家内と市長 吸う蜜を。
(華族令・内閣制度)(市町村制)(枢密院)
[point]
1.憲法制定前に、華族令→内閣制度→市制町村制→枢密院とつぎつぎ整備。
[解説]
1.華族令(1884)を定め、華族の範囲を広げて、旧上層公家・大名以外からも国家に功績のあったものが華族になれるようにして、将来の上院(貴族院)の土台をつくった。華族を公・侯・伯・子・男の5爵に分け、そのおのおのの資格を詳細に定めた。貴族院議員の選出母体を準備した。
2.ついで1885年には太政官制を廃して内閣制度を制定した。宮中と府中(行政府)を区別し、行政は天皇の任命を受けた内閣の各大臣が輔弼(ほひつ)(天皇を輔佐(補佐)する)する制度にした。
3.市制・町村制(1888)は、これまでの郡区町村編制法(1878)に替わり、大日本帝国憲法下の地方自治に関する基本法を定めたもの。ドイツ人顧問モッセの助言を得て山県有朋を中心に政府の強い統制のもとではあるが、地域の有力者を担い手とする地方自治制が制度的に確立した。人口2万5000人以上の都市を市として郡と対等の行政区域とし、従来の町村は大幅に合併されて新しい町村とされた。市長は市会の推薦する候補者から内務大臣が任命し、市参事会が行政を担当した。町村長は無給の名誉職で、町村会で公選された。さらに1890年には府県制・郡制が公布され、郡長および郡参事会を行政機関とし、町村会議員の投票と大地主の互選とによって選ばれる郡会を議決機関とした。府県会も郡会議員の投票による間接選挙であった。
4.枢密院(1888)は天皇の最高諮問機関として設置。ここで憲法草案を審議した。初代議長は伊藤博文。憲法・選挙法などの特別な法律・会計・条約などについて天皇の諮問にこたえる機関で、その後、憲法の第56条により権限が明確化された。
〈2016早大・教育
明治14年の政変において[ 3 ]らは、大隈重信を政府から追放し、開拓使官有物払下げを中止するとともに、国会開設の勅諭を出して1890年の国会開設を公約した。こうした対処が明治憲法体制形成に向けての出発点となり、以後、国会開設に備えて憲法起草に取り組むことと並行して、d.支配体制を固めるための諸施策が実行されたのである。
問3 空欄[ 3 ]に該当する人物2人を選べ。
ア板垣退助 イ伊藤博文 ウ井上毅
エ尾崎行雄 オ木戸孝允
問7 下線部dの諸施策のうち、明治14年政変後から大日本帝国憲法発布までの間に実施されたものをすべて選べ。
ア 天皇直属の参謀本部が設けられ、政府から独立して軍令を管掌することになった。
イ 広大な山林や有価証券などが皇室財産に編入され、天皇家は日本最大の財産所有者となった。
ウ 中学校以上の男子校で軍事教練が開始された。
エ 華族令が制定され、旧大名・公卿のほかに、士族の勲功者が新たに華族に加えられた。
オ 小学校教科書は、文部省が著作権を有するものに限ることとした。」
(答:問3イ・ウ、問7イ・エ ※1884年
オ.
1903(明治36)年 小学校国定教科書令交付。国家による教育への統制が強化されるなかで、1903年に国定教科書が小学校に導入された。
行く押さえるし 国定で。
1903年 小学校 国定教科書
〈2014早大・国際教養
問9 下線部(7)peerage(貴族…註)に関連して、誤っているものはどれか。2つ選べ。
ア 版籍奉還により、藩主を公家とともに華族とした。
イ 1884年、華族令を定め、公・侯・伯・子・男の爵位を設けた。
ウ これらの爵位は、旧公家・旧大名のみに適用される身分呼称であった。
エ 華族令には、華族を将来の上院議員とする意図が込められていた。
オ 爵位の世襲は、男女問わず可能であった。」
(答:ウ※維新の功臣にもばらまかれた・オ※女性は世襲できない)〉
〈2014慶大・文
問2 下線a男爵を授けられ、新たに華族に列したるについて、華族は当初、旧上層公家や大名に限られたが、1884年に華族令によって対象が拡大された。このとき、特にどのような者が対象に加えられたか。10字以内で記しなさい。」
(答:国家に功績がある人)〉