学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

イザベラ・バードへの道

2012-04-06 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 6日(金)21時59分57秒

金山(かねやま)町は今年の二月にも行ったのですが、その時は金山小学校の近くにある「イザベラ・バード記念碑」は完全に雪に埋もれていて、その位置すら分かりませんでした。
今日は積もった雪の上にちらりと見えたのですが、雪が深かったので近づくのは無理そうでした。
私は去年の震災直前、アメリカの有名なアウトドアメーカーのスノーシューを3万円も出して購入し、未だに全然使っていないのですが、あ~あ、あれを持って来ればよかったなあ、などとグズグズ考えているうち、雪が割と締まっているようだから、もしかしたら行けるのかな、と思って試しに雪の上に乗ってみたところ、長靴でも何とかなりそうでした。
で、イザベラ・バードへの困難な道を歩み始めた私の頭の中では、もしかしたら雪で隠れた池があったりして、自分がそこにズボッとはまりこんで動けなくなり、そのまま死んでしまったら、金山町の人々は私の安らかな死に顔を見て、ああこの人は何とイザベラ・バードを愛していたのだろうと思ってくれるだろうか、などと妄想が膨らんできました。
ま、結局、池に落ちることも雪にはまることもなく、フツーに記念碑に到達してフツーに写真を撮ってきました。
私が奮闘努力している間に通りかかった人は、変なやつがいるなあ、という目で見ていて、少し恥ずかしかったですね。

ちなみに帰宅後に見つけたリンク先の写真では記念碑は大した高さではありませんが、公園の地面は道路よりかなり高かったので、見かけは相当深く雪が積もっている感じでしたね。

http://www.town.kaneyama.yamagata.jp/kanko/best-view/entry-476.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6323
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ご神木?

2012-04-06 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 6日(金)21時09分21秒

今日はイザベラ・バードゆかりの山形県金山町に行ってきたのですが、山形自動車道を下りて国道13号線を金山町に向かう途中、つい先日の「爆弾低気圧」の影響で天童市の若松寺の杉が倒れたというニュースを思い出して、若松寺にちょっと寄ってみました。
若松寺は行基開創の伝承を持ち、山形県では有名な天台宗の古刹ですね。


倒れた杉のある場所に向かうと何やら行事の準備中で、そのまま暫く待っていると五人の僧侶が登場し、地元の関係者らしき人々も大勢集まって仏事が始まりました。
この倒れた杉の前の仏事はどんな意味があるんですかね。
杉のお葬式なのでしょうか。

帰宅してから検索してみたところ、リンク先の読売新聞記事では本文中は単に「古木」としているのに、写真のキャプションは「強風の影響で倒れた若松寺のご神木」となっていますね。
神社だったら間違いなく「ご神木」ですが、お寺だとこの呼び名が適当なのかも疑問が残ります。
ま、呼び名はともかくとして、そもそも寺の古木というのは仏教理論的にはどのように位置づけられるんですかね。

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無情の暴風…樹齢約1150年の杉を倒す

 山形県内を襲った強風のため、縁結び寺として知られる天童市山元の鈴立山若松寺で、参拝客から「千年杉」として親しまれてきた杉の古木(高さ約31メートル、幹回り約6メートル)が根元から倒れた。
 天童署の発表や若松寺によると、4日午前7時頃、寺の職員が古木が倒れているのを見つけた。樹齢は約1150年で、倒れた古木は、近くにある位牌(いはい)堂の軒先部分に接触。銅板ぶきの屋根の一部が損壊した。
 古木は、クレーン車でつり上げることが困難なため、切断して運び出すという。倒木で参道の一部が崩れたため、同寺では、4日は参拝を中止した。
 若松寺の鈴木純照教務は「これだけの木が倒れてしまったことはさみしい。切断した木を使い、何かを作りたいと考えている」と複雑な表情で話した。
(2012年4月5日11時58分 読売新聞)

仏事の最中は雪は降らなかったのですが、終わると間もなく降り出してきました。
三枚目は元三大師堂です。

※写真
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八か月後の久慈

2012-04-05 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 5日(木)15時40分40秒

3月31日の久慈市沿岸部の様子をアップしました。

「久慈港」
「玉の浦漁港・舟渡海水浴場」
「舟渡漁港・小袖漁港」

下の投稿、訳の分からないタイトルだなと思った人がいるかもしれませんが、「八月の鯨」という神保町の岩波ホールで上映していた古い映画があって、つまらないダジャレのつもりで書きました。

参考:「好奇心いっぱいのばあちゃんブログ」

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八月のくじ(ら)

2012-04-04 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 4日(水)16時30分58秒

去年の8月5日に久慈市を訪問したときの様子をアップしました。
先日訪問した際の様子も近日中にアップします。

「玉の脇漁港・諏訪神社」
「久慈港」
「小袖海岸」
「小袖漁港」
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久慈と鯨

2012-04-04 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 4日(水)16時21分31秒

>筆綾丸さん
茨城県に久慈郡がありますね。
郡といっても袋田の滝で有名な太子町ひとつだけで構成されているようですが。
茨城の久慈は『常陸国風土記』に「古老のいへらく、郡より南近くに小さき丘あり。かたち、くじらに似たり。倭武の天皇、よりて久慈と名付けたまひき」とあるのに由来するそうで、「南北朝期からの郡名としてみられる」岩手の久慈よりずいぶん古いようですね。
ご紹介のサイトは個人ではなく「岩手県政策地域部NPO・文化国際課」が運営している公的なサイトですので、それなりにきちんと調べているのでしょうが、茨城の久慈との関係に言及している説はないんですかね。

国土交通省関東地方整備局日立河川国道事務所

久慈とは直接の関係はありませんが、鹿島神社が福島から岩手までの沿岸に多いことが以前から気になっています。
石巻の日和山にある鹿島御子神社が特に有名ですが、小さい社を入れると相当な数がありますね。

鹿島御子神社

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

amber 2012/04/03(火) 22:25:54
小太郎さん
http://www.bunka.pref.iwate.jp/seikatsu/chimei/data/shimei.html
「久慈」という名称は、日本でも珍しいのでしょうね。
「久慈琥珀」のホームページに、アンバー(AMVER)とありますが、これは愛嬌ですね。
賢治の歌碑中の「水の向ふのかなしみを わづかに甘く咀嚼する」という表現は、巧いなあ、と思いますね。

僭越ながら、
「摂関から排除された原因の一つは、師長が後白河自身に対する謀叛人の息子であり、さらに、配流という重大な瑕疵を有したからで、・・・」
くらいになるのでしょうか。

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大河ドラマの構造

2012-04-03 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 3日(火)18時39分15秒

遊びをせんとや生まれけむ
 戯れせんとや生まれけん
遊ぶ大人の声きけば
 双曲線も交わりぬ


私も大河ドラマを律儀に毎週見ている訳ではないのですが、美川圭氏が怒る事情は理解できます。
例えば得子(松雪泰子)が璋子(檀れい)に対し、多くの貴族の面前で罵倒の限りを尽くしたら、まあ、当然ながら宮廷を揺るがす大問題となり、得子は厳格な身分制社会になじまない人として排除されることになるでしょうが、『平清盛』ではそんな展開にはなりません。
次の回では得子は何事もなかったように登場し、璋子は璋子で「なりこさまあ、とりけして」などと得子にお願いしたりしています。
ひとつの回の中ではそれなりに整合性はありますが、次の回においては従来の経緯は何となく消えていて、また新しい世界が生まれ、そして消えて行く。
これの繰り返しですね。
ただ、私見では、この種の不整合性・非連続性は『平清盛』が新たに生み出したものではなく、民放のドラマはずいぶん前からそうでしたね。
制作する側は個々の回の視聴率を上げるために刺激の強い展開を欲し、他方、テレビドラマの場合は映画と異なり一週間の間隔が空くので、視聴者の側も前回のことはかなり忘れていますから、あまり整合性にはこだわらず、何となく見て何となく納得し、何となく忘れて行くことになります。
そこにやたら粘着質の学者タイプの人が現れて、登場人物の個々の言動を執拗に記録し、年表を作ったりなんかして整合性をチェックすれば、まあ当然ながら、ストーリーが破綻しているという結論が出てきますね。
私はシニカルな人間なので、整合性のないものに整合性を求めても仕方ないんじゃないかな、と思っています。
もともと私は『とはずがたり』がテレビドラマ的な構造を持っているなあと感じていて、ずいぶん前にそんなことを書きました。
松田聖子が三十代前半の時の文章なので、素材は古めかしくなってしまいましたが。
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琥珀と水仙

2012-04-03 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 3日(火)13時05分46秒

>筆綾丸さん
「久慈琥珀博物館」のホームページによれば、宮沢賢治の「残した作品の中には30数ヶ所の”琥珀”の文字が登場」しているそうですね。

あけがたの 琥珀のそらは 凍りしを
 大とかげらの 雲はうかびて


>水仙
水垣久氏の「やまとうた」によると、水仙が日本に渡ってきたのは平安末期、和歌に詠まれるようになったのは近世からだそうですね。
平安末期の根拠までは書かれていませんが、水垣氏のサイトは信頼性が高いので、それなりの学者の見解に則っているんでしょうね。


>句読点の間違い
これがちょっと分からなかったのでレスが遅れたのですが、「後白河が自身に対する謀叛人の息子であり、」でしょうか。
正直、私も句読点の打ち方に迷うことが多く、分かりやすくするために句読点を多くすると文章のリズムが変になってしまったりして、うーむ、と思うことがあります。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

後白河院のリビドー? 2012/04/11(水) 08:41:31
『平清盛と後白河院』の最後に(大原御幸)、次のようにあります(232頁)。

ーーーーーー
平氏を滅ぼしながら、腹心ともいうべき義経を失い、頼朝に権力を制約された後白河が、いかなる思いを抱いて大原に向かったのか。実は彼は頼朝に屈したものの、けっして無常の思いを抱いて建礼門院に和解を求めに行ったわけではない。近年は、『平家物語』諸本の検討を通して、むしろ女院に対する性愛の野心を有していたという理解が有力である。
義経問題で頼朝に後退を余儀なくされたとはいえ、後白河は幽閉されたわけでも、院政を停止されたわけでもない。むしろ頼朝は正統王権と認めた上で、それを支えようとしたのである。後白河は、大して打撃を受けていなかったことになる。その彼は建礼門院に対する思いを遂げることで、最終的に平氏を屈服させるような思いを抱いたのではないか。
(中略)
姿は法体ながら俗臭を漂わせた後白河は、凛然とした建礼門院の言葉の前にひれ伏し、野心を挫かれて涙に暮れて帰洛してゆくのである。
ーーーーーー

「性愛の野心」とか、「思いを遂げる」とか、回りくどい言い方をしていますが、要するに、建礼門院を犯すことが、建礼門院とセックスすることが、なぜ、最終的に平氏を屈服させることになるのか。異次元の世界を垣間見るような超絶的な解釈ですね。ここには、根強い女性蔑視があるように思われなくもない。巻末の参考文献から、誰の珍説なのか、わかるようなものの、元木氏も同じ見解らしく、貧困な想像力には呆れるほかない。
交合の後で、建礼門院が後白河院によろめけば、あるいは、悔し涙に衣の袖でも咬めば、復讐は成功したことになるのか。建礼門院の峻拒で、平氏の面目は保たれたのか。諸本の検討の前に、研究者の精神分析が必要なのかもしれない。まもなく還暦を迎えようというのに、この程度の人間理解しかできないのか、と魂消るばかりですね。新刊本を身銭を切って買うのは、もうやめるべき時か。
「野心を挫かれて涙に暮れて帰洛」する後白河院を、団十郎が演じたら、どうなるか。花道は神々の黄昏のように美しく荘厳され・・・。よ、成田屋! 後世の史家に、かくも馬鹿者扱いされる後白河院が、建礼門院以上に哀れで、惻隠の情を禁じ得ないですね。
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カルボナード島越

2012-04-03 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 4月 3日(火)10時32分1秒

3月31日(土)は朝方あれこれ迷ったものの、何とか天気が持ちそうだったので、当初の予定通り久慈から沿岸を南下して田野畑村まで行ってみました。
去年の8月5日以来、8か月ぶりの訪問ですが、津波の人的被害は比較的少ない地域で、復興も順調に進んでいるようでした。
翌4月1日(日)には三陸鉄道の陸中野田駅と田野畑駅間が再開予定となっており、大規模な復旧工事が完了した箇所ではコンクリートの白さが鮮やかでした。
写真は田野畑駅のひとつ先の島越駅周辺で撮影したもので、こちらは復旧はまだまだです。
一番上が島越駅手前のトンネル入り口で、二番目が同じトンネルの出口を島越駅側から見たものですね。
三番目は二番目の写真の階段に登って海側を見たもので、少し分かりにくいですが、左手前に宮沢賢治の碑があります。
リンク先の2011年4月17日付朝日新聞記事には宮沢賢治の「歌碑」とありますが、正しくは、「発動汽船 二」の詩碑だそうですね。

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三陸鉄道、北リアス線85%復旧 田野畑-陸中野田間が再開

 東日本大震災で被災した第三セクター三陸鉄道(岩手県宮古市)は1日、北リアス線田野畑(岩手県田野畑村)-陸中野田(同県野田村)間(24.3キロ)の運行を再開した。これで田野畑-久慈(久慈市)間(35.4キロ)が開通。既に再開した宮古(宮古市)-小本(同県岩泉町)間(25.1キロ)を加え、北リアス線全線(71.0キロ)のうち85%が復旧した。
 田野畑駅で開かれた記念式典には、関係者約60人が出席。三鉄の望月正彦社長が「住民の生活の足だけではなく、全国の観光客のために安全運行に努めたい」とあいさつした。
 駅構内では赤、青、白3色が特徴の車両の前でテープカットが行われ、午前9時11分に久慈へ向けて出発。この日を待ちわびた約100人の住民らは大きな拍手や万歳三唱で運行再開を祝った。
 出発の合図をした安全統括管理者の金野淳一運行本部長は「感無量。全線開通に向けたステップが踏めた」と話した。
 三鉄によると、震災前の観光客は年間約8万人が利用し、このうち田野畑-久慈間は約6万人が乗車。観光産業の起爆剤としても期待が高まる。
 三鉄は2014年4月までに全線を復旧させる計画。13年4月に南リアス線盛(大船渡市)-吉浜(同)間(21.6キロ)、14年4月には北リアス線小本-田野畑間(10.5キロ)と南リアス線吉浜-釜石(釜石市)間(15.0キロ)をそれぞれ再開する。
(『河北新報』2012年4月2日)

三陸鉄道ホームページ、島越駅(愛称「カルボナード」)

『朝日新聞』2011年4月17日
「津波ニモマケズ 全壊の島越駅、賢治の歌碑だけ残る」

「イーハトーブ・ガーデン」

※写真
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