しっ沖の上恋路陥落。縄の恋路(こいじ)で/空っぽですか!?/悲愴なポーズうけてるよ!
(米軍沖縄上陸・小磯国昭内閣総辞職)(沖縄陥落・ポツダム宣言出る・鈴木貫太郎内閣黙殺)(広島に原爆・ ソ連対日参戦・長崎に原爆・ポツダム宣言受諾)。
[point]
1.米軍の沖縄上陸→小磯国昭内閣総辞職→沖縄陥落→ポツダム宣言発表→鈴木貫太郎内閣黙殺→広島に原爆→ソ連の対日参戦→長崎に原爆→ポツダム宣言受諾。
[解説]
1.1944(昭和19)年10月、アメリカ軍はフィリピンの奪回をめざしてレイテ島に上陸し、激戦の末これを占領した。翌1945(昭和20)年3月に硫黄島を占領したアメリカ軍は、4月にはついに沖縄本島に上陸し、島民をまき込む3カ月近い戦いの末これを占領した(沖縄戦)。日本の敗北は必至の情勢となった。アメリカ軍沖縄上陸の直後、小磯国昭内閣(1944年7/22~1945年4/7)が退陣して、侍従長を長く務め天皇の信頼も厚かった鈴木貫太郎が後継内閣(1945年4/7~8/17)を組織した。
2.沖縄戦は本土防衛のための「捨て石」、すなわち時間稼ぎのために沖縄を犠牲とする戦いであった。県民4人に1人が何らかの形で巻き込まれている。友軍であるはずの日本軍により死に追いやられた者、集団自決を強いられた者も多数含まれている。
3.ポツダム宣言に対して、日本政府の「黙殺」を拒絶と理解したアメリカは、人類史上はじめて製造した2発の原子爆弾を8月6日広島に、8月9日長崎に投下した。またその間の8月8日には、ソ連が日ソ中立条約を侵犯して日本に宣戦布告し、満州・朝鮮に一挙に侵入した。この「黙殺」後の1か月弱にいまなお尾をひく戦争の悲劇(原爆症、中国残留孤児、シベリア抑留など)が起こったことを思うと、日本政府の決断の遅れをいくら非難しても足りない。
4.ついに日本政府は8月10日、「国体の護持」すなわち天皇制の維持という条件付きでポツダム宣言を受諾すると通告した。しかしバーンズ米国務長官はこれを無視して「天皇および日本政府の国を統治する権限は連合国軍最高司令官に従属する」と回答してきた。このため政府部内で逡巡が繰り返され、ようやく14日に受諾(無条件降伏)を決定した。
5.陸軍はなおも本土決戦を主張したが、昭和天皇のいわゆる「聖断」によりポツダム宣言受諾が決定され、同日、政府はこれを連合国側に通告した。8月15日正午、天皇のラジオ放送で戦争終結が全国民に発表されることに決定した。
6.しかしこれ以後も15日正午に天皇の声(玉音)が録音盤により全国放送されるまでは暗闘が続いた。本土決戦を主張し降伏に反対する陸軍将校グループが14日深夜に、天皇の確保と録音盤の奪取をねらい、皇居の占領と東京放送などの占拠を企てたのである(宮城事件)。まさにミニ「二・二六事件」である。
7.9月2日、東京湾内のアメリカ軍艦ミズーリ号上で日本政府代表重光葵と軍代表梅津美治郎が降伏文書に署名して、4年にわたった太平洋戦争は終了した。
〈2017中央大・経済
問1.下線部①敗戦に関連して、ポツダム宣言受諾時の内閣はどれか。該当する内閣の記号を1つ選べ。
ア.小磯国昭内閣
イ.幣原喜重郎内閣
ウ.鈴木貫太郎内閣
エ.東条英機内閣
オ.東久邇稔彦内閣」
(答:ウ)〉
〈2017法政大・文(英地理心理)営(戦略市場)法(国際)
さて、もう一つ、念押し外交の例を取り上げてみよう。それは、h第二次世界大戦末期、ポツダム宣言受諾をめぐってi日本政府と米国政府との間で交わされたやりとりにおいて見ることができる。
1945年7月、米英中3カ国の首脳が署名し発表したポツダム宣言は、対日降伏勧告を含んでいた。そのなかには、降伏後の日本について、日本国民の自由に表明する意志に従い平和で民主的な日本が築かれるということが記されていた。これに対して、日本政府はいわゆる国体護持、すなわち昭和天皇と天皇に関わる制度が敗戦後もこれまで通り保たれることを確認するために、それを米国政府に打診した。これに対する米国政府の回答は、降伏後、日本国の最終的な形態は日本国民の自由に表明する意志により決定されるとして、ポツダム宣言の趣旨をくりかえすにとどまったのである。その後、j昭和天皇のポツダム宣言受諾の判断(一般に、聖断と言われている)が下され、日本は敗戦を迎えることとなった。
k敗戦色の濃いなかで、日本政府は、ポツダム宣言の受諾をめぐって、米国政府に対して必死の念押し外交を試みたのであった。しかし、勝利をほぼ手中にしていた米国をはじめとする連合国は日本に肩透かしをくわせたのである。
朝鮮の独立をめぐって念押し外交を展開してきた台頭著しい日本と、l.未曾有の敗戦を前に、せめて国体護持だけは確保したいと念押し外交を試みる瀕死状態の日本と、その違いはあざやかである。よく知られている通り、降伏によって日本は朝鮮を含むすべての植民地を失うこととなるが、これについて日本政府が念押し外交を行うことはなかった。
問8.下線部h第二次世界大戦末期の情勢に関連して、誤っているものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア.沖縄県において地上戦が行われた。
イ.東京をはじめ国内各地への空襲が激化した。
ウ.日本の同盟国であったドイツに次いでイタリアも降伏した。
エ.日ソ中立条約の有効期限内にもかかわらずソ連が日本に宣戦布告を行った。」
問9.下線部iの日本政府の内閣総理大臣は誰か。その人物名を漢字で答えよ。
問10.下線部jの昭和天皇に関して、誤っているものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア.皇太子であったときに、ヨーロッパを視察したことがある。
イ.皇太子であったときに、病気療養中の大正天皇の譲位により天皇となった。
ウ.天皇在任中、二・二六事件に際し、反乱軍の鎮圧を命じた。
エ.天皇在任中、いわゆる人間宣言を発した。
問11.下線部kの情勢に関連して、正しいものを、以下のア~エのなかから一つ選べ。
ア.阿南惟幾陸軍大臣は、ポツダム宣言の受諾に反対し、戦争継続に固執した。
イ.高橋是清大蔵大臣は、国内の混乱を懸念して、ポツダム宣言の受諾に反対した。
ウ.加藤高明外務大臣は、ポツダム宣言の受諾に賛成した。
エ.斎藤実海軍大臣は、ポツダム宣言の受諾に対する態度を明確にしなかった。
(答:問8ウ×※イタリア→ドイツの順、問9鈴木貫太郎、問10イ※天皇ではなく摂政に就任、問11ア)〉
〈2017上智大・外(独ポ)神総(心理)2/4:「
1944年7月、マリアナ群島にあるサイパン島が陥落して、「絶対国防圏」の一角が崩れたのをうけて、時の内閣は、その責任をとって総辞職した。そして、後任の首相には陸軍出身の大将(セ)が就き、彼に海軍出身で過去に首相に就いたこともあった(ソ)が海相として協力する陸海軍の連立内閣が成立し、戦局の劣勢がますます深まるという難局に臨むことになった。
問14 空欄(セ)に入る人物は誰か。もっとも適切な人名を、次の中から1人選べ。
①鈴木貫太郎 ②広田弘毅
④小磯国昭 ④阿部信行
問15 空欄(ソ)に入る人物は誰か。もっとも適切なものを、次の中から1人選べ。
①米内光政 ②吉田善吾
③岡田啓介 ④及川古志郎
(答:問14④、問15①)〉
〈2017関西学院大・全学部2/2:「
問2.下線部b太平洋戦争中に関して、正しいものを下記より選びなさい。なお、すべて誤っている場合は「エ」をマークしなさい。
ア.日本はミッドウェー海戦で主力空母の多くを失うと、その責任をとって米内光政内閣は退陣した。
イ.日本がマリアナ諸島を失い絶対国防圏の一角が崩壊すると、その責任をとって近衛文麿内閣は退陣した。
ウ.レイテ沖海戦で連合艦隊は壊滅状態となり、その責任をとって小磯国昭内閣は退陣した。」
(答:エ、ア×東条英機内閣は退陣せず、イ×近衛文麿内閣→東条英機内閣、ウ××米軍の沖縄上陸で敗色濃厚な情勢、さらに中国国民党政府との和平工作(繆斌工作)に失敗したため退陣)〉
〈2017早大・文:「
1945年4月、アメリカ軍は沖縄本島に上陸し、以後、d一般県民を巻き込む激しい戦闘が3ヵ月近く続いた。その結果、アメリカ軍は沖縄全島を占領し、日本政府の行政権を停止した。
問8 下線dに関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 中等学校の男女生徒が鉄血勤皇隊・女子学徒隊に編成された。
イ 戦闘の妨げになるなどの理由から住民の集団白決が発生した。
ウ スパイ容疑で住民が日本軍によって殺害される事態が発生した。
エ アメリカ軍による激烈な攻撃は「鉄の暴風」と呼ばれる。
オ 日本軍は本土決戦を避けるため、沖縄戦に全力を投入した。」
(答:オ ※日本軍部は本土決戦を行う決意だった)〉