●平安時代(花山天皇)
985年(寛和元年) 〈源信、『往生要集』完成〉★★
Ojoyoshu is a Buddhism book compiled in 985 by Genshin, a Sozu in Eshinin Temple at Yokawa on Mt. Hiei, in which he collected important passages relating to gokuraku ojo, extracting from many sources such as Buddhist scriptures and instructions in terms of the Jodo Sect.
苦は公言し 往生よ。
985年 源信 『往生要集』 浄土教
985年、横川の恵心院に隠遁していた源信は浄土教の観点より、多くの仏教の経典や論書などから、極楽往生に関する重要な文章を集めた仏教書、『往生要集』を著して死後に極楽往生するには、一心に仏を想い念仏の行をあげる以外に方法はないと説き、浄土教の基礎を創った。
[point]
1.浄土教は空也などが広め、源信が『往生要集』で体系化し、慶滋保胤は往生伝で知られる。
[解説]
1.浄土教(浄土信仰)は、阿弥陀仏を信仰し、念仏(南無阿弥陀仏)を唱えれば、死後は極楽(ごくらく)に往生する、すなわち天国に行くことができると説く仏教の教え。
2.空也(903~972)は、(こうや)とも読む。諸国を遊行し念仏を説き、10C中頃、京都市中で浄土教を広めた。市聖(いちのひじり)ともいう。なお空也は国風文化の人だが、空也上人像(六波羅蜜寺)は鎌倉文化を代表する彫刻なので、正誤問題には気をつけてください。
3.源信(942~1017)は、天台宗の僧で『往生要集』を著し、浄土教を体系化した。恵心僧都(えしんそうず)とも称される。なお同書は中国(宋)でも高く評価された。
4.末法(まっぽう)思想は、仏陀(釈迦)の死後1000年間は仏法が栄えて世に幸福がもたらされる(正法)。その後の1000年間は仏法が衰える(像法)。さらに1000年を経て末法の世となるという予言的思想。1052年が末法初年と考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。
5.往生伝は、極楽往生したとされる人々の体験集で、末法思想の流行に伴いもてはやされた。慶滋保胤(?~1002)の『日本往生極楽記(にほんおうじょうごくらくき)』がその代表作。
〈2014早大・国際教養
6 下線郎f造寺・造物・写経等が盛んになりに関連する記述として、誤っているものはどれか。1つ選べ。
ア 豊後国の豪族は富貴寺大堂を建てた。
イ 定朝は寄木造による和様の仏像様式を大成した。
ウ 藤原頼通は宇治に平等院阿弥陀堂を建てた。
エ 藤原清衡は平泉に中尊寺阿弥陀堂を建てた。
オ 源信は『往生要集』を書き、醍醐寺を建てた。
(答:オ ※醍醐寺の創建は理源大師聖宝である。)
〈2014早大・教育:「
問6 下線部e「濁世末代」から「往生極楽」するためには、念仏などの実践がもっとも有効な方法であるいう教えに関連する説明で正しいものはどれか。
ア 慶滋保胤は『日本往生極楽記』を著して、これから念仏往生しそうな人々を記録にとどめた
イ 比叡山の源信が著した『往生要集』は、宋に送られて広まったと言われている。
ウ 六波羅蜜寺に伝わる空也像は、笏と太鼓をもって口から「南無阿弥陀仏」を唱えている立ち姿である
エ 釈尊の死後、正法・中法の世についで末法の世がおとずれるという思想も浄土信仰を加速した
オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた
(答:イ〇 ※ア×『日本往生極楽記』は、これから念仏往生しそうな人々ではなく、往生を遂げた人々の伝記を集めたものである、ウ×六波羅蜜寺に伝わる空也像は笏と太鼓ではなく、胸に下げた太鼓を鳴らす撞木を右手に、左手には鹿の角をさした杖をもっている、エ×正法・像法・末法の順である、オ×藤原道長は関白には就任していない。
〈2012法政大・法営文
問6.下線部A「末法思想」について、80字以内で説明せよ。」
〔解答例〕釈迦の死後、正法・像法を経て末法という乱世に突入するという仏教の予言思想。1052年に末法に入ると考えられ、浄土教信仰が強まる要因となる。(67字)〉