ベック式!難単語暗記法ブログ

質の高い暗記法、芸術的なゴロ合わせ、感動の記憶法をあなたに!抜群に効果的な実例満載!

仏教美術

2018-06-10 | Weblog

□古代134.における特筆技法 ◇B

[ゴロ]素質ないから/イチ本は/(よ)


像(そぞう)・乾像(かんしつぞう))(木造(いちぼくつくり)・波(ほんば)式)(木(よせぎ)造)


[句意](お前は)素質がないからイチローの技法はこなせない、イチローの本は止めとけ、という句。


[ポイント]

1.特徴ある技法は、天平が乾漆像塑像、弘仁貞観が一木造翻波式、国風が寄木造

[解説]

1.乾漆像は中国より伝わった技法。土で原形を作りその上に麻布を漆で固め、その後土を抜いて内部を空洞にして木枠を入れる脱乾漆(脱活乾漆)と、土と木で作った原形の上に麻布を漆で塗り固め木心を残す木芯乾漆の2つの技法がある。ほとんどの乾漆像は脱乾漆で、代表作は興福寺十大弟子像八部衆像など。わずかな木心乾漆の代表作としては、聖林寺(しょうりんじ)十一面観音像がある。

2.塑像は、心木(しんぼく)に荒縄などを巻き付け、その上に荒土(あらつち)の粘土を盛り上げ形を作る。表面に仕上土(しあげつち)として白土(しらつち)をかぶせて細部を仕上げ、最後に彩色する。代表作の東大寺法華堂執金剛神像は力強い憤怒(ふんぬ)の表現に迫力があり、華麗な彩色も残っている。なお唐招提寺鑑真和上像(乾漆像)は塑像のように見えるため正誤問題に頻出するので注意してください。


3.一木造(一木彫(いちぼくぼり))は、木像で頭部と胴体が一本の木材で造られているもの。肉が厚いので深く彫れる特徴がある。平安中期以降の寄木造(よせぎづくり)に対する語。


4.翻波式とは、平安初期の木造彫刻の衣のしわの表現様式。角味の大波と丸味の小波とを交互に繰り返し、波が翻るように表現する。翻波式の代表作は、室生寺弥勒堂釈迦如来像


5.寄木造は、平安中期以後の仏像彫刻法。2材以上の材を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、全体をまとめる技法。一木造に対する語。平安中期の仏師定朝(?~l057)は、寄木造の手法を駆使して道長の法成寺の仏像、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像をつくった。彼は優美な和様を完成、定朝様と呼ばれる。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

 東大寺の大仏は銅像の表面に鍍金を施した金銅像であるが、天平文化の時代には、( へ )や乾漆像の制作技法も発達した。( へ )は木を芯として粘土を塗り固めて造る像で、乾漆像は粘土などの原型の上に麻布を漆で幾重にも覆い固め、中の原型を抜き取って造る像である。」

(答:ヘ塑像)〉

〈2011文教大・全学部

問7 下の史料は下線部(e)の唐僧に関する伝記であるが、この史料に描かれている「大和上」について述べた文として正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。なお、史料は一部書き改めたところと省略したところがある。

 時に大和上揚州大明寺にあり、衆僧のために律を講ず。栄叡・普照師大明寺に至り、大和上の足下に頂礼し、具に本意を述べて日く、「(中略)願はくは和上東遊して化を興せ」と。大和上答へて日く、「(中略)誰かこの遠請に応へ、日本国に向ひて法を伝ふる者あるや」と。(中略)和上日く、「(中略)諸人去かざれば、我すなわち去くのみ」と

1.彼が来日した時の天皇は聖武天皇であった。
2.大仏開眼会では開眼導師を務めた。
3.唐招提寺には、塑像の技法で製作された「和上像」が現存する。
4.東大寺に戒壇院を設立し、最初の本格的な授戒を行った。

(答:4 ※1孝謙天皇の代、2開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当、3塑像のように見えるが乾漆像である)

〈2012明治大・政経:「
 奈良時代には平城京を中心に貴族文化が栄え、遺唐使によって唐の文化の影響を強く受け、国際交流のなかで国際色豊かな文化として花開いた。この時代の彫刻には、それまでの金銅製や木製の仏像のほかに、(ウ)粘土で塗り固めた塑像や漆で塗り固めた乾漆像がつくられた。戒律を伝えるため、苦難を乗り越えて渡日した唐の高僧の[ 1 ]は、日本の仏教の発展に寄与した。


問5 下線部(ウ)について、塑像作品はどれか。A~Eからーつ選べ。


 A興福寺八部衆像 B新薬師寺十二神将像

 C聖林寺十―面観音像 D唐招提寺鑑真和上像
 E東大寺法華堂不空羂索観音像

(答:1鑑真、ウB※ACDEが著名な乾漆像なので無名のBが答としてのこる)〉

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小右記

2018-06-10 | 入試問題+ゴロ合わせ

978年 藤原実資、『小右記』を執筆し始める。

苦難や所有 さぁねスケ。

978年 『小右記』 藤原実資


[ポイント]

1.摂関期の日記に『御堂関白記』と藤原実資の『小右記』がある。

[解説]

1.10世紀以降、朝廷での儀式・行事の比重が増大したこともあって、貴族はそのようすを漢字を用いて日記に詳細に記録した。

2.藤原道長(966~1027)の『御堂関白記』は、彼が33~56歳の日記。道長が建てた法成寺の別名が御堂(みどう)で、道長はここに住んだため、御堂は道長の異名ともなり「御堂関白」と呼ばれた。ここで自分の治世を自画自賛している。なお「御堂関白」こと道長は、関白に就いたことはない。正誤問題頻出につき注意してください。


3.藤原実資の『小右記』は、摂関家に批判的な記述で知られる。982~1032年の60余年にわたる。この中に、道長の「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」の歌が掲載されている。なお実資の家が小野宮家で、右大臣であったことから小右記という。


4.2つの日記は時期が並行しており、相互に対照することができるため、共に摂関期の根本史料である。なお『御堂関白記』は、実在の人物の自筆日記としては世界最古のものとして、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録(2013年)された。また同日記の記述や右へ傾く筆致などから、道長自身が晩年、糖尿病を始めとした病気に苦しんでいたことがうかがわれる。

〈2016立教大・済コミュ福観光

 10世紀には宮廷行事の整備が進み、その儀式の先例や作法を子孫に伝える必要が生じ、貴族は日記を書き記して残すようになった。こうした貴族の日記は、陰陽寮が作成した暦である( ロ )の余白部分に記されることが多く、10~11世紀の摂関政治を代表する貴族である藤原道長が記した『御堂関白記』も、その一例である。もちろん日記には、儀式の内容だけでなく、日々の感情が記される場合もある。たとえば( ハ )は『小右記』という自らの日記に、自分よりも先に大納言に昇進した( ニ )の悪口を記している。母親が『蜻蛉日記』の作者である( ニ )は、道長の異母兄にあたった。また『新古今和歌集』の撰者として著名な藤原定家も『( ホ )』という日記を記しており、この日記は12世紀から13世紀はじめ頃までの政治動向を知る重要な史料となっている。」

(答:ロ具注暦、ハ藤原実資、ニ藤原道綱、ホ明月記)〉

〈2015法大・文人問関係経営:「

問5 下線部c御堂関白に関して、この名は道長が建立したある寺院に由来する。その寺院の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。

 ア法成寺 イ法性寺 ウ醍醐寺
 エ神護寺 オ石山寺

(答:ア)〉

〈2014早大・教育

(正誤判定)
 オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた」

(答:×藤原道長は関白には就任していない)。

〈2014立教大・現代心理コミュ福祉経営:「
 『( ホ )』という日記を記したことでも知られる藤原道長が政権を握ったことに象徴されるように、10世紀後半から11世紀頃の政治は、天皇の外戚として摂政・関白を歴任する摂関家が主導した。」

(答:御堂関白記)〉

〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポ一つウェルネス)・観光(観光)

 2)藤原北家は、9世紀から10世紀を通して他氏排斥を進め、その勢力を不動のものとした。藤原道長が「此世をば 我世とぞ思ふ 望月の かけたる事も 無と思へば」と詠んだのは、土御門殿(つちみかどどの)という屋敷であったが、この屋敷はいったん火災に遭い、上記の歌が詠まれる数ヶ月前に再建されたところであった。再建にあたっては、( ハ )の日記である『小右記』に記されたように、「土御門殿の( ニ )一間を以て、諸の受領に配し営ましむと云々。いまだ聞かざるの事なり。造作の過差、往跡(おうせき)に万倍す」(原漢文)と受領たちが競って造営を分担し、3)源頼光が家中の家具、調度を献上したことで知られている。」

問2.藤原北家に関する出来事について、もっとも古いいものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.阿衡の紛議-承和の変-安和の変-応天門の変
 b.安和の変-阿衡の紛議-応天門の変-承和の変
 c.応天門の変-安和の変-承和の変-阿衡の紛議
 d.承和の変-応天門の変-阿衡の紛議-安和の変

問3.この人物(源頼光)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した
 b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
 c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
 d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。」

(答:ハ藤原実資、ニ寝殿、問2d、問3a)〉

〈2012同志社大・文経済:「
 下線部cの道長の子孫のことを、道長の創建した寺の阿弥陀堂の通称に因んで「[   ]流」と呼ぶようになる。自筆本が残る道長の日記も『[   ]関白記』と称する。共通の語を漢字で記せ。

(答:御堂)〉

〈2012立命館大学・法文経済経営など:「
 下線部8藤原道長に関連して、藤原道長の日記を何というか。」

(答:御堂関白記)

〈2012早大・文化構想

 藤原実資は長年にわたって[ B ]と呼ばれる日記を書き続け、摂関期の重要な史料になっている」

問6、空欄Bに該当する語句を記述解答欄紙の解答欄に漢字で記入しなさい。

(答:小右記)〉

〈2012中大・文:「
 10世紀以降盛んになる4貴族の日記は、先例ともなる公式の行事を自身のため、さらには子孫に伝えるために記録に残すという性格が強いもので、藤原実資の日記『[ E ]』は特に有名である。」

問8 下線部4について、貴族の日記は、あらかじめ季節の日の吉凶などが書き込まれている暦の余白を利用して記されているものが多い。その暦の名称を記しなさい。

問9 空欄Eに入る日記の名称を記しなさい。」

(答:問8具注暦、問9小右記)〉

後世に残されたもののうち、三条西家所蔵本には『小右記』、伏見宮家所蔵本には『野府記』という書名が付けられており、近世以後の写本・刊本はそのいずれかの系統に依拠するところが大きかったために、両方の書名が並存した。更に祖父実頼の『水心記』(『清慎公記』)を継ぐという意味で『続水心記』という呼称も用いられるなど、異名が多い[1]。もっとも、これらは全て実資の没後の命名であり、実資自身は『暦記』と呼称していた。これは原本が具注暦の余白に書かれたことに由来すると考えられ、当時の貴族の日記に広く見られる呼び名である。なお、その原本は今日伝わっていない。 天元元年(978年)頃から書かれたとされるが、現存するのは天元5年(982年)~長元5年(1032年)の部分のみである。

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三蹟

2018-06-08 | Weblog

「三蹟」

唐風去り行き三蹟に。

小野道風 藤原佐里 藤原行成



[ポイント]

1.三蹟とは小野道風藤原佐理藤原行成の3人をいう。

[解説]

1.いずれも藤原期(国風文化)を代表する(唐風ではない)優美な丸みを帯びた和様といわれる書風。

2.小野道風(894~966)は、学者小野篁(たかむら)の孫。代表作は『秋萩帖(あきはぎじょう)』。室町時代の青蓮院流(しょうれんいんりゅう)(江戸時代の御家流(おいえりゅう))へ影響を与えた。


3.藤原佐理(944~998)は、実頼の孫。大宰府への赴任途中から甥に宛てて書いた『離洛帖(りらくじょう)』が代表作。


4.藤原行成(972~1027)は、和様書道の流派の一つ世尊寺流(せそんじりゅう)の祖。


〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

下線部8の密教に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

a.これを天台宗に導入した円珍の門流はのちに寺門派と呼ばれた
b.これを天台宗に導入した円仁の門流はのちに山門派と呼ばれた
c.これを日本に伝えた空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三蹟と呼ばれた
d.これを日本に伝えた空海は、庶民に門戸を開いた綜芸種智院を創設した

(答:c ※三筆の誤り)〉

〈2013学習院大学・経済:「
 弘仁年間に在位していた(3)〔イ桓武天皇 ロ平城天皇 ハ嵯峻天皇 ニ淳和天皇 ホ仁明天皇〕は、最初の勅撰漢詩文集である(5)〔イ『懐風藻』 ロ『経国集』 ハ『性霊集』 ニ『文華秀麗集』 ホ『凌雲集』〕の編纂を命じて中国風の文芸を奨励した。また自身も空海や(6)〔イ小野道風 ロ最澄 ハ橘逸勢 ニ藤原行成 ホ藤原佐埋〕とともに三筆に数えられ、唐様の書に練達していることで著名であった。こうした文化面での唐風全盛期の時代に。法制の上でも唐で行われているのと同様に。律・令・格・式のそれぞれをすべて備えるというスタイルを達成したのであった。」

(答:3ハ、5ホ、6ハ)〉

〈2011文教大・全学部

問8下線部(f)橘逸勢に関連して、この人物とともに唐風書道の名手として三筆と並び称された人物の組合せとして正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

 1.小野道風・空海   2.小野道風・藤原行成

 3.嵯峨天皇・藤原行成 4.嵯峨天皇・空海

(答:4)〉

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640年 〈孔穎達、『五経正義』完成〉★★

2018-06-08 | 『新世界史頻出年代暗記』

 

●唐の文化

老人お経 供養出す。

640年 『五経正義』  訓詁学     孔穎達 

   

 

 唐の太宗に仕えた­孔穎達は儒教の経典の解釈を統一せよとの太宗の命で『五経正義』を編集、訓詁学を大成した。『五経正義』は、科挙のテキストとして解釈の統一に役だった。

 

 

〈訓詁学の発達〉 後漢の儒学者鄭玄(じょうげん)は党錮の禁ののち著

述に専念し、訓詁学の確立に努め、五経に注釈を加えた。

こちらも「上下運動 訓詁学。」と覚えよう。

     鄭玄 党錮の禁 訓詁学 後漢

 

 

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財政

2018-06-06 | Weblog

 

  • 昭和時代(昭和天皇 若槻礼次郎内閣)

 1931(昭和6)年 〈金輸出再禁止(管理通貨制度)〉

Gold export is banned again.

行(い)く再禁止 これ管理。

          1931年 禁輸出再禁止 高橋是清 管理通貨制度    

 

1929年にアメリカで始まった世界恐慌は、日本の空前の輸出不振をもたらし、金の流出が激化。1931年、犬養毅内閣の蔵相高橋是清は直ちに金輸出再禁止を断行。金兌換を停止した日本経済は管理通貨制度へ移行し、円安を利用して輸出をのばしていった。


[point]

1.浜口若槻両内閣の蔵相井上準之助は、(緊縮財政産業合理化を行ったうえ)、1931年、金解禁を断行し、重要産業統制法を制定した。

[解説]
1.浜口(1929.7~31.4)・第2次若槻(1931.4~.12)両内閣の蔵相井上準之助(1869~1932)による財政政策を井上財政(任1929.7~1931.12)という。

2.当時の日本経済は1920年からの戦後恐慌1923年からの震災恐慌1927年からの金融恐慌とつづいた不況が癒(い)えない慢性不況下にあった。


3.戦争中(この場合第一次世界大戦)は、日本を含め欧米各国は‘お宝’である金輸出を禁止した(これは国際常識)。大戦後、欧米各国は次々に金輸出を解禁し、金本位制に戻っていた(つまり平常への復帰)。しかし、日本はこの不況の間、金保有量を大きくオーバーして通貨を発行していた(通貨膨張=インフレ状態)。金本位制(金の保有量に見合った分しか貨幣を発行できない)という先進国ルールに復帰しなければ、国際的な通商・金融ルートに乗れないし、円の為替相場は非常に不安定であった。いわば金本位制の世界市場にパイプが繋がっていない状態である。どうすれば金本位制に復帰できるかを模索することになる。


4.将来の繁栄を期して、不況覚悟(中小企業や国民生活に痛手の可能性)の産業合理化(国際競争力の強い産業や企業だけを強くする)を推進し、政府予算を大幅にカットするなどして通貨供給量を減らす(通貨縮小=デフレ)緊縮財政政策に転換した(物価は下がるがそれ以上に国内市場が狭まり大不況になる)。そして間の悪いことに1929年10月に世界恐慌が始まっていたが、資本主義経済によくある恐慌に過ぎないと過小評価したまま(当時は世界の誰もこれが未曾有の世界恐慌になるとは予想できなかった)、1931年1月金解禁を断行した。しかも、旧平価(円高)ですなわち(当時の実勢レート(100円=46.46ドル)よりも円高の旧平価(金輸出禁止をした1917年(大戦中)のレート:100円=49.85ドル)で解禁してしまった。


5.しかし、折からの世界恐慌の大波をまともに受けることとなり、日本の国内市場は縮小し、輸出産業は円高もあって国際競争力を失い不振に陥り、かえって外国製品が輸入され、その代金として支払われた(きん)が短期間に大量流出することになった。これにより企業の倒産が相次ぎ、大量の失業者が生まれたほか、緊縮財政により農産物の価格も下落し農業恐慌も同時に発生した。日本経済は甚大な打撃を受けたのである。これに自己企業集団のことしか考えない三井財閥が金輸出再禁止(そうなれば円相場が下落しドルなど外貨が急騰するだろう)を見越して「円売りドル買い」を行う為替差益稼ぎがこの状況に拍車をかけた(三井の「ドル買い事件」)。


6.浜口内閣はこの状態を打開するためさらなる緊縮財政を推進し、1931年6月には重要産業統制法を公布して経済界への政治介入を行った(焼け石に水)。これが産業統制やカルテル結成によって軍需産業化を助長することになり、1930年代後半の統制経済への道を拓いていく。政府(政党内閣)と大企業(財閥)が強力に結びついて一国の政治・経済を支配するという国家独占資本が進行がはじまった。そしてこの悪い状況を政党政治が作ったとして、国民は大正デモクラシー以来の「憲政の常道」とされた政党政治への不信感を強め、‘劇薬’である軍部への期待が一気に高まっていった。


7.井上準之助は、浜口雄幸首相が凶弾に倒れた2年後に、血盟団により暗殺された。


2017京都大・前期:「

問15 下線部k世界恐慌に関して、当時蔵相として金解禁政策を主導していた政治家は誰か。」

(答:井上準之助)〉


2017大学入試センター・日本史A:「

第5問 昭和期の経済・社会に関する次の文章Aを読み、下の問いに答えよ。(史料は、一部省略したり、書き改めたりしたところもある。)

A 資本主義の発達につれて、企業に雇われて働き、賃金収入で生計を立てる人々が増えていった。このため経済・社会の仕組みに対する人々の関心が高まるとともに、経済を安定的に運営し、発展させることが政治の重要な役割の一つとなっていった。


 経済政策を実施する際に、国民の理解を求めることも行われた。たとえばb浜口雄幸内閣期には、首相や大蔵大臣が、文章の発表や遊説を通して経済政策への協力を訴えた


 1930年代後半以降、政府は軍需生産へ資源を重点的に配分することをめざし、民間の自由な経済活動を取り締まる政策を次々と打ち出した。こうした政府による経済への介入政策は、敗戦後も復興と国民生活の安定をはかるためにしばらく続けられた。このように戦時期から占領期にかけては、経済活動への政府による介入が積極的に行われた。


問2 下線部bに関連して、次の史料は、この内閣の大蔵大臣が経済政策を説明した文章の一部である。この政策と史料に関して述べた下の文a~dについて、正しいものの組合せを、下の①~④のうちから一つ選べ。


史料

 真の景気といふものはどうしても金解禁を断行した後でなければやつて来ない。(中略)政府は中央及び地方財政の徹底的緊縮を断行し併(あわ)せて公債の大整理を行ふべく、着々これが実行にとりかかつてゐるのだ。(中略)国民諸君よ、暫く政府と共に今日の不景気に堪へ忍んでもらひたい。金解禁の断行は日本をして今日の借金生活から解放してくれるであらうから。 (『金解禁-全日本に叫ぶ-』)
 
 a.金解禁とは、金の輸出を解禁し、金本位制から離脱することである。

 b.金解禁とは、金の輸出を解禁し、金本位制に復帰することである。
 c.筆者は、金解禁を行うために公債の増発が必要だと述べている。
 d.筆者は、金解禁を行うために財政支出の抑制が必要だと述べている。

 ①a・c ②a・d

 ③b・c ④b・d」

(答:④ ※史料の筆者は井上準之助蔵相、a×金本位制から「離脱」→金本位制に「復帰」、b〇日本は1930年、蔵相井上準之助の時に金本位制に復帰した、c×史料文中にとあるように、「公債の増発が必要」→「公債の大整理を行ふべく」、d〇史料文中に「財政の徹底的緊縮を断行し」とある)〉

    
2017関西学院大・全学部

問6.下線部g旧立憲政友会系の議員を中心に日本自由党が、また旧立憲民政党系を中心に日本進歩党が結成されたについて、立憲政友会及び立憲民政党に関連する記述として誤っているものを下記より選びなさい。

 ア.第3次桂太郎内閣は、立憲政友会の犬養毅・尾崎行雄ら野党勢力や商工業者などによって展開された第一次護憲運動により、2ヶ月足らずで退陣した。

 イ.退役した陸軍の長老で長州閥につながる田中義一は立憲政友会に総裁として迎えられ、若槻礼次郎内閣の退陣を受けて後継内閣を組織した。
 ウ.立憲民政党は、立憲政友会から分離して結成された政友本党と憲政会が合同して結党された。
 エ.立憲民政党の浜口雄幸内閣は、井上準之助を蔵相に起用し、産業合理化・緊縮財政につとめて物価引き下げを図り、金解禁を断行した。」

(答:ア×、犬養毅は立憲国民党)〉


2016上智大・神外(英)総人(教・心)

 その翌年(注:1932年)の2~3月には右翼の( サ )が率いる血盟団の団員が前蔵相の( シ )、三井合名会社理事長の( ス )を相次いで暗殺する事件を起こし、さらに5月には海軍の青年将校の一団が首相官邸に乱入し、( ウ )を暗殺するという「5 ・15事件」を起こした。

問11 空欄( サ )に入る人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選べ。


 ①北一輝  ②橘孝三郎
 ③井上日召 ④内田良平


問12 空欄( シ )に入る人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選べ。


 ①井上準之助 ②高橋是清
 ③片岡直温  ④三土忠造


問13 空欄( ス )に入る人物は誰か。もっとも適切な人名を、次から1つ選べ。


 ①小林一三 ②池田成彬
 ③益田孝  ④団琢磨」


(答:問11③、問12①、問13④)〉


2016明大・経営:「

問12 下線部(シ)の井上準之助について、正しい記述をA~Dの中から一つ選べ。

 A 井上毅の娘婿であった。

 B 日本銀行総裁をつとめた。
 C 外務大臣をつとめた。
 D 五・一五事件で暗殺された。」

(答:B〇 ※D×血盟団事件で暗殺)〉


2016立教大・済コミュ福観光

 1929年のニューヨークでの株価暴落を契機とした世界恐慌、さらに1930年に8浜口雄幸内閣で実施された金解禁により。日本経済は9深刻な恐慌に陥った。この未曾有の不況下で、傘下の三井物産や三井銀行が円相場の下落を見込んで、円売り・ドル買いをしているとして、三井財閥は、世論から大きな非難を浴びた。財閥批判が高まるなかで、1932年、10血盟団員に( ニ )が暗殺され、三井財閥においても、社会事業への寄付や株式公開など、「財閥の転向」と呼ばれる様々な改革が行われた。

問9.1930年代のこれに関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。


 a.議会での井上準之助蔵相の失言により、銀行の取り付け騒ぎが生じた

 b.鈴木商店が倒産し、台湾銀行が休業に追い込まれた
 c.重要産業統制法が公布され、指定産業でのカルテル結成をうながした
 d.対米輸出が増加し、生糸・繭の価格が暴騰した

問10.これを率いた人物は誰か。その名をしるせ。」


(答:ニ井上準之助、問9c、問10井上日召)〉


2016明大・経営

問14 浜口雄幸内閣の政策としてふさわしいものをA~Dの中から一つ選べ。

 Aモラトリアムの発令

 B重要産業統制法の制定
 C台湾銀行の救済
 D金輸出再禁止」

(答:B)〉

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六歌仙

2018-06-04 | Weblog

905年 『古今和歌集』成立。

暮れ古今集 紀歌い。

905年『古今和歌集』紀貫之醍醐天皇

六歌仙

大小遍喜 文屋在り。

大伴黒主 小野小町 (僧正)遍昭 喜撰法師 文屋康秀 在原業平

[ポイント]
1.六歌仙は、大友黒主小野小町文屋康秀僧正遍昭在原業平・喜撰法師の6人である。

[解説]

1.古今和歌は三期に区分され、第一期は「よみびと知らず」の時代。第二期は「六歌仙」の時代(平安前期)で六歌仙とは和歌の名手6人の総称。第三期は「撰者」の時代。

2.在原業平(825~880)は、平城天皇の皇子阿保親王の子。情熱的な歌を作る。『伊勢物語』は在原業平を主人公とした歌物語である。古今集に30首収録されている。「千早ぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」の歌が百人一首にとられている。


3.遍昭(816~890)は、桓武天皇の孫にあたる。仁明天皇の蔵人頭、のち出家、僧正となる。古今集に20首収録されている。そのうちの「天つかぜ雲の通ひ路ふきとぢよをとめの姿しばしとどめむ」の歌が百人一首にとられている。


4.喜撰(生没年不詳)は、宇治に隠棲した僧。その作として確かな歌は『古今集』「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」の1首のみ。


5.小野小町(生没年不詳)は、履歴不明だが、仁明天皇の朝廷に仕えたと推測される。情熱的な歌が多く、美貌の歌人とされる。古今集に18首収録されている。そのうちの「花の色はうつりにけりないたづらに我が身世にふるながめせしまに」の歌が百人一首にとられている。

6.文屋康秀(生没年不詳)は、下級官職を歴任。言葉の遊戯になる歌を作る。古今集に6首収録されている。代表歌は「春の日の光にあたる我なれど頭(かしら)の雪となるぞわびしき」。

7.大友黒主(生没年不詳)は、地方豪族というが詳細は不明。古今集に4首収録されている。「大伴」とも書く。

〈2004早大・人間科学(国語問題)

問14 傍線部A誘ふ水のあはれむよすがにまかせつつ都をさすらひ出でてはは『古今和歌集』雑下の「わびぬれば身を浮き草の根を絶えて誘ふ水あらばいなむとぞ思ふ」という歌によっている。この歌の作者で六歌仙の一人である女流歌人は誰か。次のイ~ホより選べ。」

 イ額田王 ロ紫式部 ハ和泉式部

 ニ小野小町 ホ式子内親王

(答:ニ)〉

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紀貫之

2018-06-03 | Weblog

 

 

●平安時代(醍醐天皇)

 905(延喜5)年 〈『古今和歌集』の成立〉★★

Kokin wakashu, the first imperial anthology of waka verse, is completed.

暮れ古今集 紀歌い。

 905年  『古今和歌集』   紀貫之  醍醐天皇 

 

905年、醍醐天皇の命により、紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑とともに、わが国最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を編纂。優れた歌論でもある『仮名序』を記した。五・七・五・七・七の短歌が大部分。歌風は優美・繊細で技巧が目立つ。いわゆる古今調として、以後の勅撰集の理想となった。

 

   

〈八大集〉 『古今和歌集』以後、『後撰』『拾遺』に至る三大集。

さらに『後拾遺』『金葉』『詩花』『千載』『新古今』と続く八勅撰和歌集が八代集と呼ばれる。「この五千円、拾遺の後、貯金しません、新子君」と覚えよう。尚、最後の『新古今和歌集』の成立は1205年。即ち、『古今和歌集』成立のちょうど300年後であることを意識すれば、覚え易い。

 

 



[ポイント]
1.紀貫之は、「古今集仮名序」、『土佐日記』(935年頃)の筆者である。

[解説]
1.『土佐日記』(935年頃)は、最初の平かな日記で作者は紀貫之。まず、和歌がさかんになり、905(延喜5)、紀貫之らによって最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編集された。その繊細で技巧的な歌風は、古今調とよばれて長く和歌の模範とされた。

2.貴族は公式の場では従来通り漢字だけで文章をしるしたが、その文章は純粋な漢文とはかなりへだたった和風のものになった。一方、かなは和歌をのぞいて公式には用いられなかったが、日常生活では広く用いられるようになり、それに応じてすぐれたかな文学の作品がつぎつぎに著された。

3.かなの日記は、紀貫之(男性)の『土佐日記』を最初とするが、宮廷に仕える女性の手になるものが多く、こまやかな感情がこめられている。

〈2014近大・法

 平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まり、嵯峨天皇の治世である弘仁年問には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。ところが、9世紀後半から10世紀になると大陸との関係も変化し、10世紀から11世紀には日本の風土や日本人の嗜好にかなった優雅な国風文化が生まれた。とくにかな文学が発達し、e醍醐天皇の時代には最初の勅撰和歌集である『[ 4 ]』が編纂された。その編者のひとりである[ 5 ]は、『土佐日記』の著者としても有名である。

問4 空欄[ 4 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.経国集 2.古今和歌集 3.和漢朗詠集 4.新古今和歌集

問5 空欄[ 5 ]に入れる人名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.小野篁 2.在原業平 3.菅原道真 4.紀貫之


(答:4→2、5→4)

〈2015立命館大・全学部

〔1〕「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」というのは、有名な『古今和歌集』の仮名序の冒頭の部分である。実は『古今和歌集』にはもう一つ、漢文による真名序があるのだが、この二つの序の存在が、漢字から仮名文字が生まれ、この時代に新しい文化が生み出されたことをよくあらわしている。また仮名はすぐれた女性の文学を生み出す原動力になったが、それは世界的にもめずらしい。この点について『古今和歌集』の編者でもあった[ A ]は、「をとこもすなる[ B ]といふものを、をむなもしてみんとてするなり」という印象的な文章を記した。和歌も貴族社会に広がり、ときの権力者たちもしばしばそれを娯楽として楽しんだ。「此の世をば我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」という[ C ]の有名な歌もそうした座興の場で詠まれたものである。       

(b)空欄[ A ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。
(c)空欄[ B ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(d)空欄[ C ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。

(答:A紀貫之、B日記、C藤原道長)〉

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総合・テーマ史 ★★ 多神教と一神教 

2018-06-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

2008 中央大・文

【問】つぎの文章を読み,下線部分(1)~(14)について下記の〔設問〕の答えを正しく記入しなさい。

 古代末期、オリエント・地中海の信仰の世界においては、(1)多神教から一神教への流れがみられ、さらに、その過程にローマ帝国とイランのササン朝とのせめぎ合いが深く関わることになった。
 ササン朝からみてゆくことにしよう。西暦226年、パルティアを打ち破って建国された(2)ササン朝は、(3)古代よりイランで信仰されてきたゾロアスター教を国教と定めた。その(4)善悪二元論を柱とする教義は、キリスト教の展開にも影響をあたえたとされる。また、ゾロアスター教は(5)遠く中国の地にも伝わった。ササン朝はしばしばローマ帝国と戦火を交え、 260年のエデッサの戦いでは、(6).ローマ帝国の軍人皇帝のひとりを捕虜とした
 (7).ローマ帝国の軍人皇帝時代に終止符を打った皇帝は、キリスト教徒に対して最後の大弾圧を実行したことでも知られる。しかし、同皇帝の退位に続く内乱を勝ち抜いたコンスタンティヌス帝は、歴代皇帝の対キリスト教政策を大転換し、(8)それを公認したのであった
 当時のキリスト教会においては、イエスの神学的な位置づけがなお定まっておらず、それをめぐって激しい論争がおきた。325年のニケーア公会議においては、論争に(9).敗れた一派は異端の烙印をおされ、他方、(10)勝利した一派の説はその後、正統教義の根幹となる。さらに、431年のエフェソス公会議でも(11)イエスの神性と人性との分離を唱える一派が異端と断ぜられたのであった。しかしながら、同派の教えはササン朝のイランを経由して、(12)中国にまで伝播した
 やがて、(13).同じように唯一神を信仰するイヌラーム教が台頭したが、そのイスラーム教もまた(14)内部分裂を体験しなければならなかったのである。

〔設問〕
(1)
古代ギリシアの神々は一般になんと呼ばれるか。
(2)
その建国の祖の名前はなんというか。
(3)
ササン朝の時代に編纂されたその教典はなんというか。
(4)
そのうちの善(光明)の神はなんと呼ばれたか。
(5)
中国ではなんと呼ばれたか。漢字で答えなさい。
(6)
その皇帝の名前はなんというか。
(7)
その皇帝の名前はなんというか。
(8)
その勅令は一般になんと呼ばれるか。
(9)
この派は一般になんと呼ばれるか。
(10)
この派は一般になんと呼ばれるか。
(11)
この派は一般になんと呼ばれるか。
(12)
中国ではなんと呼ばれたか。漢字で答えなさい。
(13)
ムハンマドは、それまでの多神教の神殿を新たにイスラーム教の聖殿と定めた。それはなんも呼ばれるか。
(14)
ウマイヤ朝の時代に、後にイスラーム教が大きく分けて二つの派に分かれるその発端がみられた。
 (a)
その多数派はなんと呼ばれるか。
 (b)
その少数派はなんと呼ばれるか。
 

解 答 

オリンポス12神 アルデシール1世 アヴェスター アフラ=マズダ 祅  教
10
ウァレリアヌス帝 ディオクレティアヌス帝 ミラノ勅令 アリウス派 アタナシウス派
11 12 13 14(a) 14(b)
ネストリウス派 景  教 カーバ神殿 スンナ派 シーア派

※別解:(5): 拝火教     (14)(a): スンニー派   

2.

226年 ササン朝ペルシア成立。

包むパルティア さぁ来るぞ。

   226年 パルティアを滅ぼす アルダシール1世 ササン朝ペルシア クテシフォン ゾロアスター教

 

313年〈ミラノ勅令(キリスト教の公認)〉「キリスト教はみんなの(ミラノ)財産です」と公認。        

さぁいざ公認 皆の神。

313年 コンスタンティヌスミラノ勅令

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浄土教と末法思想

2018-06-02 | Weblog

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

●平安時代(花山天皇)

 985年(寛和元年) 〈源信、『往生要集』完成〉★★

Ojoyoshu is a Buddhism book compiled in 985 by Genshin, a Sozu in Eshinin Temple at Yokawa on Mt. Hiei, in which he collected important passages relating to gokuraku ojo, extracting from many sources such as Buddhist scriptures and instructions in terms of the Jodo Sect.

苦は公言し 往生よ。

985年     源信    『往生要集』  浄土教

 

985、横川の恵心院に隠遁していた源信浄土教の観点より、多くの仏教経典論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書、『往生要集』を著して死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



[point]

1.浄土教空也などが広め、源信が『往生要集』で体系化し、慶滋保胤往生伝で知られる。

[解説]

1.浄土教(浄土信仰)は、阿弥陀仏を信仰し、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、死後は極楽(ごくらく)に往生する、すなわち天国に行くことができると説く仏教の教え。

2.空也(903~972)は、(こうや
)とも読む。諸国を遊行し念仏を説き、10C中頃、京都市中で浄土教を広めた。市聖(いちのひじり)ともいう。なお空也は国風文化の人だが、空也上人像(六波羅蜜寺)は鎌倉文化を代表する彫刻なので、正誤問題には気をつけてください。

3.源信(942~1017)は、天台宗の僧で『往生要集』を著し、浄土教体系化した。恵心僧都(えしんそうず)とも称される。なお同書は中国()でも高く評価された。


4.末法(まっぽう)思想は、仏陀(釈迦)の死後1000年間は仏法が栄えて世に幸福がもたらされる(正法)。その後の1000年間は仏法が衰える(像法)。さらに1000年を経て末法の世となるという予言的思想。1052年が末法初年と考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。

5.往生伝は、極楽往生したとされる人々の体験集で、末法思想の流行に伴いもてはやされた。慶滋保胤(?~1002)の『日本往生極楽記(にほんおうじょうごくらくき)』がその代表作。

2014早大・国際教養

6 下線郎f造寺・造物・写経等が盛んになりに関連する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
  
 ア 豊後国の豪族は富貴寺大堂を建てた。
 イ 定朝は寄木造による和様の仏像様式を大成した。
 ウ 藤原頼通は宇治に平等院阿弥陀堂を建てた。
 エ 藤原清衡は平泉に中尊寺阿弥陀堂を建てた。
 オ 源信は『往生要集』を書き、醍醐寺を建てた。

(答:オ ※醍醐寺の創建は理源大師聖宝である。

2014早大・教育:「
問6 下線部e「濁世末代」から「往生極楽」するためには、念仏などの実践がもっとも有効な方法であるいう教えに関連する説明で正しいものはどれか。

 ア 慶滋保胤は『日本往生極楽記』を著して、これから念仏往生しそうな人々を記録にとどめた

 イ 比叡山の源信が著した『往生要集』は、宋に送られて広まったと言われている。
 ウ 六波羅蜜寺に伝わる空也像は、笏と太鼓をもって口から「南無阿弥陀仏」を唱えている立ち姿である
 エ 釈尊の死後、正法・中法の世についで末法の世がおとずれるという思想も浄土信仰を加速した
 オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた

(答:イ〇 ※ア×『日本往生極楽記』は、これから念仏往生しそうな人々ではなく、往生を遂げた人々の伝記を集めたものである、ウ×六波羅蜜寺に伝わる空也像は笏と太鼓ではなく、胸に下げた太鼓を鳴らす撞木を右手に、左手には鹿の角をさした杖をもっている、エ×正法・像法・末法の順である、オ×藤原道長は関白には就任していない。

2012法政大・法営文

問6.下線部A「末法思想」について、80字以内で説明せよ。」

〔解答例〕釈迦の死後、正法・像法を経て末法という乱世に突入するという仏教の予言思想。1052年に末法に入ると考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。(67字)〉

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円仁

2018-06-02 | 入試問題+ゴロ合わせ

847年(承和14年)12月 円仁、『入唐求法巡礼行記』成る。

橋成す入唐 求法巡。

847年 円仁 『入唐求法巡礼行記』



[ポイント]

1.円仁は祖とする比叡山延暦寺に拠る山門派の祖で、その著書に『入唐求法巡礼行記』がある。

[解説]

1.真言宗の密教を東密とよび、最澄が創始した天台宗の密教を台密とよんでいる。その後台密は弟子の代に本格化し、円仁の派と円珍の派に分かれる。

2.10世紀末以降、円仁の門流は延暦寺に拠(よ)って山門派とよばれ、円珍の門流は園城寺(三井寺)に拠って寺門派とよばれ、両者は対立した。

3.円仁(794~864)は、最澄の弟子で、唐に留学(838~847)し天台教学・密教を学ぶ。諡(おくりな)は慈覚大師(じかくだいし)という。

4.円仁の著した『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)』はその際の旅行記で、史料が少ない唐末を知る上で世界史上貴重な史料である。

〈2015立命館・全学部

(h)下線部8. 高い力を有する僧はこれら有力者との個人的な関係を構築したに関連して、中国に留学し、帰朝して第3世天台座主となり、ときの天皇に灌頂を授けた僧は誰か。漢字2文字で答えよ。

(答:円仁※清和天皇に灌頂を授けた)

〈2012立命館大学・法文経済経営など

(b)下線部2念仏によって阿弥陀浄土への往生を願う浄土教に関連して、浄土教が日本に本格的に定着するのは、838年に入唐して天台教学や密教を学び五台山を巡礼して847年に帰国した天台僧の影響も介在している。この僧の名前を漢字2字で答えよ。

(答:円仁)〉 

〈2011文教大・全学部:「下線部(g)円仁に関連する天台宗内部の派閥について述べた文として正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。

(1) 円仁の門派は山門派と呼ばれ、延暦寺に拠点を置き続けた。
(2) 円仁の門派は寺門派と呼ばれ、園城寺に拠点を置いた。
(3) 円珍の門派は寺門派と呼ばれ、延暦寺に拠点を置き続けた。
(4) 円珍の門派は山門派と呼ばれ、園城寺に拠点を置いた。

(答:1 ※2円仁は山門派、3延暦寺は山門派、4園城寺は寺門派)

 

三人珍事を。

山門派 円仁 円珍(えんちん)・寺門(じもん)派 園城寺(おんじょうじ)


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国風文化

2018-06-02 | Weblog

豊饒小銃 苗圃アーミー。

法成寺(ほうじょうじ))(平凰堂と鳳凰堂阿弥陀如来像)((こうやさん)聖衆(しようじゅ)来迎図(らいごうず))(国風文化)

[ポイント]
1.国風文化を代表するのは、建築は法成寺平等院鳳凰堂、彫刻は平等院鳳凰堂阿弥陀如来像、絵画は高野山聖衆来迎図

[解説]

1.法成寺(現存せず)は、藤原道長が京都鴨川に建てた天台宗の寺。平安時代を代表する大寺だったが、たびたび火災にあい、南北朝時代に廃絶された。法成寺の別名が御堂(みどう)で、その阿弥陀堂が無量寿院(むりょうじゅいん)。道長はこの無量寿院に住んだため、御堂は道長の異名ともなり「御堂殿」「御堂関白(ただし道長は関白に就任していないので正誤問題に注意)」などと呼ばれた。

2.平等院鳳凰堂は、藤原頼通が創建。宇治の別荘を、阿弥陀堂に改築したもの。阿弥陀堂は阿弥陀仏を安置する堂で、特別に鳳凰堂・金色堂などという名を冠するものもある。


3.平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は、平安中期の仏師定朝の作で、寄木造の手法を用い、定朝様と呼ばれる優美な和様の像。


4.高野山聖衆来迎図は、浄土教の流行により多く描かれた代表的な来迎図。来迎図は、阿弥陀仏一行が極楽浄土から雲に乗って迎えに来る有様を描いた絵。極楽への往生を願う人は、その絵のある堂内に病臥(びょうが)し、あたかも阿弥陀仏の導きで往生できるかの幻想を抱きつつ臨終(りんじゅう)を迎えた。多くの菩薩(ぼさつ)(聖衆)を従える図が多い。平安時代後期から鎌倉時代に盛んに描かれた。高野山の来迎図は現存する来迎図でもっとも大規模なもので、大和絵風かつ来迎図の傑作。


5.その他代表建築には、法界寺がある。11C中頃に藤原氏の一族、日野氏の氏寺で真言宗の寺。日野資業(すけなり)が再興した。


6.その他代表絵画は、平等院鳳凰堂扉絵


7.後世大和絵(やまとえ)の祖とされるのは、巨勢金岡(こせのかなおか)(生没年不詳、9C)。日本的な画題・様式・技法で描き、彼から大和絵(唐絵(からえ)に対する日本風の絵の意)が始まる。作品は現存しない。

〈2015法大・文人問関係経営

問5 下線部c御堂関白に関して、この名は道長が建立したある寺院に由来する。その寺院の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。
 ア法成寺 イ法性寺 ウ醍醐寺
 エ神護寺 オ石山寺

(答:ア)

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

 末法の世が到来するとされた〈 う 〉年が近づくにつれて、浄土信仰が盛んになった。来世における極楽往生を願う貴族たちは、極楽浄土を模した仏堂を造立しだした。
 藤原頼通が宇治川のほとりに建立した鳳凰堂が代表例である。鳳凰堂の本尊の阿弥陀如来像をつくったのが、( ト )である。また( ト )の時代には。仏像の身体をいくつかのバーツに分け、大勢で別々に彫った上で組み合わせる寄木造の技法が発達し、末法思想を背景とする仏像への需要の増大にこたえた。

A.文中の空所(ト)にあてはまる適当な語句をしるせ。
B.文中の空所〈う〉にあてはまる適当な数字を、次のa~dから1つずつ選べ。
 a.1016 b.1052
  c.1112  d.1156

(答:ト定朝、うb)〉

〈2014明大・国際日本(国際日本)

 浄土教は難行を斥け、[ H ]と称えれば、死にゆく者が救済され、臨終の際、悪人でさえ極楽た往生することができると説く。図2のようにこの臨終往生の場面を描いた絵を[ I ]と呼ぶ。」

8 空欄Hに入る語句を漢字6文字で記入しなさい。
9 空欄Ⅰに入る語句を漢字3文字で記入しなさい。

(答:H南無阿弥陀仏、I来迎図)〉

〈2013青山学院・文教育経済法経営など

 一方で、貴族層にも浄土教が浸透し、藤原道長やその子頼通は、贅を尽くした仏像や寺院を造営した。そこには、e西方浄土への強い思いが託されていたが、逆にいえば、こうした壮麗な仏像や堂舎を建立することが、極楽往生のための善行と信じられていたのである。

問12.下線部eに関して、このような思想を反映した建築・作品として誤っているものを、次の1~4の中から一つ選んでマークしなさい。」

 1平等院鳳凰堂   2法界寺阿弥陀堂
 3高野山聖衆来迎図 4教王護国寺両界曼荼羅

(答:4)〉

〈2012早大・政経

3 下線部e平等院の本尊である阿弥陀卸来像を作った仏師は誰か。」

(答:定朝)

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円珍

2018-06-01 | Weblog

三人珍事を。

山門派 円仁 円珍(えんちん)・寺門(じもん)派)(園城寺(おんじょうじ)

[ポイント]
1.寺門派は、円珍を祖とする園城寺三井寺)に拠る一派。

[解説]
1.真言宗の密教を東密とよび、最澄が創始した天台宗の密教を台密とよんでいる。その後台密はその弟子の代に本格化し、円仁の派と円珍の派に分かれる。

2.円珍(814~91)も15歳で延暦寺で出家、唐に留学(853~858)。帰朝後、第5代天台座主となり、諡(おくりな)は智証大師(ちしょうだいし)。比叡山延暦寺を中心とした天台宗の発展に寄与し、廃寺寸前の園城寺を天台別院として復興した。

3.円珍の死後、円仁と円珍の教理の違いから、弟子の時代の981年、円仁派と円珍派の僧の対立がおこり、円珍派は比叡山を下りて園城寺を拠点とした。この結果、天台宗の比叡山側を山門派、園城寺側を寺門派と呼ぶようになった。

4.園城寺の通称「三井寺」は、天皇の産湯(うぶゆ)に使った井戸「御井(みい)」が境内にあり「御井の寺」が転じたものという。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

下線部8の密教に関する記述として正しくないのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

a.これを天台宗に導入した円珍の門流はのちに寺門派と呼ばれた
b.これを天台宗に導入した円仁の門流はのちに山門派と呼ばれた
c.これを日本に伝えた空海は、嵯峨天皇、橘逸勢とともに三蹟と呼ばれた
d.これを日本に伝えた空海は、庶民に門戸を開いた綜芸種智院を創設した

(答:c ※三筆の誤り)

腐った 三筆。

空海 嵯峨天皇 橘逸勢 三筆


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