南洲墓地公園から眺める桜島
少し小高い場所にあるので、鹿児島市街地と錦江湾の向こうの桜島がよく見えます
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14日、月一のベス🐕🦺のお手入れ日に
ベス🐕🦺を預けたあと、西郷南洲顕彰館へ
西郷南洲顕彰館は昭和53年に出来たようです
西郷隆盛が眠る南洲神社は子供の頃や高校生の頃行ったことはありましたが、顕彰館のできる前の事
今回は企画展で「西郷と月照」を開催していたので、出かけてみました
入り口です
入館料は大人が200円
館内は常設展、企画展とも撮影禁止
常設展では、生い立ち編、島津斉彬との出会い編、錦江湾へ入水編、奄美での暮らし編、沖永部島流罪編の構成
ジオラマや映像などもふんだんにあり、小学生もわかりやすい展示
流石に全て知ってはいるものの、関係する書なども展示されていて興味深いものでした
西郷と月照の企画展では、島津家と京都の近衛家との関わりなども詳しく展示
そして、企画展の資料として西郷南洲翁にまつわるエピソードというリーフレット
その中に、口語体でわかりやすい一文があったので以下に抜粋
西郷従道の妻清子の話:
京都の坊さんで大変勤王の志の篤い月照上人は、吉田松陰が幕府によって捉えられた時、その書簡から勤王の士として暗躍していたのがわかり身の危険が迫ってきたので、近衛家から南洲様にかくまってくれるようにと頼まれました。
南洲様や海江田信義さんが付き添って京都を去られたのですが、結局は薩摩に行くのが一番安全だろということになって、南洲様が先に立って薩摩藩にこのことを願い出たのですが、藩も幕府ににらまれることを嫌って月照上人を保護することを許さなかったのです
平野次郎(国臣)等と後から薩摩まで来られた月照上人とともに薩摩藩が準備した加治木に行く船に乗られて(※行き先は日向)、薩摩灘大崎ケ鼻沖で抱き合って海中に飛び込まれたのです。
投身される直前、安政5年11月15日の夕刻に不図、家に帰っておいでになり、雑談の中に先祖の毎日を教え墓参を怠らないようにと語られ、妹のヤスさんに「今夜は一番よか着物を出してくれ」と申されて、とっておきの着物と薩摩殿様で南洲様を大変可愛がられた島津斉彬公からご拝領になった肌着とを召され、何の理由も言わず、出先も告げられずに出掛けられました。
従道(当時は龍庵)は兄さんの様子が気になったので尾行され、家から一里余り先の海岸の方へ行かれたことは見届けラれましたが、どうしょうもなかったとのことです。
南洲様はこの時は年老いたお祖母様と弟妹さん達に断腸の思いで永訣に来られたのだと思いますよ。
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西郷と月照上忍は入水の後、西郷は蘇生し、月照上人は亡くなったのですが、ひと月以上病床にあったとか
元々口数は多かなかった西郷は、入水の事があってから一層寡黙になり、何か思い詰めているとしか思われなかったので、大久保などは西郷が月照の後を追って身の始末をつけるかもしれないと思い、弟の吉二郎にそっと語って、刃物類を全部、西郷の目につかない所に隠させたとか
この後、薩摩藩は幕府には西郷も死せりと、別の死罪の因徒を幕吏に示し、さらにバレないように用心して島流しにした、とあります
小さな顕彰館の中の、小さな企画展でした
当時の書が数多く展示されていて、説明もわかりやすく、見応えのある企画展でした
私のように歴史音痴には打ってつけ
西郷隆盛と月照上人の入水は小学校四年生の時に読んだ偉人伝にも書かれていて、挿絵もあり、しっかり覚えています
その時の記憶に肉付け出来たような企画展でした
顕彰館を出て、同じく敷地内の南洲墓地へ
南洲墓地には、749基の墓と、西南戦争で亡くなった2023人の薩軍将士が眠っています
西郷隆盛の墓は正面、その左は最後まで最後まで西郷を守った桐野利秋、右には篠原国幹、村田新八
トトさんが、他にも色々と墓碑を読み上げながら説明してくれて
その時は理解していたのですが、もう右から左へと流れ去ってしまいました😓
南洲神社にもお参り
猫ちゃんが擦り寄ってきて
ベス🐕🦺と暮らすようになってから、不思議と猫も寄ってきます
この後墓地の後方にある竹林公園へ
石の門付き
石碑があります
公園の由緒の説明が
「1736年、吉貴公は琉球から2株の孟宗竹を取り寄せ、日本で初めて磯の庭園に植えました
公の業績を頌え、公の墓所に県内14種1643株の竹が集められ植栽されました」
石碑は島津吉貴公
この小さな竹公園は少しお手入れ不足
竹の繁殖力に手入れが追いついていないようでした
南洲神社を出た後は、城山ホテルへ向かいました
城山は西南戦争の最後の戦いの地です