幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

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『存命の喜び』 奈良大学文学部教授 上野 誠 "今あるを感謝し喜ぶ”

2018-01-01 09:18:18 | 生き方/考え方
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牛を売る者あり  『徒然草』に次のような文章があります。  
「牛を売ろうとする人がいた。対して、牛を買おうとする人は、翌日、代金を支払って、牛を買い取ろうといった。ところが、その夜のうちに牛は死んでしまった。すなわち、この場合、牛を買おうとする人には、利益があったことになり、牛を売ろうした人は、損をしたことになる」と語る人がいた。

(拙訳)  牛の売り買いといっても、今の人はピンと来ませんよね。これは耕作に使う役牛ですから、牛が何年働いて、田を耕してくれるのかということが大切なんです。 ですから、牛を買った翌日に牛が死んでしまえば、買った人は丸々損をしたことになるのです。  人生は博打だといわれる意味も、ここにあるのでしょう。数十年にわたってえいえいと働き続け、やっと得た退職金で、老後のために株を買った人がいました。ところが、買った翌月にその会社が倒産して、株券が紙屑になったという話を、わたしは聞いたことがあります。株を買った人は、買うのを一ヶ月遅らせたなら、悲劇は免れたのに、と地団駄を踏んだそうです。

 ここから学ぶべき点は、予測というものは難しいということくらいでしょうか。話を『徒然草』に戻すと、牛を翌日に買い取り、代金を払うことにしておいて、 よかったですね。牛を買おうとしていた人にとっては、ほんとうにラッキーでした。  屁理屈か、人生の真実か、それが問題だ  ここまでが、普通の人の普通の考え方です。

 しかし、 『徒然草』を書いた吉田兼好という人は、普通の人じゃありません。『徒然草』がおもしろいのは、普通じゃないからです。兼好はときには巧妙な論理で、ときには詭弁や屁理屈とも思える論理で、人生の真実を炙り出してくれます。

 話の続きはこうです。ただし、後半は、大胆に意訳しています。その点は、ご注意ください。
 この話を聞いて、そばにいた人は、こういった。「牛の持ち主は、ほんとうに損をしたというけれど、それと同時に、大きな利益を得たはずだ。その理由はといえば、生きとし生ける者は、死というものが自分の近くにあるということを知らない。その点では、牛の話のとおりである。ならば、人とても同じこと。 予想だにできぬことではあったが、牛は死んでしまった。一方同じことながらはからずも牛の持ち主の方はといえば、今生きている。一日の命というものの価値たるや、億万の金よりも重いものだ。してみれば、牛の代金など、ガチョウの羽よりも軽いもの。そう考えれば、一日の命という億万の金を得て、それに比べれば一銭の値打ちしかない牛の代金を取り損なった人に、かりにも損があったなどとはいえ まい」と。

 すると、そこにいた一同は、嘲って「そんな屁理屈をいうなら、牛の持ち主のみならず、今生きている者はことごとく億万の金を得ていること になってしまうではないか?!」と言った。 (拙訳)

 命の重さは、地球より重いという人がいますが、買おうとした牛よりも、一日でも長生きができたとすれば、それは億万の金を得たのと同じこと。したがって、 牛を売ろうとした人に損はないというのです。まことに、不思議なことをいうもんです。 人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故なり
このあと、その理由が、生死をめぐる哲学論として 展開されます。つまり、「牛を売る者」の話は、一つの例話だったのです。

 そこで、先ほどの人物は、またこういった。「そういう論理を普遍化すれば、人間というものには、 死を憎むのならば、億万の金よりも重い生を愛すべきである、という人生の大原則のごときものが存在することになる。この生きて今あるという喜びを、日々に楽しまなくて何とする! 対して、愚かなる人たちは、この生きて今あることの楽しさを忘れ、無駄骨を折って、金だの名誉だの、二の次三の次の 楽しみの方に心を向けて、生きて今あるという億万の値を持つ宝が存在しているということを忘却してしまっているのだ。そして、一夜にして消え去る危うい宝ばかりを求めている。それでは、生きる意味を問い、それに答えるといった志を持った生き方を貫いてゆくことはできない。生ある間に、生きて今あることの喜びを楽しむことなく、死に際して死を恐れるというのなら、死を憎み生を愛すべしという 人生の大原則が成り立たないではないか。人が皆、生きて今あるという喜びを楽しまないのは、死というものを恐れていないからである。いや、死というものを恐れていないのではなくて、死というものが 自らの近くにあるということを忘れてしまっているのである。ただ、もしも、そういう生き方ではなく して、生死のことなどもう問題にもしないという生き方に徹することができるというのなら、それはそれで本物かもしれない。」と言うと、まわりにいた人びとは、ますますこの人のことを嘲った。 (拙訳)

 この不思議な議論を展開する人は、兼好ないしは兼好の分身であると考えられています。なるほど、そうかもしれません。兼好は、この奇妙な議論が、世間には受け入れられないということを知っていたのではないでしょうか。だから、語り手に同意しない聞き手を登場させて反論させたり、嘲りの言葉を吐かしたりしているのです。 人、死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや  

わたしは、原文にある「存命の喜び」を「生きて今ある喜び」と訳出しました。この文章の要点を一言でいうと、生きて今ある喜びを知らぬヤツは、愚か者だ

~公開講演で語り足りなかったこと~
4 2017年12月10日 長崎いのちの電話だより ということです。ただし、じゃあ「存命の喜び」って、 具体的にはいったい何だい? と聞かれると困ってしまうのです。まぁ、試験の模範解答としては、生き生きと生きる喜びというのでしょうが、ほんとうの答えにはなってませんよね。それでも、疑問は残ります。 そこで、多くの国文学者は、名誉やお金などの虚飾に よらない人生の喜びなどということを補って考えるのです。わたしも、そう補って、訳文を作りました。でも、名誉やお金で、喜びを感じるということもあるはずです。わたしは、何ものにもとらわれない清らかな 心をもって真理を探究する研究者ですが、名誉やお金も大好きです。この本では、名誉やお金など虚飾だといっていますが、ひそかにこの本の印税を計算して、 「売れたらいいなぁー」と取らぬ狸の皮算用をしてい ますし、助教授のときは、早く教授になって、威張り たいと思っていました。

 とはいうものの、わたしとて、小さいながらも、無垢の心の志がないわけではない。すぐれた論文を書いて、少しでも研究を前進させることができたらとも考えていますし、授業がうまくゆくとこれまた嬉しいもんです。だから、授業の準備にもそれなりに気を遣っています。ことに、試験の答案用紙の最後に「先生の授業で、はじめて学ぶ喜びを知りました」なんて書かれた日には、もう、嘘だとわかっていても無邪気に喜びます。焼肉をおごってもいいくらいです。  しかし、お前にとっていったい何が「存命の喜び」 かと、聞かれると、答えに窮してしまいます。わたし にとっての至福のときっていつだろう? 一切れ数万円の松阪牛のすき焼きをいただいたこともあります が、食べた後、少し淋しい気分になりました。また、たまにご接待で、夜の世界では著名なクラブで、美人 のホステスさんとお酒をいただく機会もありますが、気が付くとこちらの方が気疲れしていることもあります。

 「存命の喜び」って、いったいなんだろう、考え込んでしまいます。 「生きて今ある喜び」って何よ? いろいろ考えても結論は出ないので、逆にこう考えることにしましょうと思います。「あぁー、生きていてよかったと実感できた瞬間」に「存命の喜び」というものは生まれるのである、と。だから、どの事柄が 「存命の喜び」かどうかということについては、特定などできない。ある人にとっては「飲む」「打つ」「買う」で得られる喜びであり、ある人にとっては「読書」や「仕事」で得られる喜びである……だったら、「お金」 や「名誉」だって、その一つになり得るはずです。 至福の瞬間に出逢える日を夢見て生きる  ただし、ややお説教めいたことをいわせてもらうと、 お金や物、さらには与えられた快楽によって得られる 喜びには限界があると思います。一億する家に住んでいる人が、三百万円の家に住んでいる人より、幸せで あるという保証などどこにもありません。価格はどうあれ、家を努力して手に入れたときの喜びのほうが大きいでしょう。要は、心の底から生きていてよかった と実感できるかどうかです。人間とは、そんな至福の瞬間にいつか出逢える日を夢見て、残りの人生の時間を生きている動物なのだ、と思います。これもよくいわれることですが、人間は夢みる力によって生かされている淋しがり屋の動物なのです。

偶然と必然と もう、賢明な聴衆のみなさんにはおわかりでしょう。 わたしがこの講演で、「今と自分が大切なのであって、古典や過去が大切なのではない」「学んでも自分で考えないと、学んだ意味がない」「だから言葉の背後に ある心をひとりひとりが想像することが大切だ」と繰り返し述べて力説する理由が。  この講演で申し述べたような体験をしたからこそ、 以上のような考え方をするようになったのです。お陰で今でも、わたしは『徒然草』の「牛を売る者あり」 の文章のことを思い出すと、「存命の喜び」を感じることが、直近にあったかどうか、これから未来に起こり得るか、そのときのために日々の努力を怠っていないか、あれやこれやと考え込んでしまいます。それをかっこつけていうと、「古典とは、今を映す鏡」ということになるんです。 つながって、響きあって、広がってゆくわたしは、これまで、『徒然草』九十三段の出逢いについて語ってきました。学んでも、何も感じなかった言葉が、ある偶然をきっかけに、自分にとって大切 な言葉となった過程を、思い出話で語った次第です。 それは、わたしにとって一つの喜びでした。頭のなか で、知識や思いがつながって、それが響きあって、広 がってゆく。急に、お説教臭くなりますが、それこそ 学ぶ醍醐味だ、と思います。

 ところで、わたしが研究において専門としているの は、『万葉集』の研究です。その『万葉集』のなかにも、 兼好の考え方につながる考え方があります。大伴旅人 (おおとものたびと)の「酒を讃(ほ)むる歌十三首」 のうちの一首です。まず、大胆な意訳で示してみます。

 生きとし生ける者は――  ついには死を迎える  ならば、この世にいる間は……  楽しく生きなきゃー、ソン! (巻三の三四九、拙訳) 「生ける者 遂にも死ぬる ものにあれば この世にある間は 楽しくをあらな」(書き下し文)を、この ように訳してみました。一般には「生きている者は、 いずれは死ぬと決まっている。だからこの世にある間 は、楽しむべきだ」と訳すところです。この歌は、酒をほめる歌ですから、もちろん飲酒のたのしみを歌っ ているのですが、生が有限であればこそ、生をたのし めという思想は、『徒然草』九十三段のそれに近いも のです。だから、お酒もたのしもうよということです。 一種の現世享楽主義ですね。

 夢見る力が、生きる力なのだ。存命の喜びとは、一 種の現世享楽主義から生まれる。今、わたしは、そう思っています。本日は、拙いお話をお聞かせしました。 ご寛恕を乞いたく存じます。

感想
今あるを喜ぶ。
人はないものを見つけて悲しみ、あるものを見つけて感謝することを忘れがちです。
あるものを失くした時、そのものの大きさを思い知ります。
まさに病気はその一つでしょう。
健康で生きていることはとても有難いことだと普段から感謝して生きていくことなのでしょう。
そして、その感謝の気持ちを他の人のために少しでも時間を使うことができることが喜びなのだと思っています。