学問空間

「『増鏡』を読む会」、第9回は2月22日(土)、テーマは「上西門院とその周辺」です。

今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その6)

2022-05-17 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月17日(火)14時30分53秒

「そこで以下、南都の紛擾について詳しく見ていきたい」(p128)に続いて、今谷氏は「永仁の南都闘乱」を十ページに亘って説明されます。
今谷氏が依拠されているのは主として安田次郎氏(お茶の水女子大学名誉教授)の「永仁の南都闘乱」(『お茶の水史学』30号、1987)ですが、今谷氏の要約だけでもうんざりするほど複雑なので、引用は止め、小見出しだけ紹介すると、

 為兼と南都北嶺
 永仁の南都闘乱
 大乗院と一乗院の対立
 春日社頭の激戦
 春日神体の移座分置
 京都での騒ぎ
 為兼、伝奏として干与
 一乗院、蔵人宿所を襲撃

といった具合です。
「一乗院、蔵人宿所を襲撃」は永仁五年(1297)正月七日の出来事で、綸旨を持参して南都に下った「職事信忠朝臣」の宿所を一条院の僧兵・神人が破却したのですが、この綸旨は「関東執奏」に基づくもので、当該行為は実質的に幕府への侮辱であり、「武家敵対」と見做した幕府は「一乗院の荘園にことごとく地頭を設置し、大弾圧に出」ます。
これをきっかけに一乗院側も大人しくなって、「十月十八日には一乗院の地頭は廃止された。四年に及ぶ争乱はここに一まず幕を下ろすことにな」ります。
さて、以上の説明の後、今谷氏は次のように書かれています。(p139)

-------
幕府の硬化

 幕府は騒動を徹底的に根絶する方針で臨み、一乗院領地頭設置と併行して、堂衆らの処分を評議したものと思われる。処分の範囲は、大乗院に加勢して再三八幡神輿を動かし、京都の政務まで乱した東大寺の執行らにも及ぶことになった。こうして、翌年正月、為兼・聖親・妙智房の三人が六波羅に拘引されることになったのである。聖親は東大寺神輿の動座と、神体別置事件に東大寺衆徒として加担した責任、妙智房は白毫寺が一条院系列の寺院であることから推して、恐らく信忠宿所破却の咎であろう。
 事件が、神体別置のみで鎮静化しておれば、為兼は配流まではされなかっただろう。騒擾がエスカレートして「武家敵対」まで進んだ以上、朝廷側の責任者として、誰かの首が差出される必要があった。かくて騒乱の間中、一貫して南都伝奏の地位にあったとみられる為兼が、廷臣中の処分のヤリ玉に上ったのである。伏見天皇は恐らく断腸の思いであったろうが、幕府の強硬方針に、忠臣為兼をかばい切れなかったものと思われる。また佐渡遠島の処分も、武家敵対=謀叛の科としては、先例に照らして当然と認識されたものである。
-------

小川剛生氏が指摘されたように、聖親法印は石清水関係者なので、「聖親は東大寺神輿の動座と、神体別置事件に東大寺衆徒として加担した責任」は明らかに誤解です。
また、小川氏は特に言及されていませんが、叡尊再興から間もない時期の白毫寺は真言律宗の拠点なので、「妙智房は白毫寺が一条院系列の寺院であることから推して、恐らく信忠宿所破却の咎であろう」も無理筋ですね。
更に、そもそも為兼が「騒乱の間中、一貫して南都伝奏の地位にあった」と言えるか疑問な上に、為兼は永仁四年(1296)五月に権中納言を辞し、籠居していたので、翌年正月の「信忠宿所破却」で「騒擾がエスカレートして「武家敵対」まで進んだ」こととは全く無関係です。
結局、籠居前の事態までならともかく、籠居後のエスカレーションの責任まで為兼が負うというのは余りに理不尽ですね。
ということで、今谷新説は無理が多いのですが、そうかといって小川剛生氏の「京極為兼と公家政権」が全ての疑問を解消してくれたかというとそうでもなくて、いくつか気になる点があります。
そこで、次の投稿から小川論文を検討します。
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その5)

2022-05-16 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月16日(月)15時38分47秒

(その3)で引用した部分の続きです。(p126以下)

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白毫寺はどんな寺か

 次にもう一人の下手人、妙智房の在籍した白毫寺は鎌倉時代に創立された、当時としては比較的新しい寺院である。寛元二年(一二四四)僧良遍が白毫寺の草庵に於て『菩薩戒通別二受鈔奥書』を記したのが記録上の初見といわれ、その後有名な西大寺の叡尊がこの寺を再興し(『南都百毫寺一切経縁起』)、弘安二年(一二七九)には叡尊自身が当寺に於て教化を行ったことが、彼の自伝である『感身学生記』にみえている。従って鎌倉後期には一応の伽藍は備わっていたとみられる。やや後年の史料ではあるが、長禄三年(一四五九)九月の記録に、

 一、一乗院祈祷所白毫寺、絵所の者大乗院座の吐田筑前法眼重有相承せしむ。
                        (『大乗院寺社雑事記』)

とあり、白毫寺は興福寺の三箇院家の一つ、一乗院の祈祷所となっており、一乗院系列の寺院であったことがわかる。
 以上によって、為兼は南都の僧両人と"一味"として捕縛されたのであり、その嫌疑は南都(大和一国を支配する興福寺・春日社)に関する紛議であることが推測される。ここに於て、傍輩の嫉視や政敵の排斥による失脚説はその根拠を失うことになる。何故なら、単なる為兼個人への中傷によるならば、東大寺や興福寺関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性はないからである。さてその南都の紛議とは一体何か。為兼の籠居が永仁四年(一二九六)五月、六波羅への拘引が同六年(一二九八)正月、佐渡配流が同年三月である。この間に、南都でどのような紛争・事件が起こっていたのであろうか。
-------

今谷氏は白毫寺が「一乗院系列の寺院であった」とされますが、ただ、その根拠となる史料は「白毫寺妙智房」が逮捕された永仁六年(1298)の百六十一年後のものです。
叡尊再興後の白毫寺は真言律宗の拠点寺院であり、当時、真言律宗は鎌倉幕府との良好な関係を背景に全盛を誇っていましたから、幕府と敵対していた興福寺の「一乗院系列の寺院であった」かは相当に疑問です。
また、今谷氏は「南都(大和一国を支配する興福寺・春日社)」とされますが、「南都」は興福寺の異称であるとともに「大和一国」(奈良)の異称でもあります。
東大寺・白毫寺は後者の「南都」には含まれますが、前者の「南都」とは独立性を持った存在ですね。
そして安田次郎氏が解明された「永仁の南都闘乱」は興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争ですから、ここでの「南都」は前者、即ち興福寺(春日社を含む)の意味です。
従って、仮に「八幡宮執行聖親法印」が東大寺の僧侶であったとしても、聖親法印と白毫寺妙智房の組み合わせは「永仁の南都闘乱」とは直接結びつく訳でもないですね。
ま、それはともかく、続きです。(p127以下)

-------
籠居の理由は南都の沙汰

 ところで前述のように為兼の籠居は永仁四年五月だが、その前月の『略年代記』永仁四年四月条(為兼籠居の直前)をみると、

 四月日、宗綱・行貞〔二階堂〕両人、関東より入洛す。南都の沙汰たりと云々。

とあって、幕府から二名の使者が入洛したことが知られる。四月のいつ上洛したか、『略年代記』では判らないが、春日若宮神主の中臣祐春の日記が内閣文庫に架蔵されており、その五月三日条に次のようにある。

 去月廿六日并びに廿八日、関東より使者入洛すと云々。五箇条の事、沙汰致すべしと云々。
 その内、南都の事、その沙汰を致さしむべしと云々。 (『春日若宮神主祐春記』)

すなわち、幕府の両使は、四月二十六日と二十八日に相次いで上洛したのである。為兼の籠居はそのわずか十数日後のことである。このように、南都の紛議による幕府使節の上洛と、為兼の処分は一連の出来事として理解するのが自然である。つまり、「南都の沙汰」によって幕府使が上洛した十数日後に為兼の辞官閉居となり、その約一年半後、為兼は南都の僧侶二名と共に捕縛されたというのが、判明した事実である。すなわち、為兼の籠居も、六波羅拘引も、佐渡配流も、原因はただ一つ『略年代記』『祐春記』にいう「南都の沙汰」によるものであることが知られる。両統迭立で為兼が暗躍したとか、伏見天皇の討幕陰謀とか、傍輩の嫉視による讒口とか、すべて後世の牽強付会か、学者の誤解にもとづくものであったことがわかる。そこで以下、南都の紛擾について詳しく見ていきたい。
-------

小川剛生氏により「八幡宮執行聖親法印」は石清水の僧侶であって、奈良という意味での「南都」の人ではないことが確定した訳ですが、東使二人と為兼の籠居が時期的に近いことも「南都」と結びつけるのは些か強引ですね。
『興福寺略年代記』だけを見れば東使の目的は「南都の沙汰」となりますが、『春日若宮神主祐春記』では「南都の事」は「五箇条の事」の一つに過ぎません。
聖親法印の帰属以外にも今谷説には弱点が多く、「原因はただ一つ『略年代記』『祐春記』にいう「南都の沙汰」によるもの」はいかにも無理の多い推論でした。
ただ、永仁六年(1298)正月、為兼が聖親法印・妙智房とともに六波羅に逮捕された理由は謎のまま残ります。
「東大寺や興福寺関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性」ならぬ「石清水八幡宮寺や真言律宗関係の僧侶が一緒に捕縛される必然性」は何だったのか。
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その4)

2022-05-15 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月15日(日)10時43分27秒

今谷説の出発点であり核心部分でもある「聖親法印=東大寺八幡宮執行」説は、今谷著の刊行直後、小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)によってあっさり否定されてしまいました。
この論文で小川氏は、

-------
 そして何より聖親法印は石清水八幡宮寺の執行であり、東大寺八幡宮の僧ではない。石清水八幡宮に執行という職階が見えないことを理由に、聖親を石清水の僧ではないとするのは粗笨に過ぎる。この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる。とりわけ永仁七年(一二九九)正月二十三日の『正安元年新院両社御幸記』に「導師<宮寺僧執行聖親>参上啓、給布施<裹物一>」と見えることは注目される。つまり聖親は事件後まもなく赦免されて、執行の地位に復帰し、伏見院の御幸を迎えていることが知られるのである。
-------

と指摘され(p40以下)、「この前後の公家日記には、石清水社における執行聖親の活動をさまざま見出すことができる」に付された注(24)には、

-------
(24) たとえば「執行法印聖親」が石清水八幡宮の怪異を朝廷に注進し(『兼仲卿記』弘安十年六月四日条)、「御山執行正真法印」が後深草上皇の御幸を迎え(『公衡公記』正応元年二月一日条)、事件後の永仁六年五月四日には出雲国安田荘を田中権別当御房に譲った(『石清水文書』一、執行法印聖親譲状。なお大日本古文書・鎌倉遺文では「聖観」と誤る)。
-------

とあります。
念のため『勘仲記』(『兼仲卿記』)弘安十年六月四日条を見ると、「於蔵人所被行御占」云々の後に「執行法印聖親」が提出した文書が載せられていて、

-------
八幡宮
 注進、
二日、<天晴、丑時、>自当御宝殿之上、指艮天[ ]一流在之、
頭者如師子頭、其色赤色也、尾者五色而長一丈許
也、其後宝殿三所内中御前鳴動如雷、而響稍久、通
夜之輩失肝仰天、中御前御鳴動者、依為挑御灯明
之最中、承仕慶願聞之、同時自護国寺礼堂之東階経
礼堂、人数廿人許奔西手水船之許、其足音甚高、即
護国寺西妻戸鳴響之間、仮夏衆五師善証、勾当長
順、僧良儀三人依聞之、即雖相見其形、更無之云々、
右注進如件、
 弘安十年六月二日 執行法印聖親
-------

とあります。(『増補史料大成第三十五巻(勘仲記二)』、p192)
まあ、学者間の論争でここまでコテンパンにやられることも珍しいと思いますが、この殆ど清々しいほどの敗北の後、今谷氏は全く反論することができないまま、二十年近い歳月が流れました。
結局、2003年9月、「ミネルヴァ日本評伝選」第一号の栄誉とともに和歌の海に就役した「アドミラル・イマタニ」は、最新鋭の歴史学の成果で武装したと称して国文学界の「お歴々」を挑発したものの、出港直後に国文学界の若きエースパイロット、小川剛生氏から「京極為兼と公家政権」という対艦ミサイルをくらって大破・炎上してしまった訳ですね。
さて、以上のような経緯で、今谷著は研究者によるきちんとした書評も出ないまま、和歌の海の藻屑として消え去ってしまった訳ですが、今回、初めて今谷著をきちんと読み、小川論文と細かく比較してみた結果、小川氏も今谷著を完全論破した訳でもないなあ、というのが私の印象です。
何より『興福寺略年代記』の「正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前」という記述に基づく今谷氏の「為兼は聖親法印・妙智房という僧侶といっしょに捕縛されたのであって、事件は為兼を含めこの三人の人物を一括して位置付けなければならない」という視点は今でも有効のように感じられます。
小川氏が「妙智房」まで南都と無関係と論証されたのなら、今谷説は成立の余地は全くありませんが、白毫寺が南都の寺であることは確実です。
また、小川氏の「責任」に関する発想があまりに近代的なのではなかろうか、という疑問もあります。
小川氏は今谷氏の見解を要約した上で「為兼の辞官と永仁の南都擾乱を積極的に結びつける根拠は薄弱」であり、「為兼は明らかに伝奏ではないのだから、南都の問題で罪に問える筈がない」と言われており(p40)、それはまことにもっともで理路整然とした、現代人には極めて分かりやすい主張ではあるのですが、しかし、中世の武家社会では現代人には不可解な「責任」を追及する例がけっこうあります。
例えば、文永九年(1272)の二月騒動では、名越時章を襲った御内人五人は、単に上の指示に忠実に従って行動していただけなのに斬首されてしまっています。
また、嘉元三年(1305)の嘉元の乱でも、北条時村を襲撃した十二人は独自の判断の余地など全くない状況で命令に従って行動しただけなのに斬首されてしまいます。

二月騒動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9C%88%E9%A8%92%E5%8B%95
嘉元の乱
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E5%85%83%E3%81%AE%E4%B9%B1

こうした事例を見ると、「責任」という観念が中世の武家社会の人と現代人ではずれることがけっこうあるようです。
とすると、為兼も、現代人の感覚では南都騒動の「責任」を問われることはあり得ないのに、鎌倉後期の武家社会の感覚では「責任」があるとされた可能性も考慮すべきではないかと思われます。
この点、今谷説を更に丁寧に紹介した上で、改めて検討します。
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その3)

2022-05-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月14日(土)14時55分19秒

それでは今谷説の核心部分を見て行くことにします。
永仁四年(1296)五月十五日、為兼が権中納言を辞し、籠居しますが、同六年(1298)正月に六波羅に逮捕され、三月に流罪となります。
『京極為兼』の「第四章 佐渡配流」は、

1 為兼籠居
2 永仁の南都闘乱
3 佐渡流人行

の三節から構成されていますが、籠居に関する諸学説を紹介した第一節は省略し、第二節の冒頭から引用します。(p123以下)

-------
   2 永仁の南都闘乱

為兼に連座した僧二人

 籠居中の為兼が、永仁六年正月に六波羅探題に拘引されたときの記録『興福寺略年代記』(以下『略年代記』と略す)は、南都興福寺に伝来する古記録を同寺の僧が編年総括した、信頼できる年代記である(永島福太郎「奈良の皇年代記について」(『日本歴史』一三八号)。それは為兼の拘引について次のように記している。

 正月七日、為兼中納言并〔ならび〕に八幡宮執行聖親法印、六波羅に召し取られ
 畢〔をは〕んぬ。また白毫寺妙智房同前。

これによれば、為兼は聖親法印・妙智房という僧侶といっしょに捕縛されたのであって、事件は為兼を含めこの三人の人物を一括して位置付けなければならないのである。ところが従来の研究は、それが極めて不充分で、私に言わせれば、殆んどその視点からの研究は等閑視されていたのである。
 さて三人の"下手人"の性格であるが、問題は聖親法印である。前にも引いた江戸時代の歴史家柳原紀光の編にかかる『続史愚抄』は、

 この日〔正月七日〕、座する事あるに依て、武家より京極前中納言<為兼>および
 石清水執行聖信〔親〕等、六波羅に幽す。

と、聖親を石清水八幡の社僧であるとしている。『鎌倉時代史』を執筆した三浦周行、また「為兼年譜考」の小原幹雄氏もこの柳原紀光の説を踏襲し、多くの国文学者が追随している。聖親を石清水社僧とすることで、為兼が八幡宮に呪詛でも仕かけた如きイメージで受取る向きもあったと思われる。ただ慎重な石田吉貞博士ひとり、「八幡宮執行聖親法印」として、石清水社との判定を避けておられる。

聖親は石清水と無関係

 結論からいうと、この聖親という僧は、石清水八幡宮とは無関係である。何故ならば、そもそも中世の石清水八幡宮には、「執行」という役職は設置されていない。中世の石清水八幡宮の組織と人員を詳細に記録した『石清水八幡宮寺略補任』によると、中世の同八幡宮は、

  三綱(上座・権上座・寺主・権寺主・都維那・権都維那)
  検校
  別当・権別当・修理別当・俗別当
  神主

が主な職階であって、執行は見当らない。三浦周行ほどの歴史家(東大史料編纂官、京大教授)がこのことを見逃したのは、ちょっと不可解であるが、うっかり『続史愚抄』を信用したのであろう。
-------

うーむ。
今谷明氏ほどの歴史家(横浜市立大学名誉教授、国際日本文化研究センター名誉教授)が「聖親は石清水と無関係」と堂々言い切っておられるので、この記述を信用しない読者は稀だったと思われますが、結論からいうと、この聖親という僧は、従来の定説通り、やっぱり石清水八幡宮の関係者でした。
ま、それはともかく、今谷説をもう少し見ておきます。(p125以下)

-------
聖親は東大寺の僧

 それでは、執行職が置かれていた八幡宮とは、何処の八幡宮なのであろうか。『略年代記』自体が南都(興福寺・春日社)の記録であることから、奈良で唯一の八幡宮である東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)ではないかと推測されるのであるが、これを当時の史料から確認しておこう。『東南院文書』は中世の東大寺の院家で、東大寺関係の古文書を収めているが、その中に宝治三年(一二四九)三月、伊賀名張新庄を東大寺に寄進した法眼聖玄の寄進状に、

 兼乗<播磨法橋>当寺執行たるの時、夢見の様は、(中略)何様の事哉の由申さしむ。
 執行答へて云く、

とあり、さらに『東大寺図書館架蔵文書』の内に、元徳元年(一三二九)十二月の手掻会米請取状に、

 執行所(花押)

とあり、別に「執行朝舜(花押)」ともあり(この二つの花押は同じ)、鎌倉時代を通じて東大寺八幡宮に執行が置かれていたことがわかる。以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる。
-------

うーむ。
この部分、今谷明氏ほどの歴史家が「以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる」と断言されているので、普通の読者はうっかり信用してしまうと思いますが、しかし、上記史料には「兼乗<播磨法橋>当寺執行たるの時」とあるだけです。
これでは東大寺に「執行」という役職があり、同じく東大寺に「執行所」という組織ないし部局があったことは言えても、東大寺鎮守八幡宮(手向山八幡宮)に「執行」「執行所」があったとまでは言えないですね。
それと、「聖親法印」の名前や花押がバッチリ登場するならともかく、「兼乗<播磨法橋>」や「執行朝舜(花押)」だけですから、やはり「以上により聖親は、東大寺八幡宮の執行であったことが知られる」は強引に過ぎます。
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その2)

2022-05-14 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月14日(土)09時49分26秒

今谷明氏は「王権の日本史」第14回「後醍醐の討幕運動」(『創造の世界』第106号)において、

-------
 従来から『増鏡』は、『太平記』などより遥かに高い史料的価値を有するとの評価を得ていた。例えば、前々稿で言及した亀山院「殉国」祈願問題の如きも、基本史料は『増鏡』が唯一の典拠たるにかかわらず、どの論者も『増鏡』の信憑性を疑わず、安心してこれに依拠されている。これは、『増鏡』が公卿日記等とほとんど齟齬する所なく、また『太平記』等の戦記物と異なって後世の潤色、改変の跡がほとんどみられないからであった。
 ではその作者は誰なのか。その作者が確定せぬうちは『増鏡』の史料的性格も判明せず、その信憑性も全面的には依存できないということになる。
【中略】
 さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢-作者問題の再検討」二松学舎大学人文論叢二七・二九輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。
 さらに元亨四年(一三二四)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(一三四四)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。
 このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、“作風”など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。

http://web.archive.org/web/20150616164614/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-masukagamino-chosharon.htm

と書かれています。
しかし、田中隆裕氏の「『増鏡』と洞院公賢-作者問題の再検討-」(『二松学舎大学人文論叢』第27輯、1984)を実際に読んでみると、問題の設定の仕方に既に洞院公賢という結論を導く枠組みが出来ていて、徳大寺公清に関する記事の評価なども公平とは言い難く、今谷氏以外に支持者が生まれなかった理由も自ずと明らかだと思います。

http://web.archive.org/web/20150918011536/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/tanaka-takahiro-kinkata.htm

ただ、今谷氏が、

-------
 ところで、王政復古成った元弘三年(一三三三)に二条良基はわずか十四歳、対して公賢は四十三歳の壮年であり、良基をかりに作者とすれば、『増鏡』の記事はすべて幼時以前の出来事にすぎないのに対し、公賢著者の場合は、鎌倉末期の諸事件は彼の生々しい見聞を経ていることになり、信憑性は比較にならぬ程高くなる。
-------

と言われている点はその通りで、『増鏡』に描かれた鎌倉末期の政治情勢の機微は、当時の宮廷社会を実際に知っている人間でなければ描けないだろう、という今谷氏の歴史研究者としての直観には私も賛成したいと思います。
さて、「はしがき」の続きです。

-------
 そういう次第で、為兼に関する政治の諸研究に目を通すうちに、土岐善麿の『京極為兼』も閲読し、さらに国文学の諸大家、お歴々による為兼研究をも通覧する機を得た。その過程で痛感させられたのは、為兼が鎌倉後期の、すでに宮廷政治史にとどまらず、時代史全般に亘っての重要人物であったということである。加うるに、為兼の生涯の一転機となった佐渡配流の背景について、諸家の解釈にはない新しい見解の成立する余地があることに気付かされた。それは、既存の諸研究について一部史料の読み誤りと見られるものがあるほか、為兼と同時代の公卿である三条実躬の日記『実躬卿記』が公刊され、また為兼佐渡配流に至る緊迫した政治情勢を物語る『春日若宮神主祐春記』(『興福寺略年代記』と並ぶ重要史料)が、従来は使われていなかったこと等の事情による。またそれに関連して、安田次郎氏の研究があらわれ、為兼失脚の事情が明らかになった。
 以上の理由によって、為兼の生涯の重大な部分について、従来は誤って解釈されていたと考えられるので、鎌倉時代史に門外漢の学者ではあるけれども、新しい為兼伝が書かれる必要がある、と思考するに至ったのである。
-------

そして今谷氏は、「三年程前に、草思社のPR誌(月刊『草思』)に一年間の連載を求められ、題材に窮して中世の人物列伝を執筆したが、その六人の一人に為兼も取り上げ」たものの、「しかしそれは、たかだか四十枚程度の短編であって、為兼の評伝と称すべきほどのものでは」なかったそうです。

-------
 ところが今回、上横手雅敬先生から、ミネルヴァ書房の日本評伝選の編集委員になるよう慫慂があり、余儀なくお引き請けしたものの、委員の手前、何か一冊引き受けざるを得ず、結局、「京極為兼」で執筆しようということになった。但し、昔から和歌が好きであるといったところで、所詮は下手の横好き、素人の物真似であり、私は歌論や和歌の評釈は出来ない。ただ、歴史学畑の人間として、従来とは異った視点で、為兼像を描く、といったことが可能であるに過ぎない。また、私のオリジナルな研究の結果を若干示すことで、「為兼卿」の名誉を何がしかでも回復できることがあったとすれば、著者にとってこの上ない喜びである。従って、為兼の歌と歌論については、従来の国文学の大家、お歴々の業績を殆どそのまま使わせて頂くことになるかと思う。この点もあらかじめお断わりしておきたい。
-------

ということで、これで「はしがき」は終わりです。
ちなみに月刊『草思』の連載は『中世奇人列伝』(草思社、2001)として纏められ、2019年には文庫化もされていますね。

http://www.soshisha.com/book_search/detail/1_2411.html

また、今谷氏は岩波書店の『文学』にも「京極為兼の佐渡配流について」(隔月刊一巻六号、2000)という論文を寄せられていて、『京極為兼─忘られぬべき雲の上かは─』の刊行直後、小川剛生氏が驚くべき早さで反撃できたのも、こうした今谷氏の一連の著作があったからですね。
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今谷明氏の『京極為兼』は全然駄目な本だったのか(その1)

2022-05-13 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月13日(金)12時16分1秒

投稿を一日休んでしまいましたが、昨日は今谷明氏の『京極為兼─忘られぬべき雲の上かは─』(ミネルヴァ書房、2003)を読んでいました。

-------
両統迭立という政争に深入りしたため佐渡配流に遭ったと考えられてきた京極為兼。本書では、その失脚の経緯を新たな視点から解明するとともに、歌人としてはもちろん、政治家としても優れていた為兼の人物像に迫る。

https://www.minervashobo.co.jp/book/b48497.html

同書は確か「ミネルヴァ日本評伝選」の最初の一冊だったと思いますが、その刊行直後に小川剛生氏の「京極為兼と公家政権─土佐配流事件を中心に─」(『文学』4巻6号、2003)が発表され、今谷新説の根幹部分があっさり撃破されてしまいました。
そのため、同書は全体的に学問的価値に乏しいエッセイ風の読み物と思われてしまったようで、きちんとした書評も出なかったようです。
というか、かく言う私自身もそう思っていて、小川論文が出た後、書店で同書を手に取って、一応の内容をざっと確認しただけで、購入もしませんでした。
今回、初めて同書をきちんと読み、小川論文と比較してみた結果、小川氏も今谷新説を完全に論破した訳ではなく、今谷氏の見解にはなお参考にすべき点が多々あるように感じました。
そこで、「京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係」シリーズをいったん中断して、今谷著の検討を行いたいと思います。
まず、今谷氏の問題意識を確認するため、「はしがき」から少し引用します。
「はしがき」の冒頭には、

  沈み果つる入り日のきはに現れぬ
     霞める山のなほ奥の峰

という為兼の歌が掲げられ、「私と為兼の出会いについて追憶を辿ることをお許し願いたい」として中学生の今谷氏がこの歌に「電気を受けたような衝撃をおぼえ」て以降の青春の思い出が書かれていますが、省略します。

-------
 その後、四十余年という長い歳月が経った。私は歴史学を専攻することになり、それも日本中世史が分野であったから、為兼に再接近する機会はいくらでもあったのだが、縁がなかった。元来、室町の政治史を専攻とする私が為兼伝を執筆する必然性は全く無いのである。どうしてそうなったのか。その事情を以下に記してみる。私は十年程前から、義満の宮廷改革のことを調べたのを機縁に、天皇制や王権の問題に興味を持ち続けてきた。数年前、小学館の幹部のお声掛かりで、同社発行の教育誌『創造の世界』(季刊)に「王権の日本史」と題する天皇制度史を連載する仕儀となり、その十何回目かで、鎌倉後期の皇統の分裂事情を概説する「両統の迭立」なる原稿を執筆した。そこで、何十年ぶりかで京極為兼に再会することになったのである。
 拙稿「両統の迭立」でとり上げた為兼は、歌人としての彼ではなく、伏見天皇の権臣としての、政治家為兼であった。
-------

いったん、ここで切ります。
私は旧サイトの「参考文献」に『創造の世界』第105号(1998)から「正応の『大逆』事件 (3)変後の処分と後深草法皇」を入れておきましたが、

-------
 次に注目すべきは、後深草の思惑をはるかに超える強硬な大覚寺統弾圧を主張した西園寺公衡の存在である。次項でとりあげる京極為兼もそうであるが、当時は公卿界も両派に分れ、天皇家以上に深刻な対立をくりひろげていた。これは相手方の統派を打倒することによって、大きな権益がころがり込んでくる公卿界の構造を象徴するものである。こうして、各公卿が幕府と結託して相手方を出し抜こうと虎視眈々の争いが続くことになる。

http://web.archive.org/web/20090101153751/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-hengonoshobun.htm

ということで、引用したのは京極為兼が登場する直前までです。
なお、「参考文献」には「両統の迭立」の「1 分裂の発端」も入れておきました。

http://web.archive.org/web/20061006194606/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/imatani-ryotonoteturitu-01.htm

また、第106号で今谷氏は『増鏡』の作者について論じておられます。

-------
 さて『増鏡』作者研究の永い停滞を破ったのは、若き国文学者田中隆裕氏で、一九八四年のことであった(同氏「『増鏡』と洞院公賢-作者問題の再検討」二松学舎大学人文論叢27・29輯)。氏は『増鏡』に描かれる大臣薨去(こうきょ)記事を点検し、西園寺嫡流の公相死亡の描き方が「死屍に鞭打つ」趣がある反面、洞院実泰の死去には「哀悼表明」がみられるとして、西園寺庶流家の洞院家に注目する。
 さらに元亨四年(1324)賀茂祭の叙述に当って公賢の婿、徳大寺公清の祭使ぶりを特筆していることから、作者の視点は「洞院家偏重」であると推論し、作者は洞院公賢が最適と提唱した。また四条家伝来の秘籍『とはずがたり』が三箇所も引用されている問題についても、康永三年(1344)南都より放氏処分を受けた四条隆蔭が公賢の奔走により救われた史実を紹介して、公賢説を補強した。
 このように田中氏の公賢作者説は緻密な考証に支えられていて堅実であり、“作風”など曖昧な根拠しか示さない良基説を格段に上回る。「二条良基作者説は現在も有力」(長坂成行氏「内乱期の史論と文学」岩波講座『日本文学史』巻六)と、公賢説を却ける見解もあるが、私は田中氏の論証を支持する者である。

http://web.archive.org/web/20150616164614/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/just-imatani-masukagamino-chosharon.htm

ただ、今谷氏の応援にもかかわらず、「若き国文学者田中隆裕氏」の洞院公賢説は学界で全く支持を得られないまま四十年近い歳月が流れました。
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京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その3)

2022-05-11 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月11日(水)11時58分19秒

「永仁の南都闘乱」はかなり複雑な話なのですが、森幸夫氏の最新刊、『六波羅探題 京を治めた北条一門』(吉川弘文館、2021)に簡潔な説明があったので引用させてもらいます。
「歴史文化ライブラリー」の通例、というか悪弊で同書はきちんとした章立てをしていませんが、全体の構成は、

-------
六波羅探題以前―プロローグ
六波羅探題の成立
極楽寺流北条氏の探題時代
転換期の六波羅探題
探題を支えた在京人たち
南方探題主導の時代
六波羅探題の滅亡
なぜ滅亡したのか―エピローグ

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b590522.html

となっており、実質的な第三章「転換期の六波羅探題」は「探題北条時村の時代」と「探題北条兼時・北条久時の時代」に分かれています。
「永仁の南都闘乱」は北条久時の在任時に起きています。(p110以下)

-------
久時の探題就任
 永仁元年四月四日、新たな六波羅探題北方として北条(赤橋)久時が入京した(『実躬卿記』)。二十二歳である。南方探題には引き続き北条盛房が在任していた。
 久時は北条義宗の子で、長時の孫である。得宗家に次ぐ家格の極楽寺流北条氏の嫡流であったが、上洛以前に幕府内で要職に就いていた形跡はない。しかし、久時の上洛から二十日も経ない四月二十二日に、鎌倉で平頼綱が誅伐されること、さらに久時が、頼綱との関係が深かったとみられる北方探題北条兼時の後任であったことには注目せねばなるまい。【中略】先に善空の一件でみたように、正応四年ころには、平頼綱の権勢にも陰りがみえていたから、久時の北方探題任命は、北条氏による支配体制を泰時以来のあるべき形に戻そうとした、当時の執権北条貞時の意思に基づくものと考えられるであろう。そして貞時によって頼綱が討伐され、名実ともに、幕府の鎌倉・京都支配のあるべき形が取り戻されたのである。
-------

いったん、ここで切ります。
赤橋久時は足利尊氏の正室・登子の父親ですね。

赤橋久時(1272-1307)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E4%B9%85%E6%99%82

登子の姉妹には京極為兼の失脚後、その養子・正親町公蔭と結婚した種子や「鎮西歌壇」の女流歌人「平守時朝臣女」もいます。

尊氏周辺の「新しい女」たち(その1)~(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f4e978a0ffdad8e70040c906f49a6e8f
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/d065c447bda97b338d818447a5e07572

さて、北方探題赤橋久時の在任当時、探題の権限はあまり強くありませんでした。(p112以下)

-------
久時の時代
 得宗家と水魚の関係にあった赤橋家当主として、六波羅探題北方となった北条久時であったが、永仁五年六月までの久時の探題在任時代、六波羅探題は西国成敗(裁判)の判決権を有していなかった。【中略】
 久時期の六波羅は、西国成敗の制限のみではなく、寺社紛争解決においても幕府が全面的にリードする場面が多いように思われる。久時期には「永仁の南都闘乱」と呼ばれる、興福寺の門跡一乗院と大乗院との抗争が繰り広げられた(安田次郎 二〇〇一)。
 永仁元年十一月、春日若宮の祭礼において、一乗院覚昭僧正と弟子の信助禅師配下の武者たちが合戦し、信助には大乗院慈信僧正が加勢して死者が出る大規模な闘乱が生じた。この抗争の次第を六波羅探題は鎌倉に注進し、十二月近国御家人をもって興福寺を警固する事態となった。翌二年二月になると、紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛する。ともに吏僚系の有力御家人である。八月、六波羅で一乗院方と大乗院方との問注が行われ、この審議内容は鎌倉に報告されて、九月、一乗院覚昭が勅勘に処せられて流罪と決する。しかしこの処分を不満とする一乗院の門徒が、春日神木を泉木津まで動座させる事態となってしまう。翌永仁三年二月、有力得宗被官の安東重綱が上洛して情勢を把握し、鎌倉の北条貞時政権は、三月覚昭を宥免し、九条家の覚意を一乗院に入室させることで解決をはかった。これによって春日神木は帰座することとなる(『興福寺略年代記』『永仁三年記』ほか)。
 これが永仁の南都闘乱の概要であるが、こののちしばらく一乗院・大乗院の対立は継続し、永仁五年六月には一乗院領に地頭が設置される事態となる(十月に地頭は停止される)。
-------

途中ですが、長くなったのでいったん切ります。
「紛争解決のため東使長井宗秀と二階堂行藤が上洛」したのは永仁二年(1294)二月ですが、長井宗秀には子息の貞秀が同行しており、井上宗雄氏が書かれていたように、貞秀は翌三月五日、蔵人に補せられています。
また、井上氏は言及されていませんが、同日、貞秀は検非違使にも任じられています。
これは何を意味するのか。
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京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その2)

2022-05-10 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月10日(火)11時39分18秒

細川重男氏の「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」(『鎌倉政権得宗専制論』、吉川弘文館、2000)を見ると、宇都宮景綱は文永六年(1269)、三十五歳で引付衆、同十年(1273)、三十九歳で評定衆となっているので、細川氏の言われるところの「特権的支配層」の一員です。
他方、長井宗秀は弘安五年(1282)、十八歳で引付衆に就任、平禅門の乱の直後、永仁元年(1293)四月に越訴頭人、十月に執奏、永仁三年(1295)、三十一歳で寄合衆となっており、宇都宮景綱より更に地位が高く、「特権的支配層」のトップクラスですね。
細川氏の『鎌倉北条氏の神話と歴史─権威と権力』(日本史史料研究会、2007)の「第六章 秋田城介安達時顕─得宗外戚家の権威と権力」には、「高時政権期、時顕が長崎高綱(入道円喜)と共に最高実力者の地位にあった」ことの説明の中で、

-------
 二人の鎌倉幕府における地位を示すより信憑性の高い史料は『貞時供養記』元亨三年(一三二三)十月二十六日条の法堂供養の席次であり、ここでは高時とその母大方殿の次位として「修理権大夫殿〔金沢貞顕〕以下御一族宿老」と対座して「別駕〔安達時顕〕・洒掃〔長井宗秀〕・長禅〔長崎高綱〕以下御内宿老」が記されている。「宿老」が北条氏一門(「御一族」)とそれ以外(非北条氏)に分けられていたのであり、北条氏の代表は金沢貞顕、非北条氏の代表は安達時顕・長井宗秀・長崎高綱であったのである。「宿老」とは、幕府特権的支配層の上層部、寄合衆家の人々と考えられる。「宿老」に次ぐのは「評定衆・諸大名」であり、「評定衆」は特権的支配層の下層部である評定衆家の人々、「諸大名」は守護級豪族御家人と推定される。そして最末席は「身内人以下国々諸御家人等」、つまり特権的支配層以外の人々であった。安達氏が長崎氏など共に幕府の家格秩序の最高ランクに位置していたことが如実に理解される。
-------

とあります。(p150)
宗秀は嘉暦二年(1327)に六十三歳で死去しますが、本当に最晩年まで「御内宿老」として「幕府の家格秩序の最高ランクに位置していた」訳ですね。
何故に長井宗秀の地位がこれほど高かったかというと、それは大江広元の嫡流と見なされていたからです。
井上宗雄氏が書かれているように、永仁二年(1294)、「幕府の要人」である宗秀の「御曹司」貞広は蔵人に補せられていますが、この時期、御家人が蔵人になるのは相当に珍しいのではないかと思って「鎌倉政権上級職員表(基礎表)」全205名を確認したところ、蔵人となっているのは、

133 長井泰秀(大江広元の孫、長井宗秀の祖父、1212-53)
141 毛利季光(大江広元の子、1202-47)
142 海東忠成(大江広元の子、生年未詳-1265)

に長井貞広を加えた四人だけですから、蔵人補任は大江広元の子孫にのみ認められた特権のようですね。
そして貞広を除く三人が蔵人に補せられた時期は、

毛利季光 建保五年(1217、十六歳)
海東忠成 安貞元年(1227)
長井泰秀 寛喜元年(1229、十八歳)

ですから、最終の泰秀から貞広の補任まで六十五年も経っており、広元の嫡流にとっても長く途絶えていた伝統の復活といえそうです。
ちなみに大江広元自身は蔵人となっておらず、宗秀も蔵人にはなっていません。
そして、『勘仲記』によれば「権中納言為兼、諸事扶持を加うと云々。権勢尤も然るべき歟」とのことですから、為兼は大江広元の子孫の先例を調べ上げた上で、宗秀が本当に喜びそうなご機嫌取りをしてあげたことになりますね。
その上、「永仁二年三月大江貞秀蔵人になりて慶を奏しけるをみて宗秀がもとにつかはしける」とのことで、「めづらしきみどりの袖を雲の上の花に色そふ春のひとしほ」などという目出度い歌を贈った訳ですから、宗秀としても感謝感激だったはずです。
ところで「宗秀は東使として在洛中」でしたが、別に宗秀は保護者として息子が蔵人になるのを見守るために来た訳ではなく、その目的は興福寺の門跡、一乗院と大乗院の大抗争(「永仁の南都闘乱」)への対処です。
この点は次の投稿で書きます。

>キラーカーンさん
私は漠然と両統迭立期に急激に官職のインフレ化が進んだように思っていたのですが、そうでもなさそうです。
今はちょっと余裕がありませんが、後で調べてみます。
まあ、おそらく先行研究があると思いますが。
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京極為兼と長井宗秀・貞秀父子の関係(その1)

2022-05-09 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 9日(月)10時52分26秒

宇都宮景綱で検索してみたら、リンク先の2017年11月8日付産経新聞記事はなかなか良いですね。

-------
宇都宮景綱 武家家法の草分け「弘安式条」

 戦国時代に滅亡した宇都宮氏は歴代当主の肖像画はあまり残っていないが、江戸時代、古書画を模写して編纂された「古画類聚」には7代・宇都宮景綱の肖像画がある。僧侶の姿である。【中略】
 景綱は弘安6(1283)年、中世武家家法の草分け「宇都宮家弘安式条」を制定した。全70カ条のうち24条が社寺に関する規定で、宇都宮氏が宇都宮明神(現宇都宮二荒山神社)の神職だったことを反映している。他は裁判の方法に関する規定2条、けんか、訴訟に関する規定11条、幕府との関係を示す規定2条、一族、郎党に関する規定31条。
 同館学芸員、山本享史さんは、景綱が幕政の中心にいた安達氏との関係が深いことに注目する。義兄弟、安達泰盛は同時期に幕政改革要綱「新御式目」を制定しており、弘安式条もその影響があるとみている。景綱の名も義父・安達義景から「景」の字が与えられたようで、山本さんは「宇都宮氏は歴代、北条氏から1字もらうことが多く、景綱は例外的。安達氏は幕府実力者であり、密接な関係を持っていたことが分かる」。北条氏への対抗勢力形成というわけではなく、より広く実力者と縁を持つため。泰盛は北条氏外戚で、幕府重臣中の重臣。景綱も引付衆や評定衆の重責を担った。
 だが、裏目に出る場合もある。安達氏は北条得宗家の執事である内管領・平頼綱と対立。霜月騒動(1285年)で泰盛は滅亡し、景綱も失脚したが、「人間万事塞翁が馬」。平禅門の乱(1293年)で頼綱は自害。景綱は幕政に復帰した。【後略】

https://www.sankei.com/article/20171108-RLH5N573URMZHN634KBE7FB7XI/

細かいことを言うと、景綱は正応三年(1290)三月の浅原事件後に東使として鎌倉から派遣されているので、その時点で既に政治的には復権しており、平禅門の乱で鬱陶しい重石が取れて伸び伸び活動できるようになった、ということだろうと思います。
さて、先に京極為兼の鎌倉人脈で特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀と書きましたが、宇都宮景綱は為兼の父・為教の従兄弟で、嘉禎元年(1235)生まれですから為兼より十九歳も上です。
そして、景綱は宗尊親王に近侍し、鎌倉歌壇の最盛期を経験していた人ですから、為兼と出会う前に既に自分の歌風を確立しており、京極派の影響は特に見られません。
為兼と親しく交流したことは確かですが、

-------
    中納言為世卿亭にて人々歌よみ侍りしに、雨後雪といふことを
 暮るるより尾上のしろく見ゆるかな今朝のしぐれは雪げなりけり(沙弥蓮愉集)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagetuna.html

という歌も詠んでいて、為兼の宿命のライバル、二条派総帥の為世とも親しいですね。
為世も三代遡れば宇都宮頼綱、四代遡れば北条時政であって、武家社会との縁の強さは為兼と全く同じです。

二条為世(1250-1338)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E6%9D%A1%E7%82%BA%E4%B8%96

ちなみに為世が権中納言になったのは正応三年(1290)六月で、正応五年(1292)十一月に権大納言に転じた後、翌十二月に辞していますから、景綱が「中納言為世卿亭」で歌を詠んだのは正応三年に東使として京都に派遣されたときのことと思われます。
このように宇都宮景綱と為兼の関係は特別に親密というほどでもない上、景綱は永仁六年(1298)三月に為兼が流罪となって間もなく、同年五月一日に死去していますので、為兼との関係も終わります。
他方、為兼と長井宗秀との関係は宇都宮景綱以上に緊密だったようで、歌風にも及んでいます。
この点を見るために、まずは井上著から少し引用します。(p67以下)

-------
 二年正月六日叙正二位。三月五日左衛門少尉貞秀が蔵人に補せられて初めて参内した。貞秀は長井宗秀男。長井氏は大江広元の流れを汲む幕府の文筆官僚で、先祖は宮廷の中下級官僚だが、現在宗秀は幕府の要人である。その御曹司が蔵人に補せられたのだが、「権中納言為兼、諸事扶持を加うと云々。権勢尤も然るべき歟」、と『勘仲記』は記し、かつ六日の条では、貞秀は姿も所作も気品があり、きちんとしていたとある。宗秀は東使として在洛中で、昨日は饗応のために主殿司十二人に砂金二十両、小袖二、檀紙二十帖を贈っている(同、五日の条)。貞秀は十八日に諸所拝賀、十九日に石清水臨時祭の舞人を勤めたが、それを見ようとして「見物車雲霞の如し」という有様であった(『実躬卿記』)。

   永仁二年三月大江貞秀蔵人になりて慶を奏しけるをみて宗秀がもとにつかはしける
 めづらしきみどりの袖を雲の上の花に色そふ春のひとしほ (『風雅集』雑上一四五八)

おそらく貞秀の補任には上記『勘仲記』の記事からも為兼の力が大きく働いたのであろうことは推測に難くない。
-------

検討は次の投稿で行います。
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京極為兼が見た不思議な夢(その2)

2022-05-08 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 8日(日)17時12分13秒

宇都宮景綱が登場する為兼の夢の話は『伏見院記』の永仁元年(1293)八月二十七日条に出てきますが、当該記事は国文学研究資料館サイトで確認することができます。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0257-038109

上記リンク先で全54コマの最後の方、50コマの左側から51コマまで三ページ分が八月二十七日の記事で、最初の二頁が「永仁勅撰の議」について、三頁目の八行目の途中までが「南都維摩講師」を競望する僧侶についての記事です。
そして以後十三行目までが為兼の夢の記録ですが、井上宗雄氏の要約を借りれば、その内容は次の通りです。(『人物叢書 行極為兼』、p66以下)

-------
 八月二十六日為兼は天皇に次のことを語った。前夜、賀茂宝前で夢想があった。夢中に宇都宮入道蓮愉(前述)が、異国からの唐打輪を勧賞のため進める、といってきた。為兼が何の賞か、と問うと、叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰すべき事前の勧賞であり、また糸五両を献ずるが、これは五百五十両になるだろう、ということであった(『伏見院記』)。霊感の強い為兼のこの夢想は、きわめて政治性の強い、願望の結果であったと思われ、天皇にしても、この夢を書きとめたのは、上述伊勢における為兼の霊感と同様、希瑞として共感するところがあったからであろう。すなわちこの二十七日は、勅撰のことが議せられた日であり(後述)、両者の念頭には、素志が果たされるべき希瑞として映ったのであろう。
-------

冒頭の八月二十六日は二十七日の間違いですね。
「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」ですから、ここだけ見ればずいぶん物騒な話で、本郷和人氏のように「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか」などという解釈になりかねません。
しかし、八月二十七日の記事全体に占める比率を見れば明らかなように、この時点で伏見天皇にとって最も重要なのは勅撰集の撰集です。
そして、宇都宮景綱は御子左家と関係の深い武家歌人ですから、「叡慮に従わぬ不忠の輩をみな追罰」といっても、別に討幕とかではなく、伏見天皇の撰集方針に従わず、妨害するものは景綱が許さないぞ、程度の話と考えるのがよさそうです。

宇都宮景綱(1235-98)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kagetuna.html

井上氏は上記部分に続けて、

-------
 そして為兼は歳末、関東に下った。『沙弥蓮愉集』に、「権中納言為兼卿永仁元年歳暮之比、関東に下向侍りしに、世上の事悦びありて帰洛侍りし時、道より申し送られ侍」として「としくれし雪を霞に分けかへて都の春にたちかへりぬる」(五四二)とあり、蓮愉の「雪ふりて年くれはてしあづまのにみちあるはるの跡はみえけん」の返歌が録されている。「世上の悦」とは何であろうか。翌年正月六日正二位への昇叙をさすと推測されている(『沙弥蓮愉集全釈』)。なお為兼の下向は十二月六日前後であり(『親玄日記』)、東下の主眼はおそらく勅撰の議についての了解工作であって、そのほか政事についての要務などであったのだろう。
-------

と書かれていていますが、永仁元年(1293)は四月に平禅門の乱があった激動の年で、朝幕関係にも全く影響がなかった訳ではないでしょうから、むしろ何かの「政事についての要務」が「東下の主眼」であったかもしれません。
しかし、宇都宮景綱とののんびりした歌の贈答からすれば、少なくとも景綱との関係では「勅撰の議についての了解工作」、今後、撰集について何か問題が生じたならば宜しくご協力をお願いします、程度の話だったのだろうと思います。
景綱にしてみても、「妻は安達泰盛の姉妹」という関係から霜月騒動で冷や汗をかき、浅原事件の処理で東使を勤めるなど平頼綱に協力した後、平禅門の乱でやっと晴れ晴れした気分になった直後ですから、面倒なことに巻き込まれるのはうんざり、という立場だったと思います。
なお、「永仁勅撰の議」などと言われても、国文学関係者でなければ何のことか訳が分からないでしょうから、これも井上著から引用しておきます。(p73以下)

-------
 八月二十七日天皇は為世・為兼・雅有・隆博を召して、勅撰集撰集のことを諮った。為兼は前夜賀茂社に参籠し、夢想のあったことは前に述べたが、撰集について祈念するところがあったのであろう。
 二十七日雅有は所労で不参。天皇は右大将花山院家教をして三者に、下命の月はいつがよいか、また御教書・宣旨・綸旨など下命の形式や、撰歌の範囲などを下問した。為世は十月下命がよいとし、為兼は下命に一定の月はないから八月でよい、と答え、隆博はこれに賛同している。下命は三者とも綸旨によるのがよい、とし、撰歌の範囲は、為世は、上古の歌は先行の集に採られ、残るのは下品の歌だから中古以後の歌を主張、為兼は、近日天皇は古風を慕われているから上古以後がよい、として隆博の賛同を得た。また百首歌を召すのは「近来定まる事」だが、これを仰せ下されるのは撰集下命の前か後かについては、各人「時に依って「不同」である」と答えた。以上の評議によって、天皇は家教を通して、今月の下命、また上古を棄てるのは無念だからそれも選び載せること、今日が吉日だから、というので綸旨案を家教が持参した。それによると、万葉以外の代々の勅撰集に入らざる上古以来の歌を撰進すべく四人に命じた。隆博は喜悦の余り落涙、天皇はその歌道執心の深さに感嘆している。
 以上は『伏見院記』に依ったが、『実躬卿記』にも簡単な記事がある。すなわち「今日 勅撰有る可し。御百首出題以下事、評定有る可しと云々」とあるが、これは、この日、勅撰集のことが決まり、そのための御百首出題以下のことを議すべく、評定が有るのであろう、と解せられる。実躬は早退したので詳しくは記していない。
 天皇の上古仰慕の念、為兼の上古歌の尊重の意見、万葉にも詳しい六条家の末孫としての隆博の考えなどが窺われるが、為世と為兼の対立点(二点)はすべて為兼案が採用され、手まわしもよく綸旨が下された。天皇と為兼との間に前もって相談があったことが容易に推測される。
 これがいわゆる「永仁勅撰の議」であるが、ここで提起された課題は後に長く尾を引くことになる。
-------

現代人から見るとずいぶん些末なことに拘っているような感じがしないでもありませんが、永仁元年(1293)八月の時点では、伏見天皇にとって、自らの治世を言祝ぐ勅撰集の実現こそが最大の課題だった訳ですね。
ただ、様々な事情からこの勅撰集の編集は遅延し、永仁四年(1296)の為兼籠居、ついで六年(1298)の為兼流罪によって、いったんは立ち消えになってしまいます。
そして為兼が流罪から戻り、徳治三年(延慶元、1308)後二条天皇崩御によって花園天皇が践祚し、伏見院の第二次院政が始まってから問題がより熾烈な形で再燃することになります。
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議政官のインフレ化

2022-05-07 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 7日(土)12時11分0秒

>キラーカーンさん
>更に、(権)中納言と参議もいたのですから、議政官全体で何人になったのでしょうね。

中納言が洞院実泰(二十四)一人ですが、洞院実泰は五月十五日に権大納言となっています。
権中納言は中院通重(二十三)以下十四人、参議は花山院師藤(二十七)以下十四人ですね。
但し花山院師藤は正月十六日に権中納言となっています。
また、三条実重は十一月五日に権大納言から内大臣となっているので重複は三人です。
結局、

関白~内大臣 6人
大納言    2人
権大納言   14人
中納言    1人
権中納言   14人
参議     14人

の合計51人から3人を引いて48人ですね。
鎌倉後期には議定官のインフレ化が顕著です。

※キラーカーンさんの下記投稿へのレスです。

駄レス 投稿者 2022年 5月 7日(土)00時14分40秒
>>権大納言が十四人もいて
中々の壮観ですね。更に、(権)中納言と参議もいたのですから、
議政官全体で何人になったのでしょうね。
管見の限りだと、閣内大臣(≒議政官)は凡そ20人超が最大限のようですので

(権)大納言がこれだけ多いという事は、准大臣の事実上の定員も1名だったのでしょうか。

>>(正親町)三条実躬は翌永仁三年(1295)に蔵人頭
当時は、大臣家でも頭中将になれたのですね。
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京極為兼が見た不思議な夢(その1)

2022-05-07 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 7日(土)11時38分50秒

ちょっと横道に入りますが、京極為兼が有していた鎌倉人脈で、特に重要なのは宇都宮景綱と長井宗秀との縁です。
宇都宮氏は頼綱(蓮生、1178-1259)、泰綱(1202-60)、景綱(1235-98)と続きますが、為兼の祖父・為家(1198-1275)は頼綱娘と結婚し、二人の間に二条為氏(1222-86)・京極為教(1227-79)等が生まれており、為兼にとっては宇都宮景綱は父・為教の従兄弟ですね。

宇都宮景綱(1235-98)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E6%99%AF%E7%B6%B1

ちなみに頼綱室は北条時政の娘で、母は時政の後妻・牧の方ですが、この人は頼綱と離婚後、四十七歳で前摂政・松殿師家と再婚しており、なかなか自由奔放に生きた女性のようですね。

山本みなみ氏「北条時政とその娘たち─牧の方の再評価」(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/ef41bcf1a0d10ec33c2c9d187601ddc8
星倭文子氏「鎌倉時代の婚姻と離婚」(その5)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/a345048ef491da666beea454dbd19f97

ま、それはともかく、為兼は三代遡れば宇都宮頼綱、四代遡れば北条時政ですから、生まれたときから関東との特別の縁がある人です。
さて、『伏見院記』によれば、永仁元年(1293)八月二十七日、為兼は前夜に不思議な夢を見たことを伏見天皇に伝えています。
本郷和人氏『中世朝廷訴訟の研究』(東京大学出版会、1995)でこの夢の話を知ったときは本郷氏の説明で一応納得していたのですが、本郷氏は為兼の第一回流罪も西園寺実兼の讒言によるとの立場です。
この夢は本郷説の当否を考える上でけっこう重要ですので、少し検討してみます。
まず、本郷説を紹介します。(p167以下)

-------
 永仁六(一二九八)年正月七日、六波羅は前中納言京極為兼を逮捕し、三月十六日に佐渡に流した。為兼は元来は伏見天皇の歌道の師であり、やがて政治上の諮問にも預かるようになったといわれる。天皇の側近く仕え、伝奏の代役も果たしている。彼の祖父為家は西園寺家と親しく、母は同家家司三善雅衡の娘であった。そのため為兼は、はじめ関東申次西園寺実兼と昵懇であったが、彼の権勢の増大は実兼との不和を招き、両者の激しい対立が六波羅の介入をもたらしたという。だが朝臣である為兼が、なぜ天皇や上皇でなく武家に処罰されたのか、詳細は明らかでない。
 ある日、為兼は不思議な夢を伏見天皇に語っている。父為教とは従兄弟にあたる有力御家人宇都宮景綱が夢中に現われ、天皇の意思に従わぬ者は皆追討しよう、と告げたというのである。景綱の母は名越朝時の娘、妻は安達泰盛の姉妹、彼はどちらの縁からも北条得宗家から警戒の目を向けられていたに違いない。こうした景綱のことをわざわざ日記に書き留めていることからすると、伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していたのではないか。直接には西園寺実兼の讒言があったのだろうが、その感情のなにほどかを幕府に知られたがゆえに、為兼は流罪に処せられたのではないか。この推測が当を得ているならば、為兼が罪ありと認められた以上、伏見天皇の身も安泰ではあり得ない。果たして七月二十二日、天皇は譲位して後伏見天皇が践祚する。更に八月十日、後宇多上皇の皇子邦治親王が春宮にたてられた。皇統は、近い将来、再び亀山上皇の側に戻ることになった。このとき人々は、皇位の継承権が持明院統・大覚寺統に等しく保たれていること、次代の治世がどちらのものかはあくまでも幕府の裁量によって定められることを知ったのである。
-------

本郷氏が「為兼は元来は伏見天皇の歌道の師であり、やがて政治上の諮問にも預かるようになったといわれる」、「彼の権勢の増大は実兼との不和を招き」に付した注をみると、いずれも『花園天皇記』元弘二年三月二十四日条が典拠ですが、実兼との不和は第二回目の流罪については妥当しても、第一回目の流罪については説得的でないことは既に述べました。

佐伯智広氏『皇位継承の中世史』(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e3847f6428a58345c43d9e1b885719f5

また、宇都宮景綱が登場する夢についても、永仁元年(1293)の時点で「伏見天皇と為兼は、後に後醍醐天皇のもとで急速に肥大する幕府への反感を共有していた」と考えるのはあまりに早すぎて無理があります。
では、この夢はどう解釈したらよいのか。
実は『伏見院記』永仁元年八月二十七日条において伏見天皇が最も重視しているのは永仁勅撰の議であり、この夢も永仁勅撰の議に関連したものだろう、というのが井上宗雄説です。
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「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その6)

2022-05-06 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 6日(金)15時14分35秒

※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)

為兼を幕府に讒言した「傍輩」が誰かを探ってきたのは、正応三年(1290)の浅原事件で亀山院を黒幕と糾弾した西園寺公衡が嘉元三年(1305)には亀山院の遺志を奉じて恒明親王の庇護者になるまで、二人の関係が極端に変化した経緯と理由を知るためでした。
今までの投稿で井上宗雄氏の『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)を何度か引用させてもらいましたが、公衡と亀山院の関係についても同書には参考になる記述が多いですね。
同書は、

-------
序 和歌の家(家系/祖父為家の妻室・諸子/父為教とその周辺)
第一 為兼の成長期
第二 政界への進出―正応・永仁期
第三 第一次失脚
第四 帰還以後―嘉元・徳治期
第五 両卿訴陳と『玉葉集』

http://www.yoshikawa-k.co.jp/book/b548116.html

と構成されていますが、第二章第三節「君寵の権勢」の冒頭には、

-------
 正応六年は八月五日に永仁と改元された。永仁三年頃までの為兼の政治的行動は諸記録によってかなり明確だが、ここも一々記載することは煩瑣でもあるので、幾つかの事蹟を挙げるに止めよう。
 三条実躬は本家筋の実重と不和のことがあり、実重の訴えによって勅勘を蒙ったが、西園寺公衡らの尽力で、正応六年(永仁元)三月八日勅免される。その伝達を為兼が行なっており、次いで公衡から勅免状が届いた。これは公衡の尽力と亀山上皇の意向などによったらしいが(『実躬卿記』)、為兼も公衡に従って衝に当たったようであり、内意を示したり、事後の処置を伝えたりしている。
-------

とあります。(p64以下)
公衡が権大納言を辞した正応五年(1292)の翌六年三月、伏見天皇の勅勘を蒙った三条実躬を助けるために公衡と為兼は協力しているので、やはりこの時点では二人の関係は特に悪くはないようですね。
そして三条実躬の背後には亀山院がいて、浅原事件の後は暫らく静かにしていた亀山院もそれなりに復活してきたようです。
同年四月には平禅門の乱が勃発して関東は大騒動でしたが、為兼は七月に公卿勅使として伊勢神宮に派遣され、十二月には関東に下って親戚の宇都宮景綱(蓮愉、1235-98)と和歌を詠じたりしています。
関東下向の理由は不明ですが、井上氏は永仁勅撰の議についての了解工作も含まれるだろうとされています。(p67)
翌永仁二年(1294)三月には長井宗秀の嫡子・貞秀が蔵人に補せられ、東使として在洛中の宗秀からは朝廷側に相当の贈り物があり、また貞秀の拝賀などの華やかな儀礼が行なわれますが、これも為兼が差配していたようで、為兼の権勢を支える要因には関東との密接な関係も大きかったようですね。
さて、井上氏は『実躬卿記』に基づき、当時の為兼の権勢を窺わせる次のような話を紹介されています。(p68以下)

-------
 その三月二十五日三条実躬は参内し、蔵人頭に補せられたいと申し入れを行い、二十六、七日後深草院、関白近衛家基ほかにも希望を申し入れた。競望者は二条家の為道であったが、実躬はその日記に、運を天に任せるが、現在では「為兼卿猶執り申す」と記し、さらに諸方に懇願したのだが、二十七日の結果は意外にも二条家の為雄(為道の叔父)であった。実躬はその日記に、
  当時の為雄朝臣又一文不通、有若亡〔ゆうじゃくぼう〕と謂う可し、忠(抽)賞
  何事哉。是併〔しか〕しながら為兼卿の所為歟。当時政道只彼の卿の心中に有り。
  頗る無益〔むやく〕の世上也。
と記している(「有若亡」は役に立たぬ者、の意)。為兼は「執り申す」すなわち天皇に取り次ぐという行為で人事を掌握しており、為雄の蔵人頭も為兼の計らいと見たわけである。四月二日の条には、実躬は面目を失ったので後深草院仙洞の当番などには出仕しないことにしようと思ったが、父に諫められ、恥を忍んで出仕した。「当時の世間、併しながら為兼卿の計い也。而〔しか〕るに禅林寺殿(亀山院)に奉公を致す輩、皆以て停止〔ちょうじ〕の思いを成すと云々」と記している。為兼の権勢がすこぶる大きかったこと、あるいはそう見られていたことが窺われる。【中略】なお実躬は明らかに亀山院方への差別をみとっている。
-------

もちろん、これは三条実躬という少し僻みっぽい官人の偏見の可能性もあるでしょうが、亀山院にとっては面白くない時期であったことは間違いないですね。
他方、為兼が鎌倉との独自ルートを強化して権勢を振るい始めたことは、関東申次の西園寺家としても穏やかな気持ちで見過ごすことはできなかったように思われます。
なお、三条実躬は翌永仁三年(1295)に蔵人頭となっています。
文永元年生まれなので、公衡と同年、為兼より十歳下ですね。

-------
没年:没年不詳(没年不詳)
生年:文永1(1264)
鎌倉後期の公卿。父は権大納言公貫。母は中納言吉田為経の娘。文永2(1265)年叙爵。近衛少将,中将を経て永仁3(1295)年に蔵人頭。3年後に参議に任じ,公卿に列する。嘉元1(1303)年,従二位,権中納言。2年後官を辞し散官となる。延慶2(1309)年正二位に昇る。翌年按察使に任ず。正和5(1316)年民部卿を兼ね,また権大納言に任じられる。2カ月余りで同職を辞任し,翌年出家。法名を実円といった。日記『実躬卿記』があり,蔵人頭のときのことが書かれており,史料価値は高い。
(本郷和人)
https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E5%AE%9F%E8%BA%AC-1133599
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「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その5)

2022-05-05 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 5日(木)12時38分51秒

※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)

前回投稿で「公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます」と書いてしまいましたが、これはちょっと勇み足でした。
為兼の専横が目立つようになるのはもう少し先の時期であり、正応五年(1292)の時点で西園寺家の「家礼」である為兼が公衡と正面から衝突できるのか、そしてそれを実兼が許容するか、という疑問も生じます。
まず、前提として為兼と実兼・公衡父子の関係を確認しておくと、井上宗雄氏『人物叢書 京極為兼』(吉川弘文館、2006)によれば、次のような具合いです。(p55以下)

-------
 さて、西園寺実兼(四十歳)は正応元年十月権大納言より正官に転じ、右大将を兼ね、従一位に昇り、翌年十月任内大臣、三年四月に辞したが、四年十二月太政大臣となる。この間もとより関東申次は続けている。
 以上のような状況が為兼に大きく影響したことはいうまでもなく、正応元年七月十一日蔵人頭となっている。『勘仲記』に、

 隆良朝臣、伊定朝臣、顕資朝臣、実時朝臣、宗冬朝臣五人の上﨟を超越
 すと云々、禁裏御吹挙、先途を遂ぐと云々。

とあり、超越して頭に補せられたのも深い信任による天皇の推挙であった。
 翌二年正月十三日任参議。『伏見院記』には為兼について「本自〔もとより〕無弐の志を竭〔つ〕くし、忠勤を致すの仁也」とあり、この昇進も天皇の配慮に依った。ちなみに、十五日に拝賀、そのあと西園寺邸に赴いて新任の慶を申した。「家礼〔かれい〕の仁と雖も」公卿として拝賀に来たのだからとて、実兼も公衡も対面している。
-------

この『公衡公記』の記述からは、為兼は本来「家礼」であって、西園寺家に従属すべき存在であるものの、しかし、公卿になった以上は西園寺家としてもそれなりに対応する、という微妙な関係が伺えます。
そして、蔵人頭・参議となって以降、為兼は、例えば後深草院が出家して伏見親政となった翌正応四年(1291)、幕府との特別な関係を背景に朝廷の人事に介入していた禅空(善空)なる真言律宗の僧侶の排除に尽力するなど、伏見天皇の信任に応えて実際に相当な活躍をしています。
為兼の専横が目立つようになったのは永仁二年(1295)あたりかららしく、正応五年(1292)ではちょっと早すぎる感じです。
とすると、正応五年に公衡と衝突したのは誰かが問題となりますが、既に二年前から親政を行っていた伏見天皇ではなかろうかと思われます。
浅原事件での対応や、正安三年(1301)、後二条天皇の即位式で花山院家定の失態を咎めたエピソード(但しこれは典拠が『増鏡』。後述)などを見ると、万事に几帳面な公衡は周囲の空気を読まない頓珍漢な正義漢でもあります。
他方、伏見天皇も芸術家肌というか潔癖症というか、政治家としては大物とは言い難い面があって、二人が衝突する可能性は高そうです。
そして、その際に公衡の側に何らかの落ち度があったならば、実兼も公衡を守りにくかったと思われます。

※『増鏡』巻十一「さしぐし」に記された後二条天皇の即位式での公衡のエピソードは次の通りです。(井上宗雄『増鏡(中)全訳注』、p410以下)

-------
 かくて新帝〔後二条〕は十七になり給へば、いとさかりにうつくしう、御心ばへもあてにけだかう、すみたるさまして、しめやかにおはします。三月廿四日御即位、この行幸の時、花山院三位中将家定、御剣の役をつとめ給ふとて、さかさまに内侍に渡されけるを、今出川の大臣〔おとど〕、御覧じとがめて出仕とどめらるべきよし申されしかど、鷹司の大殿、「なかなか沙汰がましくてあしかりなん。ただ音なくてこそ」と申しとどめ給へりしこそ、なさけ深く侍りしか。後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん。

http://web.archive.org/web/20150918073845/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu11-gonijotenno-sokui.htm

「今出川の大臣」は前右大臣・西園寺公衡、「鷹司の大殿」は前関白・鷹司基忠(1247-1313)ですね。
西園寺公衡が強硬な意見を吐き、それを誰かが窘めるというパターンは浅原事件と同じですが、「後に思へば、げにあさましきことのしるしにや侍りけん」という語り手の尼の感想が些か不自然で、『増鏡』作者による脚色の可能性もありそうです。
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「傍輩」=西園寺公衡の可能性(その4)

2022-05-04 | 2022共通テスト古文問題の受験レベルを超えた解説
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2022年 5月 4日(水)12時04分25秒

※六回にわたって「傍輩」=西園寺公衡の可能性を探ってみましたが、結局、この仮説は誤りだったと考えています。(5月23日追記)

正応五年(1292)の『公卿補任』を見ると、

関白   九条忠教(四十五)
太政大臣 西園寺実兼(四十四)
左大臣  鷹司兼忠(三十一)
右大臣  二条兼基(二十五)
内大臣  徳大寺公孝(四十)※八月八日上表
同    三条実重(三十三)※十一月五日任
大納言  堀川具守(四十四)
同    土御門定実(五十二)

と八人続いた後、権大納言が十四人もいて、順番に名前と年齢を挙げると、

三条実重(三十三)、久我通雄(三十五)、花山院家教(三十二)、西園寺公衡(二十九)、近衛兼教(二十六)、大炊御門良宗(三十三)、九条師教(十七)、鷹司冬平(十八)、堀川基俊(三十二)、洞院実泰(二十四)、源通重(三十三)、藤原為世(四十三)、久我通雄(三十五)

となっており、公衡は四番目に登場します。
公衡は四年前の正応元年(1188)に権大納言となっていますが、二十代で権大納言というのは相当早い昇進で、上記十四人の中でも二十代は摂関家の近衛兼教・九条師教・鷹司冬平と洞院実泰・西園寺公衡の五人だけですね。
さて、公衡の項には、

中宮大夫。五月十五日兼右大将。六月廿五日右馬寮御監。閏六月十六日止大将。同日権大納言中宮大夫同辞之。

とあります。
この日付に注目して他の人事を見ると、五月十五日には右大臣・二条兼基が兼任の左大将を辞し、権大納言・花山院家教が左大将を兼任します。
同日、権大納言・三条実重が兼任の右大将を止められ、公衡が右大将となった訳ですが、公衡が右大将を止められた閏六月十六日には花山院家教が左大将から右大将に転じ、三条実重が左大将に任じられています。
このように左右の近衛大将だけを見れば名誉職の盥回しに過ぎないような感じもしますが、公衡が権大納言と中宮大夫を辞し、以後、実に五年間も散位だったというのは本当に異常な人事ですね。
公衡の社会的地位が激変した正応五年の五月から閏六月にかけては特段の社会的事件もないので、その原因はあくまで公衡個人に関わる何らかの、おそらく為兼との間のトラブルだったと思われます。
なお、「中宮」とは西園寺実兼の娘・鏱子のことですが、その母は中院通成の娘・顕子なので、公衡の七歳下の同母妹です。

西園寺鏱子(永福門院、1271-1342)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E9%8F%B1%E5%AD%90

鏱子は伏見践祚の翌正応元年(1288)六月二日に入内し、八月二十日に中宮に冊立されますが、中宮大夫となったのは公衡、そして中宮権大夫となったのは母・顕子の甥、中院通重です。

中院通重(1270-1322)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E9%87%8D

正応五年(1292)、公衡が中宮大夫を辞すと中院通重が中宮大夫となり、それは永仁六年(1298)の伏見譲位後に鏱子に女院号宣下があって永福門院となるまで続きますが、同母兄がいるのに母方の従兄・中院通重に交替したということは、公衡と鏱子との関係も悪化したことを窺わせます。
為兼と伏見天皇・鏱子は京極派の和歌の世界で固く結びついており、正応二年(1289)三月に開催された和歌御会で一首を詠んだ後は全く歌壇と縁がなかった公衡には入り込む隙がなかったのかもしれません。
さて、公衡は研究者の間では異常に詳細な日記を残してくれたことで有名ですが、一般的には『徒然草』第83段のエピソードで名前が知られている程度の人だろうと思います。
即ち、

-------
 竹林院入道左大臣殿、太政大臣にあがり給はんに、何のとどこほりかおはせんなれども、「珍しげなし。一上にてやみなん」とて、出家し給ひにけり。洞院左大臣殿、この事を甘心し給ひて、相国の望みおはせざりけり。
 「亢竜の悔あり」とかやいふこと侍るなり。月満ちては欠け、物盛りにしては衰ふ。よろづの事、先のつまりたるは、破れに近き道なり。

http://web.archive.org/web/20150502065713/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-ture-83-chikurinin.htm

という話ですが、西園寺家は公経・公相・実兼と三代続いて太政大臣となったので、公衡も当然に太政大臣になれたはずだが、本人が「一上」(左大臣)で十分だと判断して出家してしまった、というのは本当なのか。
公衡が極官の左大臣となったのは延慶二年(1309)三月で、同年六月に辞し、応長元年(1311)八月に出家していますが、延慶元年(1308)に花園天皇が践祚、伏見院政となっているので、公衡を太政大臣にするかどうかの決定権は伏見院にあります。
伏見院としては、かつて為兼と軋轢があり、五年の散位の間に為兼と為兼を贔屓する伏見天皇への恨みを募らせ、幕府に讒言して為兼流罪の原因を作った公衡を決して許さず、関東申次という重職の相応しい地位として左大臣までは認めたものの、太政大臣は許さなかったのではないか、そして公衡も伏見院の対応を見越して太政大臣をあきらめた、というのが実際だったのではなかろうかと私は想像します。
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