人災こう勝て ボコみんぎ。
壬午軍乱(1882年) 斉物浦(さいもっぽ)条約(1882年)(甲申事変・漢城条約・天津条約・防穀令・甲午農民戦争 閔妃暗殺 日韓議定書(1904年)
[point]
1.日朝関係史前半(日清戦争以前)は、閔氏政権→江華島事件→日朝修好条規→壬午軍乱→斉物浦条約→甲申事変→漢城条約→天津条約→防穀令→甲午農民戦争と推移。
[解説]
1.閔氏政権成立(1873)。守旧派の大院君(テオングン)政権に替わり、日本の明治維新の影響をうけ、親日=開明派政権として成立。
2.江華島事件(1875)。開国を拒む朝鮮に対して日本軍艦が沿岸測量で挑発し、軍事行動で威嚇し開国を迫る。
3.日朝修好条規(1876)。対等関係を崩す不平等条約で、全権は黒田清隆。ⅰ)清国の朝鮮に対する宗主権否定、ⅱ)日本に領事裁判権を与える、ⅲ)日本に関税免除特権を与えるという不平等条約で、釜山(プサン)・元山(ウォンサン)・仁川(インチョン)3港の開港も決まった。
4.壬午軍乱(事変、1882)。攘夷親清派の大院君(テウォングン)らによる閔氏追放をねらう反日クーデター。清国軍の介入で失敗。大院君は失脚し、閔氏政権は清のてこ入れを機に親日から親清派へ転換。
5.斉物浦(チェムルポ)条約(1882)。軍乱の際公使館を襲われた日本は賠償要求をおこなう。朝鮮は日本側に謝罪と賠償金を支払い、公使館に警備兵をおく権利を与える。
6.甲申事変(1884)。日本公使館が支援し、独立党(金玉均(キムオクキュン)・朴泳孝(パクオンヒヨン))がおこした閔氏政権(事大党)打倒のクーデター。閔氏政権は清国軍来援で乗り切る。
7.漢城条約(1885)。朝鮮が日本側に賠償金・公使館守備軍の駐留権を与える。
8.天津条約(1885)。日中間(伊藤博文・李鴻章(りこうしょう))の条約。日清両軍の朝鮮からの撤兵と、出兵時は日中が相互に事前通知すると約す。朝鮮による出兵要請は必要なしとして、両国は朝鮮を無視。
9.防穀令(1889)。凶作で朝鮮の地方官僚が、その地方での大豆・米の対日輸出禁止令を出したのが始まり。朝鮮は日本の圧力に屈し90年解除、日本に賠償金を支払う。
10.甲午農民戦争(攘夷運動、1894)。李朝末期の暴政に加え、日本を先頭に進出してきた外来資本による経済混乱が相まって生活苦が増大。反侵略反封建を唱える新宗教東学(トンハク)(指導者全琫順(チョンボンジュン))の下に朝鮮南部農民が結集し、おこした大農民反乱。日清両軍が出兵。外国軍出兵を見て農民側が譲歩し収束へ。開戦を決意しており、撤兵したくない日本は、清国朝鮮の宗属関係破棄を要求。両国はこれを拒否。
〈2017早大・国際教養
1876年のb.条約は朝鮮の領土を近代日本の事業に開くと同時に国際舞台へと開くきっかけでもあった。1884年に、一般にはc.朝鮮王朝を打倒する企てと見なされている事件がおこったが、日本が期待していたような成果は得られなかった。1885年、d.天津で中日間の協定が締結されたが、これは、当時中国がまだ保持していると見なしていた外交上の領土に対する中国の強い姿勢を示していた。その後間もなく1888年にはロシアと朝鮮の間に条約が結ばれ、またアメリカ公使が積極的な動きを見せるなど、ソウルは国際的な競争の場所と化していった。もはやこの勢力争いに決着をつけるのは戦争という手段しかないことは明白であり、1890年以降日本はその準備を進めていったのだ。
e1894年の反乱は口実であり、中国との戦争は手段でであり、日本はそれによって朝鮮を日本の支配下に移せると信じたのだろう。朝鮮の支配が完了すると、日本軍は満州に侵攻せずそこにとどまり、守りの姿勢に入ったことは、日本の戦略目標が達成されたことを示していた。下関条約はこの事態を公認するものだったが、同時に日朝関係の「ロシア期」とも言える時期を開くものともなった。
問2 下線部b条約に関する記述として、正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 清と日本はこの「条約」で朝鮮を共同統治すると規定した。
イ 朝鮮と日本はこの「条約」で朝鮮が自主の国であると規定した。
ウ 清と日本はこの条約を承認しあった。
エ 清と日本はこの「条約」で朝鮮の開国を規定した。
オ 清は朝鮮とこの「条約」を結んで朝鮮の開国を承認した。
問3 下線部c朝鮮王朝を打倒する企てと見なされている事件に該当する「事件」名を漢字で記入せよ。
問4 下線部d天津で中日間の協定が締結されたに関する記述として、正しいものはどれか。2つ選べ。
ア この「協定」は井上馨と李鴻章との間で締結された。
イ この「協定」は朝鮮に対する清の支配権を取り決めた。
ウ この「協定」は日清両国軍の朝鮮駐留を取り決めた。
エ この「協定」は朝鮮に派兵する際、相互に事前通告することを取り決めた。
オ この「協定」の規定を根拠に1894年日本は朝鮮に派兵した、
問5 下線部e1894年の反乱に関する記述として、正しいものはどれか。2つ選べ。
ア この「反乱」ほ防穀令をめぐる紛糾をきっかけとしておこった。
イ この「反乱」は東学の信者を中心とする農民がおこした。
ウ この「反乱」は日本の朝鮮保護国化に対する不満からおこった。
エ 日本が朝鮮に出兵したため「反乱」はいっそう激しくなった。
オ 朝鮮政府は「反乱」鎮圧のため、清に出兵を要請した。」
(答:問2イ、問3甲申事変(政変)、問4エ・オ、問5イ・オ)〉
〈2017慶大・経済
明治維新後、政府の一部にあった征韓論は敗れたものの、1876(明治9)年には、江華島事件をきっかけに、不平等条約である( b )を朝鮮に結ばせた。日本の強硬な朝鮮政策は、清を、つづいてロシアを刺激することになる。D日露開戦の1904年に韓国との間に( c )や第1次日韓協約を結んだ後、1910年には韓国併合を強行し、1945(昭和20)年まで植民地支配を行なった。
問8 上の文中の、b~cに入る適切な条約・文書名を、記述しなさい。なおbについては漢字6字で記入すること。
問12 下線部D日露開戦の1904年に韓国との間に( c )や第1次日韓協約を結んだ後に関連する次の文章を読んで、以下の(1)、(2)に答えなさい
(1)次の史料a~dは、1906年に交わされた条約・協約・協定からの抜粋である(原文の表記を適宜改めた)(ア~ウ)に入る適切な国名を下の1~7から選びなさい。
史料a
( ア )帝国政府は、( イ )政府の承諾を以て旅順口、大連ならびにその付近の領土及び領水の租借権及び該租借権に関連し又はその一部を組成する一切の権利、特権及び譲与を日本帝国政府に移転譲渡す。
史料b
日本国は韓国に於て政治上、軍事上及び経済上の卓絶なる利益を有するを以て、大ブリテン国は日本国が該利益を擁護増進せむが為正当且つ必要と認むる指導、監理及び保護の措置を韓国に於て執るの権利を承認す。但し該措置は常に列国の商工業に対する機会均等主義に反せざることを要す。
史料c
日本国政府は、韓国と他国との間に現存する条約の実行を全うするの任に当たり、韓国政府は今後日本国政府の仲介に依らずしで国際的性質を有する何等の条約若くは約束を為さざることを約す。
史料d
前記の目的〔極東における一般的平和の維持〕を達成するための最善の、かつ唯一の実際的方法は、日本、( ウ )、イギリス三国政府の間に充分な了解を形成することである。…韓国が外国と条約を締結するには日本の同意を要するものとする宗主権を日本が韓国に対しで樹立することは、今回の戦争の論理的帰結であり、かつ、東洋における永久の平和に直接寄与するであろう…
〔資料出所〕外務省編『日本外交文書』
1アメリカ 2イギリス
3韓国 4清国 5ドイツ
6フランス 7ロシア
(2)上の史料a~dについて、それぞれの条約・協約・協定の名称を、記述しなさい。ただし、数次にわたる条約・協約・協定の場合には、第何次かを特定すること。」
(答:問8b日朝修好条規、c日韓議定書、問12(1)ア7、イ4、ウ1、(2)aポーツマス条約、b第2次日英同盟(協約)、c第2次日韓協約、d桂・タフト協定)〉
〈2016明大・農
19世紀末に入ると、朝鮮をめぐる日本と清の対立が表面化するようになった。1882(明治15)年には壬午事変が起き、その後の朝鮮政界における開化派の分裂は、エ.甲申事変の原因となった。この事変により、朝鮮政界での日本の影響力は失われたが、その後も朝鮮をめぐる日清の対立は続いた。 1894(明治27)年には、日本・欧米による侵略や朝鮮王朝の封建支配に不満を持つ農民蜂起し、オ甲午農民戦争が起きた。朝鮮政府の依頼を受けて、清はその鎮圧のために朝鮮に出兵する一方で、日本も出兵を行い、この出兵はカ日清戦争の引き金となった。
問6 下線部エ甲申事変に関連して、甲申事変での中心人物としてもっとも適切なものを下記から一つ選べ。
A金玉均 B高宗 C大院君
D閔妃 E安重根
問7 下線部オ甲午農民戦争に関連して、甲午農民戦争を中心的に引き起こした農民が信仰した宗教の名前を漢字で記入せよ。」
(答:問6A、問7東学)〉
〈2013早大・文
朝鮮では1882年、日本の進出に対する不満などからc漢城(現ソウル)で反乱がおこり、1884年にはd急進的な改革をめざすグループのクーデター事件がおこった。
問4 下線部c漢城(現ソウル)で反乱がおこりに関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 親日策をとる政権に対する兵士の反乱がきっかけとなった。
イ 日本は軍隊を派遣し、反乱によって成立した政権を倒した。
ウ 事件後、首謀者の処罰、賠償金の支払いなどを内容とする条約が結ばれた。 エ 事件後、日本は公使館守備兵を駐留させる権利を手に入れた。
オ 事件後、清国は朝鮮に対する宗主権の強化をはかり、干渉を強めた。
問5 下線部d急進的な改革をめざすグループのクーデター事件がおこったに関する説明として誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 清仏戦争の時期をねらってクーデターを敢行することが計画された。
イ クーデターは日本公使・駐留日本軍と結んで企てられた。
ウ クーデター計画は事前に発覚し、清国の介入で未遂におわった。
エ 事件後、日本と朝鮮のあいだでは漢城条約が結ばれた。
オ 事件を機に日本国内では清国に対する強硬論がたかまった。
(答:問4イ×事件は1882年の壬午軍乱でそのような事実はない、※ウ〇済物浦条約で賠償金と公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権を認めさせた、問5ウ×)〉
〈2012明大・法学部
日朝修好条規が締結された後、1882(明治15)年に、日本への接近を強める閔氏一族に対して大院君を中心とした勢力が反乱をおこし、日本大使館も襲撃の対象となった。この事態に対し日本政府は厳重に抗議し、結果として、日朝間において、[ 9 ]が締結され、日本は朝鮮に対し、賠償金の支払いと公使館守備兵駐留権を認めさせた。その後、朝鮮における日本と清国との対立が深まるなか、日本にならい国内改革を行おうとする独立党が日本公使館の援助のもとにクーデタをおこしたが、清の干渉により失敗した。この事件によりさらに悪化した日清関係を打開するために、1885(明治18)年には、日清両国間で、両国軍の朝鮮撤退などを内容とする[天津条約]が結ばれた。また同年には、日朝両国間において、朝鮮による日本への損害賠償の支払いや謝罪使の派遣などを内容とする、[ 10 ]が結ばれた。
〔語群〕
A.乙巳保護条約 B.漢城条約
C.済物浦条約 D.下関条約
E.日華基本条約 F.天津条約
G.南京条約 H.日清互換条款
Ⅰ.日清修好条規 J.日清通商航海条約
K.北京条約 L.北京議定書」
(答:9C、10B)
[point]
1.日朝関係史後半は、閔妃(ミンビ)虐殺事件→ 日韓議定書→ 第1次日韓協約→ 第2次日韓協約→ハーグ密使事件→ 第3次日韓協約→ 軍隊解散→ 安重根による伊藤博文暗殺→ 韓国併合と推移。
[解説]
1.閔妃虐殺事件(1895)。日本公使三浦梧楼の指揮で、日本軍人・大陸浪人などが国王高宗の王妃閔妃を虐殺。
2.日韓議定書(1904.2)で、韓国内における日本軍の行動の自由を得た。
3.日本は第一次日韓協約(1904.8)で、日本政府推薦の財政および外交顧問をおくことを認めさせた。韓国財務顧問に大蔵省主税局長の目賀田種太郎を、外交顧問にアメリカ人(駐日公使館顧問のダーハム・W・スティーブンス)が就任させた。
4.日本は第二次日韓協約(乙巳(いっし)保護条約)(1905)で、外交権をうばい韓国統監府をおいた。
5.ハーグ密使事件(1907.6)。韓国皇帝高宗は、オランダのハーグでの第2回万国平和会議に密使を送り日本による不当支配を訴えた。
6.日本は第三次日韓協約(1907.7)で韓国皇帝高宗に譲位させ、軍隊を解散させ、内政権をうばった。
7.伊藤博文暗殺事件(1909)。義兵闘争指導者安重根が、伊藤博文をハルビン駅頭で銃殺した。
8.日本は韓国併合条約(1910)を強要し植民地化、漢城を京城と改名、日本の統治機関朝鮮総督府をおいた。初代総督は寺内正毅
9.韓国ソウル市の西大門刑務所記念館や天安市の独立紀念館を訪れるとよい(合格記念旅行で(笑))。驚いたり、反感をもったり、と反応はそれぞれだろう。いずれにしても日韓関係を考える良い機会になるだろう。
〈2017立命館大・全学部
次の史料を読み、c~dの問いに答えよ。なお、史料は読みやすく改めている箇所がある。
第一条 1韓国皇帝陛下ハ韓国全部ニ関スル一切ノ統治権ヲ完全且永久ニ日本国皇帝陛下ニ譲与ス
第二条 日本国皇帝陛下ハ前条ニ掲ケタル譲与ヲ受諾シ且全然2韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトヲ承諾ス
(『日本外交文書』)
問c 下線部1韓国皇帝陛下に関連して、このときの皇帝は誰か。もっとも適当な皇帝名を下から一つ選んで、記号で答えよ。
あ)純宗 い)粛宗
う)高宗 え)世宗
問d 下線部2韓国ヲ日本帝国ニ併合スルコトに関連して、この事態に至る以前の過程について説明した文章として、適当でないものを下から一つ選べ。
あ)第2次日韓協約において、日本は韓国の外交権を奪った。
い)韓国皇帝はオランダで行われた第2回万国平和会議に密使を送り、日本の干渉を非難した。
う)前統監の伊藤博文が、安重根によってハルピン駅前で暗殺された。
え)パゴダ公園で独立宣言書朗読集会が行われたのを契機に、朝鮮全土に大規模な大衆運動が展開された。」
(答:問cあ※1907年)7月20日、高宗がハーグ密使事件により日本の意を受けた李完用らに迫られて譲位したため、ただちに即位したが、親日派勢力の傀儡に過ぎなかった。、問dえ ※えは三一独立運動(1914年)下線部2は韓国併合(1910年))〉
〈2017早大・国際教養
次の文章はフランスの新聞『ル・タン』の記事(1910年8月27日付)の翻訳である(省略ないし一部変更したところがある)。これを読み、後の問に答えなさい。
8月22日以降、朝鮮の日本の領土への組入れは既定の事実となっている。朝鮮の日本による掌握はすでに進んでいたので、併合は驚くにはあたらない。いわば宿命的なことだった。それにこの小さな国の運命はこの数年ヨーロッパの列強にとってはあまり関心を引きつけるものではなくなっていた。a).ヨーロッパ列強は、介入を求める韓国皇帝の絶望的な呼びかけにも、耳を貸さないままだった。(中略)
f)閔妃が命を落とした1895年1O月の宮廷内の惨劇の後、[ A ]。1896年の露日協定と、これに続く1898年の露日合意は、下関条約がつくり上げた事態を解体した。これと並行して進められたロシアの遼東への進出、旅順の占拠(1898年)、1902年に約束されたg)満州からのロシア軍撤退の不履行、これらが新たな戦争の原因になった。
1904年2月、戦争は、まずh).朝鮮を直ちに日本の戦略領域に取り込むことから始まった。この戦争の結果は1905年にポーツマスで締結された条約によって公認され、その一条項で朝鮮における日本の独占的な支配権が明確に認められた。1905年11月に[ B ]侯爵が武力による威嚇を背景に韓国皇帝からもぎ取った条約はポーツマス条約で認められたこの優位をさらに発展させるものにほかならず、ごの優位はさらに1907年7月の[ C ]および今年7月の[ C ]によっても確認された。
問1 下線部aヨーロッパ列強は、介入を求める韓国皇帝の絶望的な呼びかけにも、耳を貸さないままだったに関する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア アメリカは桂・タフト協定で日本の韓国支配を承認していた。
イ イギリスは第2次日英同盟協約で日本の韓国支配を承認していた。
ウ ロシアはポーツマス講和条約で日本の韓国支配を承認していた。
エ 韓国皇帝は日本による保護国化の不当を訴えるためハーグ万国平和会議に密使を送った。
オ 日本は韓国皇帝を退位させ、第2次日韓協約を結んで韓国の内政権を掌握した。
問6 [ A ]には、下線部f閔妃が命を落とした1895年1O月の宮廷内の惨劇後の状況に関する記述が入る。該当する内容として正しいものはどれか。1つ選べ。
ア 朝鮮国王がロシア公使館に避難した。
イ 日本の朝鮮駐在公使が井上馨に代わった。
ウ 日本の朝鮮支配がいっそう強まった、
エ 大院君の権力が確立した。
ニ 事件に関与した三浦梧楼が重罪に処された。
問7 下線部g満州からのロシア軍撤退の不履行に関連して、ロシアが満州を占領するきっかけとなった出来事の名称を漢字4字で記入せよ。
問8 下線部h朝鮮を直ちに日本の戦略領域に取り込むことのために締結された外交文書名を漢字で記入せよ。
問9 [ B ]に該当する人物の姓名を漢字で記入せよ。伊藤博文
問10 [ C ]に該当する語句を漢字4字で記入せよ。
(答:問1オ×※第二次日韓協約→第三次日韓協約、問6エ、問7北清事変、問8日韓議定書、問9伊藤博文、問10.日露協約〉)
〈2016立教大・現心コミュ福観光営:「
2.2)日清戦争後、欧米列強は中国進出を本格化させた。朝鮮については、清に代わってロシアが影響力を強めた。1900年に3)義和団が北京の列国公使館を包囲する事件が起きた後、ロシアは満州を事実上占領した。このようなロシアの南下政策に対して、ロシアに満州経営の自由を与えるかわりに、日本が韓国に対する優越権を獲得しようとする( ニ )論の考えも政府内にあったが、最終的にイギリスと同盟してロシアと対決する日英同盟に政府の外交方針が確定し、1904年2月にロシアに宣戦布告をした。開戦後の1904年8月には、第1次日韓協約を結び、重要な外交案件は日木政府と事前協議をすることを朝鮮に認めさせた。1907年には( ホ )事件をきっかけに韓国皇帝を退位させた。こうした動きのなかで朝鮮半島では4)義兵運動が展開されるが、日本軍はこれに激しい弾圧を加え、1910年には日本は韓国を併合し、統治機関である5)朝鮮総督府を設置した。
問2.この日清戦争において大本営が設置されたのはどこか。次のa~dから1つ選べ。
a.京都 b.下関
c.対馬 d.広島
問3.この義和団がかかげたスローガンを漢字4字でしるせ。
問4.この義兵運動に参加し、伊藤博文を殺害した人物は誰か。その名をしるせ。
問5.この朝鮮総督府の初代総督は誰か。次のa~dから1つ選べ。
a.宇垣一成 b.寺内正毅
c.南次郎 d.山県有朋」
(答:2d、3扶清滅洋、4安重根、5b)〉
〈2014文教大・全学部:「
問9 下線部d)朝鮮ノ人民ノ奴隷状態について述べたA~Cの文について、その正誤を判断せよ。
A 第1次日韓協約の結果、韓国国内での日本軍の軍事行動の自由が認められた。
B ハーグ密使事件が契機となって、第3次日韓協約が締結された。
C 韓国併合条約が締結された後、植民地支配に反発して義兵運動が始まった。」
(答:A×日露戦争開始直後の日韓議定書の結果、B〇、C×1895年の閔妃虐殺のころから)〉