国民へ強制された「単眼」の認識様式
2014/6/7 櫻井智志
安倍政権は、情けない一期目の惨状とは段違いの状態である。抵抗し国民的構想をもつ日本共産党や社会民主党、緑の党などの野党は、国会では少数派である。「ゆ」党のいわゆる野党は、強大な自民党の前で内部抗争や離散集合を繰り返し、国民的支持を得ている政党などない。
安倍自公政権の横暴ぶりに国民は広く怒りや無力感を感じているが、その怒りや反発は届いていく回路が切断している。なぜこのような状態が生じているのか。私は、安倍自公政権が国民に対して、発生している政治的社会的惨状を、国民が事実を正しく認識することを阻む弊害を意図的計画的に招くような「仕掛け」を巧妙に設定しているという仮説をもっている。
端的に言うと、国民は社会的認識を偏頗で歪んだステロタイプの社会認識しかもてないようにされている。そのような仕掛けは、安倍自公政権が主体であり、国民全体が仕掛けられた客体である。
その仕掛けは、「柔らかい弾圧と巧妙な政策」によって形成されている。外国特派員が本国に知らせたニュースが、政府を経由して日本国内で流布しているニュースとは全く異なることがある。戦後に進歩派と目された朝日新聞や毎日新聞でさえ、報道されるニュースは、政府の公報と変わらないような性質のニュースが見受けられる。産経や日経、読売などの全国紙は、さらにひどい場合がある。各社の社説や論調は、とくにひどい。原発報道、TPP、集団的自衛権、憲法改定問題など社会の岐路を示すような展望が、国民の社会的認識を深めたり高めたりするよりも、一定の決まり切ったような政府見解の二番煎じ三番煎じとなっている。
さらに安倍自公政権は、NHKのような公的要素を孕む報道機関に、誰もが知っている会長や経営委員の人事の安倍総理独特の独断専行強行をすすめてきた。安倍総理に選任されたNHKの会長や経営委員が、いかに社会的常識から逸脱して世間で問題となっても、国民の声は無視してそのまま知らぬ顔ですませている。 安倍政権は、沖縄県の良心的な報道を続けている琉球新報や沖縄タイムスの本社にいきなり報道が偏っているから是正すべきだという弾圧的介入をおこなった。まさに安倍自公政権とは、報道機関を籠絡と懐柔、弾圧と恐喝めいた対応で世論誘導を行い続けている。
国民は、政府が言うことだから、と半分は懐疑をもっても、半分は信じ込もうとする。人間にとって、不安と失意に晒され続けていることは、ナチスの時代に『夜と霧』を執筆してドイツ・ナチズムのアウシュヴイッツ収容所的社会を告発した精神科医E・フランクルが描いた実態に明らかである。日本でも、戦時中に戦争を批判したり愚痴ったりすると、憲兵や特高はおろか「向こう三軒隣組」が監視機能を果たして「お上」に告げ口しあう卑劣な日本社会に落ちていった。そしてこれがただごとでないのは、現在の日本社会が、不安と失意にさらされている日本国民に、物事を「複眼」で多元的に判断する自立心と自主性とを奪いさり、上から単一的な「正解」の価値を注入されないとなにか落ち着か ず、社会的事象を単眼で見ることに落ち着きと安心感とを得るように変質してきたことである。
そのような日本社会の変質は、容易に戦前型軍国主義管理社会に親和性をもつ。東京都知事選に自民党よりもさらに反動型の候補者が石原慎太郎氏の支援で、そうとうな都民の支持率を獲得した。東京都では、石原慎太郎都政の実現以来、都立高校の教職員が卒業式で「君が代」を歌い「日の丸」に敬礼しないで着席している教職員を相次いで弾圧し、処分を下していった。中には懲戒処分を受けた教職員さえいた。そのような管理社会を都立高校に現出させたのは、石原都知事に任命された東京都教育委員会の判断に基づくものであった。石原氏は戦前、戦時中の天皇制軍国主義をよしとするものなのか?つい最近、私は石原慎太郎に関する記事をインターネットで読み、驚いた。本評論の文脈で以下に 転載するしだいである。
=================================
石原慎太郎、衝撃発言「皇室は日本の役に立たない」「皇居にお辞儀するのはバカ」
「負けたのにヘラヘラ『楽しかった』はありえない」「メダルをかじるな」、そして「君が代は聴くのでなく直立不動で歌え」。
2月23日に閉幕したソチ五輪に関連して、「明治天皇の玄孫」として話題の右派論客である慶應義塾大学講師・竹田恒泰氏が、日本選手に対して上記のコメントをTwitterに投稿して物議を醸したが、スポーツの国際大会では出場選手に対して、しばしば国家への忠誠を強要するようなプレッシャーがかけられることがある。
中でも厳しいのは試合前や表彰式での「国歌斉唱」のチェックで、元サッカー日本代表の中田英寿氏のように「国歌を歌っていない」として右翼から街宣や抗議を受けたケースも少なくない。
そんな中、意外な人物が「国歌なんて歌わない」と堂々と宣言して一部で話題になっている。
政治家でありながら中韓に対してネトウヨ顔負けのヘイトスピーチ的発言を繰り返し、東京都知事時代には尖閣諸島の買収を宣言して領土問題再燃のきっかけをつくった人物。日本維新の会共同代表・石原慎太郎氏である。
●石原氏「国歌は歌わない」
「文學界」(文藝春秋/3月号)に「石原慎太郎『芥川賞と私のパラドクシカルな関係』」と題されたインタビューが掲載されているのだが、そこで石原氏は「皇室について、どのようにお考えですか」と聞かれ、次のような発言をしているのだ。
「いや、皇室にはあまり興味はないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときにはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」
つまり、石原氏は国歌を歌わないばかりか、仕方なく歌う場合には歌詞を「君が代は(天皇の世は)」ではなく「わがひのもとは(私の日本は)」と歌詞を変えてしまうというのだ。
代表的な右派論客が堂々と天皇をないがしろにするような発言をしていることに驚かれる読者もいるかもしれないが、石原氏がもともと反天皇制的なスタンスを取っていることは一部では知られていた。今から約50年前、天皇一家の処刑シーンを描いた深沢七郎の小説『風流夢譚』をめぐって、右翼団体構成員が版元の中央公論社の社長夫人と家政婦を死傷させる事件が起きているが、事件の直前に石原氏はこの小説について、こんなコメントを寄せている。
「とても面白かった。皇室は無責任極まるものだし、日本になんの役にも立たなかった。そういう皇室に対するフラストレーションを我々庶民は持っている」(「週刊文春」<文藝春秋/1960年12月12日号>)
●国歌斉唱時の起立義務付けをしながら、自分は斉唱拒否
先に紹介した「文學界」インタビューでも、石原氏は戦時中、父親から「天皇陛下がいるから皇居に向かって頭を下げろ」と言われた際、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね」と語っている。
もちろん思想信条は自由だし、最近は反韓反中がメインで天皇に対しては否定的という右派論客も少なくない。だが、石原氏は都知事時代、都立高教員に国歌斉唱時の起立を強制し、不起立の教師を次々に処分していたのではなかったか。また、日本維新の会の共同代表で石原氏のパートナー・橋下徹氏も大阪府知事だった11年、国歌斉唱時に教職員の起立を義務付けた、いわゆる「君が代条例」を大阪府で成立させている。
一方で国民に愛国心を強制しながら、自分は平気で「国歌が嫌い」と斉唱を拒否するというのは、いくらなんでもご都合主義がすぎるのではないか。
(文=エンジョウトオルさん)
===============================
石原氏のご都合主義は、この日本社会の支配階級に属するひとびとの無責任さといい加減さを物語っている。民衆を統治するためには、無理難題も道理に合わない言動も平気でとる。少なくとも、私は石原慎太郎氏、森喜朗氏、麻生太郎氏などの歴代の総理や代議士よりも、いまの天皇ご夫妻のほうがどれほど民主主義者に近いと考えている。
いま日本社会は、国民を単一の価値観に誘導し、安倍自公政権の価値観のままに「教化」する道に羊のようにいざなわれている。そのことを見破り批判し論破するような国民は、陰湿な政権下で徹底した監視と統制のコントロール下に置かれている。そのことが、毎回の重要な国政選挙や首長選挙で厖大な棄権者を出している原因である。国民は無関心なのではない。政府の驚くべき統制と弾圧策のもとで、おびえ失望の中にいる。そこから一部は、自民党よりも反動的な政治的潮流に身を投じたり賛同したりする動きとなっている。単眼的価値観育成には、マスコミとともに教育制度が有効なものとして悪用されている。東北大学教育学部長や宮城瀬教育大学学長を務めた教育哲学者林竹二氏は、『教育 亡国』を表して嘆くとともに、自らの全国授業行脚を通して、真の教育は東京の名門小学校での授業でなく、湊川工高定時制や沖縄県小学校にこそ営まれていたと授業記録を出版された。
マスコミと教育機関を通じて、日本をファッショ化してていこうとする日本亡国派に対して、広範な国民の真実と勇気の持続する営みが、歴史上の現代日本に強く求められている。すでに遅い。しかし遅すぎても、尻尾を巻くよりも立ち向かうことこそ、亡国派に対する抵抗のあかしとなる。次の世代への継承として。
2014/6/7 櫻井智志
安倍政権は、情けない一期目の惨状とは段違いの状態である。抵抗し国民的構想をもつ日本共産党や社会民主党、緑の党などの野党は、国会では少数派である。「ゆ」党のいわゆる野党は、強大な自民党の前で内部抗争や離散集合を繰り返し、国民的支持を得ている政党などない。
安倍自公政権の横暴ぶりに国民は広く怒りや無力感を感じているが、その怒りや反発は届いていく回路が切断している。なぜこのような状態が生じているのか。私は、安倍自公政権が国民に対して、発生している政治的社会的惨状を、国民が事実を正しく認識することを阻む弊害を意図的計画的に招くような「仕掛け」を巧妙に設定しているという仮説をもっている。
端的に言うと、国民は社会的認識を偏頗で歪んだステロタイプの社会認識しかもてないようにされている。そのような仕掛けは、安倍自公政権が主体であり、国民全体が仕掛けられた客体である。
その仕掛けは、「柔らかい弾圧と巧妙な政策」によって形成されている。外国特派員が本国に知らせたニュースが、政府を経由して日本国内で流布しているニュースとは全く異なることがある。戦後に進歩派と目された朝日新聞や毎日新聞でさえ、報道されるニュースは、政府の公報と変わらないような性質のニュースが見受けられる。産経や日経、読売などの全国紙は、さらにひどい場合がある。各社の社説や論調は、とくにひどい。原発報道、TPP、集団的自衛権、憲法改定問題など社会の岐路を示すような展望が、国民の社会的認識を深めたり高めたりするよりも、一定の決まり切ったような政府見解の二番煎じ三番煎じとなっている。
さらに安倍自公政権は、NHKのような公的要素を孕む報道機関に、誰もが知っている会長や経営委員の人事の安倍総理独特の独断専行強行をすすめてきた。安倍総理に選任されたNHKの会長や経営委員が、いかに社会的常識から逸脱して世間で問題となっても、国民の声は無視してそのまま知らぬ顔ですませている。 安倍政権は、沖縄県の良心的な報道を続けている琉球新報や沖縄タイムスの本社にいきなり報道が偏っているから是正すべきだという弾圧的介入をおこなった。まさに安倍自公政権とは、報道機関を籠絡と懐柔、弾圧と恐喝めいた対応で世論誘導を行い続けている。
国民は、政府が言うことだから、と半分は懐疑をもっても、半分は信じ込もうとする。人間にとって、不安と失意に晒され続けていることは、ナチスの時代に『夜と霧』を執筆してドイツ・ナチズムのアウシュヴイッツ収容所的社会を告発した精神科医E・フランクルが描いた実態に明らかである。日本でも、戦時中に戦争を批判したり愚痴ったりすると、憲兵や特高はおろか「向こう三軒隣組」が監視機能を果たして「お上」に告げ口しあう卑劣な日本社会に落ちていった。そしてこれがただごとでないのは、現在の日本社会が、不安と失意にさらされている日本国民に、物事を「複眼」で多元的に判断する自立心と自主性とを奪いさり、上から単一的な「正解」の価値を注入されないとなにか落ち着か ず、社会的事象を単眼で見ることに落ち着きと安心感とを得るように変質してきたことである。
そのような日本社会の変質は、容易に戦前型軍国主義管理社会に親和性をもつ。東京都知事選に自民党よりもさらに反動型の候補者が石原慎太郎氏の支援で、そうとうな都民の支持率を獲得した。東京都では、石原慎太郎都政の実現以来、都立高校の教職員が卒業式で「君が代」を歌い「日の丸」に敬礼しないで着席している教職員を相次いで弾圧し、処分を下していった。中には懲戒処分を受けた教職員さえいた。そのような管理社会を都立高校に現出させたのは、石原都知事に任命された東京都教育委員会の判断に基づくものであった。石原氏は戦前、戦時中の天皇制軍国主義をよしとするものなのか?つい最近、私は石原慎太郎に関する記事をインターネットで読み、驚いた。本評論の文脈で以下に 転載するしだいである。
=================================
石原慎太郎、衝撃発言「皇室は日本の役に立たない」「皇居にお辞儀するのはバカ」
「負けたのにヘラヘラ『楽しかった』はありえない」「メダルをかじるな」、そして「君が代は聴くのでなく直立不動で歌え」。
2月23日に閉幕したソチ五輪に関連して、「明治天皇の玄孫」として話題の右派論客である慶應義塾大学講師・竹田恒泰氏が、日本選手に対して上記のコメントをTwitterに投稿して物議を醸したが、スポーツの国際大会では出場選手に対して、しばしば国家への忠誠を強要するようなプレッシャーがかけられることがある。
中でも厳しいのは試合前や表彰式での「国歌斉唱」のチェックで、元サッカー日本代表の中田英寿氏のように「国歌を歌っていない」として右翼から街宣や抗議を受けたケースも少なくない。
そんな中、意外な人物が「国歌なんて歌わない」と堂々と宣言して一部で話題になっている。
政治家でありながら中韓に対してネトウヨ顔負けのヘイトスピーチ的発言を繰り返し、東京都知事時代には尖閣諸島の買収を宣言して領土問題再燃のきっかけをつくった人物。日本維新の会共同代表・石原慎太郎氏である。
●石原氏「国歌は歌わない」
「文學界」(文藝春秋/3月号)に「石原慎太郎『芥川賞と私のパラドクシカルな関係』」と題されたインタビューが掲載されているのだが、そこで石原氏は「皇室について、どのようにお考えですか」と聞かれ、次のような発言をしているのだ。
「いや、皇室にはあまり興味はないね。僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときにはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」
つまり、石原氏は国歌を歌わないばかりか、仕方なく歌う場合には歌詞を「君が代は(天皇の世は)」ではなく「わがひのもとは(私の日本は)」と歌詞を変えてしまうというのだ。
代表的な右派論客が堂々と天皇をないがしろにするような発言をしていることに驚かれる読者もいるかもしれないが、石原氏がもともと反天皇制的なスタンスを取っていることは一部では知られていた。今から約50年前、天皇一家の処刑シーンを描いた深沢七郎の小説『風流夢譚』をめぐって、右翼団体構成員が版元の中央公論社の社長夫人と家政婦を死傷させる事件が起きているが、事件の直前に石原氏はこの小説について、こんなコメントを寄せている。
「とても面白かった。皇室は無責任極まるものだし、日本になんの役にも立たなかった。そういう皇室に対するフラストレーションを我々庶民は持っている」(「週刊文春」<文藝春秋/1960年12月12日号>)
●国歌斉唱時の起立義務付けをしながら、自分は斉唱拒否
先に紹介した「文學界」インタビューでも、石原氏は戦時中、父親から「天皇陛下がいるから皇居に向かって頭を下げろ」と言われた際、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね」と語っている。
もちろん思想信条は自由だし、最近は反韓反中がメインで天皇に対しては否定的という右派論客も少なくない。だが、石原氏は都知事時代、都立高教員に国歌斉唱時の起立を強制し、不起立の教師を次々に処分していたのではなかったか。また、日本維新の会の共同代表で石原氏のパートナー・橋下徹氏も大阪府知事だった11年、国歌斉唱時に教職員の起立を義務付けた、いわゆる「君が代条例」を大阪府で成立させている。
一方で国民に愛国心を強制しながら、自分は平気で「国歌が嫌い」と斉唱を拒否するというのは、いくらなんでもご都合主義がすぎるのではないか。
(文=エンジョウトオルさん)
===============================
石原氏のご都合主義は、この日本社会の支配階級に属するひとびとの無責任さといい加減さを物語っている。民衆を統治するためには、無理難題も道理に合わない言動も平気でとる。少なくとも、私は石原慎太郎氏、森喜朗氏、麻生太郎氏などの歴代の総理や代議士よりも、いまの天皇ご夫妻のほうがどれほど民主主義者に近いと考えている。
いま日本社会は、国民を単一の価値観に誘導し、安倍自公政権の価値観のままに「教化」する道に羊のようにいざなわれている。そのことを見破り批判し論破するような国民は、陰湿な政権下で徹底した監視と統制のコントロール下に置かれている。そのことが、毎回の重要な国政選挙や首長選挙で厖大な棄権者を出している原因である。国民は無関心なのではない。政府の驚くべき統制と弾圧策のもとで、おびえ失望の中にいる。そこから一部は、自民党よりも反動的な政治的潮流に身を投じたり賛同したりする動きとなっている。単眼的価値観育成には、マスコミとともに教育制度が有効なものとして悪用されている。東北大学教育学部長や宮城瀬教育大学学長を務めた教育哲学者林竹二氏は、『教育 亡国』を表して嘆くとともに、自らの全国授業行脚を通して、真の教育は東京の名門小学校での授業でなく、湊川工高定時制や沖縄県小学校にこそ営まれていたと授業記録を出版された。
マスコミと教育機関を通じて、日本をファッショ化してていこうとする日本亡国派に対して、広範な国民の真実と勇気の持続する営みが、歴史上の現代日本に強く求められている。すでに遅い。しかし遅すぎても、尻尾を巻くよりも立ち向かうことこそ、亡国派に対する抵抗のあかしとなる。次の世代への継承として。