投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 1月12日(火)11時50分13秒
続きです。(p316以下)
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氏光罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて仰せられけるは、「病の未だ見えぬ前に、かねて療治を加ふる程に、われらをいたはしく思ふならば、この一室に押し籠めて、朝暮物を思はすべしや。これ必ず病を治する薬にはあるべからず。ただ命を縮むる毒なるべし」とて、庭へ打ち捨てんとせさせ給ひけるを、東宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、それ程に情けなき所存を挟むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命にても候はず。これ元来〔もとより〕願ふ所の成就なり。ただこの毒を飲んで、世を早くせばやとこそ思ひ候へ。「それ人間の習ひ、一日一夜を経る程に、八億四千の思ひあり」と云へり。富貴栄花の人に於て、なほこの苦しみを遁れず。況んや、われら籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むる如くになつて、聞くに付け見るに随ふ悲しみの中に、待つ事もなき月日を送らんよりは、命を鴆毒のために縮めて、後生善処の望みを達せんには如かじ」と仰せられて、毎日に法華経を一部あそばされて、この鴆毒をぞまゐりける。将軍宮、これを御覧じて、「誰とても浮世に心を留むべきにあらず。同じ暗き路を迷はん後世までも、御供申さんこそ本意なれ」とて、もろともにこの毒を七日までぞまゐりける。
やがて東宮は、その翌日より御心地例に違はせ給ひけるが、御終焉の儀閑まりて、四月十三日の暮程に、忽ちに御隠れありてけり。将軍宮は、二十日余りまでも恙もなくて御座ありけるが、黄疸と云ふ御労り出で来て、御遍身黄にならせ給ひて、これもつひにはかなくならせ給ひにけり。
あはれなるかな、尸鳩〔しきゅう〕樹頭の花、連枝一朝の雨に随ひ、悲しいかな鶺鴒〔せきれい〕原上の草、同根忽ちに三秋の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例少なくあはれなる事を聞く人心を傷ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。
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恒良親王は『元弘日記裏書』によれば元亨二年(1322)生まれとなりますが、元弘の変の戦後処理で流罪となっておらず、もう少し若年と考えるのが自然です。
『増鏡』巻十六「久米のさら山」には、このとき西園寺公宗に「八つになり給ふ」皇子が預けられたとあり、これが恒良の可能性が高いので、正中二年(1325)生まれとしてよさそうです。
恒良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
成良は嘉暦元年(1326)生まれなので、二人が暦応元年(1338)に毒殺されたとすると、それぞれ十四歳・十三歳の若さですね。
そして「尸鳩樹頭の花」云々は兵藤氏の脚注23に「尸鳩(鳩の一種)のとまる木の同じ幹から出た枝先に咲く二つの花が、ある朝の雨でたちまちに散り。「尸鳩の仁」は、子を養う仁愛の意で。尸鳩は、子を愛しむ親鳥。連枝は、兄弟」(p317)とあります。
また、「鶺鴒原上の草」云々は同じく兵藤氏の脚注24に「鶺鴒のいる野原の根を同じくする草が、秋三か月の霜にはかなく枯れてしまう。鶺鴒は、「詩経」小雅・常棣の「脊令原に在り、兄弟難に急ぐ」から、兄弟。同根は、曹植「七歩の詩」の「本は是れ根を同じくして生ず」で、兄弟」(p318)とあって、読者の脳裏には兄弟のイメージが何度も喚起されます。
尊氏・直義の同母兄弟による恒良・成良の同母兄弟殺しは『太平記』の中でも格別に陰惨な印象を与えるエピソードですが、『太平記』作者による中国古典の引用は読者のそうした印象を効果的に強めていますね。
ところで、粟飯原氏光の役割は「兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ」し折の淵野辺義博を連想させるとともに、粟飯原氏光の息子が足利直義を裏切って高師直に「目くはせ」をして暗殺を失敗させた粟飯原清胤なので(第二十七巻第十節「左兵衛督師直を誅せんと欲せらるる事」)、「粟飯原」が何かの「目くはせ」のようにも感じられます。
まあ、それはちょっと考えすぎかもしれませんが、殺害方法が鴆毒ですから、『太平記』の読者の多くが連想するのは、やはり直義の死でしょうね。
こちらは第三十巻第十一節「恵源禅門逝去の事」に出てきますが、第十節「薩埵山合戦の事」の末尾には、
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高倉禅門は、余りに気を失ひて、北条にもなほたまり得で、伊豆の御山へ引いて、大息つきておはしけるが、「忍んで、いづちへも一〔ひと〕まど落ちてやみる、自害をやする」と、案じ煩ひ給ひける処に、また和睦の義ありて、将軍より様々御文を遣はされ、畠山安房守国清、仁木武蔵守頼章、舎弟越後守義長を御迎ひに進〔まいら〕せられたりければ、今の命の捨て難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門、降人になつて、将軍に打ち連れ奉り、正月六日の夜に入りて、鎌倉へぞ帰り入り給ひける。
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とあって(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p61以下)、『太平記』作者の直義(高倉禅門)に対する視線は極めて厳しいですね。
第十一節は次の投稿で紹介します。
続きです。(p316以下)
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氏光罷り帰つて後、将軍宮、この薬を御覧ぜられて仰せられけるは、「病の未だ見えぬ前に、かねて療治を加ふる程に、われらをいたはしく思ふならば、この一室に押し籠めて、朝暮物を思はすべしや。これ必ず病を治する薬にはあるべからず。ただ命を縮むる毒なるべし」とて、庭へ打ち捨てんとせさせ給ひけるを、東宮、御手に取らせ給ひて、「そもそも尊氏、直義等、それ程に情けなき所存を挟むものならば、たとひこの薬を飲まずとも、遁るべき命にても候はず。これ元来〔もとより〕願ふ所の成就なり。ただこの毒を飲んで、世を早くせばやとこそ思ひ候へ。「それ人間の習ひ、一日一夜を経る程に、八億四千の思ひあり」と云へり。富貴栄花の人に於て、なほこの苦しみを遁れず。況んや、われら籠鳥の雲を恋ひ、涸魚の水を求むる如くになつて、聞くに付け見るに随ふ悲しみの中に、待つ事もなき月日を送らんよりは、命を鴆毒のために縮めて、後生善処の望みを達せんには如かじ」と仰せられて、毎日に法華経を一部あそばされて、この鴆毒をぞまゐりける。将軍宮、これを御覧じて、「誰とても浮世に心を留むべきにあらず。同じ暗き路を迷はん後世までも、御供申さんこそ本意なれ」とて、もろともにこの毒を七日までぞまゐりける。
やがて東宮は、その翌日より御心地例に違はせ給ひけるが、御終焉の儀閑まりて、四月十三日の暮程に、忽ちに御隠れありてけり。将軍宮は、二十日余りまでも恙もなくて御座ありけるが、黄疸と云ふ御労り出で来て、御遍身黄にならせ給ひて、これもつひにはかなくならせ給ひにけり。
あはれなるかな、尸鳩〔しきゅう〕樹頭の花、連枝一朝の雨に随ひ、悲しいかな鶺鴒〔せきれい〕原上の草、同根忽ちに三秋の霜に枯れぬる事を。去々年、兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ、また去年の春は、中務卿親王御自害ありぬ。これらをこそ、例少なくあはれなる事を聞く人心を傷ましめつるに、今また、東宮、将軍宮、同時に御隠れありぬれば、心あるも心なきも、これを聞き及ぶ人ごとに、悲しまずと云ふ事なし。
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恒良親王は『元弘日記裏書』によれば元亨二年(1322)生まれとなりますが、元弘の変の戦後処理で流罪となっておらず、もう少し若年と考えるのが自然です。
『増鏡』巻十六「久米のさら山」には、このとき西園寺公宗に「八つになり給ふ」皇子が預けられたとあり、これが恒良の可能性が高いので、正中二年(1325)生まれとしてよさそうです。
恒良親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B
成良は嘉暦元年(1326)生まれなので、二人が暦応元年(1338)に毒殺されたとすると、それぞれ十四歳・十三歳の若さですね。
そして「尸鳩樹頭の花」云々は兵藤氏の脚注23に「尸鳩(鳩の一種)のとまる木の同じ幹から出た枝先に咲く二つの花が、ある朝の雨でたちまちに散り。「尸鳩の仁」は、子を養う仁愛の意で。尸鳩は、子を愛しむ親鳥。連枝は、兄弟」(p317)とあります。
また、「鶺鴒原上の草」云々は同じく兵藤氏の脚注24に「鶺鴒のいる野原の根を同じくする草が、秋三か月の霜にはかなく枯れてしまう。鶺鴒は、「詩経」小雅・常棣の「脊令原に在り、兄弟難に急ぐ」から、兄弟。同根は、曹植「七歩の詩」の「本は是れ根を同じくして生ず」で、兄弟」(p318)とあって、読者の脳裏には兄弟のイメージが何度も喚起されます。
尊氏・直義の同母兄弟による恒良・成良の同母兄弟殺しは『太平記』の中でも格別に陰惨な印象を与えるエピソードですが、『太平記』作者による中国古典の引用は読者のそうした印象を効果的に強めていますね。
ところで、粟飯原氏光の役割は「兵部卿親王鎌倉にて失はれさせ給ひ」し折の淵野辺義博を連想させるとともに、粟飯原氏光の息子が足利直義を裏切って高師直に「目くはせ」をして暗殺を失敗させた粟飯原清胤なので(第二十七巻第十節「左兵衛督師直を誅せんと欲せらるる事」)、「粟飯原」が何かの「目くはせ」のようにも感じられます。
まあ、それはちょっと考えすぎかもしれませんが、殺害方法が鴆毒ですから、『太平記』の読者の多くが連想するのは、やはり直義の死でしょうね。
こちらは第三十巻第十一節「恵源禅門逝去の事」に出てきますが、第十節「薩埵山合戦の事」の末尾には、
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高倉禅門は、余りに気を失ひて、北条にもなほたまり得で、伊豆の御山へ引いて、大息つきておはしけるが、「忍んで、いづちへも一〔ひと〕まど落ちてやみる、自害をやする」と、案じ煩ひ給ひける処に、また和睦の義ありて、将軍より様々御文を遣はされ、畠山安房守国清、仁木武蔵守頼章、舎弟越後守義長を御迎ひに進〔まいら〕せられたりければ、今の命の捨て難さに、後の恥をや忘れ給ひけん、禅門、降人になつて、将軍に打ち連れ奉り、正月六日の夜に入りて、鎌倉へぞ帰り入り給ひける。
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とあって(兵藤裕己校注『太平記(五)』、p61以下)、『太平記』作者の直義(高倉禅門)に対する視線は極めて厳しいですね。
第十一節は次の投稿で紹介します。