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1282年(弘安5年) 〈円覚寺の創建〉★

2018-08-03 | Weblog

 

●鎌倉時代(後宇多天皇 北条時

In 1282, Mugakusogen became kaisan (the founder) of the Engaku-ji Temple which Tokimune established for paying respects to the dead at the Mongol Invasion at Japan.

 

威風野に富む 円覚寺。

         1282年    第二位  北条時宗 無学祖元 円覚寺      

 

弘安の役直後の1282北条時宗無学祖元を開山に招き、戦没者追悼のために円覚寺(第二位)を創建。円覚寺は建長寺と並び、代々北条氏の保護を受け、総本山として鎌倉臨済宗の中心となった。舎利殿は禅宗様の代表的遺構として有名である。

 

 

 

 

 

 

 


[ポイント]

1.建長寺北条時頼が創建で開山は蘭溪道隆円覚寺北条時宗が創建で開山は無学祖元

[解説]

1.蘭渓道隆(1213年~78)は、南宋から1246年弟子とともに来日。執権北条時頼の帰依を受けて鎌倉に招かれ、時頼(5代執権)によって鎌倉に建長寺(鎌倉五山第一位)が創建されると招かれて開山(創立者)となる。

2.無学祖元(1226~86)は、1275年に元が南宋に侵入した直後の1279年、北条時宗(8代)に招かれて来日、建長寺の住持となる。元寇2度めの戦い、弘安の役の直後の1282年、時宗は、元寇での戦没者追悼のために円覚寺(第二位)を創建し、祖元は開山となる。


3.寿福寺(第三位)は北条政子が創建、開山は栄西


4.権力志向の「五山派」に対して、自由な民間布教に努めた禅宗各派を林下(りんか)という。


5.林下には、永平寺総持寺といった曹洞宗系と、大徳寺妙心寺といった臨済宗系がある。


〈2015大学入試センター試験・日本史B:「

智 史:中世にも人の往来は盛んだったよ。たとえば、d鎌倉の禅宗寺院などは中国語が飛び交っていたと言われている。南宋や元の僧が渡来し、北条氏の帰依を受けて滞在していた。
愛 美:[ ア ]とか無学祖元ね。
智 史:そうだよ。さらに時代をさかのぼると、平安中・後期の[ イ ]には宋の商人   が来航して交易に携わっていたんだよ。」

問4 空欄[ ア ][ イ ]に入る語句の組合せとしで正しいものを、次の1~4のうちから一つ選べ。


 1.ア蘭渓道隆 イ博多  2.ア蘭渓道隆 イ堺

 3.ア桂庵玄樹 イ博多  4.ア桂庵玄樹 イ堺

(答:1)〉

〈2013早大・国際教養:「
 下線部d五山の制度に対し、権力者の保護を敢えて求めずに、自由な布教活動を行った禅宗諸宗派を総称して何と呼ぶか。漢字二字で答えなさい。


(答:林下)〉

〈2013早大・法:「
問7 下線部eについて。南宋滅亡後の1279年に北条時宗に招かれ、円覚寺を開山した僧の名前として正しいものを1つ選べ。


 あ蘭渓道隆 い無学祖元 う兀庵普寧
 え東巌慧安 お一山一寧」


(答:い)〉

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鎌倉五山

2018-08-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

建円寿福浄智浄妙。


長寺(けんちょ
うじ)・覚寺(えんがくじ))(寿福寺(じゅふくじ)・浄智寺(じょうちじ))(浄妙寺(じょうみょうじ))

[ポイント]

1.鎌倉五山は上位から建長寺円覚寺寿福寺浄智寺浄妙寺である。

〈2014立大・経済コミュ福祉観光

 問9. この人物北条時頼に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.元から再三にわたって恭順を求められてきたが、これを拒否した

 b.評定衆の裁判実務を助けるために、その下に新たに引付衆を置いた
 c.源頼家を幽閉し、源実朝を次の将軍にすえた
 d.和田義盛を滅ぼし、侍所別当を兼務した

(答:b ※a8代時宗の治世、c初代時政の治世、d2代義時の治世)

 問10.建長寺に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.1325年に、その修造をはかるため、鎌倉幕府が元に建長寺船を派遣した
 b.1571年に、織田信長の焼き討ちに遭った
 c.創建に際して宋から招かれた僧侶は栄西である
 d.室町幕府のもとで五山の制が確立すると、鎌倉五山の第3位となった」

(答:a ※b比叡山の延暦寺の誤り、c蘭渓道隆の誤り、d第1位)

〈2013明大・商

 平安時代の初期には、中国の食文化の影響から、唐揚げや唐煮、唐菓子などの料理が食膳に上り、中国風の納豆なども食べられていたという。また鎌倉時代には、禅宗と共に喫茶の風習が広まった。禅寺では料理や食事も修行の一環とみなされるようになり精進料理が発達し、豆腐など現代の日本料理の基礎の一部が完成した。一説によれば鎌倉五山第一位の[ イ ]がその名の由来とされる料理も今に残っている。このような食生活の充実を支えたのが、この時代の商工業の発達であった。定期市が定着し、小売商人も活躍した。

(答:建長寺)〉

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