いつか呼んでもらえないかなと思っていた。自分の持っていないものを出そうとすると失敗する。いつも怒っているイメージ。舞台に立つとあざやかな女形。歌「夢芝居」が大ヒット。
梅沢さんの言葉が共感を得ているのかを明らかにする。
TVに出て、若い人に名前を覚えてもらえる。旅先にコンビニに若者が座っていたので、注意した。そうしたら注意してもらったことを友達に嬉しく伝えた。おじいちゃんやおばあちゃんがいて、昔は注意していた(怒っていた)。今はそれがない。
学歴は中学卒。TVで何ができるか。おじいちゃんやおばあちゃんが怒っている。それを代弁できるかと思った。
ちあきなおみさんの「矢切の渡し」。石森章太郎さんと母が友達だった。矢切の私の時に女装した。当時31歳。木の実ナナさんと梅沢さんの矢切の渡しの歌の背景を演じた。
ちょっと口が空いているのが色っぽい。鼻が蓄膿症で鼻が詰まっていて口を開けていただけだった。それが色っぽく見えた。
天才子役だった。1歳7か月で踊った。貫太郎さんで踊った。小さい時から自然と踊っていた。それを母親が見て、これは商売になる。8人兄弟の7番目。貧乏した。教科書もノートもない。鉛筆もない。給食費も払えない。よってお昼も食べられない。当時の先生も貧乏で生徒に食事を食べさせられなくて泣いていた。
高校に行きたいと言ったら、ダメだと言われた。舞台で島根弁を言ったら、ワーと観客から声が上がった。それで役者になろうと思った。これを笑われていると思ったら役者になっていなかった。
8人兄弟で皆役者になった。何もやっても上手くいかなかった。それで女形をやるようになった。先生が何を偉そうなことを。何を壁だと。これから覚えないといけない人間んに壁はない。まだ壁はない。
花柳界に粋な人が多かった。はすに構えると気になる。しっかり座ってはいけない。穴が少し出ている。お尻の穴を気にする。芸者さんがお風呂に入って、お尻を振りながら歩いている。それを見ていたら、警察に連れていかれた。玉三郎さんは見ていない。そこまではできない。女形は3分以上持たない。持続性がない。ブラジャーしていたが合わなかった。芸者さんから手ぬぐいを使いなさいと言われた。それが良かった。舞踊家ではない。役者さんが踊っているだと母親に言われた。長谷川一夫さんの女形を見た。踊らない。流す涙が、のところで涙を流す。そして流し目を。これを絶対やろうと。
歌のジョイントの仕事はやらなかったが。大阪フェスティバルホールに、村田英雄さんと三波春夫の歌のショーに出た。記者会見(村田英雄さん、三波春夫さん)で一二三(いちにーさん)で写真を撮れと。お二人は性格が全然ちがうけど死ぬまでライバルだったかと。
2曲目は、小椋佳さんの「少しは私に愛を下さい」
まさかこんな顔でこんな可愛い歌を作ったのかと思った。「夢芝居」を書いてもらう時に、その歌の背景を聞いた。小椋佳さんが当時、海外で出張に行き、その間に小椋佳さんが勤めていた銀合が合併になった。帰ったら自分の席がなかった。もう少し“愛があっても”と思って作った、恨み節の歌だと聞いた。それで歌のイメージが変わった。
座長に5年前になった。出来るまで頑張ってみようと思っている。芸能界とはいつ終わるかわからない。お客さんが入らなければ終わる。お客さんが決めてくれる。お客さんに来てもらえるように努めていきたい。
感想;
学校に行きたくても行けなかった。
生まれた環境の中で、ご自分の生きる道を探して、そして華を咲かせておられるように思いました。
渡辺 和子著「置かれた場所で咲きなさい」が多くの人に読まれました。
それぞれが置かれた場所が違います。
他の人の場所を羨むのではなく、自分の置かれた場所でできることを精一杯する。
まさに、それを実践されているのを感じました。
いつお客さんが来なくなるかの不安を抱えながら、日々の努力が重要なのでしょう。
今、セミナーの講師をさせていただいています。
いつ、セミナー会社からお声がかからなくなるかの不安を抱えています。
参加者が減る。それはまさに私が話す内容が参加者の満足を得なくなった時なのでしょう。
梅沢さんとまったく住む世界もやられていることも違いますが、仕事の基本は同じなんだと思いました。
会社員時代はそれを感じなくてもお給料をいただいていました。
本当は会社員でも同じだったのでしょう。
梅沢さんの言葉が共感を得ているのかを明らかにする。
TVに出て、若い人に名前を覚えてもらえる。旅先にコンビニに若者が座っていたので、注意した。そうしたら注意してもらったことを友達に嬉しく伝えた。おじいちゃんやおばあちゃんがいて、昔は注意していた(怒っていた)。今はそれがない。
学歴は中学卒。TVで何ができるか。おじいちゃんやおばあちゃんが怒っている。それを代弁できるかと思った。
ちあきなおみさんの「矢切の渡し」。石森章太郎さんと母が友達だった。矢切の私の時に女装した。当時31歳。木の実ナナさんと梅沢さんの矢切の渡しの歌の背景を演じた。
ちょっと口が空いているのが色っぽい。鼻が蓄膿症で鼻が詰まっていて口を開けていただけだった。それが色っぽく見えた。
天才子役だった。1歳7か月で踊った。貫太郎さんで踊った。小さい時から自然と踊っていた。それを母親が見て、これは商売になる。8人兄弟の7番目。貧乏した。教科書もノートもない。鉛筆もない。給食費も払えない。よってお昼も食べられない。当時の先生も貧乏で生徒に食事を食べさせられなくて泣いていた。
高校に行きたいと言ったら、ダメだと言われた。舞台で島根弁を言ったら、ワーと観客から声が上がった。それで役者になろうと思った。これを笑われていると思ったら役者になっていなかった。
8人兄弟で皆役者になった。何もやっても上手くいかなかった。それで女形をやるようになった。先生が何を偉そうなことを。何を壁だと。これから覚えないといけない人間んに壁はない。まだ壁はない。
花柳界に粋な人が多かった。はすに構えると気になる。しっかり座ってはいけない。穴が少し出ている。お尻の穴を気にする。芸者さんがお風呂に入って、お尻を振りながら歩いている。それを見ていたら、警察に連れていかれた。玉三郎さんは見ていない。そこまではできない。女形は3分以上持たない。持続性がない。ブラジャーしていたが合わなかった。芸者さんから手ぬぐいを使いなさいと言われた。それが良かった。舞踊家ではない。役者さんが踊っているだと母親に言われた。長谷川一夫さんの女形を見た。踊らない。流す涙が、のところで涙を流す。そして流し目を。これを絶対やろうと。
歌のジョイントの仕事はやらなかったが。大阪フェスティバルホールに、村田英雄さんと三波春夫の歌のショーに出た。記者会見(村田英雄さん、三波春夫さん)で一二三(いちにーさん)で写真を撮れと。お二人は性格が全然ちがうけど死ぬまでライバルだったかと。
2曲目は、小椋佳さんの「少しは私に愛を下さい」
まさかこんな顔でこんな可愛い歌を作ったのかと思った。「夢芝居」を書いてもらう時に、その歌の背景を聞いた。小椋佳さんが当時、海外で出張に行き、その間に小椋佳さんが勤めていた銀合が合併になった。帰ったら自分の席がなかった。もう少し“愛があっても”と思って作った、恨み節の歌だと聞いた。それで歌のイメージが変わった。
座長に5年前になった。出来るまで頑張ってみようと思っている。芸能界とはいつ終わるかわからない。お客さんが入らなければ終わる。お客さんが決めてくれる。お客さんに来てもらえるように努めていきたい。
感想;
学校に行きたくても行けなかった。
生まれた環境の中で、ご自分の生きる道を探して、そして華を咲かせておられるように思いました。
渡辺 和子著「置かれた場所で咲きなさい」が多くの人に読まれました。
それぞれが置かれた場所が違います。
他の人の場所を羨むのではなく、自分の置かれた場所でできることを精一杯する。
まさに、それを実践されているのを感じました。
いつお客さんが来なくなるかの不安を抱えながら、日々の努力が重要なのでしょう。
今、セミナーの講師をさせていただいています。
いつ、セミナー会社からお声がかからなくなるかの不安を抱えています。
参加者が減る。それはまさに私が話す内容が参加者の満足を得なくなった時なのでしょう。
梅沢さんとまったく住む世界もやられていることも違いますが、仕事の基本は同じなんだと思いました。
会社員時代はそれを感じなくてもお給料をいただいていました。
本当は会社員でも同じだったのでしょう。