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紀貫之

2018-06-03 | Weblog

 

 

●平安時代(醍醐天皇)

 905(延喜5)年 〈『古今和歌集』の成立〉★★

Kokin wakashu, the first imperial anthology of waka verse, is completed.

暮れ古今集 紀歌い。

 905年  『古今和歌集』   紀貫之  醍醐天皇 

 

905年、醍醐天皇の命により、紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑とともに、わが国最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』を編纂。優れた歌論でもある『仮名序』を記した。五・七・五・七・七の短歌が大部分。歌風は優美・繊細で技巧が目立つ。いわゆる古今調として、以後の勅撰集の理想となった。

 

   

〈八大集〉 『古今和歌集』以後、『後撰』『拾遺』に至る三大集。

さらに『後拾遺』『金葉』『詩花』『千載』『新古今』と続く八勅撰和歌集が八代集と呼ばれる。「この五千円、拾遺の後、貯金しません、新子君」と覚えよう。尚、最後の『新古今和歌集』の成立は1205年。即ち、『古今和歌集』成立のちょうど300年後であることを意識すれば、覚え易い。

 

 



[ポイント]
1.紀貫之は、「古今集仮名序」、『土佐日記』(935年頃)の筆者である。

[解説]
1.『土佐日記』(935年頃)は、最初の平かな日記で作者は紀貫之。まず、和歌がさかんになり、905(延喜5)、紀貫之らによって最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』が編集された。その繊細で技巧的な歌風は、古今調とよばれて長く和歌の模範とされた。

2.貴族は公式の場では従来通り漢字だけで文章をしるしたが、その文章は純粋な漢文とはかなりへだたった和風のものになった。一方、かなは和歌をのぞいて公式には用いられなかったが、日常生活では広く用いられるようになり、それに応じてすぐれたかな文学の作品がつぎつぎに著された。

3.かなの日記は、紀貫之(男性)の『土佐日記』を最初とするが、宮廷に仕える女性の手になるものが多く、こまやかな感情がこめられている。

〈2014近大・法

 平安遷都後の9世紀前半には文章経国の思想が高まり、嵯峨天皇の治世である弘仁年問には勅撰漢詩集である『凌雲集』や『文華秀麗集』が編纂された。ところが、9世紀後半から10世紀になると大陸との関係も変化し、10世紀から11世紀には日本の風土や日本人の嗜好にかなった優雅な国風文化が生まれた。とくにかな文学が発達し、e醍醐天皇の時代には最初の勅撰和歌集である『[ 4 ]』が編纂された。その編者のひとりである[ 5 ]は、『土佐日記』の著者としても有名である。

問4 空欄[ 4 ]に入れる語句として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.経国集 2.古今和歌集 3.和漢朗詠集 4.新古今和歌集

問5 空欄[ 5 ]に入れる人名として最も適当なものはどれか。次の1~4のうち一つを選べ。

 1.小野篁 2.在原業平 3.菅原道真 4.紀貫之


(答:4→2、5→4)

〈2015立命館大・全学部

〔1〕「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことの葉とぞなれりける」というのは、有名な『古今和歌集』の仮名序の冒頭の部分である。実は『古今和歌集』にはもう一つ、漢文による真名序があるのだが、この二つの序の存在が、漢字から仮名文字が生まれ、この時代に新しい文化が生み出されたことをよくあらわしている。また仮名はすぐれた女性の文学を生み出す原動力になったが、それは世界的にもめずらしい。この点について『古今和歌集』の編者でもあった[ A ]は、「をとこもすなる[ B ]といふものを、をむなもしてみんとてするなり」という印象的な文章を記した。和歌も貴族社会に広がり、ときの権力者たちもしばしばそれを娯楽として楽しんだ。「此の世をば我が世とぞ思ふ 望月の かけたることも 無しと思へば」という[ C ]の有名な歌もそうした座興の場で詠まれたものである。       

(b)空欄[ A ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。
(c)空欄[ B ]にあてはまる、もっとも適当な語句を答えよ。
(d)空欄[ C ]にあてはまる、もっとも適当な人名を答えよ。

(答:A紀貫之、B日記、C藤原道長)〉

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総合・テーマ史 ★★ 多神教と一神教 

2018-06-03 | 入試問題+ゴロ合わせ

 

2008 中央大・文

【問】つぎの文章を読み,下線部分(1)~(14)について下記の〔設問〕の答えを正しく記入しなさい。

 古代末期、オリエント・地中海の信仰の世界においては、(1)多神教から一神教への流れがみられ、さらに、その過程にローマ帝国とイランのササン朝とのせめぎ合いが深く関わることになった。
 ササン朝からみてゆくことにしよう。西暦226年、パルティアを打ち破って建国された(2)ササン朝は、(3)古代よりイランで信仰されてきたゾロアスター教を国教と定めた。その(4)善悪二元論を柱とする教義は、キリスト教の展開にも影響をあたえたとされる。また、ゾロアスター教は(5)遠く中国の地にも伝わった。ササン朝はしばしばローマ帝国と戦火を交え、 260年のエデッサの戦いでは、(6).ローマ帝国の軍人皇帝のひとりを捕虜とした
 (7).ローマ帝国の軍人皇帝時代に終止符を打った皇帝は、キリスト教徒に対して最後の大弾圧を実行したことでも知られる。しかし、同皇帝の退位に続く内乱を勝ち抜いたコンスタンティヌス帝は、歴代皇帝の対キリスト教政策を大転換し、(8)それを公認したのであった
 当時のキリスト教会においては、イエスの神学的な位置づけがなお定まっておらず、それをめぐって激しい論争がおきた。325年のニケーア公会議においては、論争に(9).敗れた一派は異端の烙印をおされ、他方、(10)勝利した一派の説はその後、正統教義の根幹となる。さらに、431年のエフェソス公会議でも(11)イエスの神性と人性との分離を唱える一派が異端と断ぜられたのであった。しかしながら、同派の教えはササン朝のイランを経由して、(12)中国にまで伝播した
 やがて、(13).同じように唯一神を信仰するイヌラーム教が台頭したが、そのイスラーム教もまた(14)内部分裂を体験しなければならなかったのである。

〔設問〕
(1)
古代ギリシアの神々は一般になんと呼ばれるか。
(2)
その建国の祖の名前はなんというか。
(3)
ササン朝の時代に編纂されたその教典はなんというか。
(4)
そのうちの善(光明)の神はなんと呼ばれたか。
(5)
中国ではなんと呼ばれたか。漢字で答えなさい。
(6)
その皇帝の名前はなんというか。
(7)
その皇帝の名前はなんというか。
(8)
その勅令は一般になんと呼ばれるか。
(9)
この派は一般になんと呼ばれるか。
(10)
この派は一般になんと呼ばれるか。
(11)
この派は一般になんと呼ばれるか。
(12)
中国ではなんと呼ばれたか。漢字で答えなさい。
(13)
ムハンマドは、それまでの多神教の神殿を新たにイスラーム教の聖殿と定めた。それはなんも呼ばれるか。
(14)
ウマイヤ朝の時代に、後にイスラーム教が大きく分けて二つの派に分かれるその発端がみられた。
 (a)
その多数派はなんと呼ばれるか。
 (b)
その少数派はなんと呼ばれるか。
 

解 答 

オリンポス12神 アルデシール1世 アヴェスター アフラ=マズダ 祅  教
10
ウァレリアヌス帝 ディオクレティアヌス帝 ミラノ勅令 アリウス派 アタナシウス派
11 12 13 14(a) 14(b)
ネストリウス派 景  教 カーバ神殿 スンナ派 シーア派

※別解:(5): 拝火教     (14)(a): スンニー派   

2.

226年 ササン朝ペルシア成立。

包むパルティア さぁ来るぞ。

   226年 パルティアを滅ぼす アルダシール1世 ササン朝ペルシア クテシフォン ゾロアスター教

 

313年〈ミラノ勅令(キリスト教の公認)〉「キリスト教はみんなの(ミラノ)財産です」と公認。        

さぁいざ公認 皆の神。

313年 コンスタンティヌスミラノ勅令

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