映画監督。脚本した「あにいもうと」が6月25日スタート。日本映画の巨匠。86歳。1本/1年映画を撮っている。売れる映画にならないと。
1931年生まれ。「男はつらいよ」1969年。48作品。ギネスブックにも登録されている。「釣りバカ日誌」は脚本担当。
「妻よ薔薇のように 家族はつらいよ」上映中。
渥美清さんが亡くなって20年。何がこんなに人気になったのか? 自由。現実にあり得ないことが虎ならあり得る。憧れ。
1曲目はニーノ・ロータ「道のテーマ曲」。胸に残る。こんな映画があるのか。監督だけでなく脚本も。家族のものを描かれてきた。結果的にそうなった。家族のテーマは保守的な映画だと思っていた。小津作品など。黒沢作品でないといけないと若手は思っていた。でも気が付いていれば、自分も家族をテーマに作っていた。松竹の家風かもしれない。
「どんなテーマで書いても、そこには家族の基本を入れておけよ。そうすると落ち着くんだ」と先輩に言われた。
満州で生まれ、東京大学の法学部。お役人のコース。どんな仕事をするとは思っていた。映画研究会には入っていた。就職難でのきなみ落ちてしまった。就職が決まらない不安の夢は今でも見る。たくさん受けていたら松竹の助監督にひっかかった。
僕は遅れていた。仲間が監督になっていった。監督は無理だと思っていた。何人もの人を監督するのは無理だと思った。有名な俳優女優を指導し、上とは交渉しなければならない。そこで脚本家だったら何とかなれるかと勉強していたら、上から監督をやらせてもらった。家賃収入で生活する映画。評判にもならなかった。第一作で評判になると第一作と比べられる。何番目がヒットするのがよい。無我夢中に撮った。映画見たら、スクリーンに自分が映っているように思った。
「男はつらい」を撮るきっかけは、渥美清主演の映画を撮りたいとのこと。映画の前にTVを撮った。人気が上がり、13回やったら人気が出て、もう13回やって、虎次郎を殺した。もう、続けることはできない。脚本家よりも監督をしたいと思っていた。殺したら非難殺到。さくらさんから「私たちと一緒に仕事はしたくないのですか」と言われた。そこで映画で復活させようと。渥美清さんとじっくり話してスタイルが出てきた。的屋は渥美清さんからどんどん出てきて、渥美清さんから聞いて書き写した。台本は全て覚えていた。第1作の時は、渥美清さんと上手く行かなかった。コメディアンは笑わそうとサービスする。そこが食い違っていた。さくらがひろしさんと結婚するシーン。結婚したいと言われたシーンを撮ったが、どうも上手く行かなかった。でも撮り直した。3秒じっとしていて欲しいとお願いした。その後は渥美さんは私の意向をくみ取って演じてくれた。とても頭の良い人だった。おいちゃんが9作目で亡くなったので、これで終わりにしようと思った。大俳優だったので代わりになる人はいないと思った。映画興行主(地方の映画館)の人たちが、「男はつらいよ」で食べている。止めないで欲しいと言われた。映画の向こうに多くの人がいることを知った。
「家族はつらいよ」は作っていて楽しい。
蒼井優さん「大好き。恐がっている。尊敬している。ただただ怖いわけでない」。彼女には優しいと思うが。
妻夫木聡さん「“におうように”の台詞がとても印象的だった。涙が出てきた」。妻夫木さんは泣くがそれが相手役を伝わり良い演技になる。
2曲目「男はつらいよ」。渥美さんは相手の役者を上手くさせる。渥美さんがそうだった。渥美さんの小さな目が人を動かしていた。(男はつらいよを聞いて)懐かしいな。
今でも「男はつらいよ」の構成のアイデアが浮かぶ。でも作れない。とても残念。まだ生きている人(出演者)がたくさんいる。この人がどうなっているか。50年前と今という壮大な映画が作れる。
感想;
山田洋次さんは監督も脚本もすごいと思っていましたが、最初はそうではなかったようです。
いろいろやっていく中で才能が開花してこられたように思いました。
そこにはその時その場で一生懸命されて来られたからでしょう。
就職でことごとく落ちて、松竹の助監督にようやく引っかかったとのことです。
それは人生からの問いかけだったのでしょう。
その問いかけに精一杯生きて来られたからこそ、今の山田洋次さんがいらっしゃるように思いました。
今を大切にすることなのでしょう。
過去の体験を今に生かし、今できることをする。
ロゴセラピーでは「二度目の人生を生きるように今を生きる」との考えがあります。
つまり、5年後、10年後、今を振り返り「ああしとけばよかった」と思わないように今を生きることなのでしょう。「あの時の選択肢で良かった。あの時はあの選択肢しかできなかった」と5年後、10年後思えるように今を生きることだと思います。
1931年生まれ。「男はつらいよ」1969年。48作品。ギネスブックにも登録されている。「釣りバカ日誌」は脚本担当。
「妻よ薔薇のように 家族はつらいよ」上映中。
渥美清さんが亡くなって20年。何がこんなに人気になったのか? 自由。現実にあり得ないことが虎ならあり得る。憧れ。
1曲目はニーノ・ロータ「道のテーマ曲」。胸に残る。こんな映画があるのか。監督だけでなく脚本も。家族のものを描かれてきた。結果的にそうなった。家族のテーマは保守的な映画だと思っていた。小津作品など。黒沢作品でないといけないと若手は思っていた。でも気が付いていれば、自分も家族をテーマに作っていた。松竹の家風かもしれない。
「どんなテーマで書いても、そこには家族の基本を入れておけよ。そうすると落ち着くんだ」と先輩に言われた。
満州で生まれ、東京大学の法学部。お役人のコース。どんな仕事をするとは思っていた。映画研究会には入っていた。就職難でのきなみ落ちてしまった。就職が決まらない不安の夢は今でも見る。たくさん受けていたら松竹の助監督にひっかかった。
僕は遅れていた。仲間が監督になっていった。監督は無理だと思っていた。何人もの人を監督するのは無理だと思った。有名な俳優女優を指導し、上とは交渉しなければならない。そこで脚本家だったら何とかなれるかと勉強していたら、上から監督をやらせてもらった。家賃収入で生活する映画。評判にもならなかった。第一作で評判になると第一作と比べられる。何番目がヒットするのがよい。無我夢中に撮った。映画見たら、スクリーンに自分が映っているように思った。
「男はつらい」を撮るきっかけは、渥美清主演の映画を撮りたいとのこと。映画の前にTVを撮った。人気が上がり、13回やったら人気が出て、もう13回やって、虎次郎を殺した。もう、続けることはできない。脚本家よりも監督をしたいと思っていた。殺したら非難殺到。さくらさんから「私たちと一緒に仕事はしたくないのですか」と言われた。そこで映画で復活させようと。渥美清さんとじっくり話してスタイルが出てきた。的屋は渥美清さんからどんどん出てきて、渥美清さんから聞いて書き写した。台本は全て覚えていた。第1作の時は、渥美清さんと上手く行かなかった。コメディアンは笑わそうとサービスする。そこが食い違っていた。さくらがひろしさんと結婚するシーン。結婚したいと言われたシーンを撮ったが、どうも上手く行かなかった。でも撮り直した。3秒じっとしていて欲しいとお願いした。その後は渥美さんは私の意向をくみ取って演じてくれた。とても頭の良い人だった。おいちゃんが9作目で亡くなったので、これで終わりにしようと思った。大俳優だったので代わりになる人はいないと思った。映画興行主(地方の映画館)の人たちが、「男はつらいよ」で食べている。止めないで欲しいと言われた。映画の向こうに多くの人がいることを知った。
「家族はつらいよ」は作っていて楽しい。
蒼井優さん「大好き。恐がっている。尊敬している。ただただ怖いわけでない」。彼女には優しいと思うが。
妻夫木聡さん「“におうように”の台詞がとても印象的だった。涙が出てきた」。妻夫木さんは泣くがそれが相手役を伝わり良い演技になる。
2曲目「男はつらいよ」。渥美さんは相手の役者を上手くさせる。渥美さんがそうだった。渥美さんの小さな目が人を動かしていた。(男はつらいよを聞いて)懐かしいな。
今でも「男はつらいよ」の構成のアイデアが浮かぶ。でも作れない。とても残念。まだ生きている人(出演者)がたくさんいる。この人がどうなっているか。50年前と今という壮大な映画が作れる。
感想;
山田洋次さんは監督も脚本もすごいと思っていましたが、最初はそうではなかったようです。
いろいろやっていく中で才能が開花してこられたように思いました。
そこにはその時その場で一生懸命されて来られたからでしょう。
就職でことごとく落ちて、松竹の助監督にようやく引っかかったとのことです。
それは人生からの問いかけだったのでしょう。
その問いかけに精一杯生きて来られたからこそ、今の山田洋次さんがいらっしゃるように思いました。
今を大切にすることなのでしょう。
過去の体験を今に生かし、今できることをする。
ロゴセラピーでは「二度目の人生を生きるように今を生きる」との考えがあります。
つまり、5年後、10年後、今を振り返り「ああしとけばよかった」と思わないように今を生きることなのでしょう。「あの時の選択肢で良かった。あの時はあの選択肢しかできなかった」と5年後、10年後思えるように今を生きることだと思います。