- 昭和時代(昭和天皇
1937年 〈日中戦争勃発〉★★★
Sino –Japanese War; Japanese forces invade China.
戦(いくさ)長引こ 注意しろ。
1937年 近衛文麿内閣 日中戦争 盧溝橋事件
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋〈で日中両軍の武力衝突(盧溝橋事件《「盧溝橋」の〈盧〉の字にも〈七〉の字がある!》)が起こった。第1次近衛文麿内閣は軍事行動を拡大し、戦火は中国各地に広がった。中国側は第2次国共合作を行って抗日民族統一戦線を結成し、粘り強く日本軍に抵抗。こうして相互に宣戦布告のないまま、本格的な日中戦争が始まった
[point]
1.1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が開始された。
[解説]
1.第1次近衛文麿内閣成立直後の1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の盧溝橋付近で日中両国軍の衝突事件が発生した(盧溝橋事件)。いったんは現地で停戦協定が成立したが、近衛内閣は軍部の圧力に屈して当初の不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大した。これに対し、国民政府の側も断固たる抗戦の姿勢をとったので、戦闘は当初の日本側の予想をはるかに超えて全面戦争に発展した(日中戦争)
2.8月には、上海でも戦闘が始まり(第2次上海事変)、戦火は南に広がった。9月には国民党と共産党がふたたび提携して(第2次国共合作)、抗日民族統一戦線を成立させた。日本はつぎつぎと大軍を投入し、年末には国民政府の首都南京を占領した(南京大虐殺事件)。
3.しかし国民政府は南京から漢口、さらに奥地の重慶にしりぞいてあくまで抗戦を続けたので、日中戦争は泥沼のような長期戦となった。
4.日本政府は、この戦争を当初、局地紛争とみなし北支事変、さらに支那事変と呼んだが、紛れもなく全面戦争だった。
〈2017関西学院大・全学部
問9.下線部m日中戦争に関して、誤っているものを下記から選びなさい。
ア.日中戦争は、南京郊外で発生した盧溝橋事件を発端とする。
イ.戦争が始まると、戦いは上海に飛び火するが、これを第2次上海事変と呼ぶ。
ウ.日本軍が中華民国の首都南京を占領すると、国民政府は漢口さらには重慶に首都を移した。
エ.近衛文麿内閣は日中戦争遂行のため国民精神総動員運動を始めた。」
(答:ア× ※南京→北京)〉
〈2017明大・文
近現代の政治・経済について述べた次の文章Aを読み、下の設問に答えよ。
A.1933年(昭和8)5月の[ a ]の締結によって、柳条湖事件以来の日中間の事実上の戦争状態は停止されたかに見えたが、「満洲国」では内戦状態が続くとともに軍部は華北分離工作を進めた。中国国内では、抗日運動の気運が高まり、1936年12月の[ b ]をきっかけとして国共合作への動きが強まった。1937年7月、盧溝橋において日中両軍の衝突が起こり、現地では停戦協定が成立したが、[ c ]内閣は華北派兵を決定し、全面戦争となった。1938年1月、政府は、「爾後[ d ]せず」との声明を出したが、かえって戦争終結への道を遠ざける結果となった。その後、重慶に首都を移した中国政府は、欧米諸国の支援を受けて抗戦を続けたため、日本軍はその援助ルートを遮断するために南進し、1940年9月、[ e ]に進駐するに至り、英米との対立をさらに深めることとなった。
問1.空欄a~eに入るのに適当な語句を漢字(dは漢字とひらがな)で記せ。なお、cには人名(姓名)を入れよ。
問2.下線部爾後[ d国民政府を対手と ]せず」との声明は、この内閣が出した「第1次声明」とも呼ばれるものであるが、同年11月に出された「第2次声明」は一般にどのように呼称され、英・米両国はそれにどのような条約に反しているとの反応を示したか。条約名を記せ。」
(答:問1a塘沽停戦協定(日中軍事停戦協定)、b西安事件、c近衛文麿、d国民政府を対手と、e北部仏印、問2〔呼称〕東亜新秩序声明〔条約名〕九カ国条約)〉
〈2017立教大・異文化コミュ済(済政策)法
問14.この人物近衛文麿を首相とする内閣に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選び、その記号をマークせよ。
a.国家総動員法が制定され、政府は議会の承認なしに、戦争遂行に必要な物資や労働力を動員する権限を得た
b.ドイツの駐華大使トラウトマンを通じて和平工作を進め、日中戦争の早期停戦を模索した
c.満州国や中国(南京)の汪兆銘政権などの代表者を東京に集め、大東亜会議を開いた
d.盧溝橋事件の発生後、当初とっていた不拡大方針を変更し、兵力を増派して戦線を拡大させた」
(答:c× ※大東亜会議は太平洋戦争中(1943.11)にアジア占領地域の代表を集めて戦争協力をさせるために東条英機内閣が開いた)〉