1936年生まれ。高校卒業後6年間、渋谷で流しとして修業。27歳で紅白初出場。その後50回という最多出場。You Tubeで歌っている上手い素人から教えてもらう。
初めての紅白は張り切って歌った。手を出すのは辞めて欲しいと言われた。仁義を切るようだからと、実際はやってしまった。
ほんとうに声が変わらない(サワコ)。紙吹雪の時は紙を3枚ほど食べてしまった。扇風機の音がうるさかった。和田アキ子さんなど、緊張して「どうするどうする、手が震える」と言ってきた。でも緊張して上がることはない。
ひばりさんがおおとりで歌うと、それまで歌った歌が私の歌も含めてすべて消えて、ひばりさんの歌だけが残っている。私の歌う時に演出の専門家が振り付けしたバックの踊りの振りが、歌の歌詞を消していると言われた。それで演出家にひばりさんが言って変えてもらった。聞く人の気持ちでやらないといけないと。
NHKのど自慢に出た。友だちが申し込んでくれた。三浦洸一さん「落ち葉しぐれ」を歌った。鐘が2つだった。宮田輝さんが「良い声しているね。惜しかったね」と言ってくれたことで歌をやりたいと思った。
7人兄弟だった。東京に遊びに行くと言って、声専音楽学校を受験した。合格証明書を親に見せて親に許しを貰った。食べるために流しをやった。100円/3曲。あるお客さんが1,000円くれた。その人が船村徹先生を連れて来てくれた。
台湾行きの飛行機の中で生コンサートした。1万メートル上空でコンサートした。声がよく通る。台湾上空でぐるぐる回っていた。一度やってみたいと思った。
豪華な舞台装置。龍の上に乗った。ラスベガスに行って時の経験を生かした。お客さんが帰る時に喜んで帰って欲しい。いいものを見たと。それはステージの演出も含めて。
なんべん見ても(電飾の龍)きれいですね。実際に漁に出る船の大きさで造った。波はドライアイス(北島三郎の舞台)。巨大凧に乗った時は、逆さまになtった。
倉本聰さんが北島さんについて、付き人をしていた。脚本家として名前が既に売れていたころ。サワコ朝に出た時に「2000人のファンが集まった。なんでこんなに人が集まるのだろうかと思って付き人をやった。底辺の人を相手にしてやっている。それから自分の作品が変わった」。「お付きだったら、ちゃんと仕事をしないといけないよ。荷物持ったり、下足当番したりなど」。やるからと。リクエストコーナーでどんな曲も歌った。お客さんの好きな歌を歌うと、泣く人もいる。流しをやっていたので多くの曲を歌った。リクエストする人に思いがある。
うまく歌わなければとは考えない。一度も自分は上手いとは思ったことがない。どう歌ったら伝わるか。メロディーラインより詩から入る。いい歌詞が演歌の中にいっぱいある。自分だけがいい気持ちになったらいけない。
You Tubeの素人から学ぼうと教えてもらう。アマチュアにもこういう歌い方があるのかと。
アマチュアの中から教えてもらうということを後輩の歌手に言いたい。
頸椎を痛めた。声が出るとの1つ欠点がある。それが続くまで歌って行きたい。地方に行くとお客さんからお土産をいただいている。
感想;
これだけの大御所になっても、常に学び続けておられました。
それも、素人からも学ぶ姿勢に頭が下がります。
流しでの6年間が北島三郎さんが、ファンの心を惹きつけるコツを会得さてていたようです。
そのコツを付け人までして学ばれた倉本聰さんもすごいと思いました。
佐藤一斎(江戸時代に朱子学の大家/言志晩録 第六十条)
少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老にして学べば、則ち死して朽ちず。
孔子(『論語』)
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
学び続けることなのでしょう。
そして学ぶ楽しみを見つけられるかどうかがキーのようです。
初めての紅白は張り切って歌った。手を出すのは辞めて欲しいと言われた。仁義を切るようだからと、実際はやってしまった。
ほんとうに声が変わらない(サワコ)。紙吹雪の時は紙を3枚ほど食べてしまった。扇風機の音がうるさかった。和田アキ子さんなど、緊張して「どうするどうする、手が震える」と言ってきた。でも緊張して上がることはない。
ひばりさんがおおとりで歌うと、それまで歌った歌が私の歌も含めてすべて消えて、ひばりさんの歌だけが残っている。私の歌う時に演出の専門家が振り付けしたバックの踊りの振りが、歌の歌詞を消していると言われた。それで演出家にひばりさんが言って変えてもらった。聞く人の気持ちでやらないといけないと。
NHKのど自慢に出た。友だちが申し込んでくれた。三浦洸一さん「落ち葉しぐれ」を歌った。鐘が2つだった。宮田輝さんが「良い声しているね。惜しかったね」と言ってくれたことで歌をやりたいと思った。
7人兄弟だった。東京に遊びに行くと言って、声専音楽学校を受験した。合格証明書を親に見せて親に許しを貰った。食べるために流しをやった。100円/3曲。あるお客さんが1,000円くれた。その人が船村徹先生を連れて来てくれた。
台湾行きの飛行機の中で生コンサートした。1万メートル上空でコンサートした。声がよく通る。台湾上空でぐるぐる回っていた。一度やってみたいと思った。
豪華な舞台装置。龍の上に乗った。ラスベガスに行って時の経験を生かした。お客さんが帰る時に喜んで帰って欲しい。いいものを見たと。それはステージの演出も含めて。
なんべん見ても(電飾の龍)きれいですね。実際に漁に出る船の大きさで造った。波はドライアイス(北島三郎の舞台)。巨大凧に乗った時は、逆さまになtった。
倉本聰さんが北島さんについて、付き人をしていた。脚本家として名前が既に売れていたころ。サワコ朝に出た時に「2000人のファンが集まった。なんでこんなに人が集まるのだろうかと思って付き人をやった。底辺の人を相手にしてやっている。それから自分の作品が変わった」。「お付きだったら、ちゃんと仕事をしないといけないよ。荷物持ったり、下足当番したりなど」。やるからと。リクエストコーナーでどんな曲も歌った。お客さんの好きな歌を歌うと、泣く人もいる。流しをやっていたので多くの曲を歌った。リクエストする人に思いがある。
うまく歌わなければとは考えない。一度も自分は上手いとは思ったことがない。どう歌ったら伝わるか。メロディーラインより詩から入る。いい歌詞が演歌の中にいっぱいある。自分だけがいい気持ちになったらいけない。
You Tubeの素人から学ぼうと教えてもらう。アマチュアにもこういう歌い方があるのかと。
アマチュアの中から教えてもらうということを後輩の歌手に言いたい。
頸椎を痛めた。声が出るとの1つ欠点がある。それが続くまで歌って行きたい。地方に行くとお客さんからお土産をいただいている。
感想;
これだけの大御所になっても、常に学び続けておられました。
それも、素人からも学ぶ姿勢に頭が下がります。
流しでの6年間が北島三郎さんが、ファンの心を惹きつけるコツを会得さてていたようです。
そのコツを付け人までして学ばれた倉本聰さんもすごいと思いました。
佐藤一斎(江戸時代に朱子学の大家/言志晩録 第六十条)
少にして学べば、則ち壮にして為すことあり。
壮にして学べば、則ち老いて衰えず。
老にして学べば、則ち死して朽ちず。
孔子(『論語』)
これを知る者はこれを好む者に如かず。
これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」
学び続けることなのでしょう。
そして学ぶ楽しみを見つけられるかどうかがキーのようです。