学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「「建武政権・南朝は異常な政権」という思い込みから自由になるべき」(by 呉座勇一氏)

2021-01-23 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月23日(土)12時21分12秒

南北朝期の研究も佐藤進一氏(1916-2017)や永原慶二氏(1922-2004)の世代からは相当に様変わりしていて、中先代の乱が勃発するまでの後醍醐と尊氏の関係はそれほど悪くはなかった、という見方が今ではむしろ多数派でしょうね。
『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)の編者である呉座勇一氏も、「はじめに─建武政権・南朝の実像を見極める」において、戦前の研究に触れた後、次のように書かれています。(p7以下)

-------
 戦後歴史学は南朝を正統とする歴史観を否定し、北朝と南朝を客観的かつ公平に研究しようとした。もちろん中立公正な研究姿勢は正しいが、これが南朝研究の退潮につながった。
【中略】
 加えて南朝正統史観の衰亡にともない、"負け組"である南朝、そして南朝の前提である建武政権への評価は一転して厳しいものになっていった。戦前以来の公武対立史観と戦後歴史学の基調である階級闘争史観が結びついて、復古的な公家と進歩的な武家が対立する図式が強調され、「建武政権・南朝は、武士の世という現実を理解せず、武士を冷遇したから滅びた」という評価が浸透した。
 恩賞目当てに打算的に動く武士たちを非難し、天皇への忠義を唱えた公家の北畠親房は、南朝の守旧性の象徴として批判的に言及された(本書の大藪海論考を参照)。足利尊氏が建武政権から離反した原因も、天皇親政にこだわる後醍醐天皇と幕府再興を求める足利尊氏との政権構想の対立に求められた。
 建武政権・南朝は時代の変化に対応できずに滅びたと切り捨てる通説と異なり、佐藤進一や網野善彦は、後醍醐天皇の政治の革新性を評価した。だが彼らも、後醍醐が目指した理想は当時の社会の現実から遊離したものであったために新政は挫折した、と論じている。
 佐藤は後醍醐天皇を観念的と批判し、網野にいたっては「ヒットラーの如き人物像」(『異形の王権』平凡社ライブラリー)と論評した。すなわち、建武政権を非現実的な政権と捉え、政権崩壊の責任を、後醍醐の異常な性格に帰する点では通説と変わらない(本書の亀田俊和論考を参照)。
【中略】
 たしかに後世の人間から見れば、武家政権こそが中近世の"正常"な支配権力であり、建武政権や南朝のような天皇・公家優位の権力機構には、もともと無理があったように映る。しかしながら、同時代人もそのように考えていたかは疑問がある。
 実際、最近の研究によれば、足利尊氏は建武政権内で厚遇され、後醍醐天皇とも良好な関係を築いており、主体的に武家政権の樹立を志向していたとは考えられない(本書の細川重男論考を参照)。「建武政権・南朝は異常な政権」という思い込みから自由になるべきだろう。
-------

ということで、呉座氏の言われる「最近の研究」も、主として吉原弘道氏の2002年の論文と清水克行氏の著書でしょうね。
ところで、「建武政権・南朝は、武士の世という現実を理解せず、武士を冷遇したから滅びた」という戦後歴史学のいわば「保守本流」の歴史観は、実は『太平記』の歴史観と瓜二つ、全く同じですね。
従って、戦後歴史学は『太平記』と極めて親和的です。
この点、呉座氏も、

-------
 しかし結局のところ、戦後歴史学も知らず知らずのうちに『太平記』の歴史観に影響されてきたといえよう(本書の谷口雄太論考を参照)。一例を挙げれば、建武政権の恩賞配分が不公平で武士たちが不満を持ったという通説的理解も、『太平記』の記述に依拠しているのである。
-------

と言われています。(p11)
さて、最近の学説は「足利尊氏は建武政権内で厚遇され、後醍醐天皇とも良好な関係を築いており、主体的に武家政権の樹立を志向していたとは考えられない」という認識で概ね一致しているようですが、護良親王の位置づけについてはどうなのか。
私の見るところ、後醍醐と護良との関係については、殆どの研究者が「『太平記』史観」の影響から脱しておらず、脱出の可能性も見えていないように思われます。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37968ec2d22b9aaae94c672afd446770
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606
「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
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「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」(by 細川重男氏)

2021-01-22 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月22日(金)13時17分42秒

細川重男氏は尊氏を「支離滅裂」と評されますが、別に佐藤進一氏のように、尊氏が精神的な疾患を患っていた、などと断じている訳ではないですね。
細川氏は清水克行氏の「八方美人で投げ出し屋」という評価に同意された上で、「こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい」との結論を出されているので、尊氏を「主体性のない男」と想定されているようです。
「主体性のない男」などと言っても若い人には何のことか分からないでしょうが、青島幸男が作ってクレージーキャッツの植木等や谷啓が演じたコントシリーズですね。

「青島だあ。・・・・・青島幸男さん」(『gary 夢見人のお絵描きコラム』)
http://brick861.blog.fc2.com/blog-entry-214.html

ま、私には尊氏が「主体性のない男」とは思えないのですが、細川氏の論考の後半に入ると、細川氏の想定する尊氏像と私の考える尊氏像とは意外と近いのではないか、という感じも受けました。
小見出しで後ろから三番目の「建武政権で尊氏は、冷遇されたのか?」を少し引用します。(p102以下)

-------
 元弘三年(一三三六)六月に後醍醐天皇は帰京し、建武政権が始動した。
 尊氏は同年中に従三位に叙し、鎮守府将軍・左兵衛督・武蔵守に任官。翌建武元年には正三位・参議となる。つまり尊氏は公卿(従三位以上の上級貴族)となったのであり、鎌倉時代には夢想もできなかった立身を遂げた。
 では権限はどうか。従来は『梅松論』の「尊氏なし」という記述などから、足利尊氏はその抜きんでた実力ゆえに後醍醐から警戒され、多くの恩賞を与えられながらも政権から疎外されたと考えられてきた。
 この冷遇を尊氏離反の原因と考える説もあった。だが近年の研究により、尊氏は全国武士に対する軍事指揮権を与えられ、後醍醐の「侍大将」ともいうべき地位にあったことが明らかにされた(本書収録の花田論考を参照)。
 後醍醐は武士たちを卑しい「戎夷」(獣のような野蛮人。後醍醐はかつて鎌倉幕府をこの言葉で呼び、「天下管領しかるべからず」〈天下を支配するなど、とんでもない〉と言ってのけている。『花園天皇日記』正中元年〈一三二四〉十一月十四日条)と見なしており、後醍醐にとって尊氏は、いわば駒の一つであった。けれども、後醍醐が武士たちの中で尊氏を最も厚遇したことは確かであり、尊氏からすれば皇恩は身に余るほどだった。
 建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか。だが、周知のごとく後醍醐は失政を重ね、世は混乱に陥る。約三年の建武政権期(一三三三~三六年)に北条与党の乱を含めた反乱が二十五件に及ぶことは、混乱の深刻さを示して余りある。
-------

「『梅松論』の「尊氏なし」という記述」は建武の新政が始まったばかりの元弘三年(1333)の話として出て来ます。

現代語訳『梅松論』(『芝蘭堂』サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html

また、細川氏の言われる「近年の研究」とは、主として吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場─元弘の乱での動向と戦後処理を中心として」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)ですね。
さて、私は細川氏の「建武政権が安泰であれば、尊氏は後醍醐の「侍大将」に満足していたのではなかろうか」との見方に同意できるように感じたのですが、ただ、「侍大将」という表現はあまりに曖昧です。
吉原論文を改めて確認してみたところ、吉原氏は、「鎮守府将軍としての全国規模での軍事的権限」、「軍事部門の責任者として政権内に位置づけられた」、「尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた」などと言われていますが、「侍大将」という表現は使われていません。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)(その16)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/989850646f5823b76c039003fdb62205
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9b332242463f314bc38b81ff3df51460

「侍大将」がどこから来たのかというと、これは清水克行氏の用語ですね。
清水氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、「尊氏なし」を検討された後、

-------
 だとすれば、この間の経緯から浮かび上がる尊氏像は、"武家の棟梁"としてのプライドのもと、新たな幕府を開くために野心をむき出しにした人物というよりは、あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとりといったところだろうか。不屈の闘志を抱き、理想実現のためには手段を選ばない後醍醐とは、およそ対照的な人物といえるだろう。当初の尊氏は、あくまで後醍醐の政権に寄り添い、それを支える役割に徹していたといえる。
-------

と書かれています。(p50)
ま、これでもあまり学問的とはいえない表現であることに変わりはありませんが、細川氏が清水氏と同じ意味で「侍大将」を用いて、尊氏を「あくまで後醍醐の"侍大将"として忠勤に励む実直な命令代行者のひとり」と把握されているのであれば、私とは相当に見方が異なることになります。
ただ、「侍大将」はあくまでも比喩的表現であり、あまりこだわっても仕方のない話なので、後で清水著に即して、清水氏の見解そのものの問題点を検討することにしたいと思います。
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「支離滅裂である」(by 細川重男氏)

2021-01-21 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月21日(木)20時36分39秒

歌人としての尊氏を紹介する前に、後醍醐と尊氏の関係について、現在の学説の状況を確認しておきます。
呉座勇一氏編『南朝研究の最前線』(洋泉社、2016)は、そのタイトル通り近時の学説の動向を概観するのに便利なので、同書から細川重男氏の論考「足利尊氏は建武政権に不満だったのか?」を少し引用します。

-------
『南朝研究の最前線 ここまでわかった「建武政権」から後南朝まで』

近年、急速に進展した研究から、〈建武政権・南朝は武士を優遇していた〉、〈室町幕府は「南朝の合体」以後も"南朝の影"に怯え続けた〉など様々なことがわかってきた。一次史料を駆使し、南朝=特異で非現実的な政権という定説を覆す。

細川氏の論考は、

-------
尊氏離反の過程
反逆の動機
鎌倉幕府・鎌倉時代の武家社会での位置づけ
足利氏は、なぜ家格が高いか?
足利家における尊氏の立場
「足利氏源氏嫡流説」と「"源氏将軍観"高揚説」
鎌倉幕府滅亡時の尊氏の動向とその背景
建武政権で尊氏は、冷遇されたのか?
尊氏は、なぜ征夷大将軍を望んだのか?
武士たちが尊氏を「頼朝の再来」にした
-------

と構成されていますが、「反逆の動機」の冒頭部分を引用します。(p86以下)

-------
反逆の動機

 では、足利尊氏はなぜ反旗を翻したのか。一般的には、尊氏に天下取りの野望があったからと言われている。
 尊氏の祖父である家時(一二六〇~八四)は、「七代後の子孫に生まれ変わって天下を取る」という祖先源義家(一〇三九~一一〇六)の置文が足利氏に伝えられ、自身がその七代目に当たりながら天下を取れないことを嘆き、「わが命を縮め、三代の中に天下を取らせたまえ」と八幡神に祈願して自刃し、尊氏・直義兄弟は、家時の願文(神仏への祈願状)を目にしたという(『難太平記』)。
 この逸話が正しければ、尊氏は源氏嫡流(嫡流とは本家のこと)の誇りを持っており、天下を取るために後醍醐に反逆したということになろう。
 だが、南北朝時代の軍記物『梅松論』を読むかぎり、離反にいたる尊氏の行動はとても計画的なものとは思えない。まず中先代の乱の勃発を知った尊氏は、「直義が無勢で時行軍を防ぐ知略もなく東海道を引き退いた」と聞いて、東下を何度も後醍醐に願ったが許されず、しかたなく勅許の無いまま出陣したという。
 尊氏は「私にあらず、天下の御為」と言っているが、この様子からすると尊氏出陣の第一の理由は、直義救援であったようである。
 次に、後醍醐の帰京命令に従わなかったことについては、勅使(天皇の使者)の中院具光に対し尊氏は「すぐ京都に参上します」と答えている。ところが、直義に「運良く大敵の中から逃れてきたのだから、関東にいるべきです」、つまり「京都に帰ったら殺されますよ」と諫められると、あっさり帰洛をやめている。
 そして、後醍醐の命を受けた新田義貞が鎌倉に迫ると、尊氏は「もうナニもかもイヤだ!」とばかりに、浄光明寺に籠ってしまった。だが、兄に代わって出陣した直義の苦戦を知らされると、「直義が死んだら、自分が生きている意味は無い!」と叫んで出陣し、義貞を撃破したのである。
 支離滅裂である。弟思いは美徳であろうが、どのような結果をもたらすかを深く考えずに行動し、これまた深く考えずに周囲の意見に流されている。清水克行氏は尊氏を「八方美人で投げ出し屋」と評している(清水:二〇一三)が、まったくそのとおりである。こうなると、尊氏の離反は、尊氏自身の決断なのか、はなはだ疑わしい。
-------

細川氏の見解は、「南北朝時代の軍記物『梅松論』を読むかぎり」とあるように、ほぼ全面的に『梅松論』に依拠していますが、たしかに『梅松論』を素直に読むと、尊氏の行動が「支離滅裂」のようにも見えます。


ただ、細川氏を含め、歴史学の研究者が殆ど言及しない歌壇の状況を見ると、ちょうど中先代の乱の直後、まだまだ軍事面で極めて慌ただしい時期に、後醍醐と尊氏は「建武二年内裏千首」をめぐって、何だか随分のんびりとしたやりとりをしています。
そこから伺われる尊氏の精神状態はおよそ「支離滅裂」とは言い難く、極めて平静なように思われます。
このギャップをどう考えたらよいのか。
仮に歌壇から伺われる尊氏こそが実態に近いと考えると、『梅松論』のプロパガンダとしての性格を疑う必要性がありそうです。
従来から『梅松論』は足利家寄りの歴史書と言われてきましたが、私は、より正確には『梅松論』は「足利直義史観」に基づく歴史書ではないかと考えていて、そこに描かれた尊氏は、あくまでも直義派から見た尊氏像ではないかと思っています。
この点は、また後で検討します。
なお、細川氏は清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)に描かれた尊氏像を「まったくそのとおりである」と高く評価されていますが、私は清水氏の見解には全然賛成できません。
私はもともと『足利尊氏と関東』に極めて懐疑的だったのですが、「新年のご挨拶(その1) 」に書いたように、佐藤進一氏によって矮小化された尊氏像が網野善彦氏と吉原弘道氏によって是正される可能性が生まれたにもかかわらず、一見すると吉原氏の尊氏像を受け継ぐような姿勢を示しながら、実際には佐藤氏によって矮小化された尊氏像を維持・再生産することに貢献したのが清水克行氏ではないか、と考えています。
この点も、清水著に即して、後で検討します。

新年のご挨拶(その1)
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「尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している」(by 亀田俊和氏)

2021-01-21 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月21日(木)12時27分33秒

私は後醍醐と尊氏の人間関係の核心は和歌の世界に鮮明に現れていると考えていますが、歴史学研究者には歌人としての尊氏を理解していないという共通の欠点があるのではないかと感じています。
もちろん和歌の世界で政治の動きを全て説明できるはずもありませんが、中先代の乱の直後、「建武二年内裏千首」をめぐって交わされた二人のやりとりを見ると、後醍醐と尊氏の間には、本当に深い部分で信頼関係があったことが伺われます。
そして、こうした二人の信頼関係が歌人としての活動に限られず、政治の世界における公武協調体制を現実に基礎づけていたと仮定すると、従来奇妙に思われていたいくつかの点が説明可能となるのではないかと思われます。
例えば尊氏が後醍醐のために建立した天龍寺ですが、尊氏は一体どのような資格で天龍寺を建立したのか。

「世界遺産 臨済宗天龍寺派大本山 天龍寺」
http://www.tenryuji.com/

尊氏は後醍醐に対する反逆者ですから、義務教育レベルの日本史の知識を持った一般的な観光客が天龍寺を訪れた場合、天龍寺の伽藍のあまりの立派さに驚いた後に、何でこんな寺を反逆者の尊氏が建てたのだろう、という素朴な疑問を抱くはずです。
また、日本史の専門研究者であっても、例えば亀田俊和氏は『足利直義 下知、件のごとし』(ミネルヴァ書房、2016)において、天龍寺造営がいかに困難な事業であったかを縷々説明された後で、

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 全盛期の天龍寺は、壮大な伽藍を誇る寺院であった。何度も被災して創建当初の姿は失われたが、それでも現代世界遺産に指定されているほどである。後醍醐の怨霊鎮魂という主目的以上に、尊氏がこの寺の建立にかけた情熱は常軌を逸している。
-------

と書かれています。(p99)
尊氏個人が後醍醐個人に対して極めて好意的な私的感情を抱いていたことは従来の研究で明らかにされていますが、それだけだったら幕府関係者は、幕府財政に尋常ならざる影響を及ぼした、現代人から見ても「常軌を逸している」としか思えない天龍寺建立のための莫大な建造費負担を納得できたのか。
天龍寺の建立は、尊氏がまるで後醍醐の正統な後継者であるかのような振舞いですから、南朝側が極めて不快に思ったのは当然として、尊氏に擁立された北朝側にとっても、単に不快であるだけではなく、自らの正統性を覆されかねない極めて危険な行為であって、深刻な懸念を生んだはずです。
また、当初は寺号が暦応年号にちなんで「霊亀山暦応資聖禅寺」と予定されていたため、叡山その他の寺院勢力との間に、強訴を伴う強烈な抵抗を生んだことも周知の事実です。
天龍寺のようなヘンテコな寺を建てなければ、室町幕府は出発点において無駄な軋轢を避けることができ、財政的にも順調なスタートを切って、鎌倉幕府並みの長期安定政権を確立できたかもしれません。
しかし、様々なマイナス要因、不安定要因を押し切って、結局のところ天龍寺の建立が成し遂げられたのは何故なのか。
それは、尊氏による天龍寺建立に尊氏個人の後醍醐に対する私的感情を超えた、幕府関係者が納得できるだけの何らかの公的な正統性があったからではないかと思います。
そして、そうした正統性の淵源の可能性を探って行くと、仮に建武政権が決して後醍醐の独裁体制ではなく、尊氏を不可欠な、余人をもって代え難いパートナーとする公武協調体制だったとすれば、尊氏が後醍醐の後継者として天龍寺を建立しても、それは多くの人がけっこう納得できる正統性を持った行為と受け取られたのではないかと思います。
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永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その5)

2021-01-20 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月20日(水)11時55分1秒

続きです。(p43以下)

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政権崩壊への道

 「中先代の乱」とよぶこの事件の勃発にたいし、後醍醐は直属の軍事力をもっているわけではなかったから、結局、尊氏に頼るほかない。尊氏は、直義救援・鎌倉奪還を目指し、出陣に際し、後醍醐に征夷大将軍への補任を求めた。尊氏としてはかねての願望実現の好機であったが、後醍醐はがんとして許さなかった。政権の命運がかかった危機のなかでも後醍醐は頑固であったが、認めればそのまま足利の幕府再建に連なっていくことも目に見えていた。
 尊氏は結局、「官軍」としての名を得ることもなく出陣したが、在京の武士はほとんどこれに従った。後醍醐はそのあとやむなく尊氏を「征東将軍」に任じたが、手際としてははなはだ拙劣だった。尊氏は途中直義軍と合流し、たちまち鎌倉を奪還した。北条時行の鎌倉掌握はわずか二〇日余りで終わった。
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尊氏が「出陣に際し、後醍醐に征夷大将軍への補任を求めた」か、尊氏が「かねての願望」として征夷大将軍を狙っていたか、について私は極めて懐疑的です。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード

ただ、尊氏が「出陣に際し、後醍醐に征夷大将軍への補任を求めた」話は、軍事情勢については信頼性が高い『梅松論』に登場しないものの、『神皇正統記』には、

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高氏は申うけて東国にむかひけるが、征夷将軍ならびに諸国の総追捕使を望けれど、征東将軍になされて、尽〔ことごと〕くはゆるされず。程なく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀叛をおこすよし聞えしが、十一月十日あまりにや、義貞を追罰すべきよし奏したてまつり、すなはち討手のぼりければ、京中騒動す。【後略】
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とあって(岩佐正校注『神皇正統記』、岩波文庫、p184)、これをどう考えるかという問題が生じます。
尊氏が東下した時点では北畠親房は遠く陸奥にいたので、私は親房は京都情勢をリアルタイムで詳しく知っていた訳ではなく、後から得た不正確な情報を『神皇正統記』に記したものと考えていますが、この点は改めて検討するつもりです。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その5)
『梅松論』現代語訳(『芝蘭堂』サイト内)

さて、永原著の続きです。

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 勝利をにぎった尊氏は、鎌倉で勲功を立てた武士たちの行賞を開始した。近代の統一軍隊とちがって、武士たちは自分の判断・意志に従い、恩賞を求めて味方してくるのだから、大将軍としては早くそれにこたえないわけにはゆかない。だが後醍醐は、行賞権をみずから一手ににぎって専断するという原則に立っていたから、この尊氏の行賞を認めようとせず、尊氏を従二位にのぼらせるとだけ伝えるとともに、すぐ京都に帰るように厳命した。
 ここが歴史の岐路であった。後醍醐は主従制にもとづく武士の行動原理をまったく理解しておらず、相変わらず行賞の専断を主張して、尊氏を決定的に追いつめることとなった。それでも尊氏は後醍醐の命令に応じて帰京しようとしたが、弟の直義は強く反対した。直義は京都に帰ることが、敵の包囲に取りこめられるのと同然であることを知っていた。結局尊氏はこれに従い、鎌倉に腰をすえた。
 そして一一月に入ると、直義は「軍勢催促」状を発して新田義貞を討つための兵を諸国に徴募し、尊氏も義貞誅罰を上奏、事実上の反乱姿勢を明らかにした。後醍醐はこれに対し義貞の軍を東下させ、同時に尊氏・直義の官を剥奪、建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた後醍醐と尊氏の対立は、ここでついに公然たる敵対関係に入った。
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『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』という僅か334ページの一般書で、永原氏がいささかバランスを失しているのではないかと思われほど詳しく中先代の乱を描くのは、まさに「ここが歴史の岐路」だと認識されているからですね。
永原氏が説くところの「後醍醐は主従制にもとづく武士の行動原理をまったく理解しておらず」という認識は、かつては不動の定説でしたが、最近の研究ではずいぶん様相が変わってきているようです。
さて、私が長々と永原氏の見解を引用してきたのは、最後の一文の「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた後醍醐と尊氏の対立」という表現に注目したからです。
私は『太平記』の征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードをいずれも創作と考えますが、では、『太平記』が、建武の新政の入口と出口という重要なポイントに、こうした創作エピソードを置いた目的は何か。
私はそれを、建武の新政において、後醍醐と尊氏は最初から最期まで対立していた、「公家一統」などというのは出発点から極めて無理の多い体制であって、所詮は短期間で崩壊する運命だったのだ、という歴史観を広めるためだったと考えます。
永原氏は、このような「『太平記』史観」のプロパガンダを最も素直に受け入れた研究者の一人と思われますが、では、このようなプロパガンダにより、どのような歴史の実像が消されてしまったのか。
私が考える建武新政期の実像は永原氏と正反対で、後醍醐と尊氏は最初から全く対立しておらず、後醍醐の独裁どころか実際には後醍醐と尊氏の共同統治といってもよい公武協調体制だった、しかし尊氏は権勢を誇らず、極めて控えめな立場で後醍醐の理想の実現に実務的に尽力していた、というものです。
「建武新政以来二年半にわたってくすぶりつづけてきた」のは、むしろ足利家内部の尊氏派(公武協調派)と直義派(武家独立派)の対立であって、中先代の乱をきっかけに尊氏派が直義派の説得に負けて、足利家が武家独立派で一本化された、と私は考えます。
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードは、建武新政期におけるこうした足利家内部の対立を覆い隠すために置かれたものではないですかね。
このように考えると、従来、極めて難解で謎めいているように思われてきた足利尊氏の人物像、すなわち佐藤進一氏によって精神的な疾患を抱えているのではないか、などとさえ言われてきた足利尊氏の人物像が整合的に把握できるように思われます。

>筆綾丸さん
>鴨鍋に 入れるなボクは カモノハシ

覚えていてくださって光栄です。
ブログの方で検索しても出て来ないので、ずいぶん前の投稿になりますね。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「大鍋の罅もとどろに寄する湯の 割れて砕けて裂けて散る鴨」 2021/01/19(火) 14:43:25
小太郎さん
「良いカモだったカモ」
太平記の中の farce (茶番狂言)を史実と受け取ってしまう愚直な実証主義的歴史研究者の言説をみると、ゆくりなくも、
鴨鍋に 入れるなボクは カモノハシ
という名句を思い出しますね。
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永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その4)

2021-01-19 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月19日(火)10時48分16秒

湯殿での暗殺という『太平記』の創作のアイディアは、修善寺に幽閉された源頼家が入浴中に殺された事例を参考にしているのでしょうね。

源頼家(1182-1204)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%B6

また、床下に生け花の剣山のように刀を並べるという素晴らしい暗殺装置のアイディアは、時代はずっと下りますが、「宇都宮釣天井事件」のヒントになっているような感じもします。

宇都宮城釣天井事件
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E9%87%A3%E5%A4%A9%E4%BA%95%E4%BA%8B%E4%BB%B6

ま、いずれにせよ、この殺害方法は『太平記』の創作であることは間違いなくて、本当に後醍醐を殺したかったら、源頼家の事例、あるいは比企氏の乱で北条時政が比企能員を殺した事例と同様に、屈強の武士数人に命じて襲撃させれば良いだけの話ですね。
北山殿の主人である西園寺公宗と公宗に匿われた北条泰家が共謀すれば、その程度の手配は簡単で、わざわざヘンテコな建築工事をする必要性は皆無です。
『太平記』の読者・聴衆も公宗の殺害計画を笑い話として受け取ったでしょうし、それは直義毒殺についても同様であったかもしれません。
もちろん創作のレベルには「五十歩百歩」程度の違いはありますから、直義毒殺については真面目に受け取った人もそれなりにいたかもしれませんが、またまた例の『太平記』の作り話かと苦笑した人は多かったでしょうし、語り手の話術次第では爆笑した聴衆がいても不思議ではありません。
南北朝時代を現実に生きた「民衆」に比べると、現代の生真面目な実証主義の歴史研究者たち、特に「科学運動」や「民衆史研究」が大好きな左翼インテリの歴史研究者たちは、『太平記』の作者にとって、どんな作り話にも感動してくれる理想的な読者・聴衆であり、良いカモだったカモしれないですね。
ところで、「北山殿御陰謀の事」は、とにかくその分量が膨大であることが大きな特徴で、何で『太平記』の作者はこれほど詳細に西園寺家、特に「北の御方」日野名子とその所生の男子(西園寺実俊)を描くのかが不思議です。
『太平記』の「北山殿御陰謀の事」と日野名子の『竹向きが記』を合わせ読むと、この女性に起きた悲劇に私のようなすれっからしの読者もそれなりに感動するのですが、ただ、日野家は、鎌倉時代に北条家に密着して繁栄した西園寺家に取って代わるように、室町時代に足利家に密着して栄華を極めた家ですから、この二つの感動ストーリーは日野家による西園寺家の乗っ取りとその正当化を描いたようにも読めます。
いわば日野家が「日野神話」を『太平記』に盛り込んだカモしれないので、この点は『太平記』の成立過程を検討する際に、改めて論じたいと思います。

岩佐美代子『竹むきが記全注釈』(笠間書院)
https://kasamashoin.jp/2010/12/post_1617.html

さて、永原慶二氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』に戻ります。
「京都には高時の弟泰家が逃亡先の陸奥から潜入して公宗のもとにかくまわれていた。信濃には高時の遺児時行が諏訪氏の保護を受けてひそんでいた。北条一門の名越時兼も北国方面でひそかに蜂起の時期を待っていた」の続きです。(p43)

-------
 この恐るべき謀反計画を、幸いにも内部からの密告で先制できた後醍醐は、主謀者の逮捕と同時に、持明院統の上皇後伏見・花園・光厳を京極殿に移して閉じ込め、事態に備えた。果たして、その翌七月、北条時行が信濃で挙兵、鎌倉に向かって進撃を開始した。勢いは意外に強く、たちまち武蔵に進出した。鎌倉を守る足利直義は、危機と見て幽閉中の護良を殺害し、急遽武蔵に出陣した。しかし攻める側は強く、直義方は武蔵各地で連敗、時行はたちまち鎌倉に突入、直義は奉じていた成良や尊氏の子義詮をともなって東海道を西走、三河に逃れた。
-------

うーむ。
「この恐るべき謀反計画を、幸いにも内部からの密告で先制できた後醍醐」とありますが、この「幸いにも」は、「戦後歴史学」の重鎮であり、歴史学研究会の指導者であり、岩波ブックレット『皇国史観』(岩波書店、1983)の著者でもあった永原慶二氏のご発言としては、さすがにちょっとまずいんじゃないですかね。
後醍醐が勝とうが「恐るべき謀反計画」の立案者である西園寺公宗が勝とうが、それは別に現代の歴史研究者には関係のない話で、「幸いにも」と後醍醐側に加担するのは言語道断ではないか、などと歴史学研究会の若手から突き上げられなかったのだろうか、と心配になるほどです。
まあ、歴史学研究会に縁のない私のような者があれこれいうのは大きなお世話でしょうが。

-------
『岩波ブックレット20 皇国史観』
コウコクシカン――戦前の日本を固く縛ったこの言葉の意味を正しく語りうる人はどれだけいようか.若い人々は,この言葉のもとに何が行なわれたか知っているだろうか.歴史の曲り角に立つ今,改めてこのことが問われている.

https://www.iwanami.co.jp/book/b253560.html

「歴史学研究会幕府」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/42750aab1ea3f4ab74dcc230fe099987
「歴研幕府」の「地頭職」補任権
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2f4434a6395b6080b9168c26a5ebf39b
「歴研幕府」の繁栄
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3c1fb002a3e26595b233bb6dbc9977fd
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永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その3)

2021-01-18 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月18日(月)12時29分44秒

『太平記』第十三巻第三節「北山殿御陰謀の事」の続きです。(p307以下)

-------
 かくの如く諸方の合図を同時に定めて後、西京より番匠をあまた召されて、俄かに温殿〔ゆどの〕を作られたり。これは、主上御遊のために臨幸なりたらん時、華清宮〔かせいきゅう〕の温泉になずらへて、浴堂の宴〔えん〕を勧め申し、君をこの下へ落とし入れ奉らんための企てなり。かやうに様々の謀〔はかりごと〕を定め、兵を調へて、「北山の紅葉御覧のために、臨幸なり候へ」と申されたりければ、即ち日を定められて、行幸の儀則をぞ調へられける。
-------

「華清宮」は兵藤裕己氏の脚注に「長安郊外の驪山の麓にあった唐代の離宮。温泉が湧き、玄宗皇帝と楊貴妃が遊んだ」とありますが、白居易の「長恨歌」に出てくるので、『太平記』の読者・聴衆にとっても、それなりに馴染みの存在だったのでしょうね。

長恨歌
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%81%A8%E6%AD%8C

ま、それはともかく、この部分、具体的にどのような暗殺装置なのか分かりにくいのですが、流布本では「俄かに温殿を作られたり」の次に、

-------
その襄場〔あがりば〕に板を一間〔ひとま〕蹈〔ふ〕めば落る様に構へて、その下に刀の簇〔ひし〕を殖ゑられたり。
-------

という一文があり(岩波大系『太平記 二』、p22)、襄場(浴室で着物を脱ぐところ)の下に刀を「鉄菱」のように逆にして地に植えておいて、後醍醐が入ったら板を踏み抜いて下に落ち、数多くの刀でグサグサ刺すという素晴らしい考案だと解説してくれていますね。
このような素晴らしい仕掛けを西園寺公宗が番匠(大工)に造らせたのだと『太平記』には書かれている訳ですが、永原慶二氏はこの部分は引用されていないので、おそらくこれは『太平記』の作り話だと判断されたのだろうと思います。
ま、直義毒殺を「断定」したように、このような仕掛けで西園寺公宗が後醍醐を暗殺しようとしたと「断定」したならば、ナガハラもボケたな、と思われて、歴史学界における地位と名誉を全て失うことになるでしょうから、まことに賢明なご判断ですね。
直義毒殺説の田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介等の諸氏、そして清水克行氏あたりも、さすがにこちらは『太平記』の創作と判断されると思いますが、ただ、改めてこの殺害(未遂)の手段を鴆毒による毒殺と比べると、武家社会の人には思い付きそうもないヘンテコな殺害方法である点では共通で、ヘンテコの程度も五十歩百歩ではなかろうか、という感じもします。
そして、このような場面が、永原氏が丸写しにされていた時事解説的な記述とシームレスでつながっている『太平記』を全体としてどのようにとらえるべきかは、かなり深刻な問題です。
率直に言って、『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』で永原氏が『太平記』を取り扱う姿勢は些か軽薄に過ぎるのではなかろうか、と私は思います。
さて、『太平記』の引用をもう少し続けます。

-------
 すでに、「明日午刻に、臨幸あるべし」と、触れられたりけるその夜、主上、暫く御まどろみありける御夢に、赤き袴に鈍色〔にぶいろ〕の二つ衣〔ぎぬ〕着たる女一人来たつて、「前には虎狼の怒れるあり。後ろには熊羆〔ゆうひ〕の猛きあり。明日の幸をば、思し召し止まらせ給ふべし」とぞ申しける。主上、御夢の中に、「汝は、いつくより来たれる者ぞ」と御尋ねありければ、「神泉苑の辺りに、多年住み侍る者なり」と申して、立ち帰りぬと御覧ぜられて、御夢程なく覚めにけり。主上、怪しき夢の告げかなと思し召しながら、これまで事定まりぬる臨幸を、期〔ご〕に臨んでは、いかが止〔とど〕めらるべきと思し召されければ、やがて鳳輦をぞ促されける。
 先づ神泉苑へ幸〔みゆき〕なつて、龍神の御手向〔おんたむ〕けありけるに、池水俄かに変じて、風吹かざるに、白浪岸を打つ事頻りなり。主上、これを御覧ぜられて、いよいよ夢の告げも怪しく思し召し合はされければ、暫く鳳輦を留めて、御思案ありける処に、竹林院中納言公重公、馳せ参じて申されけるは、「西園寺大納言公宗、陰謀の企てあつて、臨幸を勧め申す由、ただ今、或る方より告げ申して候ふ。これより還幸なつて、橋本中将季経、并びに春衡、文衡入道を召されて、事の子細御尋ね候ふべし」と申されければ、君、去んぬる夜の夢の告げ、池水の変態、げにも様〔よう〕ありけりと思し召し合はせて、これより還幸なりにけり。即ち中院中将定平に、結城判官親光、伯耆守長年を差し添へて、「西園寺大納言公宗卿、橋本中将季経、并びに文衡入道を召し取つて参れ」とぞ、仰せ下されける。
-------

ということで、後醍醐は北山殿訪問を中止し、湯屋の着替え場所で床を踏み抜くこともなく、無事に暗殺を免れた、という展開です。
これで「故相模入道の舎弟、四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉の合戦の時、自害したる学〔まね〕をして、ひそかに鎌倉を落ちて」から始まる第三節「北山殿御陰謀の事」が終わったかというと、そんなことは全然なくて、やっと四分の一くらいですね。
第三節「北山殿御陰謀の事」は兵藤裕己校注『太平記(二)』で16ページという膨大な分量で、この後も公宗逮捕に向かった「官軍」にあわてふためいて逃げ惑う人々、中院定平と公宗の妙になごやかな対話、「橋本中将季経」がまんまと逃げおおせた顛末、三善文衡への拷問、「北の御方」、即ち『竹向きが記』の著者である日野名子と公宗の涙の別れ、そして、

-------
定平朝臣、長年に向かつて「早や」と云はれけるを、殺し奉れとぞ云ふ心得て、長年、大納言殿に走り懸かり、鬢〔びん〕を爴〔つか〕んで俯〔うつぶ〕しに引き臥せ、腰の刀を抜いて、御首を掻〔か〕き落とし奉る。北の御方は、これを見給ひて、何とも覚えず、あつと喚〔おめ〕いて、透牆〔すいがい〕の中に倒れ伏し給ふ。このままやがて絶え入り給ひぬと見えければ、介錯の女房達、車に助け乗せ奉つて、泣く泣くまた北山殿へ入れ奉る。
-------

という有名な場面、更に妊娠中だった「北の御方」が男子(西園寺実俊)を生む後日談、「故大納言滅び給ふべき前表」をめぐる北野社での奇妙なエピソードなどが延々と続きます。
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永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その2)

2021-01-17 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月17日(日)11時41分47秒

『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)は僅か334ページでありながら「元弘三年(一三三三)六月の後醍醐天皇による建武政権樹立から、応仁元年(一四六七)五月の応仁の乱勃発にいたる、一三五年間を対象」(p8)としており、488ページを使って建武政権樹立から応永十五年(1408)の足利義満の死までを描く佐藤進一氏の『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)と比べると、全体的に記述があっさり薄目の書物です。
しかし、中先代の乱に関しては、些かバランスを失しているのではないかと思われるほどの分量で、しかも何だか妙に力の入った熱い叙述が続きますね。
私にとって一番興味深いのは征夷大将軍をめぐる尊氏・後醍醐の攻防の扱い方ですが、その前の部分も少し丁寧に見ておくことにします。(p42)

-------
中先代の乱

 建武二年(一三三五)六月、建武政権の転覆を企てた西園寺公宗らの陰謀が発覚して、公宗はじめ日野氏光以下謀議に加わった人びとがいっせいに逮捕された。公宗に縁あった人の密告によるもので、事件は大事に至る前に阻止されたかに見えた。
 だが、陰謀の全貌が判明するにつれて事態は容易でないことがはっきりとした。前権大納言西園寺公宗は、鎌倉末期、北条ともっとも緊密な関係にあったため、後醍醐が入京直後、一時その官を解かれた。西園寺家は承久以後、親幕府派の公家として代々「関東申次」の役をつとめ、大きく力をのばしてきた家筋であった。公宗の計画は周到かつ大規模で、持明院統の上皇後伏見を奉じて後醍醐を暗殺、各地に潜伏する北条の残党と呼応し、実力で一挙に政権を樹立しようというものであった。
 この公宗の計画は、けっして敗者の見果てぬ夢とばかりはいえないものである。げんに北条の残党は、新政権発足後も、陸奥・関東・九州・紀伊・長門などをはじめとする各地で蠢動、蜂起することが少なくなかった。北条一族は高時以下すべて鎌倉で滅び去ったというわけでなく、少なからざる人びとが各地に潜伏し、機会をねらっていたのである。西園寺公宗は、これらの生き残りの北条一族とおどろくほど緊密な連絡をとり、一斉蜂起を期したのである。
 京都には高時の弟泰家が逃亡先の陸奥から潜入して公宗のもとにかくまわれていた。信濃には高時の遺児時行が諏訪氏の保護を受けてひそんでいた。北条一門の名越時兼も北国方面でひそかに蜂起の時期を待っていた。
-------

「公宗に縁あった人の密告によるもので」などと妙に曖昧な表現になっていますが、密告したのは公宗の異母弟の公重ですね。
公重は密告の恩賞として西園寺家の家督相続を許され、鎌倉時代にはずっと西園寺家の知行国であった伊予国の還付まで受けています。

西園寺公重(1317-67)

この表現を含め、何となく冒険活劇風の文体で描かれた文章なので、永原慶二氏の厳格な学風を知る者にとっては少し意外な感じもしますね。
ただ、この内容は、ある意味『太平記』の丸写しです。
「建武政権の転覆を企てた西園寺公宗らの陰謀」ですから、公宗が「生き残りの北条一族とおどろくほど緊密な連絡をとり、一斉蜂起を期した」ことを証拠づける一次史料が残っているはずもなく、ほぼ全てが『太平記』の記述に依拠したものです。
参考までに西源院本で『太平記』の内容を確認しておくと、第十三巻第三節「北山殿御陰謀の事」は次のように始まります。(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p304以下)

-------
 故相模入道の舎弟、四郎左近大夫入道は、元弘の鎌倉の合戦の時、自害したる学〔まね〕をして、ひそかに鎌倉を落ちて、暫くは奥州にありけるが、人に見知られじため還俗して、京都に上り、西園寺殿を憑〔たの〕み奉つて、田舎侍の初めて召し仕はるる体〔てい〕にてぞ居りたりける。
 これも承久の合戦の時、西園寺太政大臣公経、関東へ内通の子細ありしによつて、義時、その日の合戦に利を得し間、「子孫七代まで、西園寺殿を憑み申すべし」と申し置きたりしかば、今に至るまで、武家、他に異なる思ひをなせり。これによつて、代々の立后も、多くはこの家より出でて、国々の拝任も、半ばその族にあり。しかれば、官太政大臣に至り、位一品〔いっぽん〕の極位を窮めずと云ふ事なし。ひとへにこれ、関東贔屓の厚恩なりと思はれけるにや、いかんともして故相模入道の一族を取り立てて、再び天下の権を取らせ、わが身公家の執政として、四海を掌〔たなごころ〕に把〔にぎ〕らばやと思はれければ、この四郎左近大夫入道を還俗せさせ、刑部少輔時興〔ときおき〕と名を替へて、明け暮れはただ謀叛の計略をぞ廻らされける。
-------

永原氏は「京都には高時の弟泰家が逃亡先の陸奥から潜入して公宗のもとにかくまわれていた」と書かれていますが、泰家が崩壊寸前の鎌倉を脱出して陸奥に逃れた際の冒険活劇は第十巻第八節「鎌倉中合戦の事」の最後の方に詳細に描かれています。
そして公宗のもとに匿われていたことはこの場面に出ている訳ですが、逆にいうと、いずれも『太平記』でしか得られない情報ですね。
さて、『太平記』の引用をもう少し続けます。
西園寺家の家司、三善文衡(政所入道)が公宗(大納言殿)に次のような提案をしたのだそうです。(p306以下)

-------
 或る夜、政所入道〔せいしょのにゅうどう〕、大納言殿の前に来たつて申しけるは、「国の興亡を見るには、政〔まつりごと〕の善悪を見るに如かず。政の善悪を見るには、賢臣の用捨を見るに如かず。されば、微子〔びし〕去つて殷の代傾き、范増〔はんぞう〕罪せられて楚王滅びたり。今、朝家〔ちょうか〕にはただ藤房一人のみにて候ひつるが、未然に凶を鑑みて、隠遁の身となつて候ふ事、朝廷の大凶、当家の御運とこそ覚えて候へ。急ぎ思し召し立たせ給はば、先代の余類十方より馳せ参り、天下を覆さん事、一日を出づべからず」とぞ勧め申しければ、公宗卿、げにもと思はれければ、時興をば京都の大将として、畿内近国の勢を催され、甥の相模次郎時行をば、関東の大将として、甲斐、信濃、武蔵、相模の勢を付け、名越太郎時兼をば、北国の大将として、越中、能登、加賀の勢をぞ集められける。
-------

ということで、永原氏の記述と『太平記』を比較すると、永原氏が出来の悪い学生のレポートのように、殆ど『太平記』を丸写しにしていることが明らかです。
ただ、このように『太平記』を全面的に信頼する永原氏が利用しない場面が次に出てきます。
それは、未遂に終わったとはいえ、ヘンテコな殺害方法である点では直義毒殺と同じレベルの、例の一件です。

>筆綾丸さん
>諱の一字(直)は同じなのに

高師直の「直」はどこから来たのですかね。
さすがに直義からもらったとは考えにくいところですが。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

Das Unheimliche(フロイト) 2021/01/16(土) 14:34:47
小太郎さん
『足利直義』(森茂暁)と『高師直』(亀田俊和)を眺めてみました。二人の祥月命日は史実のようですね。
泣いて馬謖を斬る、ではありませんが、尊氏の断腸の思いを汲んで直義が自死したとして、なぜ二月二十六日なのか、といえば、内部抗争を解消するための象徴的な手打ち式だったからだ、というようなことになりますか。日本のヤクザやイタリアのマフィアが考えそうなことですが。
諱の一字(直)は同じなのに訓が違い、しかも、祥月命日は一年ずれて同じ、というのは、なんとも気持ち悪い。まるでフロイトのいう「不気味なるもの」(unheimlich ≒ heimlich)のように。
https://conception-of-concepts.com/philosophy/heidegger/text4-freut-and-heidegger/ 
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永原慶二氏「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」(その1)

2021-01-16 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月16日(土)13時25分21秒

一昨日の投稿で、岩波『日本史年表』に「尊氏,直義(47)を毒殺」と書いたのは永原慶二氏だろうと「断定」した私ですが、念のためと思って永原氏の『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』(小学館、1988)を見たところ、「尊氏、直義を毒殺」という小見出しで始まる二頁弱の記述の最後に、

-------
 尊氏はこの間、下野の宇都宮公綱などの武士たちを誘い、直義をじりじりと圧迫、武蔵で国人一揆を結んでいた群小の武士たちも尊氏方に加わった。窮地に追いこまれた直義は、観応三年=正平七年(一三五二)正月、尊氏に屈服した。直義の最後の抵抗は意外に弱かったが、やはり武家の棟梁たる征夷大将軍という立場が、直義とのちがいであった。尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った。
-------

とあって(p71以下)、単に毒殺と記すだけではなく、「直義を毒殺して葬り去った」という具合いに、ずいぶんドラマチックな、というかテレビの二時間ドラマ的な安っぽい文飾を加えて毒殺と「断定」していますね。
細かいことを言うと、尊氏が直義を伴って鎌倉に入ったのは正月六日(西源院本『太平記』)であり、直義が死んだのは二月二十六日ですから、「尊氏は鎌倉に入り、その月のうちに直義を毒殺して葬り去った」訳ではありません。
永原氏を編集委員長とする歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1995)にも、1352年「1 尊氏鎌倉に入り直義降伏. 2 後村上,賀名生を出発.尊氏,直義(47)を毒殺」とありますね。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/813ca39bbecae0e66bb100692c945ea5

更にもう一つ細かいことを言うと、「尊氏はこの間、下野の宇都宮公綱などの武士たちを誘い」も不正確で、ここは公綱ではなく、公綱の息子の氏綱でしょうね。
たまたま最近読んだ清水亮氏の「南北朝・室町期の「北関東」武士と京都」(江田郁夫・簗瀬大輔編『中世の北関東と京都』、高志書院、2020)によると、基本的に南朝側だった公綱も貞和五年(1349)段階では北朝方に属していたようですが(p110)、まあ、ちょっと肩身が狭い立場であったはずで、薩埵山合戦の時点で宇都宮一族を代表するのは「宇都宮伊予守」氏綱ですね。

宇都宮公綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%85%AC%E7%B6%B1
宇都宮氏綱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%B0%8F%E7%B6%B1

さて、峰岸純夫氏は『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、2009)において、田中義成・高柳光寿・佐藤進一・佐藤和彦・伊藤喜良・村井章介・新田一郎の諸氏の見解を短く正確に引用していますから、当然に『大系日本の歴史6 内乱と民衆の世紀』の記述も熟知されていたはずですが、何故に永原氏だけ名指しせず、岩波『日本史年表』という迂遠なルートを経由して、分かる人にだけは分かるという形で永原氏の見解を批判したのか。
その裏には、あるいは永原氏と峰岸氏の間に歴史学研究会の主導権をめぐる熾烈な暗闘があったりするのかもしれない、などと妄想すると、それこそ二時間ドラマ的な世界に入り込んでしまいそうですが。

峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/025910d8e89a27fb3fbe6f944dff93b0

ま、それはともかく、永原氏が「直義の最後の抵抗は意外に弱かったが、やはり武家の棟梁たる征夷大将軍という立場が、直義とのちがいであった」とされている部分、私としては「最後の抵抗」に関しては別に征夷大将軍は関係ないような感じがするので、同書で征夷大将軍に関係する記述を遡って確認してみたところ、やはり永原氏は征夷大将軍に相当にこだわっていますね。
まず、護良親王については、

-------
 問題は護良親王であった。天台座主尊雲法親王という立場から還俗して力戦、情勢の転換を導きだした点では、高氏とならぶ第一の勲功といわなければならず、本人も強く征夷大将軍をのぞんだ。しかし父後醍醐とは、これについてすでに大きく考えがちがっていた。「公家一統」の世となったからには、征夷大将軍はおくべきでないというのが後醍醐の政権構想であった。だからこそ、六波羅攻略後いちはやく幕府の後継者のようにふるまっていた高氏にも、鎮守府将軍という称号しか与えなかったのである。
 ところが、そうした高氏の動向に、血気さかんな護良(二六歳)は、はげしい対抗心を燃え上がらせ、征夷大将軍のポストを求めて、要求がいれられなければ還京しないという強い姿勢を示した。こうして早くも新しい権力中枢の亀裂が露呈されたのであるが、後醍醐は、危機回避の策として、やむなく護良を征夷大将軍に補任した。六月二三日のことである。
-------

ということで(p15)、殆ど『太平記』の丸写しですが、私は「血気さかんな護良(二六歳)」が「はげしい対抗心を燃え上がらせ」ていたのかについては懐疑的です。
また、「六月二三日のことである」から、永原氏が『太平記』の流布本に依拠していることが分かりますが、流布本は護良の還京が六月二十三日と記しているだけで、その日に後醍醐が「護良を征夷大将軍に補任した」とは書いていません。
永原氏の記述は流布本の内容をも少し超えていて、些か勇み足気味ですね。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52
護良親王は征夷大将軍を望んだのか?(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9fec18d6e38102c64a29557b42765002
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d5725c255cb83939edd326ee6250fe7a
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/04cda2bd6423c12bba2963c1f71960e1
征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

少し長くなったので、中先代の乱に際して尊氏が征夷大将軍を望んだかについては、次の投稿で検討します。
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百科事典としての『太平記』

2021-01-15 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月15日(金)11時28分44秒

峰岸説について少し補足すると、峰岸氏は成良親王に言及されていますが、これは流布本では第三十巻の直義毒殺エピソードにも成良の名前が出ているからであって、第十九巻の「金崎東宮并将軍宮御隠事」(『日本古典文学大系 太平記(二)』、p280以下)を直接に参照されている訳ではないですね。
私は観応三年(1352)の出来事の検討に際して建武三年(1336)の清水寺への願文を持ち出す峰岸純夫氏の歴史研究者としての姿勢に根本的な疑問を感じますが、仮に峰岸氏の、

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その後、高師直と上杉氏、師直と直義、直冬と尊氏、直義と義詮などの観応の擾乱の錯綜する対立関係のなかで、尊氏・直義の大規模な直接対決、薩埵山合戦が行われるが、兄弟の憎悪をむき出しにしたものではなかった。その敗北後、尊氏の庇護のもと、直義は年来の宿願である政界引退を果たして心静かに鎌倉の一寺で仏道に入ったのである。
-------

という認識がすべて正しいとしても、即ち死の直前まで尊氏と直義の間には憎しみの感情はなかったとしても、例えば尊氏が「これ以上生きていても恥を晒すだけではないか」といった理由で、兄弟間の愛情があるからこそ直義に死を求めることだって考えられますね。
ただ、その場合は鴆毒云々の発想が出てくるはずはなく、黙って直義に脇差を渡すような展開になるはずです。
結局、鴆毒云々は武家社会の中からは出て来ない発想じゃないですかね。
『太平記』の作者にとって、尊氏・直義兄弟が恒良・成良親王を殺害するという場面を創作しようと思ったとき、恒良・成良が公家社会の、しかも非常に高貴な身分の人なので、その死の場面では刀による切腹等は想定しにくく、いくつかのアイディアの中から毒殺という珍しい手法が案出されたのではないかと思います。
そして、そのアイディアが第三十巻で、直義の死をめぐって因果応報の場面を創作するに際しても効果的に転用された、ということではないですかね。
この点、私は以前の投稿で、

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恒良・成良のエピソードを読めば、少なくとも当時の一般人の認識としては、鴆毒は一週間続けて飲んでやっと効き目が出る程度ののんびりした毒薬ですね。しかも恒良と成良の死期が全く違うように個人によって効き目の差が大きい毒と認識されていたことが明らかですから、ピンポイントで特定の日に殺せるはずがありません。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f546a759f45cce549535e24969435051

などと書いてしまいましたが、人を殺したければ弓矢や刀を使えばよいだけの当時の武家社会において、一般人が毒薬についての煩瑣な知識を持っていたはずもなく、むしろ『太平記』で鴆毒について解説があったから、世の中には鴆毒というものがあって、それを飲むと一週間くらいで死ぬらしいぞ、という認識が一般人の間に広まって行ったと考えるべきでしょうね。
『太平記』にはそうした百科事典的な側面、雑学の宝庫としての側面があったはずです。
ついでに言うと、例えばいったん起請文を書いた人が、その後の事情の変化で起請文破りをする必要に迫られた場合、そういえば『太平記』で北条高時が尊氏に起請文の提出を迫った時、尊氏から相談された直義が「天に代はつて無道を誅して、君の御ために不義を退けんため」にする偽りの誓言ならば神も受けないと申し習わされているし、「たとひ偽つて起請の詞を載せられ候ふとも」、仏も神も、強い忠義の心をお守りくださらないことがありましょうか、という御都合主義の理論を展開していたことを思い出して、そうだそうだ、起請文破りなんて別にたいしたことじゃないんだ、と安心するようなこともあったはずです。
『太平記』にはそうした「武家生活の知恵」を提供する実用本としての側面もあったはずですね。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その2)(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/be18e0b821a943d858475427b61f1f64
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1
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「歴史における兄弟の相克─プロローグ」(by 峰岸純夫氏)

2021-01-14 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月14日(木)22時09分20秒

私としては村井章介氏が毒殺肯定派というのが少し意外だったので、『日本の時代史10 南北朝の動乱』(吉川弘文館、2003)を確認してみましたが、峰岸氏が紹介された通りで、特に理由などは付されていません。
新田一郎氏の『日本の歴史11 太平記の時代』(講談社、2001)も確認してみましたが、確かに直義毒殺には懐疑的であっても短い結論だけですね。
また、最近の書籍では桃崎有一郎氏の『室町の覇者 足利義満』(ちくま新書、2020)に「高師直が殺された日のちょうど一年後で、毒殺されたという説を『太平記』は伝えているが、私は疑っている」(p34)とありますが、これも結論だけです。
ということで、数十万に及ぶ毒殺肯定派の歴史研究者軍団(『太平記』的誇張を含む)に敢然と対峙する毒殺否定派の猛将は、上州伊勢崎に盤踞する峰岸純夫氏と南方の島におられる亀田俊和氏の僅か二人だけ、ということになりそうですが、しかし、お二人のこの問題に対する姿勢は対照的ですね。
亀田氏の見解は既に紹介しましたが、歴史研究者の日常業務として冷静に史料批判を行い、その結論を淡々と記した、といった趣きです。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その3)

念のため、上記投稿で【中略】とした部分も紹介すると、

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 直義の暗殺に用いられたとされる「鴆毒」なる毒物についても、謎が多い。これは鴆という南方に生息する鳥の羽の毒だとも言われている。しかし、鴆の実在は確認されず、存在自体が疑問視されてきた。
 ところが一九九二年、ニューギニアできわめて強い毒性を持つ鳥が発見された。有毒な鳥が実在する以上、同じく毒鳥である鴆が存在した可能性も出てくるが、だとすれば尊氏がいかなる経路で鴆毒を入手したのかなど新たな疑問も出てくる。日本に本格的な毒殺文化が入ってきたのは織豊期以降であるとする見解もある。
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ということで(p174)、極めて科学的・合理的な推論ですね。
他方、峰岸氏はどうかというと、何でこんな問題にそこまで熱くなれるのだろうと不思議に思えるほどの分量で熱心に毒殺否定説を語り、毒殺肯定説を厳しく攻撃されます。
ただまあ、観応三年(1352)の出来事の検討に際して遥か十六年前、建武三年(1336)の古証文を持ち出すなど、歴史研究者の姿勢としてはいかがなものだろうか、という感想を禁じ得ません。
この峰岸氏の少々空回り気味な情熱の元を辿ると、『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』の巻頭に置かれた「歴史における兄弟の相克─プロローグ」にその秘密がありそうですね。(p1以下)

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 同じ父母、ないしは父か母のどちらかから生まれた兄弟姉妹が、助け合って困難を乗り切った、ないしは終生協力関係を維持したうるわしい話はよく聞くことである。しかし、夫婦であっても親子であっても、いがみあったり憎しみあったりして関係が悪化する場合があるのと同様に、兄弟姉妹でも憎悪にさいなまれる関係にある場合をしばしば見聞きするところである。とくに、現代において多額の遺産相続に直面した場合、兄弟姉妹はともかくとしても、その背後にある配偶者の力が働いて関係がこじれ、抜き差しならない相続争いに逢着してしまい、裁判で決着をつけたが遺恨が長く尾を引く場合がしばしば出現する。それを避けるために、遺産を公的機関や福祉関係に寄付するというケースの出てきているという。「児孫のために美田を残さず」という西郷隆盛の言葉も一つの見識であろう。
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ここまで読むと、峰岸氏も兄弟間の相続争いで大変だったのかな、などと想像してしまいますが、事情はもう少し複雑なようです。

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 私が少年時代に読んだ吉川英治『三国志』の一挿話、豆と豆ガラの話は今も印象深く心に残っている。中国古代の三国時代に、魏の曹操が没して、その王位は嫡子の曹丕〔そうひ〕に継承されたが、詩文の才能があり父から愛されていた弟の曹植は、兄に疎まれ叛乱の嫌疑で死罪に処せられようとする。そのとき兄は、弟に対して七歩を歩く間に詩を作れば命を助けるとの無理難題を申しつける。曹植は、「豆を煮るのに豆ガラを焚く 豆は釜中にあって泣く 元は同根より生ずるを 相い煮ることなんぞはなはだ急なる」と。並み居る人々を感動させて、弟は罪一等減ぜられて追放の身となり寂しくその場を去っていく。当時私は、煮られる立場も哀れだが、煮るほうも自身が火だるまになってしまうのだから両方とも可哀そうだと、子供心に思った。この挿話がながく印象に残った理由は、私の置かれた境遇にもよる。私は異母兄弟の弟で、義兄との関係はすこぶる良かったのだが、義兄をめぐる祖母と母の確執につねに心を痛めていたからである。やがて義兄は、年若くして自立して東京に勤めに出て行ったのである。
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ということで、これが峰岸氏にとって、歴史上の兄弟対立に格別の関心を向ける原点になったようですね。

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 歴史上でみてみると、鎌倉幕府成立期の源頼朝・義経の対立は有名であるが、それに次ぐものとして、足利尊氏・直義の深刻な対立が目につく。本書においては、南北朝内乱期の一過程に発生した観応の擾乱という尊氏・直義兄弟の争闘、その対立を継承した尊氏子息の義詮と直冬(直義の養子になる)異母兄弟の確執に着目し、それらの要因を探り室町幕府と鎌倉府という二元的な国家支配体制確立の政治過程のなかに位置づけてみようと思う。
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まあ、峰岸氏は歴史学研究会の委員長を務めるなど「科学運動」にも熱心なタイプの研究者なので、本書全体が甘い感傷に包まれているようなことは全くありませんが、直義の最期に関してだけは、峰岸氏の人生観・人間観・世界観に照らして、尊氏による毒殺などあり得ないのだと確信されておられていて、殆ど定説化していた毒殺説を抹殺することを生きがいのひとつにされているような感じがします。

峰岸純夫(1932生)

>筆綾丸さん
>直義の祥月命日が2月26日であることを証する確実な同時代史料

直義が没した年月日については誰も疑っていないようですね。
供養仏事が二月二十六日に行われていることも、その証左と思います。
入手しやすいところでは、森茂暁氏『足利直義 兄尊氏との対立と理想国家構想』(角川選書、2015)の「第四章 鎮魂と供養」に等持院で営まれた直義の十三回忌・三十三回忌に関する史料が出ていますね。
直義の供養仏事は何と九十年以上も続いたそうです。


※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
「2・26事件」 2021/01/14(木) 16:19:01
小太郎さん
初歩的な疑問で恥ずかしいのですが、直義の祥月命日が2月26日であることを証する確実な同時代史料はあるのですか。
実は祥月命日も捏造で、師直に合わせたほうがドラマチックで面白くなると作者は考えた、というようなことは考えられませんか。因縁の二人の祥月命日が同じなのは、偶然というにはあまりに不自然な感じがします。祥月命日が捏造ならば、毒殺など論ずるに及ばず、ということになりそうです。
もっとも、祥月命日が捏造だとすれば、すぐウソだとばれるような、こんな下手な作為をするものだろうか、という疑問も湧いてくるのですが。
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峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その2)

2021-01-14 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月14日(木)11時27分39秒

続きです。(p146以下)

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研究者の多くは、この記述を信用し、田中義成『南北朝時代史』は、「太平記によれば、尊氏、之(直義)を誅するに忍びず、窃〔ひそ〕かに毒を進めしなりと云へり」と記し、尊氏・直義について高い人物評価を与えている高柳光寿『足利尊氏』は、「二月二十六日は師直没と同日の一周忌、尊氏か師直一類が殺した可能性があり、殺害後の処分も不明、『諸家系図纂』は「尊氏殺害」と記す。『臥雲日件録』は、「直義の死後、神霊の出現があり、これを大倉明神として円福寺(直義の没した寺)に祀る、というのはこのような事情によるか」と、殺害説に傾いている。これらを受けた形で、佐藤進一『南北朝の動乱』は自己の判断を示さず、「多くの学者はこのうわさは真実だろうと見ている」と記している。それ以後の通史叙述において、佐藤和彦『南北朝の内乱』は、「幽閉された直義は、鴆毒によって殺された」と記し、伊藤喜良『南北朝の動乱』は、「太平記によれば、鴆毒を盛られた」、村井章介『南北朝の動乱』(『日本の時代史』一〇)は、「正月尊氏は鎌倉に入って、二月には直義を毒殺した」とする。これに対して、新田一郎『太平記の時代』は「毒殺との噂が流れたようだが、尊氏の関与の有無は明らかでない」として懐疑的である。私が編集に参加した『日本史年表』(岩波書店)には、「尊氏、直義(四七)を毒殺」と断定している。おおむね、毒殺を前提にして、尊氏の関与の有無に意見が分かれている。しかし、私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている。
-------

いったん、ここで切ります。
「これらを受けた形で、佐藤進一『南北朝の動乱』は自己の判断を示さず、「多くの学者はこのうわさは真実だろうと見ている」と記している」という指摘は峰岸氏の佐藤氏の対する静かな怒りを感じさせますね。
私もこの表現は、何だか陰湿な書き方だなあ、と思ったことがあります。
また、歴史学研究会編『日本史年表 増補版』(岩波書店、1995)を見ると、確かに「尊氏、直義(47)を毒殺」と断定しています。
実は私、成良親王のプチ年表を作るに際して同書を利用したばかりなのですが、確かに「毒殺」と断定していて、ちょっとびっくりしました。
峰岸氏はご自身が反対したであろう当該記述を誰が入れたのかを明確にはされていませんが、同書の「序文」には、

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 こうした方針のもとに作業は進められたが,60名に及ぶ人々が5年にわたって歩調を合せ協力することは決して容易なことではなかった.【中略】これはひとえに編集委員である吉田孝・峰岸純夫・高木昭作・宇野俊一・神田文人・加藤幸三郎・板垣雄三・西川正雄氏および執筆者諸氏の御努力と,私をたすけてまとめ役として万端の世話を引き受けて下さった吉村武彦・加藤友康氏の貢献によるものである.また岩波書店の松島秀三氏およびめんどうな編集実務の一切を引き受けて下さった井上一夫・竹内義春氏に対し,この機会にあつく御礼申し上げる.

1984年3月  歴史学研究会日本史年表編集委員会
                委員長 永原慶二
-------

とあるので、まあ、ここに挙げられている人の中で峰岸氏が賛成しない記述を載せることができる研究者というと、加藤友康氏では失礼ながら少し軽いので、「委員長 永原慶二」氏でしょうね。
世間的には加藤友康氏(1948年生、東京大学史料編纂所元所長、名誉教授)もけっこう偉い人でしょうが、歴史学研究会にはそれとは別の序列があり、年齢も永原氏(1922生)は峰岸氏(1932年生)より十歳上ですからね。
ということで、永原慶二氏も毒殺肯定説であると「断定」したいと思います。
さて、この後、峰岸氏は直義死去の十六年も前の史料、例の清水寺への尊氏の願文を出して来られて、それはちょっと関係ないのでは、と私などは思うのですが、一応引用しておきます。(p147以下)

-------
 尊氏の宗教心や尊氏と直義の兄弟愛を考える上で、建武三年(一三三六)の清水寺への願文が注目される。

  この世は、夢のごとくに候、尊氏にたう心(道心)たばせ給候て、後生たすけさせを
  はしまし候べく候、猶々とくとんせい(遁世)したく候、
  たう心(道心)たばせ給候べく候、今生のくわほう(果報)にかへて、後生たすけさ
  せ給候べく候、今生のくわほう(果報)をば、直義にたばせ給候て、直義あんをん
  (安穏)にまもらせ給候べく候、
    建武三年八月十七日       尊氏(花押)
   清水寺

 この時点は、兵庫で新田義貞・楠木正成を撃破して京都の後醍醐天皇を追い、光明天皇を擁立した翌日のものである。本来ならばこの晴れがましい時点で、尊氏は鬱状態に陥り、道心(仏道への帰依)と隠遁を希求し、今生の果報に変えて後生の安穏を求め、今生の果報は直義に譲り、直義の安穏をも祈願するという内容になっている。一つ違いの弟直義の政治能力への信頼がつよく、直義に後事を託して引退したいという心情がにじみ出ている。その後、高師直と上杉氏、師直と直義、直冬と尊氏、直義と義詮などの観応の擾乱の錯綜する対立関係のなかで、尊氏・直義の大規模な直接対決、薩埵山合戦が行われるが、兄弟の憎悪をむき出しにしたものではなかった。その敗北後、尊氏の庇護のもと、直義は年来の宿願である政界引退を果たして心静かに鎌倉の一寺で仏道に入ったのである。しかし、長年の戦陣での無理が祟って身体がぼろぼろになっており、急性肝炎を発症して皮膚が黄色になる黄疸症状を呈し急逝したのである。その突然の死に疑惑が生じ、これを利用して『太平記』の物語が構築されたと考える。直義の毒殺説ないし尊氏加害説は是正されなければいけないと思う。
-------

うーむ。
峰岸説にも若干の疑問を感じますが、次の投稿で書きます。
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峰岸純夫氏「私は尊氏の関与はもとより、毒殺そのものが『太平記』の捏造と考えている」(その1)

2021-01-13 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月13日(水)22時46分45秒

前回投稿は峰岸純夫氏の『足利尊氏と直義 京の夢、鎌倉の夢』(吉川弘文館、2009)を確認しないで書いてしまったのですが、同書には直義毒殺エピソードに関して五ページ以上もの分量の詳細な記述があり、もちろん成良親王にも触れていたので、ちょっとまずい書き方でした。
ただ、前回投稿を修正するよりは、峰岸説を正確に紹介した方が参考になりそうなので、少し長くなりますが同書を引用したいと思います。
参考文献を見ても峰岸氏は『太平記』のどの本を採用しているのか明記されていませんが、明らかに流布本、具体的には『日本古典文学大系35 太平記 三』(岩波書店、1962)からの引用ですね。
そして、私が前々回投稿で引用した西源院本と比較すると、流布本にはかなりの増補があります。
この点に留意しつつ、峰岸氏の見解を紹介します。(p143以下)

-------
『太平記』にみる尊氏・直義

 『太平記』の構想は、護良親王以下非業な最期を遂げた人々の怨霊が足利方の人びとに取り付いて、対立関係を起さして高師直や足利直義が滅亡するという因果応報を説く一面を持つものであったから、直義の死は格好の材料となり、次のように記している(『太平記』巻三十)。
   かかりし後は、(薩埵山合戦で敗れ、降人となって鎌倉に赴く)高倉殿に付き従ひたて
  まつる侍の一人も無し。籠のごとくなる屋形の荒れて久しきに、警護の武士にすゑら
  れ、事に触れたる悲しみ耳に満ちて心を傷ましめければ、今は憂き世の中にながらへ
  ても、よしや命も何にかはせんと思ふべき。わが身さへ用無き物に歎きたまひけるが、
  いく程無くその年の観応三年壬辰二月二十六日に、忽ち死去したまひけり。にはかに
  黄疸といふ病に犯され、はかなく成らせたまひけりと、外には披露ありけれども、
  まことには鴆毒のゆゑに、逝去したまひけるとぞささやきける。去々年の秋は師直、
  上杉を亡ぼし、去年の春は禅門、師直を誅せられ、今年の春は禅門また怨敵のために
  毒を呑みて失たまひけるこそ哀しけれ。「三過門間の老病死、一弾指頃去来今」とも、
  かやうの事をや申すべき。因果歴然の理は、今に始めざる事なれども、三年の中に日
  を替へず、酬ひけるこそ不思議なれ。
-------

途中ですが、ここでいったん切ります。
ここまでは西源院本と同一内容ですが、この後、流布本には次のような文章が付加されます。

-------
   さても此禅門は、随分政道をも心にかけ、仁義をも存じたまひしが、かやうに自滅
  したまふ事、いかなる罪の報ひとぞ案ずれば、この禅門の申さるるによって、将軍鎌
  倉にて偽りて一紙の告文を残されし故にその御罰にて、御兄弟の仲も悪しく成たまひ
  て、つひに失せたまふか。また、大塔宮を殺したてまつり、将軍の宮(成良親王)を
  毒害したまふ事、この人の御わざなれば、その御憤り深くして、かくのごとく亡びた
  まふか。「災患本種無し、悪事を以つて種となす」といへり。まことなるかな、武勇
  の家に生れ、弓箭を専らにすとも、慈悲を先とし業報を恐るべし。わが威勢のある時
  は、冥の照覧をも憚らず、人の辛苦をも痛まず、思ふ様に振舞ひぬれば、楽しみ尽き
  て悲しみ来たり、われと身を責むる事、哀れに愚かなる事どもなり。
-------

「この禅門の申さるるによって、将軍鎌倉にて偽りて一紙の告文を残されし故にその御罰にて」云々はちょっと理解しにくいのですが、この点を含めて、峰岸氏は次のように解説されています。(p145以下)

-------
 観応三年(一三五二)正月、薩埵山合戦で敗北し、鎌倉に連行され囚われ人となった高倉殿(直義)は、落魄した身の不運を嘆いているうちに、にわかに黄疸(急性肝炎か)となって死亡したという。外に対してはそのように報道しているが、実は、と言って直義派と師直派の殺戮の連鎖の末に、「怨敵」(尊氏か師直派か)による鴆毒による殺害とのうわさが立ったとまことしやかに記し、『太平記』得意の因果応報説を展開する。すなわち、禅門(直義)は、政道に心がけ仁義を重んずる人物と一応評価しつつも、その自滅の原因の二点を罪の報いとしてあげている。
 ① 延元元年(一三三六)十一月、直義の策謀によって、尊氏は後醍醐天皇に告文(起
  請文)を捧げて天皇の京都還幸を要請・実現したが、その偽りの罪によって兄弟仲
  も悪くなり死去することになった。
 ② 大塔宮護良親王を殺害、将軍の宮成良親王を毒害したという。
 しかし、①については、直義の関与は明白でない。鎌倉で、というのも正確ではなく、このとき尊氏は京都にいた。あるいは、鎌倉で新田義貞ら追討軍を迎え撃つとき、鬱病で出陣しない尊氏を直義が天皇の誅罰綸旨を偽造して尊氏の覚悟を決めさせて出陣させた記述との混乱があるようである。ともかく罪の報いで毒害されたということでストーリーを完結させているのである。これは、『諸家系図纂』に尊氏の殺害を記し、『系図纂要』には「中毒薨」と記される以外、他の史料にはまったくない記述であり、『太平記』がつくりだしたフィクションと言ってよいだろう。その構想からくるところの記述なので、突然死や師直殺害との月日の一致などを説明するのに都合がよい。
-------

段落の途中ですが、いったんここで切ります。
『太平記』以外に尊氏による直義殺害を記した史料は『諸家系図纂』と『系図纂要』だけとのことですが、いずれも近世の著作ですから『太平記』の影響を受けているはずで、独自の史料的価値はないですね。
また、流布本が「大塔宮を殺したてまつり、将軍の宮を毒害したまふ事」とし、恒良親王の名前を出さない点には注意が必要と思われます。
この後、峰岸氏は田中義成以下の多数の研究者の見解を批判的に紹介しますが、少し長くなったので次の投稿で引用します。
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「直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もある」(by 清水克行氏)

2021-01-13 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月13日(水)11時26分54秒

尊氏が直義を毒殺したか否かは、谷口雄太氏が主張される「『太平記』が紡ぎ出す物語・視座(物の見方・『太平記』的な見方)」という意味での「太平記史観」の問題ではありません。
しかし、「史料的にも毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない」(亀田俊和氏)にもかかわらず、大御所クラスを含めた歴史研究者の大半が直義毒殺肯定説というのはちょっとびっくりで、『太平記』が現代の歴史研究者にも大変な影響力を持っていることを改めて感じさせますね。

『古典の未来学』を読んでみた。(その2)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/76d31174f58bfb3065b1071440cafd73
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c8057e72256cb89a1fd65390eb8e20d6
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/447d127d0730cf882b249833b4dc329e
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/969a55492ae6704d9c2a1b07dc5989a7

また、『太平記』の流布本が「かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒殺せられ給ふ事こそ不思議なれ」(『日本古典文学大系 太平記(二)』、p282)として、二つの毒殺エピソードを明確に関連づけているにもかかわらず、毒殺否定説の亀田俊和氏を含め、直義のエピソードを分析するに際して恒良・成良のエピソードに言及される人がいないことも、私にはちょっと不思議に思われます。
清水克行氏によれば「直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もある」そうですが、鴆毒の化学的性質がいかなるものであったかは不明だとしても、恒良・成良のエピソードを読めば、少なくとも当時の一般人の認識としては、鴆毒は一週間続けて飲んでやっと効き目が出る程度ののんびりした毒薬ですね。
しかも恒良と成良の死期が全く違うように個人によって効き目の差が大きい毒と認識されていたことが明らかですから、ピンポイントで特定の日に殺せるはずがありません。
また、最近入手した櫻井彦・樋口州男・錦昭江編『足利尊氏のすべて』(新人物往来社、2008)に収められている小国浩寿氏の「足利直義」という論考は、その最後に、

-------
別離─兄と弟

 観応の擾乱は、自らを除こうとした直義近臣の上杉重能らを師直らが先制して討ち、養父の仇であるその師直らを上杉能憲が討つ、といった足利家臣団の報復合戦の果てに、直義は、尊氏と正面から対峙せざるを得なくなる。このように、それそれを担ぐ勢力における利害対立の渦の中、かたや天下の政務を司る冷徹な政治家として、かたや天下人であるとともに、その将軍職を息子義詮にスムーズに委譲しなければならない一人の父親として、兄弟は、相向かって屹立する。それは、「二人」が苦境の中からようやく立ち上げた北朝を一時的にでも離れ、相次いで南朝に降りるといったある種の禁じ手の応酬をもともなってのものであった。そして弟は、かつてその弟の安穏を祈りつつ何度となく隠遁を試みた兄の手によって先立つのであり、文和元年(一三五二)、直義は、鎌倉で師直の命日に毒を服すことになる。
-------

とあって(p230)、なかなか感動的な名文だなとは思いますが、鴆毒は即効性の毒ではないですから、直義が「鎌倉で師直の命日に毒を服」したところで、その後一週間くらいダラダラ生きて行くことになって、ちょっと締まらない話になりそうですね。
もしかして「直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解」の人や小国浩寿氏は恒良・成良の毒殺エピソードをご存じない、つまり『太平記』を通して読んだことがないのでしょうか。
謎は深まるばかりです。

『足利尊氏のすべて』
https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000009684491-00
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同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その3)

2021-01-12 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月12日(火)14時03分21秒

以下、第三十巻第十一節「恵源禅門逝去の事」の全文です。(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p62)

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 かかりし後は、高倉殿に付き順ひ奉る侍、一人もなし。籠の如く(なる)屋形の、荒れて久しきに、警固の武士を居〔す〕ゑられて、事に触れたる悲しみのみ耳に満ちて、心を傷〔いた〕ましめければ、今は浮世の中に長らへても、よしや命を何にかはせんと思ふべき。わが身さへ用なき物に歎き給ひけるが、幾程なく、その年〈観応二年癸巳〉二月二十六日に、忽ちに死去し給ひにけり。俄かに黄疸と云ふ病に犯されて、はかなくならせ給ひぬと、よそには披露ありながら、実〔まこと〕は鴆に犯されて、逝去し給ひけるとぞささやきける。
 去々年の秋は、師直、上杉、畠山を亡ぼし、去年の春は、禅門、師直、師泰以下を誅せらる。今年の春は、禅門また、怨敵のために毒を呑みて、失せ給ひけるこそあはれなれ。「三過門間の老病死、一弾指頃の去来今」(とも、かやうの事をや申すべき。因果歴然の理りは)、いまに始めぬ事なれども、三年の中に日を替へず、酬ひけるこそ不思議なれ。
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この直義の死について、佐藤進一氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)において次のように述べています。(p262)

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 十一月三日、尊氏は綸旨拝受の請文(答書)を使者に渡すと、翌日、京都の守備を義詮に任せて東下した。十六年前、中先代の乱で救援に向かった当の実弟直義を討伐するためである。
 尊氏は駿河の蒲原、伊豆の国府、相模の早河尻で直義軍を破って、翌年正月五日、鎌倉に入り、直義をくだした。その翌月ちょうど高師直・師泰の一周忌に当たる二月二十六日に直義は死んだ。享年四十五歳。死因については『太平記』が、「黄疸という発表だが、じつは鴆毒をもられたといううわさだ」と伝えているだけであるが、多くの学者はこのうわさはおそらく真実を伝えるものと見ている。
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最近の研究者でも、例えば清水克行氏は『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)において、

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 十二月、尊氏は、駿河湾を東にのぞむ薩埵山(現在の静岡県静岡市)に陣を構え、そこを死守し、ついに下野宇都宮氏らの支援をうけ、直義軍を壊滅させる。伊豆山中に遁れた直義は戦意を喪失し、尊氏に降伏。翌年正月、そのまま尊氏にともなわれて鎌倉に入った。
 そして二月、直義は幽閉先の鎌倉浄妙寺境内の延福寺において、謎の死をとげる。享年四十六歳。死去した場所は延福寺ではなく、別に大休寺とも、稲荷智円坊屋敷とも言われている。『太平記』は、直義の死因を「鴆毒」(鳥の羽の毒)によるものと述べ、尊氏による毒殺であったとの噂を伝えている。
 この『太平記』の記述をめぐって、直義の死は暗殺か自然死か、古くから研究者のあいだで議論が分かれている。しかし、私は、やはり偶然にしては直義の死はあまりにタイミングが良すぎる気がする。直義の存在によって、これ以上、幕府が動揺するのを抑えるため、尊氏は、みずからの判断で実の弟に手を下したのではないだろうか(なお、直義の命日が高師直のちょうど一周忌にあたることから、その日を狙って誅殺したとする見解もあるが、そこまで念の入ったことをする必然性は感じられないので、うがち過ぎであるように思える)。なお、このあと尊氏はみずからが死去する二カ月前に、にわかに直義の霊に従二位の位を与え、弟の霊を慰めることに努めている。実の弟をわが手にかけて平静でいられるはずもなく、どうやら尊氏は死の間際まで良心の呵責に苛まれていたようである。
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と書かれています。(p82以下)
他方、亀田俊和氏は『観応の擾乱』(中公新書、2017)において、

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 直義は尊氏に毒殺されたとする説が、古くから有力である。しかし、筆者はこの見解には懐疑的である。
 古今東西、政争に失脚した政治家が失意のうちに早世することは頻繁にある。四六歳という享年も、当時としてはよくある年齢である。甥の義詮も三八歳で死去している。史料的にも毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない。【中略】
 管見の限りでは、筆者以外に毒殺説を否定する論者に峰岸純夫氏がいる。峰岸氏は、黄疸が出たとする『太平記』の記述に基づいて、直義の死因を急性の肝臓ガンであったと推定する(『足利尊氏と直義』)。
 少なくとも高師直との抗争が勃発して以来、直義の精神的・肉体的な重圧が相当なものであったことは確かであろう。兄や甥と望まない戦争を行わざるを得ない状況となり、四〇歳を超えて初めて授かった実子も陣中で失った。再三指摘する合戦での消極性も、健康状態の悪化が一因だった可能性もある。加えて、幽閉先で失意を紛らわせるために酒を飲みすぎるなどして黄疸が出たことは十分にあり得ると思う。
 ただし直義の場合、死去した月日が偶然にも師直の命日と重なった。そこから、当時から毒殺説が流布したのだと考える。
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とされています。(p174以下)
まあ、私は「史料的にも毒殺を記すのは『太平記』くらいしか存在しない」だけで毒殺否定説が正しいと思いますが、『太平記』に描かれた二つの鴆毒エピソードのうち、恒良・成良毒殺エピソードが、少なくとも成良に関しては「荒唐無稽だというほかない」(by 森茂暁氏)以上、これと明らかに関係づけられた尊氏による直義毒殺エピソードも「荒唐無稽だというほかない」と考えます。
尊氏・直義が恒良・成良を鴆毒で殺したというエピソードを創作した『太平記』の作者は、その因果応報で直義も尊氏に鴆毒で殺されたのだというエピソードを創作した訳ですね。
西源院本ではそこまではっきり書いてはいませんが、流布本では恒良・成良毒殺エピソードに「かくつらくあたり給へる直義朝臣の行末、いかならんと思はぬ人も無りけるが、果して毒殺せられ給ふ事こそ不思議なれ」(『日本古典文学大系 太平記(二)』、p282)という文章が付け加えられていて、こうした発想が中世の人の常識だったことが伺われます。
それにしても、毒殺否定説の論者が亀田氏と峰岸氏以外にいないらしいことは本当に驚きです。
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