●鎌倉文化(仏教・信仰)
〈道元、曹洞宗の開祖となる〉★
Dōgen founds Sōtō sect of Buddhism and writes Shōbō Genzō (Treasury of the True Dharma Eye).
相当(そうとう)元気 ええ返事。
曹洞宗 道元
『正法眼蔵』 永平寺 只管打坐
公家の家に生まれ、13歳で出家して天台・臨済宗を学んだ道元は、入宋して曹洞禅を伝えたが、叡山の圧迫を受け、越前に下って永平寺を開いて曹洞宗の開祖となった。坐禅そのものが仏法であるとし、ひたすら坐禅に打ち込む只管打坐を説き、『正法眼蔵』を著した。
(臨済宗・栄西(えいさい)・興禅護国論(こうぜんごこくろん))(正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)・曹洞宗・道元)
[ポイント]
1.臨済宗は栄西が開き、その主著は『興禅護国論』である。
2.曹洞宗は道元が開き、その主著は『正法眼蔵』である。
[解説]
1.臨済宗は、栄西(1141~1215)が南宋から伝えた禅宗の一派。当初は比叡山などの圧迫を受けたが、やがて鎌倉・室町幕府の保護を受けて、京・鎌倉の五山を中心に発展した。
2.栄西は、鎌倉に赴き寿福寺を、のち京都に建仁寺を開く。
3.臨済宗は、坐禅(ざぜん)を組み、師から与えられる公案(こうあん)という問題を解決して、悟(さと)りに達すると説いた。
4.栄西が旧仏教側の禅宗非難に対し、禅宗の本質を説いたのが主著『興禅護国論』。他に中国から茶をもたらし、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著した。
5.曹洞宗は、道元(1200~53)が南宋から伝えた禅宗の一派。京からやがて越前の永平寺(えいへいじ)に拠り、以後権力と離れ坐禅中心の厳格な宗派を確立していった。
6.曹洞宗は、権力との結びつきを嫌い、坐禅中心(只管打坐(しかんたざ))の教えを説いた。
7.道元の主著が曹洞宗の禅の本質・規範を述べた『正法眼蔵』で、道元死後、弟子懐奘(えじょう)らが道元の教えを筆録した『正法眼蔵随聞記(ずいもんき)』がある。
8.道元は、入宋前に建仁寺で修行。栄西の弟子明全から学び、栄西の孫弟子にあたる。
〈2014立大・文
次の宗派1・2それぞれについて、日本での開祖を甲群のa~dから主要著書を乙群のa~dからそれぞれ1つずつ選び、その記号をマークせよ。
1曹洞宗 2臨済宗
甲群)a一遍 b栄西 c親鸞 d道元
乙群)a教行信証 b興禅護国論
c正法眼蔵 d立正安国論」
(答:1dc、2bb)〉
〈2014明大・国際日本(国際日本)
禅宗は自力、つまり修行の必要性を説き、坐禅などの実践法を重視した。鎌倉の武家に支持された臨済宗は「己事究明」(自分自身そのものを明らかすること)のための修行を重んずる一方で、大陸の最先端の文化も積極的に伝えた。一例を挙げれば、臨済宗の開祖である[ D ]ははじめて日本に[ J ]をもたらしたといわれる。「只管打坐」(ひたすら坐ること)をその教趣とし、同じ禅宗の系譜に属する曹洞宗はより隠遁的であり、おもに北陸を拠点とした。今日でも多くの修学旅行が訪れる福井県の[ K ]は曹洞宗の大本山の一つである。なお、曹洞宗の開祖である[ E ]が著した[ L ]は、いまなお日本の宗教史、思想史上の古典として高く評価されている。
(答:D栄西、J茶、K永平寺、E道元、L正法眼蔵)〉
〈2013北海道大学・前期:「Ⅱ 次の文章を読んで、下記の設問(問1~8)に答えなさい。
鎌倉時代に入ると、京都にa幕府によって六波羅探題が設置され、在京御家人らが帝都・王権を警固・監視する体制が敷かれた。また、中世都市京都においては、寺社勢力の増大と多様化も重要な変化であった。ここでは。b新興勢力ともいうべき禅宗の巨刹、建仁寺と東福寺とを取りあげて見てみよう。
質実剛健な学問重視の風潮を伝える建仁寺は、c渡海入宋僧の栄西の創建にかかる。だが、栄西の京都進出成功までの道のりは険しかった。栄西は、臨済禅の技法を取り込むことでd中世仏教の主流派のひとつ、天台宗の内部改革を企図していたのだが、当の天台教団、[ ア ]山延暦寺から排撃されてしまう。その後、栄西は、北条政子らの帰依を得て、鎌倉に寿福寺を創建し、1202年、ようやく京都で建仁寺を開くことに成功する。建仁寺の開基は、鎌倉幕府2代将軍の源[ イ ]であり、創建にあたって付された条件は、同寺を、「三宗(真言・天台・禅宗)兼学」の道場とすることだった。出発時から、禅単独の興隆は難しかったのである。
ところで、e禅宗といえば武家との関係が連想されがちだが、洛南の地に壮麓な伽藍を誇る東福寺は、f摂関家の菩提寺のひとつであった。1236年、朝廷の最大有力者で当時摂政の九条道家が発願して、渡海入宋僧の臨済僧円爾(えんじ)が開山として迎えられている(道家没後の1255年に落慶供養・開堂、1271年に全堂完成)。円爾とその弟子たちは、g博多の貿易商人や中国臨済禅の第一人者と密接な関係を長く保っており、中国からの先進的な宗教や文物の移入が、彼らに期待されたのであろう。以後、東福寺は、九条家の外護(げご)のもと、円爾の門流のみから住持を取る体制をとり、勢力を拡大していった。
問1 空棚[ ア ][ イ ]に入る語句(地名・人名)をそれぞれ記しなさい。
問2 下線部aについて、六波羅探題が設置されるに至った歴史的な経緯を、関係する人物の名を最低二人は挙げつつ、60字以内で説明しなさい。
問3 下線部bについて、臨済宗とならぶ禅の宗派として、曹洞宗がある。
(1)日本における曹洞宗の開祖は誰か、答えなさい。
(2)曹洞宗の修行法を端的に示す言葉を、漢字4文宇で答えなさい。
(3)それに対して、日本の臨済宗が重視するのは、師から与えられた問題を解くことである。その問題は一般に何と呼ばれるか、漢宇2文宇で答えなさい。
問4 下線部cについて、栄西が中国からもたらしたと伝えられ、のちに茶道に発展する喫茶法とはどのようなものか、20字以内で説明しなさい。
問5 下線部dについて
(1)天台宗の最高位の僧を何と呼ぶか、
(2)また、延暦寺とならぶ天台宗の拠点寺院の名は何か、それぞれ答えなさい。
(3)また、なぜ天台宗や真言宗が「中世仏教の主流派」といえるのか、60字以内で説明しなさい。
問6 下線部eについて、室町時代になると、幕府の官寺としての「五山の制」が確立する。
(1)最高位である「五山之上」に位置づけられた寺院の名を答えなさい。
(2)五山以外の禅宗寺院である大徳寺から出て、『狂雲集』を著した禅僧の名を答えなさい。
問7 下線部fについて、鎌倉幕府最初の摂家将軍の氏名を答えなさい。
問8 下線郡gについて、足利義満に対明通交の再開をすすめ、その結果、自身が使者となって明に渡海した博多の貿易商人は誰か、答えなさい。
(答:問1ア比叡・イ頼家、問2〔解答例〕後鳥羽上皇による承久の乱を破った後、幕府軍の将北条泰時と時房を六波羅探題に任じ、朝廷の監視や西国の統轄にあたらせた。(59字)、問3(1)道元(2)只管打坐(3)公案、問4茶葉をひき湯を入れかき混ぜて飲む抹茶法、問5(1)天台座主(2)園城寺〔三井寺〕(3)〔解答例〕加持祈禱によって朝廷や貴族の帰依を受けて政治的な影響力を持ち、全国各地に多くの荘園を所有し大きな経済力も持っていたから。(60字)、問6.(1)南禅寺(2)一休宗純、問7藤原〔九条〕頼経、問8肥富)〉