学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

「細胞」国家

2021-11-21 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月21日(日)11時12分58秒

>筆綾丸さん
>ぺ・ド・ノンヌ(尼の屁)国家なども有力な候補

中澤氏の論文は研究史の整理がどうにも恣意的な感じで、特に「礫岩国家論」がジョン・エリオット卿の「複合王政論」と本当につながるのかを確かめたいのですが、『溶岩のようなヨーロッパ』を入手するまでは判断材料がないので何とも言えません。
また、二宮宏之が優秀な研究者であったことは確かですが、「その史学史上の世界的意義は極めて大きい」(「国民国家論以後の国家史/社会史研究」、p84)といった中澤氏の持ち上げ方はいくら何でも大袈裟で、二宮の真価を理解できるのは俺だけだ、俺こそが二宮の正当な後継者だ、みたいな、要するに自分の偉大さを強調するために二宮を利用しているような感じがなきにしもあらずですね。
ま、これももう少し勉強しないと結論は出せず、結果的に私が中澤氏の偉大さを理解できていなかっただけ、ということになるかもしれませんが。

二宮宏之(1932-2006)

それにしても「礫岩国家」という譬喩はあんまりですよねー。
自分をウェーバー並みの知識人と錯覚した田舎大学の偏屈教授が、近所の海岸で拾ってきた石にインスピレーションを得て思いついた趣味の悪いネーミングじゃなかろか、と想像してしまいます。
「可塑性」・「可変性」が顕著で、「組替」・「離脱」・「変形」・「解体」にふさわしい「動態的」概念であるならば、本当はマシュマロよりも更に良い譬喩があって、それは「細胞」です。
ただ、「細胞」だと国家有機体説の亡霊あたりも召喚しそうですね。
また、「戦後歴史学」の歴史を辿ると、「細胞」には極めて特殊な意味合いがあったので、歴史学研究会の若き指導者である中澤氏にはマシュマロ以上に受け入れてもらえなさそうです。

『舞台をまわす、舞台がまわる―山崎正和オーラルヒストリー』の聞き手について
高村直助『歴史研究と人生─我流と幸運の七十七年』(その2)
「一文無しで始めたこのイベントは黒字になりました」(by 伊藤隆)
網野善彦を探して(その4)─犬丸義一「私の戦後と歴史学」
網野善彦を探して(その7)─「父は倒産し、送金はゼロとなり」(by 犬丸義一)
網野善彦を探して(その8)─『一・九会文集』
網野善彦を探して(その10)─「細胞解散で時間的余裕がうまれ」(by 犬丸義一)

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

「ぺ・ド・ノンヌ国家」2021/11/20(土) 15:19:25

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%BB%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%8E%E3%83%B3%E3%83%8C
小太郎さん
語呂はよくありませんが、ぺ・ド・ノンヌ(尼の屁)国家なども有力な候補になるかと思います。ただ、これは揚げ物なので、若干の可塑性と可変性はあるものの、組替と離脱ができないのがタマにキズです。

本郷氏の本を読み始めましたが、変幻自在、もう円熟の境地で、高級落語のような味わいもあります。僭越ながら、これほどのものを書けるのは、現在、本郷氏だけだと思います。
呉座氏の本は、頼朝と義時というタイトルなのに、なぜ、表紙には北条氏の紋しかないのか、違和感を覚えます。三つ鱗の紋だけなら、頼朝は余分だろう、と。また、この紋を知らない人は、フリーメイソンのような秘密結社の話かな、と誤解するかもしれません。
『鎌倉殿の13人』は、三谷幸喜氏のことだから、人数がひとり合わないものの、最後の晩餐(キリストと12使徒)のパロディとか、時政が比企氏を騙し討ちするのは13日の金曜日とか、いろいろな仕掛けをするのではあるまいか、などと楽しみにしています。

追記
本郷氏も、「義時は・・・比企の乱の後に彼女(姫の前)と離縁しています」(『北条氏の時代』129頁)と書いています。また、承久の乱の戦後処理の法的分析はしていません。
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ネーミング・センスが駄目すぎる「礫岩国家」な人々

2021-11-20 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月20日(土)13時20分49秒

古谷大輔・近藤和彦編『礫岩のようなヨーロッパ』(山川出版社、2016)の目次に、

-------
第Ⅰ部:政治共同体と王の統治
 第1章 複合国家・代表会議・アメリカ革命……H.G.ケーニヒスバーガ(後藤はる美訳)
 第2章 複合君主制のヨーロッパ……J.H.エリオット(内村俊太訳)
 第3章 礫岩のような国家……ハラルド・グスタフソン(古谷大輔訳)

https://www.yamakawa.co.jp/product/64083

とあるので、「第3章 礫岩のような国家」が「The Conglomerate State: A Perspective on State Formation in Early Modern Europe」の翻訳なのでしょうね。
私は Early Modern を「近世」と訳してよいのかも分からないレベルの初心者なので、是非とも古谷大輔氏の翻訳を確認したいのですが、『礫岩のようなヨーロッパ』は版元品切れ、古書も出回っておらず、私が利用できる範囲の公共図書館にもないので、「礫岩国家」探究は暫らくお休みしようと思います。
それにしても「礫岩国家」というネーミングは何とも奇妙なものですね。
中澤達哉氏が要約するところによれば、「礫岩国家」は「近世国家の君主の支配領域に属する各地域は、中世以来の伝統的な地域独自の法・権利・行政制度を根拠に、君主に対して地域独特の接合関係を持って」いて、「非均質で可塑性のある集合体」であり、「服属地域の「組替」「離脱」のほか,離脱による国家の「解体」を視野に入れた考察」が可能で、「この服属地域(礫)の可変性こそ礫岩国家の特徴」なのだそうです。
しかし、ごく常識的に考えれば、礫岩というのは非常に硬いもので、およそ「可塑性」「可変性」はありません。
中澤氏は「礫岩」ではなく「「礫岩状態」というべきではないかと考えている」そうですが、「礫岩生成状態」ならともなく、「礫岩状態」は単なる固体であって、およそ「可塑性」「可変性」はなく、ハンマーとかで叩かなければ「組替」・「離脱」・「変形」は無理ですから、やはり譬喩として適切ではありません。
より適切な譬喩を探すとしたら、マシュマロが良いのではないですかね。
マシュマロは「ふんわりとしたメレンゲにシロップを加え、ゼリーで固めて粉をまぶした菓子」ですが、原料の砂糖・卵白・ゼラチン・水あめの配合を変え、更に香料や着色料、ジャムなどを加えれば無限の多様性が生まれます。
そして、もちろん、マシュマロには「可塑性」「可変性」があり、適度な「接着性」もあるので、「組替」・「離脱」・「変形」は自由自在です。
お口に入れれば溶けますから「解体」を視野に入れた考察にも便利ですね。

マシュマロ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%9E%E3%83%AD

試しに、中澤氏の文章中の「礫岩」「礫」をマシュマロに「組替」てみると、

-------
 さて,こうした「複合国家」「複合王政」論の延長線上に位置するのが,「マシュマロ国家」(marshmallow state)論である。「マシュマロ国家」とは,スウェーデンの歴史家 H・グスタフソンが提唱した概念である。彼によれば,近世国家の君主の支配領域に所属する各地域は,中世以来の伝統的な地域独自の法・権利・行政制度を根拠に,君主に対して地域独特の接合関係をもってマシュマロのように集塊していた(20)。Marshmallow とは「マシュマロ」を含む菓子を意味する料理用語であり,非均質で可塑性のある集合体ということになる(21)。グスタフソンの貢献は,ケーニヒスバーガおよびエリオットの複合国家・複合王政論がやや静態的であるのに対して,服属地域の「組替」「離脱」のほか,離脱による国家の「解体」を視野に入れた考察を行い,動態的な国家論を提示したことである。マシュマロ国家論は君主と複数の服属地域(または服属国家)の間に,集塊のあり方に関する複数の複雑な交渉が常に存在することを重視する。それゆえにこそ,マシュマロ国家的編成は,戦争など国家の存亡にかかわるような危機的な非常事態に明示的に現れ,それぞれの服属地域が異なる集塊(マシュマロの接着=続成)のあり方を可視化してくれるのである。つまり,マシュマロ国家論は,危機の際に復古であれ連合であれ統合であれ,どういう形態をとるにせよ,常に服属地域(マシュマロ)が組替えられたり離脱したり変形することを前提とする。この服属地域(マシュマロ)の可変性こそマシュマロ国家の特徴である。ちなみに筆者はこれを「マシュマロ状態」というべきではないかと考えている(22)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

となり、我ながら何と巧みな譬喩なのだろうと感動してしまいます。
ということで、中澤氏がグスタフソンの「礫岩国家」論をベースに新たな国家論を構想される場合には、是非とも「マシュマロ国家」概念の使用をご検討願いたいと思います。
その際、私は決して「マシュマロ国家」のネーミング・ライツなどを主張するつもりはありません。
もともと私が「マシュマロ国家」の着想を得たのは、中澤達哉氏のお名前でグーグルの画像検索をして、何だか『ゴーストバスターズ』のマシュマロマンみたいな人だな、と思ったことがきっかけです。
その意味でも使いやすい概念かと思いますので、是非とも「マシュマロ国家」概念の採用をご検討願いたいと存じます。

https://www.google.co.jp/search?q=%E4%B8%AD%E6%BE%A4%E9%81%94%E5%93%89&sxsrf=AOaemvJzCcWxW_0-cqvGx5DXL04BqFR8ig:1637381345845&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=2ahUKEwjki-zriKb0AhWEHXAKHV_bA2YQ_AUoAXoECAEQAw&biw=1366&bih=568&dpr=1
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呉座勇一氏『頼朝と義時 武家政権の誕生』

2021-11-20 | 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月20日(土)11時49分46秒

>筆綾丸さん
レスが遅れてすみません。
私は本郷著は未購入で、呉座勇一氏の『頼朝と義時 武家政権の誕生』(講談社現代新書、2021)を入手したばかりです。


まだ全部は読んでいませんが、とりあえず私が興味を持っている「姫の前」関係の記述を見ると、先ず、

-------
姫の前との結婚
 建久三年(一一九二)九月、義時は姫の前という女性と結婚した。この結婚について、『吾妻鏡』は詳細に解説している。姫の前という女性は、比企朝宗(頼朝の乳母である比企尼の実子)の娘で、非常に評判が高かった。幕府に出仕しており、頼朝のお気に入りの女官だったという。もちろん、たいへんな美人だったからである。
 義時は姫の前に懸想し、この一、二年、何度も何度も手紙を送ったが、相手にされなかったという。振られ続ける義時を見かねた頼朝が助け舟を出した。「決して離婚はしない」という誓約書を取ったうえで結婚してあげなさいと、姫の前に対して頼朝が命じたのである。その結果、二人は結婚したという。
 義時の長男金剛(のちの泰時)は寿永二年(一一八三)に誕生しているので、姫の前との結婚が初婚ということではない。しかし泰時の母については、頼朝に仕えた阿波局という女官であるということしか分かっていない(『系図纂要』)。さほど身分が高くなかったようで、側室という扱いだったと考えられる。義時は姫の前を正室として迎えたのだろう。
-------

とあって(p193)、ついで、

-------
頼朝再度の上洛と義時
 【中略】
 義時にとって妹の死は辛かったろうが、姫の前との夫婦生活は順調であった。姫の前との間には、建久四年に朝時、同九年に重時を儲けている。
-------

とあり(p203以下)、更に比企氏の乱の最終段階で、

-------
 比企氏出身の姫の前と結婚している義時も、複雑な心境で戦いに臨んだだろう。比企氏滅亡後、姫の前を離縁している。
-------

とあります。(p229)
ま、このあたりの記述は『日本中世への招待』(朝日新書、2020)と全く同じですね。
ただ、「姫の前」は京都で源具親と再婚し、元久元年(1204)に輔通を生んでいるので、私は「姫の前」が義時と離縁したのは比企氏の乱の前だと思っています。
離縁しないとの起請文を書いたのは義時であって、「姫の前」はそんなものは書いていませんから、「姫の前」から義時に三行半を突きつけるのは自由です。
そして義時も妻への気兼ねなく比企氏を攻撃できたでしょうね。

「姫の前」、後鳥羽院宮内卿、後深草院二条の点と線(その1)~(その3)

それと、承久の乱の戦後処理の法的分析と、それにかかわった大江広元の役割についても何か書かれているかなと思いましたが、特に目立った記述はありませんでした。
まあ、私も鎌倉時代についてはそれなりの古狸なので、今さら全く新しい情報、新しい刺激を得られるはずもなく、仕方ないかなと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

閑話 2021/11/18(木) 16:24:20
本屋さんに、エマニュエル・トッドの新刊本を買いに行くと、隣に、本郷和人氏の『北条氏の時代』(文春新書)と呉座勇一氏の『頼朝と義時』(講談社現代新書)が並んでいました。
来年の大河ドラマに便乗した安直で重厚な本ですが、三谷幸喜の脚本を楽しみにしていることもあって、訴訟中の物騒な呉座氏はやめて、安定した本郷氏の本を買ってみました。本郷氏は、最近、ほとんど芸能人のような趣ですが、才能がなければ芸能人にはなれません。これは皮肉ではありません、念のため。
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その7)

2021-11-19 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月19日(金)13時22分31秒

丸島和洋氏の『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017)で、丸島氏が「礫岩のような国家」論に関心を抱かれていることを知り、ついで中澤達哉氏の論文で「ヨーロッパの近世史研究における新たな潮流の一つである「複合王政」「複合国家」「礫岩国家」論」について初歩的な知識を得たあと、ヘルムート・ケーニヒスバーガの「複合国家」論とジョン・エリオット卿の「複合王政」論を追ってきて、まあ、ここまでは良かったのですが、「スウェーデンの歴史家 H・グスタフソンが提唱した」という「礫岩国家」論は何とも妙な感じですね。
中澤氏の注記を手掛かりにスウェーデンの学術雑誌に2010年に掲載された「礫岩国家」に関する論文を探してみたところ、分量は僅かに25ページ程度です。
無料で読める最初の一ページは、

-------
The Conglomerate State: A Perspective on State Formation in Early Modern Europe

Harald Gustafsson

It seems today that historians are in general agreement that state formation is one of the principal processes of historical transformation in European history. The territorial, sovereign, unitary state did not exist from time immemorial, nor is it a product of industrialization and nationalism in the 19th century. It is a historical artefact that started to develop during the Middle Ages and underwent decisive change in the early modern period, and is still developing.
In this article, I argue that there is a missing link in the historiography of the modern state. Territorial, sovereign stets did not spring out of the collapse of a feudal system in the late Middle Ages, like Athena from the head of Zeus. Instead, the dominating state type of early modern Europe could be labelled the conglomerate state, a state where the rulers found themselves in different parts of their domains. It was a political, judicial and administrative mosaic, rather than a modern unitary state. But it was a mosaic that was kept together more tightly than its medieval forerunner.
I proceed by discussing some of the later contributions to the debate on the European state formation process, focusing on the view of the early modern state. Then, I discuss my own perspective in more detail, using examples mainly from the two early modern Nordic states, Denmark-Norway and Sweden, pointing at important features in both the character of the conglomerate state, and important steps in its integration. I argue that we need more empirical research, especially in the field of cultural factors, such as ethnically and territorially defined identities.

1. State formation theory

There is a long tradition of placing emphasis on the territorial aspect of the modern state. For one of the most influential thinkers of state theory, Max Weber, territoriality was very important. Most well known in Weber's state definition is the monopoly of violence, but there are other components, too. Weber discussed the state in several instances in his great attempt to create a coherent set of concepts for the study of society, his Wirtschaft und Gesellschaft. An attempt to put together a definition from this might be: the state is an organization with a monopoly of

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/03468759850115954

というもので、拙いながらも私が翻訳を試みると、

-------
礫岩国家: 近世ヨーロッパにおける国家形成の展望

ハラルド・グスタフソン

今日、歴史家たちは、国家の形成がヨーロッパ史における歴史的変容の主要なプロセスの一つとする点で一般的に合意しているように思われる。領域的、主権的、単一的国家は太古から存在していた訳ではなく、まして19世紀の工業化とナショナリズムの産物でもない。それは中世に発展を始め、近世に決定的な変化を遂げ、そして現在も発展途上にある人工物である。

この論考において、私は近代国家に関する歴史認識には一つのミッシングリンクがあることを論ずる。領域的な主権国家は中世後期の封建制度の崩壊から、あたかもゼウスの頭からアテナが生まれたように誕生したのではなかった。そうではなく、近世ヨーロッパにおける支配的な国家の形態は「礫岩国家」と呼ぶべきものであろう。それは君主と各々異なった関係に置かれた複数の地域から構成された国家であり、君主は、その支配領域の複数地域と各々異なった関係にあることを認識していた。それは近代的な統一国家ではなく、政治的、法的、行政的なモザイクであった。しかし、それは中世の先行形態よりも強固に結合されたモザイクであった。

次いで私は、近世国家に焦点を当てつつ、ヨーロッパの国家形成プロセスに関する論争に貢献した最近の研究について論ずる。そして、私は私自身の展望を、より詳細に、主として北欧の二つの近世国家であるデンマーク・ノルウェーとスウェーデンの例を用いながら述べ、「礫岩国家」の特徴と、その統合に際しての重要な段階を指摘したい。私は、民族的および領域的に定義されたアイデンティティのような文化的要因の分野では、我々はより経験的な研究が必要であることを論ずる。

1. 国家形成理論

近代国家の領域的側面を強調する長い伝統がある。国家の理論において最も影響力のある思想家の一人であるマックス・ウェーバーは、領域を極めて重視した。ウェーバーの国家の定義において、最も有名なのは暴力の独占であるが、しかし他の要素もある。ウェーバーは、社会を研究するための首尾一貫した諸概念を作り出そうとする偉大な試みであるところの『Wirtschaft und Gesellschaft』において、いくつかの例を用いて国家を論じた。この試みから彼の国家の定義を整理すると、次のようになろう。即ち、国家とは(暴力の)独占を……
-------

てな感じですかね。
最後にウェーバーが出てきますが、果たして「スウェーデンの歴史家 H・グスタフソンが提唱した」という「礫岩国家」論は、ウェーバーを超えるのは無理としても、ウェーバー理論の欠点を鋭く指摘するような優れた議論なのか。
正直、私にはそんな雰囲気は微塵も感じられないのですが。

>筆綾丸さん
レスは後ほど。
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その6)

2021-11-18 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月18日(木)12時45分8秒

ウィキペディアの「composite monarchy (or composite state) 」の記事を見ると、冒頭に、

-------
A composite monarchy (or composite state) is a historical category, introduced by H. G. Koenigsberger in 1975[1][2] and popularised by Sir John H. Elliott,[3] that describes early modern states consisting of several countries under one ruler, sometimes designated as a personal union, who governs his territories as if they were separate kingdoms, in accordance with local traditions and legal structures.

https://en.wikipedia.org/wiki/Composite_monarchy

とあるので、学界的には傍流であったドイツ出身のケーニヒスバーガの提唱した「複合国家(composite state)」論は、最初はあまり注目されなかったけれども、学界の重鎮であるジョン・エリオット卿がケーニヒスバーガの見解を踏まえて「複合王政(composite monarchy)」論を展開したことにより、ケーニヒスバーガも相当評価されるようになった、という感じなのですかね。
ま、上記記事にはウィキペディア特有の注意書きがあるので、全面的に信頼することもできないでしょうが。
さて、中澤論文の続きです。(p41以下)

-------
 さて,こうした「複合国家」「複合王政」論の延長線上に位置するのが,「礫岩国家」(conglomerate state)論である。「礫岩国家」とは,スウェーデンの歴史家 H・グスタフソンが提唱した概念である。彼によれば,近世国家の君主の支配領域に所属する各地域は,中世以来の伝統的な地域独自の法・権利・行政制度を根拠に,君主に対して地域独特の接合関係をもって礫岩のように集塊していた(20)。Conglomerate とは「礫」を含む堆積岩を意味する地質学用語であり,非均質で可塑性のある集合体ということになる(21)。グスタフソンの貢献は,ケーニヒスバーガおよびエリオットの複合国家・複合王政論がやや静態的であるのに対して,服属地域の「組替」「離脱」のほか,離脱による国家の「解体」を視野に入れた考察を行い,動態的な国家論を提示したことである。礫岩国家論は君主と複数の服属地域(または服属国家)の間に,集塊のあり方に関する複数の複雑な交渉が常に存在することを重視する。それゆえにこそ,礫岩国家的編成は,戦争など国家の存亡にかかわるような危機的な非常事態に明示的に現れ,それぞれの服属地域が異なる集塊(礫の接着=続成)のあり方を可視化してくれるのである。つまり,礫岩国家論は,危機の際に復古であれ連合であれ統合であれ,どういう形態をとるにせよ,常に服属地域(礫)が組替えられたり離脱したり変形することを前提とする。この服属地域(礫)の可変性こそ礫岩国家の特徴である。ちなみに筆者はこれを「礫岩状態」というべきではないかと考えている(22)。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

最初にこの文章を読んだときは、「スウェーデンの歴史家 H・グスタフソンが提唱した」という「礫岩国家」論が現代歴史学の最先端の議論であって、西欧の学界で大いに注目され、支持されているものと思ったのですが、少し調べてみたら、どうにも妙な感じですね。
そもそも「スウェーデンの歴史家 H・グスタフソン」がいかなる人物かというと、ウィキペディアにはスウェーデン語の短い記事しかなくて、私には読めません。

https://sv.wikipedia.org/wiki/Harald_Gustafsson

そこで、グーグル翻訳の助けを借りると、

-------
1953年生まれのハラルド・グスタフソンは、スウェーデンの歴史家であり、ルンド大学の歴史学教授です。
彼の研究では、ハラルド・グスタフソンは主に、政治文化、権力と影響力、アイデンティティの概念、国家形成プロセスなどのトピックで、初期の近代(1500~1850)の北欧地域を扱ってきました。とりわけ、彼は北欧の研究で礫岩国家の概念を紹介しました。
ハラルド・グスタフソンには、ビョルン・サンダースとトーブ・サンダースの2人の子供がいます。
-------

とのことです。
次いで Lunds universitet(ルンド大学)サイトを見ると、

-------
I am taking part in the project 'Re-thinking Dynastic Rule: Dynasties and State
Formation in the Habsburg and Oldenburg Monarchies, 1500-1700', where my part is to do a study of the Oldenburg dynasty in Denmark 1536-1699.

https://portal.research.lu.se/en/persons/harald-gustafsson

とのことで、研究対象はあくまで北欧に限定されているようですね。
そして、中澤論文の注20に

-------
(20) Gustafsson, H., “The Conglomarate State: A Perspective on State Formation in Early Modern Europe”,
Scandinavian Journal of History, 23-3,4, pp. 193-98, pp. 209-210.
-------

とあったので、この論文を探したら、これのようですね。

https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.1080/03468759850115954

浩瀚な書物かと思ったら、当該雑誌の189~213頁とのことで、分量は貧弱です。
有料記事なので冒頭の一ページしか読んでいませんが、対象は北欧だけのようですね。
うーむ。
正直、なんじゃこりゃ、という感じですね。
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その5)

2021-11-18 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月18日(木)11時01分5秒

ウィキペディアによれば、

Although the family was Lutheran Christians, they were classified as Jewish by the Nazis: both of his grandfathers had been non-practising Jews.

https://en.wikipedia.org/wiki/Helmut_Koenigsberger

とのことですから、ケーニヒスバーガの家族は彼の祖父母の代で既にユダヤ教から離れているのに、ナチスによってユダヤ人として迫害され、イギリスに逃れると、今度はユダヤの裏切り者としてユダヤ人団体から白眼視される訳ですね。
従って、ケーニヒスバーガは否応なく民族とは何か、宗教とは何か、という問題を突き詰めて考えざるをえなくなり、それは彼の学風に甚大な影響を与えることになったのでしょうね。
ま、それはともかく、彼のアカデミックな経歴も概観しておくと、ケンブリッジ大学の博士課程に在籍中、「1647年に起きたスペイン統治に対するパレルモの反乱」と「17世紀のナポリとシチリア島における英国商人」というタイトルの論文を書き、博士論文の「スペインのフィリップ2世の統治下でのシチリア政府:帝国の実践の研究」はモノグラフとして刊行されたとのこと。
1948年、経済史の講師としてベルファストのクイーンズ大学に職を得て、1951年にマンチェスター大学に移り、経済史の上級講師(?)、そして1960年から1966年までノッティンガム大学で近代史の教授を務めた後、アメリカ合衆国に移り、1973年までコーネル大学教授。
その後、英国に戻り、1984年に引退するまでキングスカレッジ・ロンドンで歴史学の教授ですから、後半生は学者としてなかなか恵まれた人生、という感じですね。
以上、長々とウィキペディアの記事を紹介してしまいましたが、私はもともとドイツの改宗ユダヤ人にちょっと興味を持っています。
近代ドイツの宗教事情はなかなか難解なので、深井智朗氏の著作には大変お世話になったのですが、深井氏もすっかり社会的に抹殺されてしまいましたね。
今は何をされているのでしょうか。

「心を高くあげよ」(by 第三三代院長 深井智朗)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d23bbbe1da5c66070fafdbe13348ffc1
「編集者は学者ではない。著書内容の文献として挙げられている文書までチェックせよ、というのは酷だ」(by 元岩波の編集者)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3f944f526eaf4c4dfa58e6f59857d63

さて、些か脱線気味でしたが、中澤論文に戻ります。(p41)

-------
 日欧間の相違は,ケーニヒスバーガの論点を国家論から引き継ぐエリオットが存在したことである。「複合王政」はイギリスの歴史家エリオットが提唱した概念である。彼は,中世とは異なる,しかも絶対主義とも異なる,主権を持った新たな国家・政体に着目し,近世君主の支配領域の多くが,古来の法と権利を持つ独立した国家ないしは政体の「集合体」であったと論じた(19)。実際に,君主または王朝間の連合は,スペイン王国,グレートブリテン王国,ポーランド = リトアニア共和国,ハプスブルク帝国などに顕著にみられる現象であるとした。近世ヨーロッパは実のところ,中央集権的な絶対王政型の主権国家からなるのではなく,服属するさまざまな地域との合意のもと緩やかな統治を行う主権国家あるいは政体の集合体であり,そうした複合王政のほうがむしろヨーロッパでは常態であったとの主張であった。この見解にしたがえば,いわゆるフランスの絶対王政はむしろヨーロッパではきわめて特異なケースということになる。ここから敷衍すると,18 世紀にフランスを除くヨーロッパの多くの複合国家(プロイセン,オーストリア,ロシア,スペイン,スウェーデンなど)が着手する啓蒙絶対主義は後進地域に特有の絶対主義などではなく,実はヨーロッパの一般的な姿だということになる。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

ケーニヒスバーガを知らなかった私は Sir John Huxtable Elliott(1930生)も知りませんでしたが、こちらはケンブリッジ卒業後、ケンブリッジやキングスカレッジ、プリンストン高等研究所を経て、オックスフォード大学の Regius Professor of History とのことですから、歴史学者としての王道を驀進した超エリートのようですね。

https://en.wikipedia.org/wiki/John_Elliott_(historian)

Regius Professor(欽定教授)というのは何だかよく分らない制度ですが。

欽定教授
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%BD%E5%AE%9A%E6%95%99%E6%8E%88

ま、そんな超エリートの人生を細かく見てもつまらないので省略しますが、1994年に歴史学への貢献を理由にナイトの称号を授けられたというのはいかにもイギリス的ですね。
また、スペイン政府から Commander of Isabella the Catholic(イザベラ女王勲章?)と Grand Cross of Alfonso the Wise(アルフォンソ賢王大十字章?)を、カタロニア州からは Creu de Sant Jordi(サン・ジョルディ十字章?)を授与されているそうで、スペインの歴史を解明した功績はスペイン側からも非常に高く評価されているようですね。
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その4)

2021-11-17 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月17日(水)11時32分0秒

中澤達哉氏の論文など全然読んだことはありませんでしたが、近時の業績を確認しようと思って歴史学研究会編『第4次 現代歴史学の成果と課題 第2巻 世界史像の再構成』(績文堂出版、2017)を見たら、中澤氏の「国民国家論以後の国家史/社会史研究─構築主義の動態化/歴史化にむけて」という論文は「ネイション・ナショナリズム研究の今後」の焼き直しですね。

-------
 1980年代以来の認識論的な問いの現在と新自由主義という時代状況の現出を踏まえ、歴史学の方法、歴史像、歴史実践を中心軸に、歴史学の現在とその課題を照射する第4次『現代歴史学の成果と課題』。
3巻構成により、それぞれの歴史学をとりまく状況と方法、時間と空間の再編成による歴史像のあり方、歴史家の実践的行為全般に光をあて、歴史学の存在意義を問う。

 第2巻 世界史像の再構成

構築主義をめぐる議論の地平を超え
新たな能動的歴史像を目指して
秩序形成/解体の過程を再考する
歴史研究の多様な試みに光をあてる

http://www.sekibundo.net/new/new36.html

歴史学研究会の人たちって、昔から「地平を超え」るのが大好きで、この種のタイトルの本が多いですね。
ま、それはともかく、「ネイション・ナショナリズム研究の今後」(『現代史研究』59号、2013)よりは、この焼き直し論文、中澤氏自身の表現では「同じ趣旨のもとに執筆したフォーラム向けの研究動向〔中澤二〇一三〕に、大幅な加筆・修正を施した別論文」の方が分かりやすいですね。
些末な例を挙げれば、前回投稿で指摘した、

「しかし日欧間の大きな相違は二点ある。第一にアナール派以前のヨーロッパには日本的な戦後歴史学が存在しなかったこと」

は、

「しかし、日欧間の相違は二点ある。第一にアナール派前後のヨーロッパには日本型の戦後歴史学は存在しなかった」

と修正されていて、「以前」から「前後」へ、「日本的な」から「日本型の」となっています。
日本語としては多少まともになりましたが、当たり前といえば当たり前で、わざわざ書くのはやはり奇妙な感じですね。
さて、今さら「大幅な加筆・修正を施した別論文」に切り替えるのも面倒なので、とりあえずは「ネイション・ナショナリズム研究の今後」の検討を続け、その後で、必要があれば補足的に「別論文」も少し検討することにしたいと思います。
ということで、続きです。(p40以下)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

-------
 さて,ここからは「複合国家」「複合王政」論そのものの検証に入ろう。「複合国家」とは,イギリスの歴史家ケーニヒスバーガが 1975 年に提唱した国家概念である。彼によれば,近世の国家は中央集権的で画一的な国家ではなく,①複合的な国家形態,②代議制機関(身分制議会)などの中世以来の国家・政治形態を保存した国家であった。つまり君主は国家全体を絶対主義的に統治できないのであり,支配下のさまざまな地域との「交渉」「妥協」「調停」を通じて緩やかに統治していたと論じた(17)。この状態を表す概念として,ケーニヒスバーガが多用した史料用語が dominium politicum et regale(諸身分と王の統治)であった(18)。ケーニヒスバーガの見解は二宮が 1979 年に「フランス絶対王政の統治構造」で提示した国家構造・統治構造の論点と驚くほど類似することが分かるだろう。
-------

私は「ケーニヒスバーガ」の名前も知りませんでしたが、ウィキペディアで Helmut Koenigsberger の経歴を見たら、なかなか波瀾万丈の人生ですね。

Helmut Koenigsberger(1918-2014)
https://en.wikipedia.org/wiki/Helmut_Koenigsberger

出身はベルリンで、父は有名な建築家、母はノーベル物理学賞を受賞したマックス・ボルン(1882-1970)の姉妹だそうですから、経済的にも知的な面でも恵まれた環境の中で育ったのでしょうね。
ただ、ルター派キリスト教徒の家庭だったにもかかわらず、ナチスによってユダヤ人に分類されてしまったため、ドイツからイギリスに逃れることになります。
そしてケンブリッジのゴンヴィル・アンド・キーズ・カレッジで歴史を学び、学士号を得て卒業するも、 1940年5月2日、英国政府によって敵性外国人と認定され、ホワイト島、ついでカナダの収容所に送られてしまいます。
カナダにいる間、「もし彼がユダヤ教徒だったら、彼を助けるのはもっと簡単だろう」との説明を受け、ユダヤ人団体は「ユダヤ教に改宗する」場合にのみ彼に援助すると申し出たとのことなので、普通のユダヤ人にも増して不条理な世界を生きた訳ですね。
八か月の抑留後、英国に戻ることを許されますが、 ケンブリッジ大学は、彼が抑留されていなければ得られたであろう「double first class honours degree」ではなく「war degree」を与えたとのことなので、細かい事情は分かりませんが、不条理は続きます。
そして帰化の申請が早く認められるように1944年7月に英国海軍に入りますが、その際にドイツ風の名前の改名を求められ、「ヒラリー・ジョージ・キングズレー」となります。
海軍では暗号解読などの仕事をし、戦争が終わると連合国の軍政機関に勤めるためドイツに戻ることを希望しますが、結局、イギリスに復員し、昔の名前に戻ってケンブリッジ大学に復学します。
ま、さすがにこの後は学者としての平穏な生活だったのでしょうね。
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その3)

2021-11-16 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月16日(火)11時16分23秒

続きです。(p39以下)

-------
 紙幅の限られた小論では,ヨーロッパの近世史研究における新たな潮流の一つである「複合王政」「複合国家」「礫岩国家」論をまず吟味しつつ,これらの国家論が近代ネイション・ナショナリズム研究にいかなる変更を迫っているのかを明らかにする。それは同時に,近代史研究では等閑視されてきた二宮の国家論が国民史研究に何を要請しているかを問うことでもある。そのうえで,近現代のスロヴァキア国民形成とナショナル・アイデンティティを事例に,ネイション・ナショナリズム研究の方法論的課題を具体的に検証したい。また,論述の際には日本の戦後歴史学以降の方法論についても副次的に言及し,日本の史学史への位置づけについても考えてみたい。

1.ネイション・ナショナリズム研究と複合国家・複合王政・礫岩国家論

(1)前提―ゲルナーの近代論・構築主義
 いうまでもなく,近代論は 1960 年代のケネディ,ロストウらを中心とする「近代化論」(Modernizing Theory)と区分される。その特徴は概して以下の三点に集約できる。①ネイションは近代において恣意的に捏造された人工物である(12)。②それゆえに,ネイションは客観性のない想像された共同体である(13)。③この観念の形成は近代化・資本主義化・産業化に起因する(14)。近代論はネイションへの帰属意識の可変性をも強調する。なによりも,その把握のもとでは,西欧や東欧,アジアやアフリカにおけるネイションもナショナリズムも,近代という同一性のなかに並列化されることになる。
-------

注を見るまでもなく、「①ネイションは近代において恣意的に捏造された人工物である」はエリック・ホブズボーム、「②それゆえに,ネイションは客観性のない想像された共同体である」はベネディクト・アンダーソンですね。

エリック・ホブズボーム(1917-2012)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%9B%E3%83%96%E3%82%BA%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%83%A0
ベネディクト・アンダーソン(1936-2015)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3

ゲルナーは省略して(2)に入ります。

-------
(2)複合国家論・複合王政論・礫岩国家論
 より重視すべきは,ゲルナー,ホブズボーム,アンダーソンの一連の著書が出版された 1983 年の段階の日本において,すでに二宮の社会史研究が登場していたことである。日本の近代史研究者の間では,二宮の認識論的・方法論的土壌に,戦後歴史学の関心を部分的に共有していたゲルナー型の近代論が流入し,これらが相互に影響しあい構築主義の雰囲気が準備されはじめたことは注目に値する。一方のヨーロッパでも,アナール派と構築主義との間に類似の関係を読み取ることができる。しかし日欧間の大きな相違は二点ある。第一にアナール派以前のヨーロッパには日本的な戦後歴史学が存在しなかったこと,第二にゲルナー流の構築主義の成立とほぼ同時期に,ヨーロッパでは既述の複合国家論・複合王政論が整備されていたという事実である。つまりゲルナーの構築主義とエリオットらの複合国家・複合王政論は,近代国家,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などといった近代的諸価値への信仰が潰えた 1960 年代末のポストモダン的な情況に対する異なる二つの反応であった(16)。ゲルナーの反応は社会構成体の再編と再解釈とによるモダニズム的なネイション・ナショナリズム論からの反応であり,ケーニヒスバーガおよびエリオットの反応は主権国家・絶対王政論の再構成による近世国家論からの反応であった(同様にポーコックは共和主義論からの転回であった)。イギリスで先行した議論にやや遅れて「宗派化」「規律化」研究がドイツからはじまるが,これらも広くはケーニヒスバーガやエリオットらの延長線上にある議論として捉えることができるだろう。このように,日本における社会史の発展とは異なる多様な動きが同時期のヨーロッパにはみられたのである。
-------

「しかし日欧間の大きな相違は二点ある。第一にアナール派以前のヨーロッパには日本的な戦後歴史学が存在しなかったこと」はずいぶん奇妙な表現で、「日本的な戦後歴史学」みたいなものがヨーロッパに存在するはずがないですね。
さて、私自身は複合国家論・複合王政論について全然勉強していないので中澤氏の要約が正確なのかは評価できませんが、ただ、冒頭の「近代国家のみならず,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などに対する近代的諸価値への信仰が幻想へと変わり,完全に衰退した」という断定的表現の後、ここで再び登場した「近代国家,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などといった近代的諸価値への信仰が潰えた 1960 年代末のポストモダン的な情況」云々という表現はどうにも大袈裟で、こういう表現は私は好きではありません。
だいたい、「近代国家,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などといった近代的諸価値への信仰」が「完全に衰退」したり「潰えた」ならば、近代国家はその時点で崩壊している訳で、では、いったい私たちが生きているこの世界はいったい何なのか、という話になります。
まあ、別に中澤氏だけでなく、こうした広告代理店のプレゼン男みたいな言い方をする人はけっこう多くて、世渡り上手だなとは思いますが、一時的に派手な活躍をしても、後続の研究者に役立つ業績を残す人は少ないですね。
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その2)

2021-11-16 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月16日(火)10時12分24秒

続きです。(p38)

-------
 さて,歴史学に地殻変動を引き起こしている第二の要素は,近世史研究,とりわけ国家論における大幅な認識の転換である。かつて近世後半に関する日本の戦後歴史学の見解は,絶対王政の確立とこれに対抗する市民革命の到来を前提としていた(5)。革命後のブルジョア社会の出現や国民国家の成立を「型」の形成の契機とし,この型の抽出により歴史の進展を把握するという方法である。つまり,型を取り出し,その典型の一般性と固有性を明らかにすることで他の事例との比較が可能になる(6)。ここでは歴史の発展方向があらかじめ決定されているほか,それを主導する主体(民族と階級)の自明性も際立っていた(7)。
-------

「かつて近世後半に関する日本の戦後歴史学の見解は,絶対王政の確立とこれに対抗する市民革命の到来を前提としていた」とあるので、いったい何時の話なのだろう、と思って注を見ると、

-------
(5) 高橋幸八郎『近代社會成立史論―歐洲經濟研究史』日本評論社,1947 年;同『市民革命の構造』岩波書店,1950 年。ほかにも以下を参照。大塚久雄『近代欧州経済史序説』岩波書店,1981 年(1938 年);同『近代化の歴史的起點』學生書房,1948 年。
(6) 詳細は,成田ほか上掲論文,16-7 頁。
(7) 石母田正『歴史と民族の発見』東京大学出版会,1952 年;上原専禄『民族の歴史的自覚』創文社,1953 年;江口朴郎『帝国主義と民族』東京大学出版会,1954 年。
-------

とのことなので、カルスタやポスコロですら相当昔のような感じなのに、これはまた遥か昔、「戦後歴史学」の黎明期、ないし「古代」の話ですね。
細かい事ですが、「近代社會」「起點」「學生書房」と旧字に拘っているのは何故ですかね。
ま、それはともかく、続きです。

-------
 一方,1970 年代以降のヨーロッパの歴史学界では,アナール派と同等に(あるいはそれ以上に),G・エストライヒの「社会的規律化」(Sozialdisziplinierung),W・ラインハルトらの「宗派化」(Konfessionalisierung),J・ポーコックらの「市民的人文主義」(civic humanism)・「共和政」(republicanism)研究,そして,K・H・ケーニヒスバーガおよび J・エリオットらを中心とする「複合国家」(composite state)・「複合王政」(composite monarchy)論が大いなる発展を遂げていた。アナール派のインパクトが日本では強いだけに,ともするとその重要性は比較的軽視されがちであるが,上記研究の史学史上の世界的意義はきわめて大きい(8)。なかでも,後述の「複合国家」「複合王政」論は,のちに「礫岩国家」論をも登場させ,今日の近代ネイション・ナショナリズム研究に再検討を迫っていると考える。
 確かに日本の歴史学においては,上記の「規律化」「宗派化」「市民的人文主義」「複合国家」論のインパクトはアナール派の社会史研究が与えたインパクトに比べて小さかった。これは,ヨーロッパの文脈と異なり日本では,二宮宏之を中心とした絶対王政論が上記の戦後歴史学を一部継承しつつも代替する役割を果たし,そのアナール派的な社会史研究が大いに発展したことと無縁ではない。二宮はひとびとが日常的に取り結ぶ社会的結合や社会編成原理に着目し,絶対王政は諸社団を媒介することによってはじめて全国規模の統治を貫徹することができたと結論した(9)。これによって,官僚制や常備軍に支えられて中央集権化や近代化を進めてきたとされる絶対王政像は,全面的な修正を迫られることになったのである。その後,二宮の(国家論ではなく)エトノス論とその社会史研究が,ネイション・ナショナリズム研究をはじめとする近代史研究にもインスピレーションを与えた結果,1990 年代には記憶や表象,ジェンダーやエトノスを研究対象とする「国民の社会史」が日本に出現し,近代論系構築主義を形作ることになった(10)。より厳密に言えば,絶対王政像を修正したエトノス論に基礎を置きながら,この段階で欧米の構築主義をも摂取した結果,国民史批判の礎石が形成されることになったのであり,二宮の研究のもう一つの柱である国家論や社団論から国民史批判が発展してきたのではないことに着目したい(11)。後述する複合国家論・礫岩国家論はまさにこの部分に介在しているのである。
-------

長々と引用しましたが、「これ〔二宮宏之氏の研究〕によって,官僚制や常備軍に支えられて中央集権化や近代化を進めてきたとされる絶対王政像は,全面的な修正を迫られることになった」はいくら何でも大袈裟ではないですかね。
自分の得意な論点に持って行くに際して、研究史を多少単純化することは許されるとしても、ここまで二宮宏之氏を持ち上げるのは如何なものか。

二宮宏之(1932-2006)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%AE%8F%E4%B9%8B

なお、ウィキペディアの上記記事には、「1984年には文化人類学者の川田順造や日本中世史家の網野善彦らとともに学術誌『社会史研究』を創刊。同誌を中心とする二宮の活動は、フランスの『アナール』の影響を受けた新しい歴史学が日本で開始される重要なきっかけとなり、のちに網野善彦らが日本で庶民の社会史の研究を深めてゆく大きな足がかりとなった」とありますが、網野善彦氏は、自分はアナール派の影響など一切受けていない、「大体フランス語は読めないのですから直接の影響などまったくありません」と強調されていましたね。

「かのかたはを愛するなりけりと、興なく覚えければ」
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/469b19d3376e0b2a8cbfae963f27852e
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あなたの「国家」はどこから?─中澤達哉氏の場合(その1)

2021-11-16 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月16日(火)09時05分25秒

丸島和洋氏は「礫岩のような国家」論に「提示されている問題意識は、日本の戦国大名研究の有する問題点を的確に突いている」とされますが、丸島氏が「複合国家」でも「複合王政」でもなく、「礫岩国家」に特に関心を持たれているのは、「礫岩国家」が「国家の「解体」を視野に入れた考察を行い、動態的な国家論を提示」(中澤)していることが理由みたいですね。
『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017)の「第七章 武田氏の滅亡─戦国大名の本質」は、武田勝頼が国衆に見放されて戦国大名「国家」が「解体」された典型例ですから、「礫岩国家」論から示唆を得た点があったのかもしれません。
ただ、国家の「解体」を視野に入れると、「礫岩」という譬喩の不自然さが一層際立って来るようにも見えます。
いったん形成された「礫岩」は非常に固く、簡単に「解体」できるようなものではないですからね。
ところで、中澤達哉氏の「礫岩国家」論は『現代史研究』59号(現代史研究会、 2013)所収の「ネイション・ナショナリズム研究の今後」にもう少し詳しく展開されており、これはネットで読めます。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gendaishikenkyu/59/0/59_37/_pdf/-char/ja

冒頭から少し引用すると、

-------
問題設定―ネイション・ナショナリズム研究と歴史学

 1980 年代以降のネイション・ナショナリズム研究は,近代論(Modernization theory)と原初論(Primordialism theory)ないしはエスノ象徴主義(Ethnosymbolism)という図式のもとで論争が繰り広げられ,文化人類学・社会人類学・民族学・政治学・社会学・歴史学の領域を超えて世界レベルで深化するに至った(1)。近代論系構築主義の文化研究には,カルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズも加わり,国民史研究の論壇はいっそう活況を呈した(2)。しかし現在では,こうした盛況もいささか昔日のものとなった。グローバル化の時代には帝国論や越境的な地域論こそ論じられるべき喫緊の課題であって,国民国家やナショナリズムに関してはもはやそうした要請はないというような言論も現れはじめている。この論争自体 1980-90 年代に特有の現象であったと認識されるようにもなっている。しかし,なによりも注視しなければならないのは,原初論・近代論ともに理論的な限界が指摘されはじめていることである。実のところ,歴史的文脈にかかわりなく前近代に近代国民のエスニックな起源を措定してしまう原初論の非歴史性は批判されて久しい。とりわけ歴史学では,原初論系本質主義に対する批判は,近代論系構築主義に立脚しながら国民史批判として展開されてきた。1990 年代にはこの文脈に立つ国民史批判は内外で一種の流行とまでなったが,今日ではむしろ当の近代論もまた,原初論と同様,方法論上深刻な岐路に立たされているといっても過言ではない。
-------

とのことですが、カルスタやポスコロの流行も、本当に昔話になってしまいましたね。

-------
 さて,近代論系構築主義が批判を余儀なくされる背景には,近年の歴史学における巨大な地殻変動がある。一つには(論理的には原初論と近代論のいずれをも批判の俎上に載せることになるが)1960 年代後半からの後期産業社会に対応して現れたポストモダニズムによる変動が挙げられる。ポストモダニズムはあらゆる価値判断を拒否し,歴史記述の不可能性さえ主張するに至った(3)。この現象は広くは,近代国家のみならず,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などに対する近代的諸価値への信仰が幻想へと変わり,完全に衰退したことと軌を一にしていた。近代国民国家の正統化のために体制化された近代歴史学も,必然的に変容を迫られ,批判の対象となったわけである。こうして歴史学が認識論的な基盤からその存在意義を疑われはじめた結果,一切の歴史構想力は主観的なものとみなされ,その当然の帰結として価値相対主義を招来する事態となった。確かに,近代国民概念やナショナリズムの構築性を解明する際に,ポストモダニズムから派生したカルチュラル・スタディーズやポストコロニアル・スタディーズは有効な手立てとなる。しかし,ポストモダニズムでは,それを論究する研究者自身の言説を有意味的に位置づけられない。このようにして,国民史も国民史批判もともに認識のうえで客観性のない言説と化すわけである。この点に無自覚で無邪気な国民史批判は今も多いが,逆にこれに自覚的となった場合,効果的な国民史批判は論理的にはいっさい不可能となってしまう。それゆえに現在では,価値相対主義をアプリオリに歴史学と分離する認識の仕方も提示されている(4)。本稿もその提言を受け入れることとし,認識論上の客観性を担保することにしたい。
-------

「近年の歴史学における巨大な地殻変動」とありますが、中澤氏がずいぶん地学が好きなようですね。
「ポストモダニズムはあらゆる価値判断を拒否し,歴史記述の不可能性さえ主張するに至った」、「この現象は広くは,近代国家のみならず,市民社会,人権,啓蒙,産業社会,近代化などに対する近代的諸価値への信仰が幻想へと変わり,完全に衰退したことと軌を一にしていた」といった表現も、古い流行歌を聞くような懐かしさを覚えます。
さて、「それゆえに現在では,価値相対主義をアプリオリに歴史学と分離する認識の仕方も提示されている(4)」とあったので、これはどんなにすごい論文かと思ったら、

-------
(4) 成田龍一・小沢弘明・戸邉秀明「戦後日本の歴史学の流れ―史学史の語り直しのために」『思想』第 1048号(2011 年8月号),39-40 頁
-------

とのことです。
うーむ。
注(3)までは洋風の名前がずらずら並んでいるので、ここももう少し洋風の名前が出てもよさそうな感じですが、何故か純和風ですね。
この論文は未読ですが、私は昔から成田龍一氏にあまり良い印象を持っていないので、正直、さほど期待できないように感じます。
ただ、読まずに決めつけることもできないので、ヒマが出来たら一応読んでみようかなとは思います。

成田龍一氏に学ぶ司会術
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/58dbe02102c2e2d1d6f38558148e2eb3
"East Asian Historical Thought in Comparative Perspective"
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/004380f8b55273c44fda54f1ed010caf
謎の発言者
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/49abeef872d2d1ab33e564049d792de3
日米の盆栽愛好者たち
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/103a07f60ba8bf777792886be7d72d70
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あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その4)

2021-11-15 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月15日(月)12時54分13秒

続きです。(p20)

-------
 一方で、ヨーロッパ近世史では、従来の議論が近代国民国家の成立を予定調和的に捉えることについて、批判する動きがみられる。すなわち、近世ヨーロッパにおける諸国家は、国民国家とはまったく異なる特質を有しているものが少なくない、というのである。ひとつの国家が、複数の王国によって構成されているが、連邦制とは異なり、ひとりの君主がすべての王国の王位を兼ねている。しかし、王国ごとに、君主が行使できる王権は異なるというもので、形の異なる岩がくっついたような国家、という意味で、「礫岩のような国家」論などと呼ばれる。
 筆者はまだこの議論をトレースし始めたに過ぎないから、「礫岩のような国家」論の位置づけを論ずる立場にはない。しかし、ここで提示されている問題意識は、日本の戦国大名研究の有する問題点を的確に突いている。
-------

私も「礫岩のような国家」論など全く「トレース」していませんが、ネットで少し検索したところ、中澤達哉氏の「シンポジウム趣旨説明:礫岩国家の三点測量」(早稲田大学総合研究機構・早稲田大学高等研究所国際シンポジウム、2014)に以下のような説明があります。

-------
〔 シンポジウム趣旨説明 〕
             中澤達哉(福井大学)
 近年のヨーロッパ史研究では、「近代国家」の前史としての「近世国家」像が批判され、近世ヨーロッパの各地で保たれていた独特な政治秩序の多様な姿が議論の対象となっています。ブリテンやスペインなどを事例に検討されてきた複合国家(composite state)論や複合王政(composite monarchy)論は、こうした議論の一端に位置付けられるものであり、中世後期に独特な政治体系と近代以降の国家経営との間のミッシングリンクを明らかにする分析枠として注目されています。複合国家を構成する様々な地域は戦争などの情況を背景に生み出される政治的な磁場によって引力や斥力を帯び、複合国家は不断にその編成を替えていきます。
【中略】
 こうした「複合国家」「複合王政」論の延長線上に位置するのが、「礫岩国家」(conglomerate state)論です。「礫岩国家」とは、スウェーデンの歴史家H・グスタフソン(H.Gustafsson)がおもに提唱した概念です。彼によれば、近世国家の君主の支配領域に所属する各地域は、中世以来の伝統的な地域独自の法・権利・行政制度を根拠に、君主に対して地域独特の接合関係をもって礫岩のように集合していました。Conglomerateとは「礫」を含む堆積岩を意味する地質学用語であり、非均質で可塑性のある集合体ということになります。グスタフソンの貢献は、ケーニヒスバーガおよびエリオットの複合国家・複合王政論がやや静態的であるのに対して、服属地域の「組替」「離脱」のほか、国家の「解体」を視野に入れた考察を行い、動態的な国家論を提示したことです。礫岩国家論は君主とこれに服属する複数の地域(または領邦)との間に、集合のあり方に関する複数の複雑な交渉が常に存在することを重視しています。それゆえ、礫岩国家的編成は、戦争など国家の存亡にかかわるような危機的な非常事態に明示的に現れるのです。つまり、礫岩国家論は、危機の際に復古であれ連合であれ統合であれ解体であれ、どういう形態をとるにせよ、常に服属地域(礫)が組替えられたり離脱したり変形することを前提としています。この服属地域(礫)の可塑性・可変性こそ礫岩国家の特徴といえます。


「中澤達哉(福井大学)」とありますが、中澤氏は2015年に東海大学に移り、更に2018年から早稲田大学の「文学学術院文化構想学部教授」だそうですね。
確か歴史学研究会の事務局長もされているはずです。


さて、「礫岩国家論は君主とこれに服属する複数の地域(または領邦)との間に、集合のあり方に関する複数の複雑な交渉が常に存在することを重視しています」の一例が丸島氏の言われる「ひとつの国家が、複数の王国によって構成されているが、連邦制とは異なり、ひとりの君主がすべての王国の王位を兼ねている。しかし、王国ごとに、君主が行使できる王権は異なるというもの」なのでしょうが、日本の戦国大名や国衆、そして近世の藩がここまで複雑かというと、そうでもないですね。
戦国大名の武田家と上杉家の君主が同一人物といった事態は戦国時代にはおよそあり得なかったですし、近世に入っても薩摩藩の君主が長州藩の君主を兼ねるといった事態は日本では全くなかった訳です。
加賀前田藩のように富山藩・大聖寺藩・七日市藩のような支藩を抱える巨大な藩であっても、藩が違えば君主も違います。
何故に日本が「礫岩国家論」の対象とする西欧の地域のような複雑さを持たなかったかというと、それは山田康弘氏の議論を検討した際に確認したように、「大名以下列島に住まう人びとは、古代以来「日本国」という一つの国制のもとに同じ歴史を体験してきたという、いわば歴史的回想を共有して」いたからですね。
足利将軍の置かれた「戦国大名ソサイエティ」(仮称)は「人種・民族・言語・宗教・歴史・文化・慣習といったあらゆる基本的部分を【共通】にしている」訳で、「Conglomerate」、即ち「「礫」を含む堆積岩を意味する地質学用語」に喩えることができる「非均質で可塑性のある集合体」とまでは言えなさそうです。

あなたの「国家」はどこから?─山田康弘氏の場合(その5)

新田一郎氏ならば、「礫岩」は「濫喩」ではなかろうか、と言われるかもしれないですね。

『中世に国家はあったか』に学問的価値はあったか?(その9)
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あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その3)

2021-11-15 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月15日(月)11時47分26秒

そろそろ不案内な戦国時代から中世前期に戻ろうと思いますが、平山優氏の『戦国大名と国衆』(角川選書、2018)に出ていた丸島和洋氏の『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017)がちょっと気になったので、最後にこれを少しだけ見ておきます。

-------
生き残りをかけて、信頼が問われた乱世――。
 個の実力のみに帰しては見誤る、武田氏滅亡への道。
 勝頼の「不運」とはいかなるものであったのか。
 その正体を探っていけば、戦国大名の本質が見えてくる。

https://www.heibonsha.co.jp/book/b308636.html

まだ全部は読んでいませんが、書名から受ける印象とはずいぶん違う内容ですね。
この点、著者も「あとがき」で、

-------
 本書を、単に武田勝頼という人物の伝記と思われて手に取られた方は、困惑するかもしれない。筆者は武田勝頼の人物伝を書こうとは最初から思わなかった。武田勝頼を題材にした、戦国大名論・戦国時代論(さらにいえば中近世移行期権力論)として構想したのである。
 題材として武田勝頼を選んだのも、筆者の研究課題のひとつ「中世から近世への移行はいかにしてなされ、その中で戦国大名はどのように位置づけられる存在か」を論ずる際、筆者にとってもっとも準備が整っている研究素材というのが最大の理由である。だから本書は勝頼の一生をたどりつつ、戦国大名権力の社会的位置づけを論じることを最大の眼目とした。
-------

と書かれています。(p360)
まあ、だったら当該問題意識をストレートに出したタイトルにすれば購入者を「困惑」させることもなかろうに、とは思いますが、恐らくそれでは本が売れないという出版社側の懸念があって、こうしたタイトルになったのでしょうね。
ま、それはともかく、同書の「はじめに─勝頼は信長となにが違った」から、私が特に興味を持っている「国家」に関係する部分を少し引用してみます。(p19)

-------
 近年では、戦国大名権力を「国家」ないし「地域国家」と呼称する研究者が少なくない。これは勝俣鎮夫氏の提唱によるもので、それ以前から存在した戦国期日本を室町幕府・織豊政権と戦国大名「下位国家」の二重構造と捉えようという議論の延長線上にある。勝俣氏の議論は、戦国大名「国家」を、「プレ国民国家」(近代国家の起点)とまで位置づけている。この点については極論に過ぎるとの批判が多いが、筆者を含めた関東在住の若手研究者の多くは、戦国大名「地域国家」論で議論を進めており、近世の幕府と藩の関係の前提として戦国期の「国家」の重層性を位置づけている。
-------

いったん、ここで切ります。
勝俣鎮夫氏の「国民国家」論は夜郎自大の奇妙な議論ですが、黒田基樹氏あたりが勝俣説に従うばかりか、更に奇妙な変形を加えているのに対し、丸島氏は『戦国大名武田氏の権力構造』(思文閣出版、2011)の時点で、

-------
 勝俣氏の「国民国家」萌芽論は、大名滅亡の危機という非常時にのみ確認され、その上多くの制約を伴った民衆の軍事動員(11)を、戦国大名国家の一般的性質に拡大したものであるなど(12)、多くの問題を残す。特に大名側の一方的な支配論理主張(これはあくまで政治的フィクションに過ぎない)と、現実の政治状況が混同されている側面は軽視できない(13)。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/274a621c58dfd23a83b0a63604bfd59c

といった具合に批判的でしたね。
ま、当たり前のことですが。
さて、続きです。

-------
 これは先ほどの二分法でいえば、「連続論」に属すことになるのだろうが、この区分自体が単純に過ぎる。そもそも、中世・近世という区分とは、ヨーロッパ歴史学から導入した時代区分論(古代・中世・近代)の再編(古代・中世・近世・近代)に過ぎない。たしかに歴史認識にかかわる重要な論点ではあるが、研究者の手による便宜的な側面があることにも留意すべきだろう。つまり、これに縛られすぎては本末転倒になってしまうのだ。
 問題とすべきは、中世から近世への移行が織豊政権による改革の結果なのか、長い時間をかけて穏やかに社会が変化していった結果なのかという点で、一五世紀半ばから一七世紀半ばまでの二〇〇年間を「中近世移行期」として捉えようとする議論が増えているように思われる。戦国時代の起点を、移行期のはじめに置くことはできるが、終着点は江戸時代の最初の半世紀なのだから、戦国時代だけをみていても、議論はできないことになるだろう。
 これはフェルナン=ブローデルが提唱した「長い一六世紀」という議論と偶然にも一致する。ブローデルの議論は、近代ヨーロッパ資本主義の成立を論じたものだから、日本のそれとは同一視できないし、すべきでもないが、歴史的変化とは長い時間をかけて起こるという視点の存在は、念頭に置いてもよいだろう。
-------

平山優氏の言われるように「東国の領主権力について、膨大な個別研究を積み重ね」た黒田基樹氏の努力には敬服しますが、正直、些か野暮ったい黒田ワールドに比べると、丸島氏の視野はなかなか広く、私のような洋風好きの人間にも好感が持てます。
しかし、この後、丸島氏はヨーロッパ近世史の「礫岩のような国家」論を好意的に紹介されるのですが、果たしてこの議論がどれだけ役に立つのか。
正直、私はちょっと懐疑的です。
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あなたの「国家」はどこから?─平山優氏の場合(その2)

2021-11-14 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月14日(日)11時21分50秒

戦国時代に興味がなかった私は平山優氏の著書も全然読んだことがなくて、実に『戦国大名と国衆』が初めてなのですが、史料用語としての「国衆」と学術用語としての「国衆」を明確に分けて議論している部分(p16~23)などは説得的ですね。
おそらく平山氏は、黒田基樹氏のように、史料用語としての「国家」と学術用語としての「国家」を混同されることもないのだろうと思います。

あなたの「国家」はどこから?─黒田基樹氏の場合(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/87c44069d886cb430a7ea582cd5fc0e5

『戦国大名と国衆』の内容については私に評価する能力はありませんが、ただ、「定義」という言葉についての平山氏の言語感覚には若干の疑問を感じます。
「第一章 戦国期の国家と先方衆」の冒頭から少し引用します。(p14以下)

-------
国衆とは何か
 これまで、しばしば文中で「国衆」という言葉を使用してきた。これが、戦国期の有力領主という意味合いで使用されていたことはおわかりいただけたと思うが、それでは具体的に何をもって国衆と規定するのか、まずここから説明しよう。
 国衆とは、室町期の国人領主とは性格を異にする領域権力として成長を遂げた、戦国期固有の地域的領主を指す学術用語である。すでに、戦国期の地域領主については、地域的領主論(峰岸純夫・一九六九年)、戦国領主論(矢田俊文・一九七九年)などが提示されていたが、黒田基樹氏が東国の領主権力について、膨大な個別研究を積み重ね、峰岸氏の地域的領主論を継承しつつ、独自の概念として提示したのが国衆論である。
 黒田氏の国衆に関する定義をまとめると、おおよそ次のようになる(黒田基樹・一九九四年、一九九七年、二〇〇一年、二〇一四年)。

 1、国衆とは、室町期の国人領主制が変質し、自分の居城を中心に地域的支配権を確立した
  領域権力として成長を遂げたものであり、その領主制の形態は戦国期固有のものである。
 2、国衆が戦国期固有の地域的領主制であることの指標として、一円領として地域的・排他
  的な支配領域を確立していることである。それは郡規模であることが多く、「領」と呼ば
  れるが、同時に「国」として捉えられていた。
 3、国衆の支配領域は独立しており、平時においては基本的に大名の介入を受けない。
 4、国衆は独自に「家中」を編成し、「領」の支配においては、独自に文書発給などを実施す
  るなど行政機構を整え、年貢・公事収取や家臣編成などを実施していた。そのため、国衆
  の領域支配構造は、戦国大名の領国支配構造とほとんど変わるところがない。
 5、国衆は、大名と起請文を交換し、証人(人質)を提出することで従属関係を取り結ぶが、
  独立性は維持されたままである。
 6、戦国大名は、国衆を従属させ、その支配領域たる「領」の安堵と存続を認める代わりに、
  奉公(軍役、国役等の負担)を行わせる。
 7、しかし、戦国大名と国衆との関係は、双務的関係にあり、大名は国衆の存続のために、
  援軍派遣など軍事的安全保障を実現する義務を負う。もし大名が援軍派遣を怠ったり、保
  護を十分になしえない状況に至った場合、国衆は奉公する大名が安全保障を担えないと判
  断し、大名との関係を破棄(離反)して、他の戦国大名に従属することを躊躇しない。
 8、戦国大名は、国衆を統制するために、重臣を「取次」とし、それを通じて様々な命令を
  国衆側に伝達した。いっぽう国衆も、大名への要望を「取次」を通じて上申した。なお、
  国衆と「取次」は、戦時においては同陣(相備)として一体化し、国衆は「取次」を担当
  する大名重臣の軍事指揮に従うことになっていた。

 その後、大石泰史氏が、黒田氏の定義を受け止めつつ、イエズス会宣教師の記録などを踏まえて、さらに国衆について次のような性格を補足した(大石泰史・二〇一五年)【後略】
-------

うーむ。
八項目、二十一行に亘って説明が続いていますが、これが「黒田氏の国衆に関する定義」というのは、いくら何でも変ですね。
そもそも定義(definition)とは何か。
まあ、厳密に「定義」を「定義」するのはけっこう難しいとは思いますが、一般的な理解としては、「概念の内容や用語の意味を正確に限定すること」「物事の意味・内容を他と区別できるように、言葉で明確に限定すること」といったあたりでしょうね。
重要なのは、定義は簡潔でなければならないことです。
ダラダラとした説明は、およそ定義ではありません。

定義(「コトバンク」より)
https://kotobank.jp/word/%E5%AE%9A%E7%BE%A9-79069

「国衆」の定義は容易ではなさそうですが、しかし八項目、二十一行に亘る説明を「定義」とするのはあんまりです。
この八項目の内容を見ると、1から4までは概ね国衆の「属性」であり、5以下は国衆と戦国大名との「関係」についての説明ですね。
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あなたの「国家」はどこから?─平山優氏の場合(その1)

2021-11-13 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月13日(土)12時39分59秒

結局、『戦国大名 政策・統治・戦争』を最後まで読んでも戦国大名の「定義」は出てきませんが、特に分かりにくいのは「国衆」との違いですね。
「第五章 戦国大名と国衆」には、

-------
 ある一定の領域を支配するという意味では、戦国大名と国衆は変わらなかった。だから権力としての構造も変わらなかった。それだけではない。そうした国衆も、領国の外縁部には、自立的な領主が存在していたことも多かった。彼らも、国衆の家中には含まれない存在であり、同心、与力などと称された、やはり客のようなものだった。自立的な領主を服属させることで、より大きな権力が構成されるという関係が、重層的に展開していたのである。つまり、戦国大名と国衆の違いといったら、見た目も規模の違いくらいにすぎなかった、といっていいほどなのだ。
-------

などとあります。(p174以下)。
この点、丸島和洋氏はもう少し整理されていますね。

あなたの「国家」はどこから?─丸島和洋氏の場合(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cea66659dd786ab72c595cccb0b2c976
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/7ba92511f4d25dfbe46a7a9afcf796dd

そして、平山優氏の『戦国大名と国衆』(角川選書、2018)を見たところ、平山氏も丸島氏の「定義」に賛成されていますね。

-------
領国支配と軍事編成――その中核に誰がいたのか。
戦国大名の領国は、軍事侵攻で制圧した直轄支配地域と、彼らに従属した「国衆」(先方衆とも)が排他的に支配する「領」(「国」)とでモザイク状に構成されていた。この戦国期固有の領主たちはいかに誕生したのか。大勢力の狭間で翻弄されながらも、その傑出した実力で戦国大名とどのような双務的関係を結び、彼らの権力構造にいかなる影響を及ぼしていたのか。武田氏を主軸に、史料渉猟から浮かび上がる国衆の成立・展開・消滅の歴史を追い、戦国大名の領国支配と軍事編成の本質を総括・通覧する。

https://www.kadokawa.co.jp/product/321810000023/

同書の構成はリンク先を参照していただくとして、「第一章 戦国期の国衆と先方衆」の最後に次のような記述があります。(p43以下)

-------
戦国大名概念について

 「戦国領主」論に立脚しないということは、戦国大名という研究概念を支持することに他ならない。では、本書で繰り返し主張される戦国大名を、そもそもどう捉え、概念規定をするのか。それを明確にする責任があるだろう。ただ、戦国大名の研究史などの整理を行うと、膨大なことになってしまうため、ここでは残念ながら割愛せざるを得ない(それぞれの立場からの研究史整理は、矢田俊文・一九九八年、池上裕子・稲葉継陽・二〇〇一年、則竹雄一・二〇〇五年、丸島和洋・二〇一一年などが興味深い)。
 戦国大名の概念規定は、今も明確化されているとはいいがたいが、一九九〇年代までは戦後歴史学が提起してきた諸問題への対抗軸が確立されてはいなかったため、それに関する概念規定は、「地域封建権力による一国人領を超えた独自の公的領域支配制度」とするのが精一杯であった(池亨・一九九五年、平山・一九九九年)。
 しかし二〇〇〇年代以後、戦国史研究は、自治体史や『戦国遺文』をはじめとする資料集の刊行を背景に、多様性と層の厚みが増し、各地の基礎研究も進展をみせ、飛躍的に進んだと言ってもよいだろう。とりわけ、武田氏研究の進展は目覚ましいものがある(例えば、平山・丸島和洋編・二〇〇八年、芝辻俊六編・二〇一一年、磯貝正義先生追悼論文集刊行会編・二〇一一年、芝辻俊六他編・二〇一五年など。二〇〇〇年代に刊行された著書、論文集、史料集についてはインターネットホームページ「甲陽雑記」の「武田氏研究文献目録」参照のこと)。
 こうした研究成果を踏まえ、丸島和洋氏が提起した戦国大名の定義は注目される(丸島和洋・二〇一七年)。

 ①室町幕府・朝廷・鎌倉府・旧守護家をはじめとする伝統的上位権力を「名目的に」奉戴・
  尊重する以外は、他の権力に従属しない。
 ②政治・外交・軍事行動を独自の判断で行う(伝統的上位権力の命令を考慮することはあって
  も、それに左右されない)。
 ③自己の個別領主権を超えた地域を一円支配した「領域権力」を形成する。これは、周辺諸
  領主を新たに「家中」と呼ばれる家臣団組織に組み込むことを意味する。
 ④支配領域は、おおむね一国以上を想定するが、数郡レベルの場合もある。陸奥や近江のよ
  うに、一国支配を定義要件とすることが適当でない地域が存在することによる。

 右の定義は、戦後歴史学が提起していた唯物史観に基づく時代区分論や、封建制論の影響を受けて混迷していた状況をリセットし、一九九〇年代以来、戦国史研究が進めてきた成果と現状を踏まえて総括されたものであり、極めて説得力があるといえるだろう。今後の研究は、この概念規定を参照しつつ、これをいっそう豊かにしていく必要がある。
 戦国大名は、『今川仮名目録』にもあるように、自らの力量をもって統治を行い、それゆえに上位権力に従属しないのが原則である。この力量の内実を、多方面で分析するのが戦国史研究の大切な宿題なのだ。本書が扱う、武田氏と国衆との関係も、戦国大名領国の支配と軍事編成の特質を解明する重要な問題なのである。本書も、この戦国大名の規定を念頭に検討を進めていくことにしたい。
-------

「参考文献一覧」を見ると、「丸島和洋・二〇一七年」は『武田勝頼』(平凡社)とのことですが、私は未読です。
ただ、平山氏が列挙された四項目を見ると、『列島の戦国史5 東日本の動乱と戦国大名の発展』(吉川弘文館、2021)に記述された四項目と、ごく僅かの表現の異同はあるものの、ほぼ同一内容ですね。
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あなたの「国家」はどこから?─黒田基樹氏の場合(その5)

2021-11-13 | 新田一郎『中世に国家はあったか』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年11月13日(土)10時41分55秒

続きです。(p26以下)

-------
 「御国」の論理は、このように戦国大名が「村の成り立ち」について、一定程度担っているという自覚を持つことによって、はじめて登場することができた論理といえる。それは同時に、村が、程度の差や認識の差などはあったであろうが、平和の確保や「成り立ち」の維持において、一定程度、戦国大名に依存していたことの反映とみることができる。実際に、村の側にも、最も安全なのは大名本拠の城下町であり、最も危険なのは紛争地域にあたる領国境目である、とする認識が生まれるようになっていた。
 したがってこうした状況は、戦国大名の存立と領国内の「村の成り立ち」が一体化した関係の表現と理解されるであろう。逆に戦国大名は、村がそうした領国防衛のための負担を拒否すると、「いやならば、当方を罷〔まか〕しさるべきにてすみ候」(戦北三六二八)と、嫌ならば、この領国から退去すればいいと、領国からの追放さえ表明するようになっている。それはあたかも、日本の戦前における「非国民」扱い、あるいは国民をやめて難民になれ、というようなものであろう。
 このようにして村は、自らの帰属すべき政治領域として、戦国大名を認識するようになった。このことも列島史上においてはじめての事態となる。社会主体であった村は、それを含む領国と否応なしに、運命共同体的な立場をとらされるようになったのである。それを拒否すれば領国から追放をうけることになるが、村という組織によって生産活動を展開しているのであるから、それは社会主体としての立場を捨てるに等しく、当時においてそれは事実上、死もしくは他者への隷属を意味することになった。こうした戦国大名と村の関係は、現代の私たちが認識する国民国家と国民との関係に相似するところがある。このことから戦国大名の国家は、いわば現在に連なる領域国家の起源にあたる、ということができる。
-------

これで「序章 戦国大名の概念」は終わりですが、結局、最後まで戦国大名の「定義」は登場しませんでした。
さて、「序章 戦国大名の概念」は最後の方に行けば行くほど陰気な気分になりますが、恒常的に戦争と飢饉という危機状態に置かれていた「戦国大名と村の関係」が黒田氏の説明通りだとしても、それが何故に「現代の私たちが認識する国民国家と国民との関係に相似する」のか。
黒田氏の「日本の戦前における「非国民」扱い」という表現が示唆しているように、「戦国大名と村の関係」は、「総力戦」の最中の、国家総動員体制下における「大日本帝国」と「臣民」の関係には「相似」しているようにも思えますが、それが「国民国家」一般と「相似」しているのか。
私には、黒田氏の「国民国家」の認識に相当な歪みがあるように思われます。
『戦国大名 政策・統治・戦争』の奥付によれば、黒田氏は1965年生まれで「早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業」だそうですが、文学部史学科ではないにしても、おそらく西欧近代史についてもそれなりの基礎教育を受けているはずです。
私より年下で、私のように独学ではなく、歴史学の研究者として基礎的訓練を受けたであろう人が、何故にこのような「国民国家」観を持たれているのか、私には本当に不思議で、不可解です。

黒田基樹(1965生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%9F%BA%E6%A8%B9

もともと戦国時代には全く興味がなかった私ですが、それでも黒田氏が膨大な著作を執筆されていることは知っており、ある種、驚異の目で眺めていました。
そして、黒田氏のとことん史料にこだわるストイックな姿勢の背後には、黒田日出男氏の表現を借りるならば「マルクス主義理論におけるマルクス、エンゲルス、レーニンなどの著作に依拠した訓詁学的な理論」への忌避感、「マルクス主義やヴェーバーの国家理論そのままを振りかざ」す研究者への嫌悪感があって、そうした議論に拘らずに済む史料への沈潜の世界を選ばれたのかもしれない、などと思っていたのですが、黒田氏の極めて陰鬱な「国民国家」観には、私のそうした想像を超える何かがあるのかもしれません。

黒田日出男氏「国家の諸概念」について(その1)(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/80157c1c024cd9f39cad206c073edd52
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/0014f4f18faededa8193ffe61d3b5100
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