8月2日の長岡の花火大会の日、場所取りに並んだあと、中越地震で災害の大きかった山古志村へ足をのばしました。
距離は20キロほどと 長岡から近いところです。
まずは途中にある 蓬平温泉(よもぎひら)の中のひとつ 和泉屋旅館で 日帰り入浴です。
花火大会を見るために河川敷きの場所取りに炎天下2時間も並んだので 汗びっしょりでした。
蓬平温泉には3軒ほどの旅館があるようですが、最初立ち寄ったところは 玄関払いを受けました。
和泉屋旅館では 気持ちよく対応してもらえましたし、温泉の泉質も露天風呂からの眺めも 申し分のないものでした。
心残りだったのは、1時間ほどしか 時間をとれなかったこと。
山古志村は錦鯉の養鯉業でも有名です。
和泉屋旅館にも 大きな錦鯉が悠々と泳いでいました。
後日 妹は「来年は 和泉屋へ宿を取り、長岡の花火大会まで送迎してもらおうよ」と言ったほど、もう一度ゆっくりと来たい 泊ってみたいと思う温泉でした。
短い時間だったものの 温泉でさっぱりした後は、甥っ子の案内で山古志村へ。
早いもので中越地震から6年が経っています。
木籠地区の河道閉塞で水没した家々を見ることが出来ました。
記念碑が建てられた辺りから 見たところ
この集落が水没した理由は 木籠集落下流の芋川左岸において大規模な地すべりが発生し、河道を閉塞したため上流の木籠集落で13戸が水没する事態となり、集落内を縦貫している主要地方道柏崎高浜堀之内線も約600mに渡り水没することとなった。 と 説明があります。
当時の報道では 水没地区から 牛を救出する場面が繰り返し流れていました。
しかし 13件もの家が水没していたのですね。
近くでみると その無残な姿に胸が痛みます。
錦鯉の養鯉業などで 随分豊かな村だったのですね。 家屋の大きさにもびっくりしました。
水没した家屋を見学用の駐車場から見たところ
新しく架かった橋の上から見下ろしたところ
実際には 家屋の2階部分もこのようにはっきりと見ることができまます。
芋川の水嵩がどんどん増していき 我が家とその中の思い出の品々が水没していくのを見るのはどんなに辛かったことでしょう。
テレビや新聞でしか見ることのなかった中越地震や地震の二次災害の大きさを このように復興された後でも目にすることが出来たのは 大きな収穫でした。
山古志村の人々を含め あの中越地震で被災した人々が その後どのような道を辿ったのか マスコミの特集など今後気になるところです。
距離は20キロほどと 長岡から近いところです。
まずは途中にある 蓬平温泉(よもぎひら)の中のひとつ 和泉屋旅館で 日帰り入浴です。
花火大会を見るために河川敷きの場所取りに炎天下2時間も並んだので 汗びっしょりでした。
蓬平温泉には3軒ほどの旅館があるようですが、最初立ち寄ったところは 玄関払いを受けました。
和泉屋旅館では 気持ちよく対応してもらえましたし、温泉の泉質も露天風呂からの眺めも 申し分のないものでした。
心残りだったのは、1時間ほどしか 時間をとれなかったこと。
山古志村は錦鯉の養鯉業でも有名です。
和泉屋旅館にも 大きな錦鯉が悠々と泳いでいました。
後日 妹は「来年は 和泉屋へ宿を取り、長岡の花火大会まで送迎してもらおうよ」と言ったほど、もう一度ゆっくりと来たい 泊ってみたいと思う温泉でした。
短い時間だったものの 温泉でさっぱりした後は、甥っ子の案内で山古志村へ。
早いもので中越地震から6年が経っています。
木籠地区の河道閉塞で水没した家々を見ることが出来ました。
記念碑が建てられた辺りから 見たところ
この集落が水没した理由は 木籠集落下流の芋川左岸において大規模な地すべりが発生し、河道を閉塞したため上流の木籠集落で13戸が水没する事態となり、集落内を縦貫している主要地方道柏崎高浜堀之内線も約600mに渡り水没することとなった。 と 説明があります。
当時の報道では 水没地区から 牛を救出する場面が繰り返し流れていました。
しかし 13件もの家が水没していたのですね。
近くでみると その無残な姿に胸が痛みます。
錦鯉の養鯉業などで 随分豊かな村だったのですね。 家屋の大きさにもびっくりしました。
水没した家屋を見学用の駐車場から見たところ
新しく架かった橋の上から見下ろしたところ
実際には 家屋の2階部分もこのようにはっきりと見ることができまます。
芋川の水嵩がどんどん増していき 我が家とその中の思い出の品々が水没していくのを見るのはどんなに辛かったことでしょう。
テレビや新聞でしか見ることのなかった中越地震や地震の二次災害の大きさを このように復興された後でも目にすることが出来たのは 大きな収穫でした。
山古志村の人々を含め あの中越地震で被災した人々が その後どのような道を辿ったのか マスコミの特集など今後気になるところです。