□古代139. ◇B
10世紀まで国家事業としての史書の編纂が続けられ、六国史と総称される歴史書が成立した《『日本書紀』に続いて『続日本紀』・『日本後紀』・『続日本後紀』・『日本文徳天皇実録』・『日本三代実録』が編まれた。「日続後続 文と三。」と覚えよう!》。
[ポイント]
1.六国史とは、日本書紀→続日本紀→日本後記→続日本後記→日本文徳天皇実録→日本三大実録の勅撰六正史。
[解説]
1.神話・伝承や「帝紀」「旧辞」などをふくめて、神代から持統天皇にいたるまでの歴史を天皇中心に記している『日本書紀』をはじめとして朝廷による歴史編纂は平安時代に引き継がれ、『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の六つの漢文正史が、10世紀初めまでに編纂された。これらをあわせて「六国史」と呼ばれている。六国史はいずれも編年体、漢文表記。
2.『日本書紀』は、元正天皇の720年完成。国家による最古の正史。編者は舎人親王(天武天皇の第3皇子)ら。神代から持統天皇に至る天皇中心の記述。『日本紀』ともいう。
3.第2『続日本紀』(797年成立)は、奈良時代の歴史を知る基本文献。平安初期、(徳政争論の)菅野真道らによって編纂された。697(文武元)年から791(延暦10)年までを記述。
4.第3『日本後紀』(840年成立)は、792(延暦11)年から833(天長10)年までの出来事を記す。(徳政争論の)藤原緒嗣らによって編纂された。「軍事・造作」停止の記述はこの史料にある。
5.第4『続日本後紀』(869年成立)は、仁明天皇一代の833年から850年の出来事を記す。藤原良房らによって編纂された。
6.第5『日本文徳天皇実録』(879年成立)は、文徳天皇一代の850年から858年の出来事を記す。藤原基経らによって編纂された。
7.第6『日本三代実録』(901年成立)は、清和・陽成・光孝天皇の3代の858年から887年の出来事を記す。藤原時平・菅原道真らによって編纂された。
〈2015関西大・全学部2月8日実施
701年には唐の律令を参考に、( 9 ){(ア)施基(イ)舎人(ク)刑部}親王と藤原不比等が責任者として編集した大宝律令が成立した。同年正月、藤原宮では君主と臣下との関係を再確認する儀式である元日朝賀が盛大に執り行われ、のちに歴史書の『( 10 )』{(ア)日本書紀(イ)続日本紀(ウ)日本後紀}に、「文物の儀、是に備われり」と記された。大宝律令はのちに若干修正され、757年に養老律令として施行された。」
(答:9ク、10イ※『日本書紀』は持統天皇まで。)
〈2014早大・国際教養
9 下線部i勅撰の6つの正史のうち4つを、時代順に配列したものはどれか。1つ選べ。
ア 日本後紀-続日本後紀-日本三代実録-日本文徳天皇実録
イ 日本文徳天皇実録-日本三代実録-日本後紀-続日本後紀
ウ 日本後紀-続日本後紀-日本文徳天皇実録-日本三代実録
エ 日本後紀-続日本後紀-日本三代実録-日本文徳天皇実録
オ 日本三代実録-日本後紀-続日本後紀-日本文徳天皇実録」
(答:ウ)〉
〈2013早大・法
8世紀の後半、日本列島を襲う地震はいったん終息期に入ったが、9世紀半ば、清和天皇の時代になると、平安京は群発地震に見舞われるようになった。863年、飢饉や疫病も蔓延し、朝廷は[ C ]において御霊会を開催し、この時呼び集められた怨霊をなだめようと、楽人による歌舞演劇が行われ、僧侶による読経がなされた。しかし、864年には富士山が噴火し、山頂が火炎に包まれ、強い地震があり、溶岩が流れ出し、大規模な降灰があって、周辺の地形も大きく変化した。さらに、e869年には東北地方が地震と津波に襲われて、[ D ]などに大きな被害が発生した。」
問7.空欄Cには、雨乞や宴にも使用される平安京の庭園の名が入る。漢字3字で記述解答欄紙に記入しなさい。
問8.下線部e869年には東北地方が地震と津波に襲われて、について。この地震は六国史に詳細に記載されている。藤原時平・菅原道真らが編さんしたその書名は次のうちどれか。1つ選び、マーク解答欄紙の該当記号をマークしなさい。
あ『日本文徳天皇実録』
い『日本三代実録』 う『続日本後紀』
え『続日本紀』 お『日本後紀』)
問9 空欄Dには、奈良時代に陸奥の国府と鎮守府が置かれていた城柵の名が入る。漢字3字で記述解答欄紙に記入しなさい。
(答:7神泉苑※雨乞→神泉、8い
869年 貞観地震 『日本三代実録』
、9多賀城)〉
〈2012早大文化構想
『続日本紀』の次に編纂された正史は[ A ]で、六国史の一つとして知られる。」
(答:日本後紀)〉
〈2010明大・政経
推古二十八年、皇太子厩戸は蘇我馬子と、天皇紀・国紀(2)を撰するも、(ア)其の子蝦夷の乱に、兵燹(へいせん)に罹(かか)りて亡(うしな)はる。(イ)天武九年、川嶋・忍壁(おさかべ)の二皇子に詔して、[ 1 ]及び上古の事を撰せしむるも、其の書、亦伝はらず。[ 2 ]は、元正の勅を奉じて、日本書紀を著はし、浩博の才を以て、雄贍(ゆうせん)(3)の文を騁(は)す。蓋し二皇子の成書に拠り、参(まじ)ふるに稗田阿礼の言を以てし、上は神祇より、下は持統に至るまで、列聖の往事、粲然として観る可し。之を継ぐ者に(ウ)後紀・実録の撰有るも、[ 2 ]の書に依倣せざるは莫し、遂に、後の覧る者をして、以て信を考へ実を覈(しら)ぶることを得しむ。
設問2 下線部(イ)は、「天武九年」とあるが、実際には『「日本書紀』天武十年の記述である。空欄[ 1 ]には、『日本書紀』の編纂材料の一つになったと伝えられるものがあてはまる。その名称を、漢字で記しなさい。
設問3 空欄[ 2 ]には、同じ人物があてはまる。天武天皇の皇子である。その人物は誰か、漢字で記しなさい。
設問4 下線部(ウ)のうち、藤原基経が編纂に携わった作品は何か、漢字で記しなさい。」
(答:2帝紀、3舎人親王、4日本文徳天皇実録※〈も〉〈と〉)