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南スーダン、隊員の生活環境は? 3人部屋、郷土食も "情報流出制限を”

2016-12-11 18:24:04 | 社会
http://digital.asahi.com/articles/ASJD94R57JD9UTFK00T.html?rm=390 相原亮、谷田邦一 2016年12月11日

南スーダン派遣部隊の待遇と家族支援
 南スーダンの国連平和維持活動(PKO)をめぐり、陸上自衛隊の派遣部隊が12日から、安全保障関連法に基づく新任務「駆けつけ警護」を実施できるようになる。日本から1万キロ以上離れた地で、隊員たちはどんな生活を送るのか――。朝日新聞が入手した陸自の内部資料から、隊員の生活環境や家族支援の一端が明らかになった。
特集:南スーダン
三浦記者の南スーダンルポ
 南スーダン派遣部隊は陸自第9師団(青森市)を中心とした約350人。道路整備などが主な任務で、首都ジュバの宿営地が拠点だ。
 駆けつけ警護では、離れた場所で武装勢力に襲われた国連やNGO職員らを助けに向かう。稲田朋美防衛相が11月、派遣部隊に対して今月12日から実施可能な任務として付与した。
 朝日新聞が入手したのは、今年に入って陸自が派遣予定の隊員家族向けに開いた説明会の資料。駆けつけ警護をめぐって賛否が分かれる中、隊員や家族らの不安を和らげる目的があるとみられる。
 資料などによると、隊員は宿営地に整備されたコンテナハウスで寝起きする。原則3人部屋で、炊事要員が担当する給食には郷土食が出ることも。過去には豚骨ラーメンが出たり、正月におせち料理が振る舞われたりした。
 宿営地には、雑誌などが並んだ厚生センターや談話室、ジムがある。医務室もあり、新任務付与に伴い医官が1人増え、4人となった。病気やけがの程度が重ければ、ジュバ市内の国連病院や、隣国ウガンダなどの総合病院で治療を受けるという。
 現地は年間平均気温が27度という高温地域。現在は乾期だが、雨期(5~9月)にはコレラが流行することもあり、隊員はワクチンを接種済みだ。過去に感染した隊員はいないという。
 派遣中、隊員には「国際平和協力手当」が1日1万6千円支給される(休養日は不支給)。所得税は1カ月当たり4万~6万円程度増える。年末調整などの手続きも必要だとしている。
 政府は6日、駆けつけ警護の任務遂行1回当たり8千円の手当を支給する政令を閣議決定。これにより、手当の総額は自衛隊が参加した過去のPKOで最高額となる。
 全員加入の海外旅行保険と任意のPKO保険がある。駆けつけ警護の任務中に死亡したり、重度障害になったりした場合の弔慰・見舞金の最高限度額は、現行の6千万円から9千万円に引き上げられた。
■家族から電話ダメ
 防衛省は隊員の家族支援にも力を入れる。「留守家族センター」を設け、疑問や相談に応じる態勢を整備。部隊の移動状況に関する情報や、アクシデントがあった際の隊員の安全情報も届けるという。
 日本から隊員に送ることができる小包は月1個5キロ以内とされており、電話での通話も1週間につき10分が基準。メールはできるが、電話を家族からかけることはできない。
 一方、防衛省は南スーダンPKOをめぐる報道内容に神経をとがらせており、報道機関への対応に注意するよう促している。
 家族への取材依頼があった場合には「必ず部隊の留守家族担当までご連絡を」と直接の対応を避けるよう要求。「報道はすべて正しい訳ではない」などとし、「必要な情報は、適時に自衛隊側から提供いたします」と呼びかけている。(相原亮、谷田邦一)

感想
家族からの電話はダメとのこと。
メールだけとか。
何故だめなのでしょう?
ひょっとして、メールは検閲が入るのでしょうか?

支援と言いながら、背景には南スーダンの状況が外部に漏れないようにと、政府は必死になってりうように感じました。

南スーダンで国連の警備隊に駆け付け警護依頼がありましたが、それを拒否したことで殺害、レイプが起きました。報道では、政府軍が攻撃したとのことです。

今度、駆け付け警護依頼が来て、戦闘になると、第二次世界大戦後初の戦争になります。
日本の自衛隊が戦争したことになります。

憲法 第九条
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

まさに武力による国際紛争の解決に該当してしまわないのでしょうか?
通常の試験にでる読解力だと、”憲法違反”になると思うのですが。

義父が戦争に駆り出され、シベリアで数年抑留されました。
シベリアの抑留は厳しく、亡くなる人も多かったですが、
義父は「日本の軍部の上官の方がロシア人より過酷だった。また抑留生活の方が、軍役に比べまたましだった」と言っていました。

その義父が、「まさか戦争になるとは思っていなかった。気付いたら戦争になり、猛反対は言えなくなってい待っていた」とよく言っていました。

今、まさにその戦争突入への1ページ目が開かれようとしているように思えてならないのですが・・・。