。小大進が足柄を聞くに、我(後白河)に違はぬ由〔よし〕申す。……人々、「いづらあこ丸がに似たりける。五条がには違がはず」など云ひ合ひたり。「釈迦の御法〔みのり〕は浮木」の歌、「今は当来弥勒」と上ぐる所など、露ばかりも御所(後白河)の御様に違はずと、その座に侍る成親卿……(等)、色代〔しきだい〕かひがひしく、この節〔ふし〕違はぬを賞〔め〕で感ず。広時、「御歌も聞かぬ居中〔いなか〕より上りたるが、欺【ママ】く露違はぬ事の、物の筋あはれなる事」とて流涕するを、人々これを笑ひながら、皆涙を落とす。あこ丸腹立ちて、小大進が背中を強く打ちて、「良かむなる歌、また謡はれよ」と云ふ。皆人憎み合ひたり……。

 今様という芸術のみによって結ばれた人々の、芸道精進の深さの分だけ増幅される愛憎悲喜劇だ。
 口伝集末尾に、後白河は、

【以下二字下げ】
大方、詩を作り和歌を詠み手を書く輩は、書き留めつれば、末の世までも朽つる事無し。声技の悲しきことは、我が身崩〔かく〕れぬる後、留まる事の無きなり……。

と記す。
 一つの芸術をきわめた者のみに許される執心が、傍点部にはこめられている。
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※「傍点部」を太字としました。

参考:「梁塵秘抄口伝集巻第十」(「紅玉薔薇屋敷」サイト内)
http://false.la.coocan.jp/garden/kuden/index10.html

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