ベック式!難単語暗記法ブログ

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仏教美術

2018-06-10 | Weblog

□古代134.における特筆技法 ◇B

[ゴロ]素質ないから/イチ本は/(よ)


像(そぞう)・乾像(かんしつぞう))(木造(いちぼくつくり)・波(ほんば)式)(木(よせぎ)造)


[句意](お前は)素質がないからイチローの技法はこなせない、イチローの本は止めとけ、という句。


[ポイント]

1.特徴ある技法は、天平が乾漆像塑像、弘仁貞観が一木造翻波式、国風が寄木造

[解説]

1.乾漆像は中国より伝わった技法。土で原形を作りその上に麻布を漆で固め、その後土を抜いて内部を空洞にして木枠を入れる脱乾漆(脱活乾漆)と、土と木で作った原形の上に麻布を漆で塗り固め木心を残す木芯乾漆の2つの技法がある。ほとんどの乾漆像は脱乾漆で、代表作は興福寺十大弟子像八部衆像など。わずかな木心乾漆の代表作としては、聖林寺(しょうりんじ)十一面観音像がある。

2.塑像は、心木(しんぼく)に荒縄などを巻き付け、その上に荒土(あらつち)の粘土を盛り上げ形を作る。表面に仕上土(しあげつち)として白土(しらつち)をかぶせて細部を仕上げ、最後に彩色する。代表作の東大寺法華堂執金剛神像は力強い憤怒(ふんぬ)の表現に迫力があり、華麗な彩色も残っている。なお唐招提寺鑑真和上像(乾漆像)は塑像のように見えるため正誤問題に頻出するので注意してください。


3.一木造(一木彫(いちぼくぼり))は、木像で頭部と胴体が一本の木材で造られているもの。肉が厚いので深く彫れる特徴がある。平安中期以降の寄木造(よせぎづくり)に対する語。


4.翻波式とは、平安初期の木造彫刻の衣のしわの表現様式。角味の大波と丸味の小波とを交互に繰り返し、波が翻るように表現する。翻波式の代表作は、室生寺弥勒堂釈迦如来像


5.寄木造は、平安中期以後の仏像彫刻法。2材以上の材を寄せ合わせ、多くの工人で部分を製作し、全体をまとめる技法。一木造に対する語。平安中期の仏師定朝(?~l057)は、寄木造の手法を駆使して道長の法成寺の仏像、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像をつくった。彼は優美な和様を完成、定朝様と呼ばれる。

〈2014立大・法・経済(経済政策)・異文化コミュ

 東大寺の大仏は銅像の表面に鍍金を施した金銅像であるが、天平文化の時代には、( へ )や乾漆像の制作技法も発達した。( へ )は木を芯として粘土を塗り固めて造る像で、乾漆像は粘土などの原型の上に麻布を漆で幾重にも覆い固め、中の原型を抜き取って造る像である。」

(答:ヘ塑像)〉

〈2011文教大・全学部

問7 下の史料は下線部(e)の唐僧に関する伝記であるが、この史料に描かれている「大和上」について述べた文として正しいものはどれか。次の中から一つ選べ。なお、史料は一部書き改めたところと省略したところがある。

 時に大和上揚州大明寺にあり、衆僧のために律を講ず。栄叡・普照師大明寺に至り、大和上の足下に頂礼し、具に本意を述べて日く、「(中略)願はくは和上東遊して化を興せ」と。大和上答へて日く、「(中略)誰かこの遠請に応へ、日本国に向ひて法を伝ふる者あるや」と。(中略)和上日く、「(中略)諸人去かざれば、我すなわち去くのみ」と

1.彼が来日した時の天皇は聖武天皇であった。
2.大仏開眼会では開眼導師を務めた。
3.唐招提寺には、塑像の技法で製作された「和上像」が現存する。
4.東大寺に戒壇院を設立し、最初の本格的な授戒を行った。

(答:4 ※1孝謙天皇の代、2開眼導師はインド出身の僧・菩提僊那が担当、3塑像のように見えるが乾漆像である)

〈2012明治大・政経:「
 奈良時代には平城京を中心に貴族文化が栄え、遺唐使によって唐の文化の影響を強く受け、国際交流のなかで国際色豊かな文化として花開いた。この時代の彫刻には、それまでの金銅製や木製の仏像のほかに、(ウ)粘土で塗り固めた塑像や漆で塗り固めた乾漆像がつくられた。戒律を伝えるため、苦難を乗り越えて渡日した唐の高僧の[ 1 ]は、日本の仏教の発展に寄与した。


問5 下線部(ウ)について、塑像作品はどれか。A~Eからーつ選べ。


 A興福寺八部衆像 B新薬師寺十二神将像

 C聖林寺十―面観音像 D唐招提寺鑑真和上像
 E東大寺法華堂不空羂索観音像

(答:1鑑真、ウB※ACDEが著名な乾漆像なので無名のBが答としてのこる)〉

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小右記

2018-06-10 | 入試問題+ゴロ合わせ

978年 藤原実資、『小右記』を執筆し始める。

苦難や所有 さぁねスケ。

978年 『小右記』 藤原実資


[ポイント]

1.摂関期の日記に『御堂関白記』と藤原実資の『小右記』がある。

[解説]

1.10世紀以降、朝廷での儀式・行事の比重が増大したこともあって、貴族はそのようすを漢字を用いて日記に詳細に記録した。

2.藤原道長(966~1027)の『御堂関白記』は、彼が33~56歳の日記。道長が建てた法成寺の別名が御堂(みどう)で、道長はここに住んだため、御堂は道長の異名ともなり「御堂関白」と呼ばれた。ここで自分の治世を自画自賛している。なお「御堂関白」こと道長は、関白に就いたことはない。正誤問題頻出につき注意してください。


3.藤原実資の『小右記』は、摂関家に批判的な記述で知られる。982~1032年の60余年にわたる。この中に、道長の「此の世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることも無しと思へば」の歌が掲載されている。なお実資の家が小野宮家で、右大臣であったことから小右記という。


4.2つの日記は時期が並行しており、相互に対照することができるため、共に摂関期の根本史料である。なお『御堂関白記』は、実在の人物の自筆日記としては世界最古のものとして、ユネスコ記憶遺産(世界の記憶)に登録(2013年)された。また同日記の記述や右へ傾く筆致などから、道長自身が晩年、糖尿病を始めとした病気に苦しんでいたことがうかがわれる。

〈2016立教大・済コミュ福観光

 10世紀には宮廷行事の整備が進み、その儀式の先例や作法を子孫に伝える必要が生じ、貴族は日記を書き記して残すようになった。こうした貴族の日記は、陰陽寮が作成した暦である( ロ )の余白部分に記されることが多く、10~11世紀の摂関政治を代表する貴族である藤原道長が記した『御堂関白記』も、その一例である。もちろん日記には、儀式の内容だけでなく、日々の感情が記される場合もある。たとえば( ハ )は『小右記』という自らの日記に、自分よりも先に大納言に昇進した( ニ )の悪口を記している。母親が『蜻蛉日記』の作者である( ニ )は、道長の異母兄にあたった。また『新古今和歌集』の撰者として著名な藤原定家も『( ホ )』という日記を記しており、この日記は12世紀から13世紀はじめ頃までの政治動向を知る重要な史料となっている。」

(答:ロ具注暦、ハ藤原実資、ニ藤原道綱、ホ明月記)〉

〈2015法大・文人問関係経営:「

問5 下線部c御堂関白に関して、この名は道長が建立したある寺院に由来する。その寺院の名を、以下のア~オのなかから一つ選べ。

 ア法成寺 イ法性寺 ウ醍醐寺
 エ神護寺 オ石山寺

(答:ア)〉

〈2014早大・教育

(正誤判定)
 オ 関白を務め終えた藤原道艮が晩年に建立した法成寺は、阿弥陀堂を中心とした壮麗なものであり、道長はここで死を迎えた」

(答:×藤原道長は関白には就任していない)。

〈2014立教大・現代心理コミュ福祉経営:「
 『( ホ )』という日記を記したことでも知られる藤原道長が政権を握ったことに象徴されるように、10世紀後半から11世紀頃の政治は、天皇の外戚として摂政・関白を歴任する摂関家が主導した。」

(答:御堂関白記)〉

〈2014立大・経済(経済・会計ファイ)・コミュ福祉(スポ一つウェルネス)・観光(観光)

 2)藤原北家は、9世紀から10世紀を通して他氏排斥を進め、その勢力を不動のものとした。藤原道長が「此世をば 我世とぞ思ふ 望月の かけたる事も 無と思へば」と詠んだのは、土御門殿(つちみかどどの)という屋敷であったが、この屋敷はいったん火災に遭い、上記の歌が詠まれる数ヶ月前に再建されたところであった。再建にあたっては、( ハ )の日記である『小右記』に記されたように、「土御門殿の( ニ )一間を以て、諸の受領に配し営ましむと云々。いまだ聞かざるの事なり。造作の過差、往跡(おうせき)に万倍す」(原漢文)と受領たちが競って造営を分担し、3)源頼光が家中の家具、調度を献上したことで知られている。」

問2.藤原北家に関する出来事について、もっとも古いいものから年代順に並んでいる組み合わせはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.阿衡の紛議-承和の変-安和の変-応天門の変
 b.安和の変-阿衡の紛議-応天門の変-承和の変
 c.応天門の変-安和の変-承和の変-阿衡の紛議
 d.承和の変-応天門の変-阿衡の紛議-安和の変

問3.この人物(源頼光)に関する記述として正しいのはどれか。次のa~dから1つ選べ。

 a.その弟の源頼信は、平忠常の乱を鎮圧した
 b.その子の源頼義は、後三年合戦で、安倍頼時・貞任による反乱を鎮圧した
 c.その父の源満仲は、藤原純友の乱を鎮圧した
 d.その孫の源義家は、保元の乱の時に後白河天皇と結び勝利した。」

(答:ハ藤原実資、ニ寝殿、問2d、問3a)〉

〈2012同志社大・文経済:「
 下線部cの道長の子孫のことを、道長の創建した寺の阿弥陀堂の通称に因んで「[   ]流」と呼ぶようになる。自筆本が残る道長の日記も『[   ]関白記』と称する。共通の語を漢字で記せ。

(答:御堂)〉

〈2012立命館大学・法文経済経営など:「
 下線部8藤原道長に関連して、藤原道長の日記を何というか。」

(答:御堂関白記)

〈2012早大・文化構想

 藤原実資は長年にわたって[ B ]と呼ばれる日記を書き続け、摂関期の重要な史料になっている」

問6、空欄Bに該当する語句を記述解答欄紙の解答欄に漢字で記入しなさい。

(答:小右記)〉

〈2012中大・文:「
 10世紀以降盛んになる4貴族の日記は、先例ともなる公式の行事を自身のため、さらには子孫に伝えるために記録に残すという性格が強いもので、藤原実資の日記『[ E ]』は特に有名である。」

問8 下線部4について、貴族の日記は、あらかじめ季節の日の吉凶などが書き込まれている暦の余白を利用して記されているものが多い。その暦の名称を記しなさい。

問9 空欄Eに入る日記の名称を記しなさい。」

(答:問8具注暦、問9小右記)〉

後世に残されたもののうち、三条西家所蔵本には『小右記』、伏見宮家所蔵本には『野府記』という書名が付けられており、近世以後の写本・刊本はそのいずれかの系統に依拠するところが大きかったために、両方の書名が並存した。更に祖父実頼の『水心記』(『清慎公記』)を継ぐという意味で『続水心記』という呼称も用いられるなど、異名が多い[1]。もっとも、これらは全て実資の没後の命名であり、実資自身は『暦記』と呼称していた。これは原本が具注暦の余白に書かれたことに由来すると考えられ、当時の貴族の日記に広く見られる呼び名である。なお、その原本は今日伝わっていない。 天元元年(978年)頃から書かれたとされるが、現存するのは天元5年(982年)~長元5年(1032年)の部分のみである。

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