・ゼロ戦は日本の技術の粋を結集した世界一の絶品であった。空中戦で抜群の旋回性能を発揮し、鍛え上げられた操縦者たちは向かうところ敵なしで、アメリカ空軍は「ゼロ戦を避けろ」と指令を出すほどであった。しかし、アメリカはアラスカ半島に不時着したゼロ戦をグラマン社で徹底的に解体・分解し、弱点を探しあてた。ゼロ戦の急所は「ガソリン・タンク」と操縦士の「座席」。共に薄いアルミ製で、敵の弾が当たると爆発か即死である。グラマン社はゼロ戦に改良を加えた。アメリカ空軍グラマンF6Fを1943年9月、南太平洋空中戦に登場させた。タンクは分厚く、かつ柔らかいスポンジ状の生ゴムでおおわれており、少々の弾が当たっても、穴がする閉じた。座席も操縦士を包み込むゆおに分厚い鋼鉄で作られた。当然、重くなるのでゼロ戦より二倍強力なエンジン二千馬力がつけられた。空中戦で弾が当たってもグラマンは落ちなくなった。ゼロ戦が負けだした。
・アメリカ海軍は、日本の輸送船二千三百九十四隻を撃沈した。この数は日本の民間船の「85%」であり、日本の輸送能力の全滅の状態を示す。日本海軍はアメリカの無数の輸送船の僅か98隻しか沈めていない。
・沖縄の最前線で、負傷兵の看護にあたっていた勇敢な「ひめゆり舞台」の若い女子49名も、摩文仁村の小さな洞窟で自決した。日本人の屍が戦場に累々と積まれた。その数、二十万人とも、二十五万人とも言う。アメリカ兵4,915名、戦死。
・ヒトラーはドイツには信用できる者はいないので、日本へ逃亡するために、日本の潜水艦を回して欲しいと要請し、3月5日の早朝、日本の潜水艦が90日分の食料を積み、横須賀からハンブルクに向かった。ヒトラーと愛人のために、潜水艦には豪華な敷物を敷いた一室が作られていた。4月17日に、ヒトラーから早く来てくれと緊急の要請があり、我々はなにか大事件があったに違いないと理解した。それから、間もなく、ナチ・ドイツは壊滅した。
・1945年7月16日、夜明けの5時29分45秒、ニュー・メキシコ州アルバカーキから192キロ離れたアラモゴルド空軍基地で、人類初の原子爆弾の実験が成功した。直ちに、新型の爆弾がいつでも使用可能であると、ポツダムにいたトルーマン大統領に伝達された。
・どこの国でも暗号をたびたび変えるのだが、日本は暗号を一度も変えず、終戦になるまで、暗号が破られていることを知らなかった。これは日本が敵を過小評価したツケか。それとも、情報の価値を認識しない国民が支払った惨めな代償であったのだろうか。
・1945年7月26日、ポツダム宣言が発表された。鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺」すると返答した。8月2日、アメリカ軍情報機関は、「日本がポツダム宣言に反対する理由は、皇室の存続について明確な保証がないこと、戦争犯罪人を裁判にかけること、の二点です」とトルーマンに伝えた。アメリカの情報分析は実に正確であった。
・8月6日原子爆弾が広島上空で、ドーンと大爆発した。広島は消えた。15分後、「原爆、全ての面で大成功。実験よりも圧倒感あり。機内、異常なし」とホワイト・ハウスの「戦略室」に打電した。
・トルーマンは、「日本国民を完全な破壊から避けるためにポツダム宣言を日本政府に出したのだが、日本の指導者はその最後通牒を拒絶した」と言い、「もし彼らが今すぐ我々の要求を受け入れなければ、さらに破滅の雨を浴びることになるだろう。それはこの地球上でかつて想像もしなかったようなものである」と警告した。
・8月7日午後3時30分、大本営は、アメリカが「新型爆弾」を使用したと発表し、さらに次の見解を付け加えた。
「敵米国は日頃キリスト教を信奉する人道主義を呼称しながらこの非人道的残虐を敢てせることにより未来永劫“人道の敵”の烙印を押されたもので彼の仮面は完全に剥げ落ち日本は正義において既に勝ったというべきである。敵は引き続きこの種の爆弾を使用することが予想されるがこれにより決して正義は挫かれない。一億国民はいよいよ戦意を昴めるであろう」
・8月8日、駐モスクワ大使佐藤は、外相モロトフの執務室に呼びつけられた。モロトフは、「ソ連政府は、八月九日より、日本に対して戦争状態に入る」と宣告した。八月九日午前零時十分、ソ連軍は満州に突入し、組織的壊滅作戦を始めた。
・「ソ連兵は戦車で日本人の女、子供たちを轢き殺した直後、戦車の中から出てきた。それぞれ、手にペンチを持って、女、子供たちの死体から、また生きている者たちから、ペンチで金歯、銀歯を抜き取り、指輪を取る時は、「指をペンチで切り千切るんだ。オレがどうしてシベリアで生き残ったかって?そいつぁ、「話したくねえな・・・」
・トルーマンは、「日本はすぐにでも降伏する」と知っていた。にも拘わらず、八月九日、長崎に二発目のプルトニウム性原爆を投下した。一瞬にして八万から十万の人の市民が殺された。
・十四日朝、天皇陛下は、内閣が天皇の身の安全について連合国の保証が十分でないと激論しているのを目の前で聞き、「朕が身はいかになろうとも」戦争を継続して国民の苦しむのを見るに忍びない、論争に終止符を打たれた。その夜、日本政府は、陸軍の強硬な反対をおして、ポツダム宣言の受諾を決定した。翌十五日、天皇の終戦の詔書が日本全土に包装された。これを「玉音放送」という。
・トルーマンは、マッカーサーに史上空前の全権を与えた。
1)天皇と日本政府の統治権は、連合国軍最高司令官としてのあなた(マッカーサー)に隷属する。あなたは、あなたの権力を思う通りに行使できる。我々と日本の関係は条件付きのものではなく、無条件降伏に基づいている。あなたの権力は最高であり、日本側に何の疑念も抱かせてはならぬ。
2)日本の支配は、満足すべき結果が得られれば、日本政府を通じて行われるべきである。もし必要あらば、あなたが直接に行動してもよい。あなたは、あなたの出した命令を、武力行使を含め必要と思う方法で実行せよ」
・「第一に、軍事力を破壊せよ。戦争犯罪人を処罰せよ。議院内閣制を確立せよ。憲法を近代化せよ。自由選挙を行え。女性に参政権を与えよ。政治犯を釈放せよ。農民を開放せよ。自由な労働運動を確立せよ。自由経済を奨励せよ。警察官による弾圧を廃止せよ。自由で責任ある報道を発展させよ。教育を自由化せよ。政治権力を地方行政化せよ。宗教を国家から分離せよ」
・マッカーサーの言う「民主主義」とは、「アメリカの政治、社会文化および経済体制」だった。「日本人がこの精神を受け入れれば、この生き方を固く守り、慈しみ、大切にするようになる」「なぜなら、ここに日本の救いがあり、ここに日本の平和と幸福を得る機会があり、ここに文明の遅れたアジアの人々が、より高い文明を作れる希望があるからだ」
・マッカーサーにとって、キリスト教は、「アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの」であった。彼は「アメリカ」と「キリスト教」を同一視し、この「素晴らしい精神性」、即ち「キリスト教」を極東アジアに広めることがアメリカの義務と考え、「極東においてはまだ弱いキリスト教を強化することができれば、今、戦争運命論の餌食になっている何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを見に付け、戦争の魔性に抵抗できる精神を持つようになるであろう」と宣言する。
・「近代文明の尺度で計ると、我々が四十五歳であるのに対し、日本人は十二歳の子供のようなものだ。勉強中は誰でもそうだが、彼らは新し手本、新しい理念を見につけ易い。日本人には基本的な思想を植えつけることができる。日本人は生まれたばかりのようなもので、新しい考え方に順応性示すし、また、我々がどうにでも好きなように教育ができるのだ」
・(アメリカ兵による)婦女暴行も日常の茶飯事であり、新聞の記事にもならなかった。当時、検閲されている新聞には、日本婦女が暴行された記事なぞ、載せることはできなかった。
・厚木に上陸して十二日後、9月11日の朝、マッカーサーは、元東條英機陸軍大将が日本の戦犯第一号だと言った。その日の午後4時15分、占領軍の警察MPたちが逮捕のため同大将の邸宅に着いた時、東條は刀ではなく、メイド・イン・USAの32口径のコルト銃で自決しようとし、心臓を打ちそこない、肺を撃った。MPと一緒に連合軍従軍記者数十人も来ていた。鮮血に染まり重体でありながら、横たわったままの東條はこれらの記者たちと会見し、「大東亜戦争は負けたといえ正しい戦だったと自分は信じて居る」「戦争責任者の引き渡しは当然行うべきものであるが、自分としては勝者の法廷に立つことは出来ない」「自分は初め切腹するつもりであった、しかし切腹は往々死損なう場合があるので拳銃をもって自殺をはかったけれども即死出来なかったことは誠に残念である。と話した。東條は横浜のアメリカ陸軍の野戦病院でアメリカ軍委の手当を受け、回復した。1941年、東條が陸軍大臣であった時、日米開戦の前、彼が陸軍の全兵士に丸暗記させるほど徹底させた「戦陣訓」に日本兵の「玉砕精神」の支えとなった有名な一句がある。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。軍人東條が自決に失敗し、生き恥を曝したことは、日本国民に強烈な屈辱を失望感を齋し、また多くの人たちは怒りにも似た感情を味わった。かつての武士たちが大切にした「敗者の美学」を汚した「東條」はきたない言葉になった。これを聞いたマッカーサーは「作戦」が持った通りに進んでいる、とほくそ笑んていたに違いない。
・1946年1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛てにさんページにびっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるののは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の「憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れるとこなく続く恐れがある」「政府の諸機能は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」。そのような事態が勃発した場合、「最低百万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数十万人にのぼることになろう」。陸軍省をこれだけ脅した後、「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度な政策決定に属し、私が韓国することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。
・6月18日、キーナンは「天皇を戦争犯罪人として裁判にかけない」と言明した。キーナンは、マッカーサーの電報で説得されたアメリカ政府の命令に従っていただけだ。天皇処刑を望んでいた他の連合国は、説得されて沈黙するか、なおも要求し続けると、無視された。
・A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が、約二年十カ月間続く。裁判中に1名は発狂し免訴となり、2名亡くなり、残った25人対する判決が1948年11月4日に発表された。7名絞首刑、16名終身禁固、2名禁固刑7年、20年。A級「極悪戦犯」は、まだ19人残っていたが、マッカーサーは、この7人の処刑の翌日、12が宇24日、クリスマス・イブ、生き残っていた17名を全員釈放した。戦後、首相になった岸信介も釈放されたその一人。「日本財団」の創立者の笹川良一もその一人。ロッキード事件に深くかかわった児玉誉士夫もその一人。
・B・C級戦犯という人たちもいた。B・C級戦犯は、捕虜虐待、民間人の殺害、略奪などの行為をした罪を問われた。終戦と同時に、国内および外地で捕らわれた日本人「戦犯」だ。B・C級戦犯5,702人を裁判にかけ、4,404名が有罪判決を受け、その内984名が死刑にされた。
・マッカーサーは農地改革の成果を、「回想録」の中で次のように評価した。
「土地の再配分は、日本農村地帯における共産主義の浸透を防ぐ強固な防壁を築いた。今や、この国の農民一人一人が正当な権利を要求できる資本家になった」。しかし、不在地主への補償は何もなく、日本の「農地改革」自体が共産主義的であるという批判が、アメリカ国内で一時的だが高まった。
・マッカーサーと天皇は、35分間、天皇の通訳を通し、会談した。この会見で、天皇陛下が言われた言葉が、軍人マッカーサーを感動させた。
天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたにあいに来ました」
マッカーサー「この勇気ある態度は、私の魂までも震わせた」(マッカーサーの回想録)
・「社会タイムズ」によると、GHQの検閲に引っかかる記事は、
1)米軍兵士の犯罪を扱った記事
2)米軍兵士の私生活について、好ましくない印象を持たせる記事
3)占領軍の行為について、日本人の不満や憎しみを掻き立てるような記事
4)占領軍の失敗によって、日本人に損害を与えたことを報じた記事
5)食糧不足の深刻さに触れた記事
6)公式声明の出る前に、連合国の政策を報じた記事
7)連合国内部の内輪もめを暴露した記事
8)連合国の政策を批判した記事
9)日本の内政問題にGHQが干渉していることを書いた記事
10)戦争犯罪人を擁護している印象を与える記事
11)憲法草案は連合国の強制による産物であることを仄めかした記事
12)中国の内戦に米ソが関与していることを報じた記事
13)戦争犯罪人の指名に影響を与える記事
14)公式声明の出る前に、戦争犯罪人の逮捕を報じた記事
15)日本帝国の過去の戦争を正当化しようとした記事
これはマッカーサーがマスコミの力を十分認識しており、彼が自分の評価にいかに過敏に反応したかを示すものだ。
・GHQ民政局は各党の新憲法草案を分析する。
「天皇は臣民の輔翼に依り憲法の条規に従い統治権を行う」と断言した進歩党の草案は、「全提案の中でも最も保守的」であり、「天皇大権がそのまま残っている」「個人の自由、民主的手続きに欠けている」と非難された。
「天皇は統治権の総覧者なり」と言明した自由党案は、「進歩党案と五十歩百歩である」と一蹴された。
社会党案は、民政局の受けが良かった。「人権は経済的保障と共に規定されていた。司法権の独立もある。国会は三分の二の多数決で憲法改正ができる。個人の尊重に基づいた政府の機構ができている。国会が国家権力の最高機関になる。市民的自由も完全に保障されている。天皇は統治権から切り離されている」
「主権は人民にある」と宣言した共産党の提案は、「主権は人民にあり・・・天皇制は廃止する。基本的人権の完全実施、ことに経済的裏付けに注意を払っている」と褒められた。
共産党案がGHQにとっては最良のものであったが、共産党案であるが故に、そのようなことは口が裂けても言えない。日本共産党は、極悪人のスターリン・ソ連の出店だとGHQは思っていた。しかし、アチソン政治顧問はマッカーサーに、「共産党案を除けば、社会党案だけが、天皇と人権について我々の意図に近いものです」と白状している。
・マッカーサーがホイットニーに書かせた草案では「国権の発動たる戦争は放棄する・・・自衛のためでさえ・・・」となったのである。マッカーサー直筆のノートにもそう書いてある。
・マッカーサーが自衛放棄第九条と自分の関わりを否定しようとしたのは、己の名声ととって都合の悪い現実が次々と出てきたからだった。冷戦が激化し、中国共産主義の下に大革命を成功させ、ソ連が原爆実験に成功し、朝鮮半島がいまにも戦争になりそうになり、あたかもアジア全土が共産主義の下に屈服させられるのではないかという情勢が目の前に展開したので、吉田首相に命じて警察予備隊を創設し、共産主義に対して国防・自衛をするようにと命令した。
警察予備隊がのちに自衛隊になり、第九条の精神を侵した。即ち、マッカーサーは、自分の「読み」の甘さをさらけ出した。それ故に、マッカーサーは逃げ口上を並べ立て、責任を回避しようとする。「世界情勢が変わり、全人類が自由の防衛のため武器をもって立ち上がり、日本も危機に晒される事態となった時には、国の資源の許す限り、日本も最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという解釈は、どうこじつけても出てこない」
「私はこのことを憲法採択の時に声明し、後に必要になった時に提案した」と回想録の中で説明しているが、真実は、憲法採択時ではない。それから三年以上たった、1950年1月1日、日本国民への年頭メッセージの中で初めて明言した。今現在、自衛隊大反対、第九条大賛成の日本共産党は、当時、自衛権まで放棄すべきではないと考えていた。
・ヘレン・ミアーズ女史が帰国後、1948年に書いた「アメリカの鏡・日本」に、「アメリカは、勝つことの解かっていた戦争に日本を引き摺り込み、日本を徹底的に破壊し、力尽きた日本兵と一般市民を殺しまくり、勝敗のついた後でも、原子爆弾を二発も使い、さらなる大量殺戮を実行した。占領下、GHQは狂気の軍国主義日本を民主平和国家にすると独善的な言葉を使っているが、すばらしい文化と長い歴史を持っている日本に武力でアメリカ様式を押しつけているだけである」。アメリカ人によるこの卓越した本は、マッカーサーによる発売禁止、翻訳禁止の烙印を押された。占領下、この本が日本国民に読まれたら、彼の日本統治は崩壊していただろう。ミアーズ女史が心深く感じた羞恥心にも似た良心の呵責こそ、アメリカが日本に残した民主主義の貴重な教訓であったといえよう。
・日本を完全に非武装化し、「自衛のためでも武力は禁止」と憲法に書き込んだマッカーサーは、このひ弱い日本を自分の輝かしい業績と誇っていたのだが、共産主義が彼の偉業を脅かし、共産主義の悪行が彼の「読み」の甘さを暴露した。自分の「誤り」を隠しながら、その誤りをなおそうとする焦りに駆られ、マッカーサーは妥協なしの「赤狩り」を行い、ついに憲法第九条の「新解釈」をしなければならないほど追い込まれた。「朝鮮戦争は神より、私、老兵に与えられた最後の闘いである」と神に感謝したのは、まさに、彼の本音であった。「神に救われた」と思っていたのだ。
・それ故、日本の共産主義者を追放する一方で、日本政府は、かつて民主主義の「敵」と見倣された軍国主義者や国家主義者の大量「追放解除」を実施した。1950年9月~10月に、社会に復帰した「悪人」は13,340人、1951年6月~10月には、259,530人に達した。
・マッカーサーはアメリカ議会の上下両院の合同会議で名演説を行った。
「私は日本国民ほど清らかで、秩序正しくかつ勤勉な国民を他に知らない」と日本人を褒めちぎった。
・占領後、日本の最高裁判所が「自衛隊は違憲でない」と仄めかしているが、そのような軽薄なこじつけ論理で日本国を司どうとしている日本政府と司法界が、日本をいじけた弱者にしている。
感想;
過去を正しく理解し、そして次にいかすことなのでしょう。
そのためには、先ずは知ることから始まるのかと思います。
日本の戦後、マッカーサーがどうしたのか。
東條英機が自殺を図ろうとして助かったこと、軍人に恥をさらすな教えていた責任者が恥をさらしたなどは知りませんでした。
人を知るにはその人の発言より、行動を見ることだと言われていますが、著者が過去の記録からまとめた多くの人の行動はまさに、その人々が何をして何があったかを知ることのように思いました。
マッカーサーについてどんな人だったかを知ることができました。
そしてマッカーサーに対して行動した多くの人を知ることができました
・アメリカ海軍は、日本の輸送船二千三百九十四隻を撃沈した。この数は日本の民間船の「85%」であり、日本の輸送能力の全滅の状態を示す。日本海軍はアメリカの無数の輸送船の僅か98隻しか沈めていない。
・沖縄の最前線で、負傷兵の看護にあたっていた勇敢な「ひめゆり舞台」の若い女子49名も、摩文仁村の小さな洞窟で自決した。日本人の屍が戦場に累々と積まれた。その数、二十万人とも、二十五万人とも言う。アメリカ兵4,915名、戦死。
・ヒトラーはドイツには信用できる者はいないので、日本へ逃亡するために、日本の潜水艦を回して欲しいと要請し、3月5日の早朝、日本の潜水艦が90日分の食料を積み、横須賀からハンブルクに向かった。ヒトラーと愛人のために、潜水艦には豪華な敷物を敷いた一室が作られていた。4月17日に、ヒトラーから早く来てくれと緊急の要請があり、我々はなにか大事件があったに違いないと理解した。それから、間もなく、ナチ・ドイツは壊滅した。
・1945年7月16日、夜明けの5時29分45秒、ニュー・メキシコ州アルバカーキから192キロ離れたアラモゴルド空軍基地で、人類初の原子爆弾の実験が成功した。直ちに、新型の爆弾がいつでも使用可能であると、ポツダムにいたトルーマン大統領に伝達された。
・どこの国でも暗号をたびたび変えるのだが、日本は暗号を一度も変えず、終戦になるまで、暗号が破られていることを知らなかった。これは日本が敵を過小評価したツケか。それとも、情報の価値を認識しない国民が支払った惨めな代償であったのだろうか。
・1945年7月26日、ポツダム宣言が発表された。鈴木貫太郎首相は、ポツダム宣言を「黙殺」すると返答した。8月2日、アメリカ軍情報機関は、「日本がポツダム宣言に反対する理由は、皇室の存続について明確な保証がないこと、戦争犯罪人を裁判にかけること、の二点です」とトルーマンに伝えた。アメリカの情報分析は実に正確であった。
・8月6日原子爆弾が広島上空で、ドーンと大爆発した。広島は消えた。15分後、「原爆、全ての面で大成功。実験よりも圧倒感あり。機内、異常なし」とホワイト・ハウスの「戦略室」に打電した。
・トルーマンは、「日本国民を完全な破壊から避けるためにポツダム宣言を日本政府に出したのだが、日本の指導者はその最後通牒を拒絶した」と言い、「もし彼らが今すぐ我々の要求を受け入れなければ、さらに破滅の雨を浴びることになるだろう。それはこの地球上でかつて想像もしなかったようなものである」と警告した。
・8月7日午後3時30分、大本営は、アメリカが「新型爆弾」を使用したと発表し、さらに次の見解を付け加えた。
「敵米国は日頃キリスト教を信奉する人道主義を呼称しながらこの非人道的残虐を敢てせることにより未来永劫“人道の敵”の烙印を押されたもので彼の仮面は完全に剥げ落ち日本は正義において既に勝ったというべきである。敵は引き続きこの種の爆弾を使用することが予想されるがこれにより決して正義は挫かれない。一億国民はいよいよ戦意を昴めるであろう」
・8月8日、駐モスクワ大使佐藤は、外相モロトフの執務室に呼びつけられた。モロトフは、「ソ連政府は、八月九日より、日本に対して戦争状態に入る」と宣告した。八月九日午前零時十分、ソ連軍は満州に突入し、組織的壊滅作戦を始めた。
・「ソ連兵は戦車で日本人の女、子供たちを轢き殺した直後、戦車の中から出てきた。それぞれ、手にペンチを持って、女、子供たちの死体から、また生きている者たちから、ペンチで金歯、銀歯を抜き取り、指輪を取る時は、「指をペンチで切り千切るんだ。オレがどうしてシベリアで生き残ったかって?そいつぁ、「話したくねえな・・・」
・トルーマンは、「日本はすぐにでも降伏する」と知っていた。にも拘わらず、八月九日、長崎に二発目のプルトニウム性原爆を投下した。一瞬にして八万から十万の人の市民が殺された。
・十四日朝、天皇陛下は、内閣が天皇の身の安全について連合国の保証が十分でないと激論しているのを目の前で聞き、「朕が身はいかになろうとも」戦争を継続して国民の苦しむのを見るに忍びない、論争に終止符を打たれた。その夜、日本政府は、陸軍の強硬な反対をおして、ポツダム宣言の受諾を決定した。翌十五日、天皇の終戦の詔書が日本全土に包装された。これを「玉音放送」という。
・トルーマンは、マッカーサーに史上空前の全権を与えた。
1)天皇と日本政府の統治権は、連合国軍最高司令官としてのあなた(マッカーサー)に隷属する。あなたは、あなたの権力を思う通りに行使できる。我々と日本の関係は条件付きのものではなく、無条件降伏に基づいている。あなたの権力は最高であり、日本側に何の疑念も抱かせてはならぬ。
2)日本の支配は、満足すべき結果が得られれば、日本政府を通じて行われるべきである。もし必要あらば、あなたが直接に行動してもよい。あなたは、あなたの出した命令を、武力行使を含め必要と思う方法で実行せよ」
・「第一に、軍事力を破壊せよ。戦争犯罪人を処罰せよ。議院内閣制を確立せよ。憲法を近代化せよ。自由選挙を行え。女性に参政権を与えよ。政治犯を釈放せよ。農民を開放せよ。自由な労働運動を確立せよ。自由経済を奨励せよ。警察官による弾圧を廃止せよ。自由で責任ある報道を発展させよ。教育を自由化せよ。政治権力を地方行政化せよ。宗教を国家から分離せよ」
・マッカーサーの言う「民主主義」とは、「アメリカの政治、社会文化および経済体制」だった。「日本人がこの精神を受け入れれば、この生き方を固く守り、慈しみ、大切にするようになる」「なぜなら、ここに日本の救いがあり、ここに日本の平和と幸福を得る機会があり、ここに文明の遅れたアジアの人々が、より高い文明を作れる希望があるからだ」
・マッカーサーにとって、キリスト教は、「アメリカの家庭の最も高度な教養と徳を反映するもの」であった。彼は「アメリカ」と「キリスト教」を同一視し、この「素晴らしい精神性」、即ち「キリスト教」を極東アジアに広めることがアメリカの義務と考え、「極東においてはまだ弱いキリスト教を強化することができれば、今、戦争運命論の餌食になっている何億という文明の遅れた人々が、人間の尊厳、人生の目的という新しい考えを見に付け、戦争の魔性に抵抗できる精神を持つようになるであろう」と宣言する。
・「近代文明の尺度で計ると、我々が四十五歳であるのに対し、日本人は十二歳の子供のようなものだ。勉強中は誰でもそうだが、彼らは新し手本、新しい理念を見につけ易い。日本人には基本的な思想を植えつけることができる。日本人は生まれたばかりのようなもので、新しい考え方に順応性示すし、また、我々がどうにでも好きなように教育ができるのだ」
・(アメリカ兵による)婦女暴行も日常の茶飯事であり、新聞の記事にもならなかった。当時、検閲されている新聞には、日本婦女が暴行された記事なぞ、載せることはできなかった。
・厚木に上陸して十二日後、9月11日の朝、マッカーサーは、元東條英機陸軍大将が日本の戦犯第一号だと言った。その日の午後4時15分、占領軍の警察MPたちが逮捕のため同大将の邸宅に着いた時、東條は刀ではなく、メイド・イン・USAの32口径のコルト銃で自決しようとし、心臓を打ちそこない、肺を撃った。MPと一緒に連合軍従軍記者数十人も来ていた。鮮血に染まり重体でありながら、横たわったままの東條はこれらの記者たちと会見し、「大東亜戦争は負けたといえ正しい戦だったと自分は信じて居る」「戦争責任者の引き渡しは当然行うべきものであるが、自分としては勝者の法廷に立つことは出来ない」「自分は初め切腹するつもりであった、しかし切腹は往々死損なう場合があるので拳銃をもって自殺をはかったけれども即死出来なかったことは誠に残念である。と話した。東條は横浜のアメリカ陸軍の野戦病院でアメリカ軍委の手当を受け、回復した。1941年、東條が陸軍大臣であった時、日米開戦の前、彼が陸軍の全兵士に丸暗記させるほど徹底させた「戦陣訓」に日本兵の「玉砕精神」の支えとなった有名な一句がある。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ」。軍人東條が自決に失敗し、生き恥を曝したことは、日本国民に強烈な屈辱を失望感を齋し、また多くの人たちは怒りにも似た感情を味わった。かつての武士たちが大切にした「敗者の美学」を汚した「東條」はきたない言葉になった。これを聞いたマッカーサーは「作戦」が持った通りに進んでいる、とほくそ笑んていたに違いない。
・1946年1月25日、マッカーサーは、陸軍省宛てにさんページにびっしりと文が詰まっている極秘電報を打った。この電報が天皇の命を救う。
「天皇を告発すれば、日本国民の間に想像もつかないほどの動揺が引き起こされるだろう。その結果もたらされる事態を鎮めるののは不可能である」「天皇を葬れば、日本国家は分解する」。連合国が天皇を裁判にかければ、日本国民の「憎悪と憤激は、間違いなく未来永劫に続くであろう。復讐のための復讐は、天皇を裁判にかけることで誘発され、もしそのような事態になれば、その悪循環は何世紀にもわたって途切れるとこなく続く恐れがある」「政府の諸機能は崩壊し、文化活動は停止し、混沌無秩序はさらに悪化し、山岳地域や地方でゲリラ戦が発生する」「私の考えるところ、近代的な民主主義を導入するという希望は悉く消え去り、引き裂かれた国民の中から共産主義路線に沿った強固な政府が生まれるだろう」。そのような事態が勃発した場合、「最低百万人の軍隊が必要であり、軍隊は永久的に駐留し続けなければならない。さらに行政を遂行するためには、公務員を日本に送り込まなければならない。その人員だけでも数十万人にのぼることになろう」。陸軍省をこれだけ脅した後、「天皇が戦犯として裁かれるべきかどうかは、極めて高度な政策決定に属し、私が韓国することは適切ではないと思う」と外交辞令で長い電報を締めくくった。
・6月18日、キーナンは「天皇を戦争犯罪人として裁判にかけない」と言明した。キーナンは、マッカーサーの電報で説得されたアメリカ政府の命令に従っていただけだ。天皇処刑を望んでいた他の連合国は、説得されて沈黙するか、なおも要求し続けると、無視された。
・A級戦犯28人の「平和に対する罪」の審議が、約二年十カ月間続く。裁判中に1名は発狂し免訴となり、2名亡くなり、残った25人対する判決が1948年11月4日に発表された。7名絞首刑、16名終身禁固、2名禁固刑7年、20年。A級「極悪戦犯」は、まだ19人残っていたが、マッカーサーは、この7人の処刑の翌日、12が宇24日、クリスマス・イブ、生き残っていた17名を全員釈放した。戦後、首相になった岸信介も釈放されたその一人。「日本財団」の創立者の笹川良一もその一人。ロッキード事件に深くかかわった児玉誉士夫もその一人。
・B・C級戦犯という人たちもいた。B・C級戦犯は、捕虜虐待、民間人の殺害、略奪などの行為をした罪を問われた。終戦と同時に、国内および外地で捕らわれた日本人「戦犯」だ。B・C級戦犯5,702人を裁判にかけ、4,404名が有罪判決を受け、その内984名が死刑にされた。
・マッカーサーは農地改革の成果を、「回想録」の中で次のように評価した。
「土地の再配分は、日本農村地帯における共産主義の浸透を防ぐ強固な防壁を築いた。今や、この国の農民一人一人が正当な権利を要求できる資本家になった」。しかし、不在地主への補償は何もなく、日本の「農地改革」自体が共産主義的であるという批判が、アメリカ国内で一時的だが高まった。
・マッカーサーと天皇は、35分間、天皇の通訳を通し、会談した。この会見で、天皇陛下が言われた言葉が、軍人マッカーサーを感動させた。
天皇「私は、日本国民が戦争を闘うために行った全てのことに対して全責任を負う者として、あなたにあいに来ました」
マッカーサー「この勇気ある態度は、私の魂までも震わせた」(マッカーサーの回想録)
・「社会タイムズ」によると、GHQの検閲に引っかかる記事は、
1)米軍兵士の犯罪を扱った記事
2)米軍兵士の私生活について、好ましくない印象を持たせる記事
3)占領軍の行為について、日本人の不満や憎しみを掻き立てるような記事
4)占領軍の失敗によって、日本人に損害を与えたことを報じた記事
5)食糧不足の深刻さに触れた記事
6)公式声明の出る前に、連合国の政策を報じた記事
7)連合国内部の内輪もめを暴露した記事
8)連合国の政策を批判した記事
9)日本の内政問題にGHQが干渉していることを書いた記事
10)戦争犯罪人を擁護している印象を与える記事
11)憲法草案は連合国の強制による産物であることを仄めかした記事
12)中国の内戦に米ソが関与していることを報じた記事
13)戦争犯罪人の指名に影響を与える記事
14)公式声明の出る前に、戦争犯罪人の逮捕を報じた記事
15)日本帝国の過去の戦争を正当化しようとした記事
これはマッカーサーがマスコミの力を十分認識しており、彼が自分の評価にいかに過敏に反応したかを示すものだ。
・GHQ民政局は各党の新憲法草案を分析する。
「天皇は臣民の輔翼に依り憲法の条規に従い統治権を行う」と断言した進歩党の草案は、「全提案の中でも最も保守的」であり、「天皇大権がそのまま残っている」「個人の自由、民主的手続きに欠けている」と非難された。
「天皇は統治権の総覧者なり」と言明した自由党案は、「進歩党案と五十歩百歩である」と一蹴された。
社会党案は、民政局の受けが良かった。「人権は経済的保障と共に規定されていた。司法権の独立もある。国会は三分の二の多数決で憲法改正ができる。個人の尊重に基づいた政府の機構ができている。国会が国家権力の最高機関になる。市民的自由も完全に保障されている。天皇は統治権から切り離されている」
「主権は人民にある」と宣言した共産党の提案は、「主権は人民にあり・・・天皇制は廃止する。基本的人権の完全実施、ことに経済的裏付けに注意を払っている」と褒められた。
共産党案がGHQにとっては最良のものであったが、共産党案であるが故に、そのようなことは口が裂けても言えない。日本共産党は、極悪人のスターリン・ソ連の出店だとGHQは思っていた。しかし、アチソン政治顧問はマッカーサーに、「共産党案を除けば、社会党案だけが、天皇と人権について我々の意図に近いものです」と白状している。
・マッカーサーがホイットニーに書かせた草案では「国権の発動たる戦争は放棄する・・・自衛のためでさえ・・・」となったのである。マッカーサー直筆のノートにもそう書いてある。
・マッカーサーが自衛放棄第九条と自分の関わりを否定しようとしたのは、己の名声ととって都合の悪い現実が次々と出てきたからだった。冷戦が激化し、中国共産主義の下に大革命を成功させ、ソ連が原爆実験に成功し、朝鮮半島がいまにも戦争になりそうになり、あたかもアジア全土が共産主義の下に屈服させられるのではないかという情勢が目の前に展開したので、吉田首相に命じて警察予備隊を創設し、共産主義に対して国防・自衛をするようにと命令した。
警察予備隊がのちに自衛隊になり、第九条の精神を侵した。即ち、マッカーサーは、自分の「読み」の甘さをさらけ出した。それ故に、マッカーサーは逃げ口上を並べ立て、責任を回避しようとする。「世界情勢が変わり、全人類が自由の防衛のため武器をもって立ち上がり、日本も危機に晒される事態となった時には、国の資源の許す限り、日本も最大の防衛力を発揮すべきである。憲法第九条は最高の理想から出たものだが、挑発しないのに攻撃された場合でも自衛権を持たないという解釈は、どうこじつけても出てこない」
「私はこのことを憲法採択の時に声明し、後に必要になった時に提案した」と回想録の中で説明しているが、真実は、憲法採択時ではない。それから三年以上たった、1950年1月1日、日本国民への年頭メッセージの中で初めて明言した。今現在、自衛隊大反対、第九条大賛成の日本共産党は、当時、自衛権まで放棄すべきではないと考えていた。
・ヘレン・ミアーズ女史が帰国後、1948年に書いた「アメリカの鏡・日本」に、「アメリカは、勝つことの解かっていた戦争に日本を引き摺り込み、日本を徹底的に破壊し、力尽きた日本兵と一般市民を殺しまくり、勝敗のついた後でも、原子爆弾を二発も使い、さらなる大量殺戮を実行した。占領下、GHQは狂気の軍国主義日本を民主平和国家にすると独善的な言葉を使っているが、すばらしい文化と長い歴史を持っている日本に武力でアメリカ様式を押しつけているだけである」。アメリカ人によるこの卓越した本は、マッカーサーによる発売禁止、翻訳禁止の烙印を押された。占領下、この本が日本国民に読まれたら、彼の日本統治は崩壊していただろう。ミアーズ女史が心深く感じた羞恥心にも似た良心の呵責こそ、アメリカが日本に残した民主主義の貴重な教訓であったといえよう。
・日本を完全に非武装化し、「自衛のためでも武力は禁止」と憲法に書き込んだマッカーサーは、このひ弱い日本を自分の輝かしい業績と誇っていたのだが、共産主義が彼の偉業を脅かし、共産主義の悪行が彼の「読み」の甘さを暴露した。自分の「誤り」を隠しながら、その誤りをなおそうとする焦りに駆られ、マッカーサーは妥協なしの「赤狩り」を行い、ついに憲法第九条の「新解釈」をしなければならないほど追い込まれた。「朝鮮戦争は神より、私、老兵に与えられた最後の闘いである」と神に感謝したのは、まさに、彼の本音であった。「神に救われた」と思っていたのだ。
・それ故、日本の共産主義者を追放する一方で、日本政府は、かつて民主主義の「敵」と見倣された軍国主義者や国家主義者の大量「追放解除」を実施した。1950年9月~10月に、社会に復帰した「悪人」は13,340人、1951年6月~10月には、259,530人に達した。
・マッカーサーはアメリカ議会の上下両院の合同会議で名演説を行った。
「私は日本国民ほど清らかで、秩序正しくかつ勤勉な国民を他に知らない」と日本人を褒めちぎった。
・占領後、日本の最高裁判所が「自衛隊は違憲でない」と仄めかしているが、そのような軽薄なこじつけ論理で日本国を司どうとしている日本政府と司法界が、日本をいじけた弱者にしている。
感想;
過去を正しく理解し、そして次にいかすことなのでしょう。
そのためには、先ずは知ることから始まるのかと思います。
日本の戦後、マッカーサーがどうしたのか。
東條英機が自殺を図ろうとして助かったこと、軍人に恥をさらすな教えていた責任者が恥をさらしたなどは知りませんでした。
人を知るにはその人の発言より、行動を見ることだと言われていますが、著者が過去の記録からまとめた多くの人の行動はまさに、その人々が何をして何があったかを知ることのように思いました。
マッカーサーについてどんな人だったかを知ることができました。
そしてマッカーサーに対して行動した多くの人を知ることができました