学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その2)

2021-01-12 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月12日(火)11時50分13秒

続きです。(p316以下)

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 氏光罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて仰せられけるは、「病の未だ見えぬ前に、かねて療治を加ふる程に、われらをいたはしく思ふならば、この一室に押し籠めて、朝暮物を思はすべしや。これ必ず病を治する薬にはあるべからず。ただ命を縮むる毒なるべし」とて、庭へ打ち捨てんとせさせ給ひけるを、東宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、それ程に情けなき所存を挟むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命にても候はず。これ元来〔もとより〕願ふ所の成就なり。ただこの毒を飲んで、世を早くせばやとこそ思ひ候へ。「それ人間の習ひ、一日一夜を経る程に、八億四千の思ひあり」と云へり。富貴栄花の人に於て、なほこの苦しみを遁れず。況んや、われら籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むる如くになつて、聞くに付け見るに随ふ悲しみの中に、待つ事もなき月日を送らんよりは、命を鴆毒のために縮めて、後生善処の望みを達せんには如かじ」と仰せられて、毎日に法華経を一部あそばされて、この鴆毒をぞまゐりける。将軍宮、これを御覧じて、「誰とても浮世に心を留むべきにあらず。同じ暗き路を迷はん後世までも、御供申さんこそ本意なれ」とて、もろともにこの毒を七日までぞまゐりける。
 やがて東宮は、その翌日より御心地例に違はせ給ひけるが、御終焉の儀閑まりて、四月十三日の暮程に、忽ちに御隠れありてけり。将軍宮は、二十日余りまでも恙もなくて御座ありけるが、黄疸と云ふ御労り出で来て、御遍身黄にならせ給ひて、これもつひにはかなくならせ給ひにけり。
 あはれなるかな、尸鳩〔しきゅう〕樹頭の花、連枝一朝の雨に随ひ、悲しいかな鶺鴒〔せきれい〕原上の草、同根忽ちに三秋の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例少なくあはれなる事を聞く人心を傷ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。
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恒良親王は『元弘日記裏書』によれば元亨二年(1322)生まれとなりますが、元弘の変の戦後処理で流罪となっておらず、もう少し若年と考えるのが自然です。
『増鏡』巻十六「久米のさら山」には、このとき西園寺公宗に「八つになり給ふ」皇子が預けられたとあり、これが恒良の可能性が高いので、正中二年(1325)生まれとしてよさそうです。

恒良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B

成良は嘉暦元年(1326)生まれなので、二人が暦応元年(1338)に毒殺されたとすると、それぞれ十四歳・十三歳の若さですね。
そして「尸鳩樹頭の花」云々は兵藤氏の脚注23に「尸鳩(鳩の一種)のとまる木の同じ幹から出た枝先に咲く二つの花が、ある朝の雨でたちまちに散り。「尸鳩の仁」は、子を養う仁愛の意で。尸鳩は、子を愛しむ親鳥。連枝は、兄弟」(p317)とあります。
また、「鶺鴒原上の草」云々は同じく兵藤氏の脚注24に「鶺鴒のいる野原の根を同じくする草が、秋三か月の霜にはかなく枯れてしまう。鶺鴒は、「詩経」小雅・常棣の「脊令原に在り、兄弟難に急ぐ」から、兄弟。同根は、曹植「七歩の詩」の「本は是れ根を同じくして生ず」で、兄弟」(p318)とあって、読者の脳裏には兄弟のイメージが何度も喚起されます。
尊氏・直義の同母兄弟による恒良・成良の同母兄弟殺しは『太平記』の中でも格別に陰惨な印象を与えるエピソードですが、『太平記』作者による中国古典の引用は読者のそうした印象を効果的に強めていますね。
ところで、粟飯原氏光の役割は「兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ」し折の淵野辺義博を連想させるとともに、粟飯原氏光の息子が足利直義を裏切って高師直に「目くはせ」をして暗殺を失敗させた粟飯原清胤なので(第二十七巻第十節「左兵衛督師直を誅せんと欲せらるる事」)、「粟飯原」が何かの「目くはせ」のようにも感じられます。
まあ、それはちょっと考えすぎかもしれませんが、殺害方法が鴆毒ですから、『太平記』の読者の多くが連想するのは、やはり直義の死でしょうね。
こちらは第三十巻第十一節「恵源禅門逝去の事」に出てきますが、第十節「薩埵山合戦の事」の末尾には、

-------
 高倉禅門は、余りに気を失ひて、北条にもなほたまり得で、伊豆の御山へ引いて、大息つきておはしけるが、「忍んで、いづちへも一〔ひと〕まど落ちてやみる、自害をやする」と、案じ煩ひ給ひける処に、また和睦の義ありて、将軍より様々御文を遣はされ、畠山安房守国清、仁木武蔵守頼章、舎弟越後守義長を御迎ひに進〔まいら〕せられたりければ、今の命の捨て難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門、降人になつて、将軍に打ち連れ奉り、正月六日の夜に入りて、鎌倉へぞ帰り入り給ひける。
-------

とあって(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p61以下)、『太平記』作者の直義(高倉禅門)に対する視線は極めて厳しいですね。
第十一節は次の投稿で紹介します。
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同母兄弟による同母兄弟の毒殺、しかも鴆毒(その1)

2021-01-11 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月11日(月)13時24分28秒

征夷大将軍を経てから皇太子、という成良親王の経歴は極めて珍しいもので、日本史上唯一無二、空前絶後だと思いますが、それにしては成良親王についての本格的な研究は少ない、というより皆無ですね。
とにかく成良親王周辺の状況の変化は余りに目まぐるしいので、年表に整理しておくと、

嘉暦元年(1326)成良親王誕生
元弘三年(1333)十二月 鎌倉下向
建武元年(1334)二月五日 征夷大将軍(鈴木小太郎単独説)
建武二年(1335)八月一日 征夷大将軍(『相顕抄』に基づく通説)
建武三年(=延元元年、1336)二月 征夷大将軍解任(『職原抄』)
同年三月 多々良浜の戦い
同年五月 湊川の戦い、楠木正成戦死
同年八月 尊氏の奏請で光明天皇即位
同年十月 新田義貞、尊良・恒良親王を伴い越前へ下る
同年十一月 後醍醐、光明に神器を渡す。成良、光明の皇太子となる
同年十二月 後醍醐、吉野へ移る
建武四年(=延元二年、1337)三月 金崎城陥落、尊良親王自害、恒良親王京都へ
同年十二月 北畠顕家、義良親王を奉じ鎌倉を攻略
暦応元年(延元三年、1338)一月 青野原の戦い
同年四月 (『太平記』によれば恒良・成良親王毒殺される)
同年五月 北畠顕家、和泉堺浦・石津で高師直らと戦い戦死
同年閏七月 新田義貞、越前藤島の戦いで戦死
康永三年(1344)一月 成良親王没(『師守記』)

といった具合です。
さて、『太平記』に記された恒良・成良親王の毒殺には、その伏線として、建武四年(=延元二年、1337)三月の越前・金崎城陥落に際し、東宮・恒良親王が新田義貞・脇屋義助は自害したと嘘をついた、という話があります。

金ヶ崎の戦い (南北朝時代)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E3%83%B6%E5%B4%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84_(%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3)

兵藤裕己校注『太平記(三)』巻十八の第十節「東宮還御の事」には、金崎城の激戦に続いて、

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 夜明けければ、蕪木の浦より、東宮御座の由を告げたりける間、今川駿河守〔頼貞〕、御迎ひに参りて取り奉る。
 去んぬる夜、金崎にて討死、自害の頸八百五十四取り並べて、実検せられけるに、新田の一族の頸には、越後守義顕、里見大炊助義氏の頸ばかりあつて、義貞、義助二人の頸はなかりけり。さては、いかさまその辺の淵の底なんどにぞ沈まれたらんとて、海人を入れて潜かせけれども、かつて見えざりければ、足利尾張守〔斯波高経〕、東宮の御前へ参つて、「義貞、義助二人が死骸、いづくにあるとも見え候はぬは、何となつて候ひけるやらん」と尋ね申しければ、東宮、御幼稚の御心にも、かの人々杣山にありと敵に知らせなば、やがてこれより寄する事もこそあれと思し召されけるにや、「義貞、義助二人は、昨日の暮れ程に自害したりしを、手の者どもが、役所の中にて、火葬にすると曰ひ沙汰せし」と仰せられければ、「さては、その死骸のなきは道理なりけり」とて、これを求むるに及ばず。さてこそ、杣山にははかばかしき敵なければ、なにとなくとも、今は降人にこそ出でんずらんとて、暫くが程は閤〔さしお〕きけれ。
-------

とあります。(p254以下)
この後、しばらくほとぼりを冷ましてから、新田義貞・脇屋義助は杣山を拠点に反抗を始める訳ですね。
そして、巻十九第四節「金崎の東宮并びに将軍宮御隠れの事」で、次のような展開となります。(p315以下)

-------
 新田義貞、義助、杣山より打ち出て、尾張守、伊予守、府中その外〔ほか〕所々落とされぬと聞こえければ、尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて、「この事はひとへに、東宮の宮の、かれらを御扶〔たす〕けあらんとて、金崎にて皆腹を切りたりと仰せられけるを、誠と心得て、杣山へ遅く討手を差し下しつるによつてなり。この宮、これ程に当家を失はんと思し召しけるを知らで、ただ置き奉らば、いかさま不思議の御企てもありぬと覚ゆれば、ひそかに鴆毒をまゐらせて失ひ奉れ」と、粟飯原下総守氏光に下知せられける。
 東宮は、連枝の御兄弟に将軍宮とて、直義朝臣の先年鎌倉へ申し下しまゐらせられたりし先帝の第七宮と、一つ御所に押し籠められて御座ありける処へ、氏光、薬を一裹〔つつ〕み持参して、「いつとなくかやうに打ち籠もりて御座候へば、御病気なんどの萌〔きざ〕す御事もや候はんずらんとて、三条殿より調進せられて候。毎朝に一七日〔ひとなぬか〕の間聞こし召し候へ」とて、御前にぞ差し置かれける。
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いったん、ここで切ります。
「尊氏卿、直義朝臣、大きに怒つて」粟飯原下総守氏光に毒殺を命じたとありますが、鴆毒は「三条殿より調進せられて候」とのことなので、直義が主導したような書き方ですね。
いずれにせよ、成良親王は別に「当家を失はんと思し召し」ていた訳でもないのに、恒良親王のとばっちりで毒殺されてしまったことになります。
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帰京後の成良親王

2021-01-11 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月11日(月)11時07分20秒

前々回の投稿で、私が征夷大将軍について調べ始めるきっかけとなった成良親王について従来の投稿を整理しておきましたが、『太平記』に描かれた帰京後の成良親王の運命も極めて興味深いので、ここで纏めておきます。
先ずは森茂暁氏の『皇子たちの南北朝─後醍醐天皇の分身─』(中公新書、1988)に即して、成良親王の死亡時期を中心に客観的事実を確認しておきます。(p75以下)

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関東の鎮撫
 鎌倉幕府は潰え去っても、鎌倉はなお関東の武士たちと深いえにしで結ばれていた。
 義良の奥州下向に遅れること二ヵ月の元弘三年十二月、八歳の成良は、相模守足利直義に奉じられて鎌倉に下向した。【中略】
 成良が鎌倉に滞在したのは、中先代の乱のあおりを受けて、直義とともに鎌倉を脱出する建武二年七月までの一年七ヵ月の間にすぎない。直義は成良を京都に帰し、みずからは軍を三河にとどめた。
 この間の成良の事蹟は、ほとんど目に入らず、ただ建武元年一月十三日の県召除目で四品・上野太守に叙せられたこと(『続史愚抄』)、同年四月十日、足利直義が成良の意をうけて、相模の武士三浦時継の勲功を賞して武蔵国大谷郷および相模国河内郷の地頭職を給付する文書を出したこと(『葦名古文書』)くらいが知られるにすぎない。
 しかし、この足利直義の文書については、それが旧鎌倉幕府の代表的な政務文書の一つであった関東下知状の様式をとっており、直義がみずからを旧幕府の執権に擬しているとみられる点は、たいへん興味深い。
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この「関東下知状の様式」を取った文書については、以前、森茂暁・亀田俊和氏の見解を紹介し、併せて桃崎有一郎氏の見解についても少し検討しました。

「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e
「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d81f559d0c26eb98ee65324512ff7c0c

さて、問題は帰京後の成良の動向です。(p77以下)

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 京都に戻った成良は、父後醍醐の側近くに侍ったが、時代の荒波は容赦なく成良を翻弄した。
 建武二年八月には、征夷大将軍のポストを尊氏に渡さないために、成良がこれに任ぜられたし(『相顕抄』『神皇正統記』)、翌延元元年十一月には後醍醐─光厳両院の一時的和睦のもとで、成良は光明天皇の皇太子にすえられた。
 成良が皇太子に立てられたのは、鎌倉後期以来の両統(持明院統・大覚寺統)迭立の原則が復活したことと、成良自身が「本より尊氏養ひ進せたりけ」(『保暦間記』)る皇子であったことによる。
 成良が尊氏によって養育されたという記事は注目される。しかし、成良が皇太子であったのは、わずかの期間であった。翌十二月には、和睦が破綻、後醍醐は神器を奉じて吉野にのがれているから、成良の皇太子も同時に廃されたと考えられる。
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「京都に戻った成良は、父後醍醐の側近くに侍ったが」とありますが、『続史愚抄』には八月三日「征夷大将軍成良親王自鎌倉帰洛。大江時古<相模守直義朝臣家人>守護云<〇元弘記裏書、南方紀伝、五大成>」(『続史愚抄』)とあって、成良は暫くは直義の家人・大江時古の保護下に置かれていたようですね。
ただ、この後、遅くとも十一月には尊氏と後醍醐の関係が破綻するので、成良の居所にも影響はあったでしょうが。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a3d642e86c00b75693207c4ccd6d3a8

延元元年(=建武三年、1336)十一月成良が光明天皇の皇太子になったことについては、亀田俊和氏は「この成良立太子もまた、尊氏が建武政権を完全否定せず、それどころか理念的にも政策的にもその後継者を自認していたとする筆者の説を補強する材料に加えてもよいと考える」とされています。

「親足利の後醍醐皇子成良親王」(亀田俊和氏『南朝の真実』)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2d9df0c885a87bff89426d3b64d452ef

さて、成良立太子の翌十二月、後醍醐が吉野に逃亡して以降、成良の運命や如何に。

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 この後の成良の動向はまったくわからない。その没については、『太平記』(巻十九)が延元二年三月の越前金崎城陥落の際に捕らえられて洛中に戻された兄恒良と「一処に押籠られ」たのち、翌三年四月ともに鴆毒で殺されたと描く。しかも成良については、
 廿日余まで御座ありけるが、黄疸と云ふ御いたはり(病気)出来て、御遍身黄に成せ給て、是も
 終に墓なくならせ給にけり……
と、その終焉のようすをこと細かに説明している。
 しかし一方、同時代人の日記たる『師守記』の康永三年(一三四四)一月六日条に、前左大臣近衛基嗣に預けおかれていた、「後醍醐院皇子先坊」が没したということが記されている。「先坊」が「前坊」とはちがい、直前の皇太子を意味することは、ほかの事例からも明らかであるので(たとえば『師守記』貞治四年四月十九日条の頭書では、後二条天皇の子邦良を「前坊」と記す)、「先坊」が成良をさすことはまちがいない。従って延元三年に成良が没したとする『太平記』の記述は、荒唐無稽だというほかない。
 そのように考えれば、成良の没年は康永三年(南朝興国五年)、享年は十九歳ということになる。延元元年十二月に皇太子を辞した成良は、あるいはそのまま京都にとどまり、近衛基嗣に預けられていたのかもしれない。なお成良の墓所は不明である。
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ということで、森茂暁氏は『太平記』の成良没の記述を「荒唐無稽」と評されています。
次の投稿で当該記述を紹介しますが、尊氏・直義の同母兄弟により恒良・成良の同母兄弟が殺害され、しかもその方法が鴆毒による毒殺ということで、『太平記』の中でも特に陰惨な場面ですね。
そして、鴆毒云々は尊氏による直義の毒殺エピソードを連想させ、この二つの鴆毒エピソードは明らかに関連があるように思われます。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その16)

2021-01-09 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 9日(土)18時28分59秒

吉原論文の検討も、いよいよこれで最後です。(p52)

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   おわりに

 建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた。しかし、建武政権下での後醍醐の軍事関係文書は、元弘の乱と建武二年(一三三五)の尊氏離反以後のものを除けば数通しか現存しない。この中において足利尊氏は、元弘三年(一三三三)に元弘の乱の戦後処理を担当し、建武元年(一三三四)九月には鎮西警固の綸旨を施行している。さらに、元弘の乱において尊氏は、地方の守護層を取り込むことにより倒幕勢力を掌握し、恩賞仲介を通して地方の守護層とより強固な関係を構築していた。この尊氏と地方の守護層との関係は、鎮西の実例からして建武政権下を通して継続していたと考えられる。
 この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった。この時点で尊氏は、軍事部門の責任者として政権内に位置づけられたのである。さらに後醍醐は、元弘三年八月五日に尊氏を従三位、建武元年正月五日に正三位へ叙し、同九月十四日に参議に任じている。この尊氏の公卿化からは、尊氏を朝廷機構内に規定しようとする後醍醐の意図を読み取ることができる。決して尊氏は、政権内から排除されてはいなかったのである。それどころか「神皇正統記」に「カクテ高氏ガ一族ナラヌ輩モアマタ昇進シ、昇殿ヲユルサルゝモアリキ、サレバ或人ノ申サレシハ、公家ノ御世ニカヘリヌルカトオモヒシニ中々猶武士ノ世ニ成ヌル、トゾ有シ」とあるように、後醍醐は公家達が不満を抱くほど尊氏を筆頭とした武士達を昇進・昇殿させ朝廷内に取り込んでいたのである。「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」というのも、尊氏の異例の昇進に対する公家達の不満の現れと捉えるべきであり、尊氏が政権から排除されていたことを意味するものではないと考える。
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いったん、ここで切ります。
「この尊氏の役割は、元弘の乱における後醍醐との緊密な連絡関係の中で培われ、元弘三年六月五日の鎮守府将軍への補任によって公的なものとなった」とありますが、若干唐突な感じもしますね。
私もこの結論は妥当と考えますが、もう少し説明があればより適切だったのでは、と思います。
なお、「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず」に付された注(105)には、

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(105) 建武政権下では、軍事機関として窪所・武者所が存在する。しかし、森氏は、尊氏離反以前の窪所・武者所を天皇の親衛隊的なものとされる(森前掲「建武政権の構成と機能」、一二九~一二四頁)。
-------

とあります。
「建武政権の構成と機能」は森氏の『南北朝期公武関係史の研究』(文献出版、1984)所収の論文ですね。
また、「梅松論」の「公家ニ口遊アリ、私云、無高氏ト云語、好ミツカヒケリ」云々は、対象を特定はしていませんが、実際は佐藤進一説批判ですね。
佐藤氏は『南北朝の動乱』(中央公論社、1965)で、「はじめに」の次の章「公武水火の世」に「高氏なし」という項目を立て、そこで、

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 新政初期の政治情勢を考えるうえに、もう一つ参考になるのは政府機関の人的構成である。
 新政が始まるとまもなく(時日は明らかでない)、記録所・恩賞方という二つの機関が設けられた。【中略】
 一方、実力者である足利高氏は、位階の特別昇進、鎮守府将軍で大いに優遇されたように見えて、二つの機関の職員には加えられない。むしろ実力者であり、新政への抵抗勢力となる危険があるからこそ敬遠されるのである。貴族の間に「高氏なし」という暗号めいた諷刺がささやかれたのは、多分このころであろう。高氏が護良との対立を深める一方、新政への抵抗の姿勢をかためるのは自然の勢いである。
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と述べていますが(p25)、現在では『梅松論』の「高氏なし」を格別に重視する佐藤氏に賛同する研究者は少なくなったように感じます。
『南北朝の動乱』には『太平記』べったりの記述に加え、『梅松論』べったりの記述も多く、佐藤氏はずいぶん大胆に軍記物を活用されていますね。

現代語訳『梅松論』(芝蘭堂サイト内)
http://muromachi.movie.coocan.jp/baisyouron/baisyou18.html

さて、吉原論文に戻って続きです。

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 建武政権下で後醍醐は、尊氏を鎮守府将軍に任じて軍事的権限を付与し、自身が行うべき軍事的な実務を代行させていた。とはいっても、最終的な軍事指揮権と任免権は後醍醐が握っており、一定の軍事的権限が付与されていた奥州府・鎌倉府の所轄地域に尊氏が公的に関与する必要もなかった(勿論、弟足利直義が中核となって運営されていた鎌倉府に対して尊氏が個人的に影響力を及ぼしたことは否定しない)。尊氏の権限行使は、実際には奥州府・鎌倉府が所轄していない地域(例えば鎮西)が対象になったと考えられる。しかし、奥州府・鎌倉府の権限は、広域行政府とはいえ特定の地域に限定されるものである。全国規模で権限を行使できるのは、後醍醐本人と尊氏の二人だけだった。このため尊氏が離反すると後醍醐は、各国の国人層に対して直接軍勢催促しなければならなくなっている。このような尊氏の立場は、尊氏が個人的に勢力拡大を計った結果というよりも、鎮守府将軍への補任によって公式に付与された権限に由来していたのである。
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「おわりに」の冒頭には「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関は確認されず、これまで軍事は後醍醐天皇の専決事項と認識されてきた」とありましたが、最後まで読むと、「鎮守府将軍」の尊氏をトップとする「鎮守府」という機関が「建武政権において全国規模で軍事を統括した機関」だったのではなかろうか、という感じもしてきますね。
まあ、そういう機関があったことを示す史料はないのでしょうが、足利家は鎌倉時代から充実した行政・軍事機構を整備していたので、そうした機構が「鎮守府」にそっくりそのまま移行すればそれなりに機能しそうです。
また、吉原氏は奥州府・鎌倉府は尊氏の管轄外とされますが、そもそも奥州府・鎌倉府という「広域行政府」の発想はどこから出てきたのか。
この点については、かつては佐藤氏の「逆手取り」論が定説でしたが、史料的根拠もない、殆どアクロバティックな奇妙な議論でしたね。
現在では北畠顕家を実質的なトップとする奥州府の方が、足利直義を実質的なトップとする鎌倉府よりもむしろ旧来の鎌倉幕府的な仕組みを整備していたことが明らかになっていますが、顕家を奥州に派遣した直後に直義を関東に送り込んだ後醍醐にとっては、そうした地域的差異を設けることがそれなりに合理的な根拠に基づく判断だったと思われます。
ただ、そう考えると、何故に後醍醐が統治の対象としての関東と奥州の違いを知ることができたのかも問題となります。
この点、仮に尊氏の役割が、吉原氏が想定しているよりも更に高度な、全国レベルの軍事・行政の諮問機関、という表現が大袈裟だとすれば、まあ後醍醐の相談役のような存在だったとすれば、鎌倉時代から東北にも領地を有していた足利家のトップである尊氏は、奥州府・鎌倉府の問題についても後醍醐に適切なアドバイスをすることができたように思われます。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その15)

2021-01-09 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 9日(土)13時11分29秒

続きです。(p51)

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 そもそも征夷大将軍の称号は、後醍醐にとって容認し難いものだった。史料Xに「其後上野太守成良親王令兼之給、建武三年二月被止其号畢」とあるように後醍醐は、一旦尊氏追討に成功すると成良を征夷大将軍から解任し、以後征夷大将軍の称号を停止して任命を行っていない。従来、護良の征夷大将軍職解任は、後醍醐の志向した専制政治との対立、尊氏との個人的な抗争による敗北などと評されてきた。勿論、護良と尊氏との間に対立関係が存在し、護良失脚の一因となったであろうことは否定しない。しかし、護良失脚の直接的な原因は、「征夷大将軍」の役割をめぐる後醍醐と護良の認識のずれにあったと考えられる。これに対して尊氏は、鎮守府将軍に任じられ後醍醐自身が行うべき軍事的な実務を代行していたのである。史料Uにおける尊氏の権限発動も、「鎮西軍事指揮権」という鎮西に限定された権限として捉えるべきではなく、鎮守府将軍としての全国規模での軍事的権限に由来すると考えるべきである。
-------

「後醍醐は、一旦尊氏追討に成功すると成良を征夷大将軍から解任し、以後征夷大将軍の称号を停止して任命を行っていない」に付された注(103)と「従来、護良の征夷大将軍職解任は、後醍醐の志向した専制政治との対立、尊氏との個人的な抗争による敗北などと評されてきた」に付された注(104)は、いずれも森茂暁『皇子たちの南北朝─後醍醐天皇の分身─』、中公新書、1988)の関係ページを示していて、この吉原氏のこの時期に関する基本認識は森茂暁氏の影響を強く受けていますね。
さて、吉原氏は成良親王が征夷大将軍に任官した時期は建武二年八月一日としていて(注98)、これは『相顕抄』に基づいています。
もともと私は桃崎有一郎氏の『室町の覇者足利義満 朝廷と幕府はいかに統一されたのか』(ちくま新書、2020)に、

-------
成良親王は後に征夷大将軍になるが、それは約二年後に、京都に送り返された後である。(p26)
直義を救うため、尊氏は出陣の許可と征夷大将軍への任命を後醍醐に要請した。しかし後醍醐は却下し、京都に戻った成良親王を征夷大将軍にした。一〇歳の彼に将軍など務まらないが、「尊氏だけには与えない」というあてつけだ。(同)
-------

という記述があったので、この出典は何かなと思って成良親王について調べ始めたのが征夷大将軍の問題に入り込んだきっかけでした。
定石通り『大日本史料』を見ようかなと思ったものの、コロナのためにいつも利用している大学図書館に行きづらく、代替として『続史愚抄』を見て、建武元年(1334)十一月十四日条に「四品上野太守成良親王<九歳。今上皇子。自去年在鎌倉。>有征夷大将軍宣下」とあったので、一時はこれこそ真実と信じ込んでしまうような紆余曲折もありました。
ただ、最初に『大日本史料』を見て碩学・田中義成が成良親王が征夷大将軍となったのは建武二年八月一日と断じており、その根拠が『相顕抄』という何だか権威がありそうな史料だと知ったら私もそれで納得してしまったでしょうから、ある意味コロナ様々だな、とも思っています。
時節柄、若干不謹慎な言い方ではありますが。

西源院本『太平記』に描かれた青野原合戦(その3)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/2a3d642e86c00b75693207c4ccd6d3a8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd19236999a4fdb51b60719f34dea0ca
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/c570eabc77c671779a06556b40320714
『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bad1ac040c2c8369349a1ddaaeb597d

そして亀田俊和氏や森茂暁・桃崎有一郎氏等の見解を参照しつつ、あれこれ考えてみた結果、私の一応の結論は、成良の征夷大将軍任官は建武元年(1334)二月五日ではなかろうか、というものです。

「(鎌倉将軍府は)制度的にみると室町時代の鎌倉府の前身」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7fd0e1db7797023f427b1678eefaa60e
「御教書以外では、主帥成良親王の仰せを奉ずる形で直義が出した下知状もある」(by 森茂暁氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/43276572022babedbef4c94f2e88da7a
「直義が鎌倉に入った一二月二九日は建久元年(一一九〇)に上洛した源頼朝の鎌倉帰着日と同じ」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/99da6cfdc6137a7819a7db87f66b3e69
「"鎌倉将軍府"と呼ぶ専門家が結構いるが、それはさすがにまずい」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ea248014a2858bfa1018cd6ee6c824e
「得宗の家格と家政を直義が継承」(by 桃崎有一郎氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3beb01268e2e2003427f19077e25c35a
護良親王の征夷大将軍解任時期との関係
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fe78f236a9c90bb5ae313028bd0e3fed
成良親王の征夷大将軍就任時期についての私の仮説
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6e260a5e387875c10aefd0577bab9121
「前述の直義下知状は、その唯一の例外である」(by 亀田俊和氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d81f559d0c26eb98ee65324512ff7c0c
「大御厩事、被仰付状如件、 元弘四年二月五日 直義(花押)」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9359c9afe80e23d85454c1e42ee4cf30
人生初の『南北朝遺文 関東編』
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4ced125efdf3f4899555a8fca605944b

結局のところ、私は建武新政期においては征夷大将軍というものは極めて軽い存在だったと考えているので、冒頭で引用した吉原氏の見解とは基本的前提が異なり、吉原説に賛成できる点はあまりない、ということになります。

征夷大将軍という存在の耐えられない軽さ(その1)~(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/22bc2fda80bb8070e6da5425f64f3316
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/37968ec2d22b9aaae94c672afd446770
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4fd1116047e33b2545c9b6155eab52b8
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/679ad9e52ebe90324ce3fb8e11eef575
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5290706102cdc152ca6ace8485c7f606
「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その14)

2021-01-08 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 8日(金)12時09分23秒

続きです。(p51)

-------
 それでは、同時期に征夷大将軍に補任されていた護良の立場は、どの様に考えればよいのだろうか。後醍醐の皇子で倒幕の殊勲者でもある護良は、征夷大将軍への就任を強く望んでいた。しかし、護良は、征夷大将軍への就任から短期間のうちに解任されている。さらに、在任期間に護良が発給した文書からは、尊氏にみられるような公的な戦後処理の形跡は確認されない。とはいっても、護良にとって征夷大将軍への就任は、討幕活動における主導的役割の延長として受け止められ、自分こそが軍事の最高責任者との自負があったはずである。事実、後醍醐が帰京した後も護良は、令旨による独自の権限発動を続けて結果的に混乱を招くこととなった。
 これに対して尊氏は、護良とは対照的に後醍醐が帰京する直前まで行っていた禁制・書下による独自の権限発動を帰京後は止めている。そして、鎮守府将軍への就任直後に尊氏は、本来後醍醐が行うべき軍事的な実務を代行した史料M・N・O・Pなどを発給している。このことから後醍醐としては、護良ではなく尊氏を軍事的な実務の代行者と位置づけていたことがわかる。後醍醐にとって護良の征夷大将軍への任命は、実質的な権限を伴ったものではなかったのである。この征夷大将軍をめぐる両者の認識の差は、護良と後醍醐の間の溝を拡大させていったはずである。
-------

「後醍醐が帰京した後も護良は、令旨による独自の権限発動を続けて結果的に混乱を招くこととなった」に付された注(101)を見ると、典拠は森茂暁氏の「大塔宮護良親王令旨について」ですが、入手が遅れていて私は未読です。
また、「尊氏は、護良とは対照的に後醍醐が帰京する直前まで行っていた禁制・書下による独自の権限発動を帰京後は止めている」に付された注(102)には、

-------
(102) 後醍醐が帰京した元弘三年六月五日を前後して、四月~八月の間に尊氏が発給した文書は三四通が確認される。六月四日以前には、諸士宛の軍勢催促状一三通・書状一通、寺社宛の禁制五通、祈祷受理の書状一通、諸士宛の沙汰居えを命じた書下二通を発給している。六月五日以降には、戦後処理の書状四通・書下一通、東海道路地の狼藉禁止を命じた禁制一通を発給している。
-------

とあります。
大友貞宗宛の史料M・Nについては(その9)で引用し、小笠原宗長宛の史料史料O・Pについても若干触れています。

吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/fa67201f95617db5380fa9988c67a99f

さて、吉原氏は「後醍醐の皇子で倒幕の殊勲者でもある護良は、征夷大将軍への就任を強く望んでいた」にもかかわらず「後醍醐にとって護良の征夷大将軍への任命は、実質的な権限を伴ったものではなかった」とし、「征夷大将軍をめぐる両者の認識の差」が「護良と後醍醐の間の溝を拡大させていった」とされる訳ですが、これはずいぶん奇妙な話ではないですかね。
護良が征夷大将軍への就任を強く望んでいたなら、任官の際に自分が得た「実質的な権限」の内容を後醍醐にきちんと確認するはずです。
また、護良が任官時にうっかり「実質的な権限」の内容を確認しなかったとしても、尊氏が「本来後醍醐が行うべき軍事的な実務を代行」していて、後醍醐は「護良ではなく尊氏を軍事的な実務の代行者と位置づけていたことがわか」った時点、即ち自分に全く権限がないことが分かった時点で、護良は「俺を騙したな」と後醍醐に詰め寄り、二人の関係が決裂してもおかしくないはずです。
しかし、実際には護良は「征夷大将軍への就任から短期間のうちに解任」されながら、特段の行動を起こさず、後醍醐の解任決定をあっさり受け入れたように見えます。
結局、護良が信貴山に立て籠もって尊氏の征伐と征夷大将軍任官を強く要求したという『太平記』のエピソードを排除して、護良の征夷大将軍任官と解任に関する時系列に沿った客観的な事実を素直に眺めれば、征夷大将軍をめぐって後醍醐・護良・尊氏間には何のトラブルもなかったと考えるのが自然ですね。
つまり、元弘三年の時点で征夷大将軍は別のそれほどの重職とは関係者の誰一人思っておらず、後醍醐は単なる名誉職としてこれを護良に与え、その僅か二・三ヵ月後、後醍醐はそれなりの理由をつけて護良に退任を求め、護良も素直に了解したのではないか、と私は考えます。
その場合のそれなりの理由としては、近い将来に護良の弟の親王を鎌倉か奥州あたりに派遣するつもりだから、その際の箔付けとして征夷大将軍の地位を弟に譲ってやってくれないか、みたいなことも考えられますね。
こうした理由で頼まれたら、護良も反発するどころか、自分が寛大で器の大きい人間であることを示すために喜んで譲ってやったのではなかろうか、などと想像すると、いささか小説の域に入りかけているような感じもしますが。
ところで吉原氏は「本来後醍醐が行うべき軍事的な実務を代行」とか「護良ではなく尊氏を軍事的な実務の代行者」などと言われますが、この「代行」という表現が私にはちょっと理解できません。
「代行」の通常の意味は、

-------
当事者に支障があるときなどに、代わってその職務を行うこと。また、その人。「事務手続きを代行する」「学長代行」

https://kotobank.jp/word/%E4%BB%A3%E8%A1%8C-556916

ということでしょうが、「軍事的な実務」は「本来後醍醐が行うべき」ことなのか。
確かに後醍醐はそれなりの軍事的活動を自身で行っていますが、それはあくまで討幕という緊急事態、一種の革命的状況の中の例外的活動であって、「本来後醍醐が行うべき」活動とは思えません。
統治者たる天皇として「本来後醍醐が行うべき」ことは国家的組織の責任者を任命し、監督し、問題があれば更迭することであって、軍事に関しては「軍事的な実務」を担う責任者として尊氏を任命することで後醍醐の役割は一応完結しているのではないか、そして尊氏は「軍事的な実務」の「代行者」ではなく「責任者」として、自身の本来的な役割を遂行する立場なのではないかと思います。
更にその尊氏の立場を示すのが「鎮守府将軍」ではないか、と私は考えるのですが、この点は改めて論じる予定です。
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吉原弘道氏「建武政権における足利尊氏の立場」(その13)

2021-01-07 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 7日(木)13時48分55秒

少し間が空いてしまったので、(その12)で引用した部分を再掲します。

-------
 本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である。さらに、史料Xは、陸奥守が鎮守府将軍を兼務することも多かったとする。しかし、建武政権下での陸奥守は、北畠顕家で義良親王を奉じて国務に当たっていた。とすれば、鎮守府将軍は、有名無実の官職だったのだろうか。
 そもそも鎮守府将軍は、史料Xに「凡頼朝卿補之後、依重征夷之任、不並任鎮府、元弘以来被並任畢」とあるように源頼朝が征夷大将軍に補任されてからは並任されなかった重要な官職だった。このことは、征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていたことを示している。建武政権下における将軍職は、元弘三年八月下旬頃に護良親王が征夷大将軍を解任されてから建武二年八月一日に成良親王が征夷大将軍に補任されるまで鎮守府将軍の尊氏だけだった。成良の征夷大将軍への補任も、中先代の乱の追討に際して征夷大将軍への補任を望んだ尊氏への牽制と位置づけられる。さらに、尊氏離反後の建武二年十一月十二日には、後醍醐から軍事的に大きな期待を寄せられていた顕家が鎮守府将軍に補任されている。建武政権下でも鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあったのである。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/031c49c87e35829cc636a75dc2970f3b

「建武二年八月一日に成良親王が征夷大将軍に補任」に付された注(98)を見ると、これは例の『相顕抄』ですね。

『相顕抄』を読んでみた。(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20125f93d50a0dec649a98e7c2385e70
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/62733682bbcdad95749abf9ad6000666
成良親王についての一応の整理と次の課題
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/4bad1ac040c2c8369349a1ddaaeb597d

さて、このあたりの議論は、今ではかなり古くなってしまった佐藤進一氏の見解と比較すると分かりやすいですね。
佐藤氏は征夷大将軍と鎮守府将軍を比較して次のように述べています。(『南北朝の動乱』、中央公論社、1965、p15以下)

-------
 ところで、護良の任ぜられた征夷大将軍という称号は、もともと文字通り蝦夷追討軍の総帥に与えられる臨時の職名であったが、源頼朝が武士の棟梁にもっともふさわしいものとしてこの称号を得て以来、鎌倉幕府の頭首は代々これに任ぜられる例となった。つまり征夷大将軍(略称、将軍家)は幕府の頭首たる地位のシンボルであった。したがってこの称号は権威的な地位のシンボルであって、なんら特定の権限をもつものではないから、この称号を獲得するだけでただちに幕府を創設し、その頭首になれるわけではないけれども、諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威であることも事実だった。
 征夷大将軍がこういうものであるなら、武家政治を否定する後醍醐としては、それは絶対に復活させてはならぬはずであった。にもかかわらず、かれが護良にこれを許したのは、護良が高氏の野望を指摘して、これを封ずるためにみずからこの称号をもとめたからだといわれている。
 だが、すでに見たように尊氏は護良より一足さきに鎮守府将軍に任ぜられている。この称号もじつは一〇世紀の藤原秀郷以来、武士の棟梁にふさわしいものとして、ことに東国の武士の間に人気があった。畠山重忠といえば、源頼朝創業の臣として、また鎌倉武士の典型として知られる人物であって、事実、「重忠は頼朝にたいして謀反の心をいだいている」と頼朝に讒言するものがある、と友人の一人が重忠に告げたとき、「謀叛のうわさを立てられるのは武士の面目」と答えたほどの気骨ある武将だったが、その重忠が生涯、鎮守府将軍になる念願をすてなかったという話が東国武士の間に語りつがれていた。
 そうしてみると、高氏がこの称号を与えられたのは、やはり高氏の要望の結果であり、あるいはかれが征夷大将軍を切望したのにたいして、後醍醐はむげにこれを拒むことができずに、一段低い権威の鎮守府将軍を与えたのかもしれない。
-------

佐藤氏は頼朝が征夷大将軍を望んだというかつての常識を前提に論じておられる訳ですが、この点は櫻井陽子氏の「頼朝の征夷大将軍任官をめぐって―『山槐荒涼抜書要』の翻刻と紹介―」(『明月記研究』9号、2004)により、頼朝は「大将軍」を望んだのであって「征夷大将軍」を望んだわけではないこと、朝廷は「征夷」・「征東」・「惣官」・「上将軍」等から「征夷大将軍」を選んだことが明らかになっています。

「征夷大将軍」はいつ重くなったのか─論点整理を兼ねて
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3e1dbad14b584c1c8b8eb12198548462

ただ、頼朝の任官によって征夷大将軍が「もともと文字通り蝦夷追討軍の総帥に与えられる臨時の職名」から劇的に変化して、少なくとも源氏三代の期間は「武士の棟梁にもっともふさわしいもの」となっていたことは確かです。
しかし、摂家将軍以降はどうだったのか。
佐藤氏は征夷大将軍が鎌倉時代を通して「武士の棟梁にもっともふさわしいもの」、「諸国の武士の帰服をもとめるうえにもっとも有力な無形の権威」であったことを前提とされていますが、鎌倉時代に武家が征夷大将軍の地位にあったのは源氏三代の僅かな期間で、二代の「摂家将軍」を挟んで、宗尊親王以降は「親王将軍」が常識となっていたことは岡野友彦氏の力説されるところです。

「しかるに周知の如く、護良親王は自ら征夷大将軍となることを望み」(by 岡野友彦氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/924134492236966c03f5446242972b52

吉原論文は2002年のものなので、吉原氏も「征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていた」といった具合に征夷大将軍が相当重い地位であることを前提として議論されています。
また、吉原氏は佐藤氏のように鎮守府将軍と東国武士の気風を強く結びつけている訳ではありませんが、鎮守府将軍は「源頼朝が征夷大将軍に補任されてからは並任されなかった重要な官職」であり、「このことは、征夷大将軍でなくとも将軍職への補任が大きな意味を持っていたことを示している」とされているので、鎌倉時代を通して鎮守府将軍についても相当の権威が維持されていたことを前提とされておられるようです。
しかし、征夷大将軍すら相対化されていた訳ですから、鎮守府将軍など「有名無実」になっていた、と考えるのが素直ではないですかね。
むしろ、後醍醐は鎮守府将軍を「本来鎮守府とは、北方鎮定のため陸奥国に設置された広域行政機関で鎮守府将軍はその長官である」といった古色蒼然たる由緒から切り離して、新たな意味を与えたと考える方が自然ではないかと思います。
こう考えても、建武政権下では「鎮守府将軍職は、重要な官職と認識され軍事的権限と不可分の関係にあった」とすることは可能であり、そして「尊氏離反後の建武二年十一月十二日には、後醍醐から軍事的に大きな期待を寄せられていた顕家が鎮守府将軍に補任」された訳ですから、吉原氏のこの推論は十分に合理性がありますね。
なお、顕家の鎮守府将軍任官の典拠は『公卿補任』です。(注100)

>筆綾丸さん
今年も宜しくお願いします。
確かにこのところ細かい議論ばかりになってしまっていますね。
私自身は掲示板で細かい議論をして、ツイッターで気楽に書くということでバランスを取っているのですが、ツイッターも全ての人に勧められるソーシャルメディアではないですからねー。
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新年のご挨拶(補遺)

2021-01-05 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 5日(火)19時39分50秒

「新年のご挨拶」は実質的に(その1)だけで、後は三回にわたって佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)について少し書いてみましたが、これも別に同論文への本格的な批評という訳ではなく、あくまで私の個人的関心から気になった点について若干検討してみただけです。
私が引用した部分も私の個人的関心に基づく抜粋であって、必ずしも佐藤氏の議論の文脈を素直に反映したものではなく、その前後を含めて読めば私とは別の感想を抱く人も多いと思います。
ま、それでも鎌倉時代の最新の研究動向を知ることができて、私としては非常に有益でした。
最初は『太平記』を終えたら、そのまま鎌倉時代まで遡ってガンガンやるか、とも思いましたが、佐藤論文の参考文献で未読のものだけでも相当大量にありますから、いったん『太平記』関係をまとめて、少し時間を置いてから改めて鎌倉時代の検討に入ろうと思います。
ということで、明日からはまた吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場」に戻って残された部分を少し検討し、清水克行氏の『足利尊氏と関東』なども随時参照しつつ、建武政権期の尊氏について、自分なりの見解をまとめてみるつもりです。
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新年のご挨拶(その4)

2021-01-05 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 5日(火)12時42分26秒

北条泰時の崇徳院「後身」すなわち再誕説、私は初めて聞いたのですが、ちょっと紹介しておくと、

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 「関東御式目」の奥書によると、文永の頃、「碩儒大才人」であった藤原俊国の邸宅において『文選』の読み合わせがあった際、式目を読んだところ律令よりも簡潔で感心したという俊国の感想を聞いた唯浄は、「武州禅門ハ崇徳院ノ後身ト申説候、権化人也、仍神妙候歟」、すなわち北条泰時は崇徳院の「後身」といわれており、「権化の人」であるので、泰時のつくった式目は「神妙」なのだと返答している。
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とのことで(p21)、六波羅奉行人の斎藤唯浄が公家の藤原俊国から聞いた話ですから、これもやはり「おべんちゃら神話」の一種のような感じがします。
さて、第三章では次の箇所にも興味を惹かれました。(p23)

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 鎌倉後期の北条氏については、「伊豆国在庁時政子孫高時法師」という護良親王令旨の一節がしばしば引き合いに出され、身分的に卑しかったので将軍にはなることができず、「種姓」秩序の壁の前に支配の正統性を得られないままに権力集中を目指さざるをえず、その矛盾を抱えながら滅亡したという評価がなされてきた。だが、令旨の一節は討幕側のプロパガンダの一節として差し引く必要があろう。【中略】第一章で触れたように、治承・寿永の内乱期から後鳥羽院政期にかけて、(特に東国の)武士の身分上昇があったことや、さらに本章でみてきたように得宗と天皇像を重ね合わせて、これを呼び込もうとする言説が京都の側から生まれていたことを考えると、北条氏の身分的限界を強調することには疑問がある。
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佐藤氏はプロパガンダという表現を否定的に用いておられ、それは普通の歴史研究者と共通する態度です。
確かにプロパガンダには否定的なイメージがつきまといますが、肯定的に用いられるのが通常の「(正統性)神話」と「プロパガンダ」は、実際にはヤヌスの二つの顔ですね。
南北朝期は奇妙に「民主主義」的、「平等主義」的な時代であって、もちろん近代の民主主義社会と異なり、その軍事ゲーム・政治ゲームに参加する資格があるのは馬と武器を所有する武士だけですが、「御所巻」のように、それら有資格者の多数決によって政治の方向が決まるようなことさえ起こります。
こうした疑似「民主主義」・「平等主義」社会において、プロパガンダは極めて重要であり、鎌倉末期から南北朝時代はプロパガンダの時代と言っても過言ではない、と言ったら少し過言かもしれない時代のように思えます。
そんな訳で、実は私は『増鏡』(の原型)すらプロパガンダの材料だったのではないかと思っています。
『増鏡』のプロパガンダ性が最も顕著に現れているのは、「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」の問題ですね。
佐藤氏は、「後嵯峨院が文永九年(一二七二)に死去すると、治天の地位を継承した亀山天皇が親政を始め、文永十一年には後宇多天皇に譲位して院政を開始する。だが、兄後深草院が反発して幕府に訴えると、幕府の調停によって建治元年(一二七五)、後深草の皇子(のちの伏見天皇)が皇太子となる」(p17)に付した注(103) において、

-------
(103) 一般的な通史叙述として、(1)後嵯峨院が、子の後深草院か亀山天皇の兄弟いずれとも治天の地位の継承者を決めず、その決定を幕府に委ねた、(2)執権北条時宗が後嵯峨院の内意を尋ね返したところ、「先院ノ御素意」は亀山天皇にあったという大宮院の証言に基づき、亀山天皇親政が始まった、というストーリーが語られている。だが、(1)は『五代帝王物語』(前掲注(64)参照)や伏見院自筆事書(「東山御文庫」、前掲注(62)『六代勝事記・五代帝王物語』二八七頁)、(2)は『神皇正統記』にみえる記述である。一方、『増鏡』や『梅松論』は、亀山の皇統継承を命じる遺詔(勅)があったとする。戦前以来の研究史のある問題であり、本稿で本格的に再検討することはできないが、何れも両統迭立が本格化した後の時期の叙述に依拠する点に注意を促しておきたい。
-------

と述べられていますが(p17)、これは史料批判の観点からすると相当に問題のある記述です。
まず、『梅松論』は後嵯峨院が寛元四年(1246)、四歳の後深草天皇に譲位して院政を始めたときに死去した、などと壮絶な勘違いをしていて、公家社会には全く無知な人が書いていますから、少なくとも「後嵯峨院の御遺勅」に関しては全く価値のない史料ですね。
しかも、『梅松論』の作者は公家社会に無知蒙昧でありながら「後嵯峨院の御遺勅」に異常なこだわりを持っていて、知識のバランスが極めて悪い人です。
『梅松論』の作者は南北朝期において自身が「足利直義史観」のプロパガンダ担当者と思われますが、それと同時に、鎌倉末期においては「当今の勅使」の「吉田大納言定房卿」あたりの巧みな弁舌に丸め込まれた、いわば後醍醐側のプロパガンダの犠牲者ですね。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/357e20bc15e65222c6224cf0ba351441
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

さて、『増鏡』は一貫して後嵯峨院の「御素意」は亀山の子孫が皇統を継ぐべきだという内容だったとしていて、その見解をくどいほど繰り返します。
また、その主張に沿ったエピソードも多いですね。
そして、ここまで念入りに「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」に論じるということは、これらがプロパガンダの一環ではないか、という疑いを生じさせるのに充分な材料ではないかと思います。

「巻八 あすか川」(その13)─後嵯峨法皇崩御(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a7129bc8db49e22d28cb2702ca8eb2d8
「巻八 あすか川」(その16)─後嵯峨院の遺詔
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9987f4c5e8c030e45a36f6e5321ba012
第三回中間整理(その8)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a39944cc6d8bdde55e88ad93fb5e2e6f

佐藤氏は「後嵯峨院の御素意(御遺勅)」問題に関し、相対立する史料が拮抗しているような書き方をされていますが、『梅松論』はこの問題に関しては史料的価値がなく、『増鏡』はプロパガンダ的性格が窺われるので、結局のところ従来の通説で全く問題がないように思います。
特に佐藤氏が一次史料の「伏見院自筆事書」を疑うのであれば、その理由を明確にすべきではないかと思います。

帝国学士院編纂『宸翰英華』-伏見天皇-
http://web.archive.org/web/20111022235719/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/shinkaneiga-fushimi.htm
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新年のご挨拶(その3)

2021-01-04 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 4日(月)11時13分34秒

「新年のご挨拶」がいつまで続くのか、自分でもちょっと不安になってきましたが、たぶん今回の投稿を含めてあと二回です。
(その2)は『太平記』と全然関係ないではないか、と思われた方がいらっしゃるかもしれませんが、私はもともと『増鏡』の研究をずっと続けていて、『太平記』についてはきちんと勉強し始めてから僅か数ヶ月の新参者です。
もちろん以前から『増鏡』と『太平記』の時代を統一的に把握してみたいと思っていましたが、なかなか手がかりがなかったところ、佐藤雄基氏の論文で多くの刺激を受け、それと自分が今まで考えてきたことを重ねると、けっこう良いところまで行けるのではないか、という希望が見えてきました。
さて、佐藤論文には斬新な指摘がたくさんありますが、第三章で特に重要なのは、「従来の幕府権力の枠を越えて、公家・本所への得宗権力の関与を強めていた」(p18)北条貞時が、「鎌倉において事実上の君主としての意識をもっていたのではなかろうか」(同)とする点、及び、

-------
 だが、得宗の国制上の役割は、必ずしも天皇・将軍の補佐のみではない。【中略】『吾妻鏡』は執権を「理非決断職」とする(貞永元年七月十日条)。日本中世では「裁判する」権限は必ずしも重視されてこなかったといわれ、少なくとも検断権などと同レヴェルの得分権として裁判(得分)権なるものが成型されることはなかったが、得宗は公家政権や本所の支配権を尊重しつつ、様々な「口入」を行い、幕府の裁判を求める社会の要請に応えていく。得宗権力は諸国守護を担当する「将軍」とは異なり、「裁判する」権能を自らの新たな仕事として発見したのではなかろうか。
-------

とする点(p19)ですね。
こうした得宗の役割を示唆し、あるいはこのような立場となった得宗を荘厳するような史料を佐藤氏は博捜され、その中には無学祖元や蘭渓道隆の文章における「平出」の表現など、なるほどなと思わせるものも沢山ありますが、若干の疑問を感じる史料もあります。
例えば、佐藤氏はかつて細川重男氏が『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』(日本史史料研究会、2007)で詳細に論じたところの、北条政子が神功皇后の、北条義時が武内宿禰の生まれ変わりだとの伝説をかなり重視されていますが、この点について私は、こんなものは権力者におもねった「おべんちゃら神話」ではなかろうか、と思います。
細川著には、

-------
【前略】義時は周知のごとく追討宣旨を蒙りながら承久の乱に勝利した。承久の乱の結末、義時の勝利は、当時の王朝貴族にとっては、まさにあってはならない驚天動地の事態であった。貴族達は眼前の現実を受け入れるため、必死で先例を探したのではないか。そして彼らがやっと見つけ出した先例こそ武内宿禰であったと考えられる。一方で、『古今著聞集』は、ある人が夢を見る舞台を「八幡」としている。そして石清水八幡宮社務田中氏は武内宿禰の子孫である紀氏とされていた(『分脈』「紀氏朝臣」)。あるいは、義時の武内宿禰再誕伝説は石清水社が鎌倉幕府との関係強化などを目的として作成したものなのかもしれない。だが、義時没の三十年後に成立した『古今著聞集』に記録されたことは、この話が王朝貴族の間に急激に広まったことを示している。貴族達はこの話に、まさに飛び付いたのでなかったか。そして『平政連諫草』に記されたことは、鎌倉武家社会もまた、この話を受け入れたことを示している。その理由は、言うまでもなくこの伝説が北条氏得宗の覇権の根拠となったからであろう。鎌倉時代の貴族社会・武家社会は共に義時の武内宿禰再誕伝説を受け入れる必要性・下地を有していたのであり、かくて、ここに「関東武内宿禰伝説」とでも呼ぶべき中世神話が誕生したのである。
-------

とありますが(p37)、この論文の基礎となる細川氏の発表を某研究会で聞いて、「あるいは、義時の武内宿禰再誕伝説は石清水社が鎌倉幕府との関係強化などを目的として作成したものなのかもしれない」に類する意見を述べたのは私です。
石清水は訴訟や強訴が大好きな物欲優先の宗教権門であって、この「伝説」は別に義時が武内宿禰の再来だなとど石清水関係者が本気で信じていたことを示すのではなく、石清水にもっと荘園を寄進しろと幕府に要求する「請求書」ではないか、と私は言いました。
まあ、私は全く空気を読まない人間なので、『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力─』が上梓された後の勉強会でも、同じような発言を冷然と繰り返した訳ですね。

書評会
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/3ae96ccb2823387e39cc2c6ef107347a

ところで、佐藤氏は、従来さほど注目されていなかった史料に基づく北条泰時の崇徳院「後身」すなわち再誕説について、

-------
 当時の後嵯峨皇統にとって、祖である後鳥羽とは異なり、崇徳は「自らの皇統に正統性を付与する存在ではな」く怨霊でしかなかった。こうした現皇統とは異なる過去の天皇(崇徳)に泰時を結びつけたことには、後嵯峨皇統への遠慮という以上に、泰時のもつ大きな力に対する畏怖の念を見出すべきであろう。過去の天皇像との観念上の結合によって、北条泰時の神格化、神話的な得宗像が生みだされていた。その担い手は、斎藤唯浄のような在京の奉行人や武家と交流のある貴族・学者たちだった。
 前節で検討した神功皇后・武内宿禰の再誕とともに、いずれも京都で語られていた関東に関する噂であり、関東の側もそれらを摂取して自己像を作っていた。そうした噂の世界は説話や式目注釈の世界に痕跡をとどめていた。
-------

と述べられますが(p22)、崇徳院など所詮は「怨霊」ですから、この話は「おべんちゃら神話」ではないとしても、かなり屈折した事情がありそうですね。
仮に泰時自身が崇徳院の「再誕」神話を聞かされたとしても、俺も死んだら「怨霊」か、みたいに感じて、それほど嬉しくはなかったでしょうね。
なお、この「神話」の関係で『五代帝王物語』へ若干の言及がありますが、『五代帝王物語』は客観的な事実の記録を越えて、かなり創作的な要素を含んでいると思われるので、特別に慎重に取り扱わなければならない史料ですね。

『五代帝王物語』の「かしこくも問へるをのこかな」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d39efd14686f93a1c2b57e7bb858d4c9
『五代帝王物語』に描かれた後嵯峨法皇崩御(その1)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5bdb608a536152037a6a5cfe2af6fb68
後深草院二条の叔父・隆良の役割
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/20abfbde943fb38071e27fb435c49e03
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新年のご挨拶(その2)

2021-01-03 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 3日(日)11時13分6秒

『太平記』について書くべきことは一応見込みがついたな、と思った直後に出会ったのが佐藤雄基氏の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」(『史学雑誌』129編10号、2020)で、私にとってこの論文はゲームの終盤に意外なところから登場した最大最強の難敵、ラスボスのように思えました。
「特集 天皇像の歴史を考える」の「趣旨説明」によれば、佐藤雄基氏は「日本の史料論を代表する分野である中世古文書学を、近代史学史・法社会史にも関わらせながら進展させている論者」(p2)です。
佐藤氏の問題意識を少しだけ紹介すると、

-------
 黒田・河内の議論は、説明の明快さもあって、《上からの統合》を重視する現在の研究動向に大きな影響を及ぼしている。一方、武家政権の成立を実態(歴史の動因)とみる立場から反論がある。佐藤進一は権門体制論を批判して「京都の朝廷側の論理でありむしろ願望である」と喝破し、近藤成一は「朝廷再建運動」論に対して「事件が起きてしまってから、それを収束して平時に戻るために機能するもの」であり、歴史の表層にみえる指導者の「論理」に過ぎないと批判を加えた。
 しかしながら、確かに願望であり、つじつま合わせではあるが、権門体制論的なイメージは中世に事象として存在していた。そのことを正面から問わなければ、議論は平行線に終わるのではないか。治承・寿永の戦争の《偶然》の産物として武家政権が関東に成立した鎌倉時代において、天皇と武家との関係をどのように考えるのかは中世国家論の焦点であった。同様に鎌倉時代人の《現代史》認識においても難問であったため、鎌倉時代には様々な天皇像・歴史叙述が生み出されていた。権力と権威、実態と理念といった《二分法》的な発想をもとにして、力点の差異で繰り返されてきた議論の構図を抜け出すためには、実態としてあった天皇像を捉え、その歴史的変化を問うべきではなかろうか。物語やイメージに対して歴史的事実を重視する傾向が伝統的な歴史学にはあったが、たとえ虚構であったとしても、いったん生まれた天皇像が、どのように変容しながら、どのように人びとにリアリティをもたせたのかが重要である。現実に機能した天皇像・歴史像のもとでどのように「史料」が生成し、それらを後世の歴史家がどのように読みといたのか、複層的に議論を進める必要がある。
-------

といった具合です(p5)。
「権力と権威、実態と理念といった《二分法》的な発想をもとにして、力点の差異で繰り返されてきた議論の構図を抜け出すためには、実態としてあった天皇像を捉え、その歴史的変化を問うべきではなかろうか」に付された注(10)には、

-------
(10) 現実の最高実力者が鎌倉幕府・得宗であることをもって権門体制論への批判とする類の議論が後を絶たないが、黒田も幕府が「権門政治の主導権」をもつことは認めている。
-------

とあって、当掲示板でそのような「類の議論」を何度か繰り返していた私などにとってもなかなか耳の痛い指摘ですね。
さて、上記のような問題意識を持つ佐藤氏は、「鎌倉後期まで視野に入れて天皇像やその担い手の変化を通史的にたどり、天皇像との連関のもとで将軍像・得宗(北条氏家督)像、すなわち「武家」像がどのように生成したのか、歴史実践や史料論の観点を交えつつ検討する」(p6)試みを、

第一章 天皇像と将軍像の模索─『愚管抄』の時代
 第一節 慈円の構想と権門体制
 第二節 院政時代の歴史像
 第三節 源実朝と後鳥羽院の「文武兼行」
第二章 「文武兼行」の将軍像と天皇─承久の乱の<戦後>
 第一節 承久の乱後の帝徳論
 第二節 九条道家の徳政と歴史意識
 第三節 「寛元・宝治」の転換
第三章 鎌倉後期の天皇像と得宗像─「武家」の定着
 第一節 鎌倉後期の皇位継承─「治天」の位置
 第二節 文武兼行の得宗像─北条貞時の時代
 第三節 「御成敗式目」にみる得宗・天皇関係の言説
  ①天皇・上皇による式目「同意」という噂
  ②北条泰時の崇徳院「後身」伝承
  ③鎌倉後期の歴史像

という構成に従って論じられます。
私は第一章と第二章はフムフムと素直に読めたのですが、第三章は予想以上に大胆な展開だったので、ちょっとびっくりしました。
佐藤氏の議論は旧来の退屈な「得宗専制論」、鎌倉幕府政治史「三段階論」の枠組みに捉われていた私にとって本当に新鮮で、画期的なものに思われたのですが、ただ、佐藤氏が「得宗・天皇関係の言説」を取り扱う具体的な例を見ていると、若干の懸念も覚えました。
「物語やイメージに対して歴史的事実を重視する傾向が伝統的な歴史学にはあったが、たとえ虚構であったとしても、いったん生まれた天皇像が、どのように変容しながら、どのように人びとにリアリティをもたせたのかが重要」として「虚構」の世界に踏み込んで行く佐藤氏の勇気を認めるにはやぶさかではないとしても、佐藤氏が何度か言及されている『増鏡』や『五代帝王物語』などの文学的な世界の複雑さを知っている私にとっては、佐藤氏があまりに無邪気で無防備であるような印象も受けました。
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新年のご挨拶(その1)

2021-01-02 | 建武政権における足利尊氏の立場
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月 2日(土)12時13分30秒

新年、明けましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致します。

年頭に当たって、今やっている『太平記』検討の今後の展望について大言壮語しようかな、と思ったのですが、私は謙虚な性格なのでやめておきます。
ただ、征夷大将軍の関係は、未読の文献が若干残っているものの、多分うまく行きそうです。
元弘三年六月に護良親王が、そして建武二年八月に足利尊氏が征夷大将軍を望んだという二つのエピソードは、まず間違いなく『太平記』の創作ですね。

征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソード
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/61a5cbcfadd62a435d8dee1054e93188

「太平記史観」の核心的部分を構成するこの二つのエピソードにより、建武新政期における足利尊氏の立場は極めて不鮮明なものになってしまいました。
そして、実証を重んじたはずの戦後歴史学も実際には「太平記史観」の影響を極めて強く受けていて、特に佐藤進一氏にその傾向が顕著です。
精神医学の専門家でもない佐藤氏により、尊氏は「常識をもってはかりがたい」人物とされ、

-------
 こんなことをいろいろ並べて考えると、尊氏は性格学でいう躁鬱質、それも躁状態をおもに示す躁鬱質の人間ではなかったかと思われる。かれの父貞氏に発狂の病歴があり、祖父家時は天下をとれないことを嘆いて自殺したという伝えがあり、そのほかにも先祖に変死者が出ている。子孫の中にも、曽孫の義教を筆頭に、異常性格もしくはそれに近い人間がいく人か出る。尊氏の性格は、このような異常な血統と無関係ではないだろう。
-------

などと決めつけられてしまっています(『南北朝の動乱』、中央公論社、1965、p121)。
このような傾向が網野善彦氏の「建武新政府における尊氏」(『年報中世史研究』3号、1978)によって是正される可能性が生まれ、吉原弘道氏の「建武政権における足利尊氏の立場」(『史学雑誌』第111編第7号、2002)が尊氏像の歪みをかなり正したにもかかわらず、現在でも佐藤氏の描いた精神的な疾患を抱える尊氏像はなお一定の影響力を持っています。
そして、一見すると吉原氏の尊氏像を受け継ぐような姿勢を示しながら、佐藤氏によって矮小化された尊氏像を維持・再生産することに貢献したのが清水克行氏の『足利尊氏と関東』(吉川弘文館、2013)ですね。
私はかねてから佐藤氏同様に精神医学の専門家でもない清水氏が「尊氏の精神分析」を行うことに不信感を抱いていたのですが、『太平記』を検討する過程で、清水氏の歴史研究者としての姿勢そのものに根本的な疑問を感じるようになりました。

「尊氏の運命、ひいては大袈裟ではなく日本の歴史を大きく変える不測の事態」(by 清水克行氏)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/71b81690120a880e7c1589183c634df0
清水克行氏による「尊氏の精神分析」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/25befb1f5a691966a61ffe63c2baecc3

そこで、清水氏の見解を批判的に検証した上で、建武新政期の後醍醐と尊氏の関係を見直したいと思います。
その際には、中先代の乱を鎮圧するために東下した尊氏が詠んだ一首の和歌を分析する予定です。
この和歌については今まで歴史研究者は殆ど注目していなかったと思われますが、国文学の方では若干の検討がなされており、特に古い世代の研究者の意見が参考になります。

-------
建武二年内裏千首歌の折しもあづまに侍りけるに、題をたまはりてよみてたてまつりける歌に、氷

ながれゆく落葉ながらや氷るらむ風よりのちの冬の山川(新千載626)

足利尊氏(水垣久氏「千人万首」)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/takauji.html

さて、私は「原太平記」に干渉して征夷大将軍に関する二つの「二者択一パターン」エピソードの挿入を強要したのは足利直義だと考えていますが、直義が何のためにこのような干渉を行ったのかを検討する際に一番参考になるのは山家浩樹氏の『足利尊氏と足利直義 動乱のなかの権威確立』(山川日本史リブレット、2018)です。
東大史料編纂所の所長も務められた山家氏は歴史学界の最もオーソドックスな知性を代表する研究者ですが、『太平記』という特異な歴史物語は山家氏のようなタイプの知性でも解明できない部分を残していると思われるので、山家説を参考にしつつ、直義による足利家権力の正統化と『太平記』の関係、そして『太平記』の作者と成立年代の問題に迫って行きたいと考えています。
ということで、以上で『太平記』の検討は終える予定だったのですが、昨年末に『史学雑誌』129編10号(2020)の「特集 天皇像の歴史を考える」に載った佐藤雄基氏(立教大学准教授)の「鎌倉時代における天皇像と将軍・得宗」という論文を読んで、更に研究対象を拡大する必要性を感じるようになりました。

>キラーカーンさん
今年も宜しくお願いします。
「鎮守府大将軍」については先行研究がありそうなので、少し調べてみるつもりです。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。
https://6925.teacup.com/kabura/bbs/10511
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