●平安時代(醍醐天皇)
905(延喜5)年 〈『古今和歌集』の成立〉★★
Kokin wakashu, the first imperial anthology of waka verse, is completed.
暮れ古今集 紀歌い。
905年 『古今和歌集』 紀貫之 醍醐天皇
905年、醍醐天皇の命により、紀貫之は紀友則・凡河内躬恒・壬生忠岑とともに、わが国最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を編纂。優れた歌論でもある『仮名序』を記した。五・七・五・七・七の短歌が大部分。歌風は優美・繊細で技巧が目立つ。いわゆる古今調として、以後の勅撰集の理想となった。
〈八大集〉 『古今和歌集』以後、『後撰』『拾遺』に至る三大集。
さらに『後拾遺』『金葉』『詩花』『千載』『新古今』と続く八勅撰和歌集が八代集と呼ばれる。「この五千円、拾遺の後、貯金しません、新子君」と覚えよう。尚、最後の『新古今和歌集』の成立は1205年。即ち、『古今和歌集』成立のちょうど300年後であることを意識すれば、覚え易い。
[ポイント]
1.紀貫之は、「古今集仮名序」、『土佐日記』(935年頃)の筆者である。
[解説]
1.『土佐日記』(935年頃)は、最初の平かな日記で作者は紀貫之。まず、和歌がさかんになり、905(延喜5)年、紀貫之らによって最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編集された。その繊細で技巧的な歌風は、古今調とよばれて長く和歌の模範とされた。
2.貴族は公式の場では従来通り漢字だけで文章をしるしたが、その文章は純粋な漢文とはかなりへだたった和風のものになった。一方、かなは和歌をのぞいて公式には用いられなかったが、日常生活では広く用いられるようになり、それに応じてすぐれたかな文学の作品がつぎつぎに著された。
3.かなの日記は、紀貫之(男性)の『土佐日記』を最初とするが、宮廷に仕える女性の手になるものが多く、こまやかな感情がこめられている。
〈2014近大・法
平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まり、嵯峨天皇の治世である弘仁年問には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。ところが、9世紀後半から10世紀になると大陸との関係も変化し、10世紀から11世紀には日本の風土や日本人の嗜好にかなった優雅な国風文化が生まれた。とくにかな文学が発達し、e醍醐天皇の時代には最初の勅撰和歌集である『[ 4 ]』が編纂された。その編者のひとりである[ 5 ]は、『土佐日記』の著者としても有名である。
問4 空欄[ 4 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。
1.経国集 2.古今和歌集 3.和漢朗詠集 4.新古今和歌集
問5 空欄[ 5 ]に入れる人名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。
1.小野篁 2.在原業平 3.菅原道真 4.紀貫之
(答:4→2、5→4)
〈2015立命館大・全学部
〔1〕「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」というのは、有名な『古今和歌集』の仮名序の冒頭の部分である。実は『古今和歌集』にはもう一つ、漢文による真名序があるのだが、この二つの序の存在が、漢字から仮名文字が生まれ、この時代に新しい文化が生み出されたことをよくあらわしている。また仮名はすぐれた女性の文学を生み出す原動力になったが、それは世界的にもめずらしい。この点について『古今和歌集』の編者でもあった[ A ]は、「をとこもすなる[ B ]といふものを、をむなもしてみんとてするなり」という印象的な文章を記した。和歌も貴族社会に広がり、ときの権力者たちもしばしばそれを娯楽として楽しんだ。「此の世をば我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」という[ C ]の有名な歌もそうした座興の場で詠まれたものである。
(b)空欄[ A ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。
(c)空欄[ B ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(d)空欄[ C ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。
(答:A紀貫之、B日記、C藤原道長)〉