・「世界のはじまり」
「日本書紀」を見ると、「混沌として鶏の卵のように形も決まっていなかった」とある。
ところで、ギリシャ神話のオヴィディウスの「変身物語」のはじまりを見ると、「海と、大地と、万物をおおう大空が存在する以前には、自然の相貌は全世界にわたって同一だった。ひとはこれを『混沌』と呼んだが、それは、何の手も加えられず、秩序だてられてもいない集塊にすぎなかった」とある
旧約聖書
「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、紙の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた」
これはさきに示した自然発生型の話とは、まったく異なっている。はじめにあるのは「神」であり、その神がすべてを創造する。
・徳島県三好郡
「桃太郎は遊んでばかりいる。爺は桃太郎に仕事をしろという。桃太郎は山へ行くが、木や柴の切り方を知らない。株になるような木を根元から引き抜いてかついで帰る。家に着き、木を家にたてかけると、家がつぶれて、爺はめしぞうげ(夏に飯を入れておく籠)に、婆は雑炊鍋に首を突っ込んで死ぬ」
こんな話を読むと、私などはすぐ最近の家庭内暴力の例を想起する。子どもはせっかく「神の子」として生まれてきたのに、親は人間のはからいで「よい子」に育てようとする。
・日本の海軍の軍艦は戦うことを第一義としているので、軍人の寝食については最小限にしているために、その分だけ武器を多く積める。それに対してアメリカ軍の軍艦は、兵隊の移住スペースを多く使っているので無駄なのだと。その結果がどうなったかは皆さん御存知のとおりである。
・高校生の娘が陸上競技部に入りたいと言う。「そんな激しい運動は、健康のためによくありません」と母親が禁止する。娘が恋愛すると、「あんな男と結婚すると不幸になるにきまっています」と反対する。そんなときに、母親は娘の魂をにぎりつぶすようなことをしてはいないだろうか。・・・
白雪姫は殺されることは逃れたものの、結果的には家出をしてしまったことになる。
・西洋の昔話では、最期は結婚でめでたしめでたしと終わるのが多い。それに比して、日本の昔話は皆さん御存知の「夕鶴」などのことを考えていただくとよくわかるとおり、結婚によるハッピーエンドの物語とはなっていない。・・・
しかし、日本の昔話で「米福粟福」などの話は最後に娘が離婚して終わりになる。これは「継子いじめ」の果てに、いじめられていた継子が幸福な結婚をする「シンデレラ」型の話である。
・「落窪物語」では・・・継母に対してつぎつぎと復讐するところが語られている。・・・その「復讐」もやたらに厳しいものではなく、最期のところでは、継母と和解することになる。これあh「白雪姫」の物語で、継母が結婚式に招かれた、行ってみると、真っ赤に焼かれた鉄の靴をはかされ、たまらなくて荒れ狂って死んでしまった、とういうのと好対照をなしている。
・「絵姿女房」
・「花咲爺」
動物の声をきいたり、理解したりして、それが成功のヒントとなる話は昔話に多い。
この爺さんのもうひとつの特徴は過去にこだわらないことである。大切な犬が殺される。しかし、それについて隣の爺さんと争うよりも、犬を葬ってやってそこに木を植えることに心を使う。臼を燃やされたときも、その灰をもらってくる。過去にこだわったり、不幸な出来事にこだわったりせずに、そのことを受けいれて、それを前進の手がかりにしている。老人が過去にこだわり出したり、「せっかく・・・したのに、駄目になってしまって」などと嘆きだすと、ものごとが停滞しはじめる。
前進する、と言えばむしろ若者のこと、と考えられる。しかし、この爺さんは自分の意思や意図に従って前進しようと努力しているのではない。動物の声に従ってみたり、思いがけない不幸をそのまま受けいれて。その流れに従ったりして進んでいく。ここに老人らしさがあり、若者のそれとは一味違ってくるのである。これをやり抜こうとか、こうしなくてはならない、というような若者らしい前進の姿勢と異なり、そこには老人の知恵がある。物事を進めてゆく原動力を自分の意思におくのではなく、犬の意思や、隣の爺さんの行為の結果などにおいている。
・ナホバの物語全体について、ゾルブロットが「この物語(最初の女)の中心的主題は、ちょっと他の言語には翻訳しにくい言葉で、ホズク(Hozhg)という、英語ならbeauty(美)、balance(均衡)、harmony(調和)、これらの三つの言葉を組み合わせて、どうやらやっとその真意に、ある程度近づけるような観念だと言える」と述べているのは、実に卓見であると言わねばならない。
「物語を通じて起こるすべての事柄は直接的にも間接的にも、男と女との間の、まことに微妙なバランスに関わっている」。そして、そのなかに両性具有の話が出てくるのである。
・「かちかち山」
「日本昔話大成!」を見ると、こちらは全国で採集された「かちかち山」の類話が沢山所収されている。それを見ると、兎がやってきて元気づけるどころか、爺さんが狸にだまされて婆汁を食ったところで話が終わりになっているのが、多くあることがわかる。・・・
岩波文庫に掲載されているもうひとつの話を見ると、確かに「かちり山(かちかち山)」「ぼうぼう山」という言葉は出てくる。しかし、これは兎と熊のおはなしで、われわれの知っている「かちかち山」の狸と兎の話によく似ているが、この話では熊は別に悪いことをしたわけでもなく、さんざん兎にいたずらをされるだけ、兎は悪者の熊をこらしめるためにしているのではに。この独立した二つの話をひとつにし、狸と熊とを同一として結びつけると、兎は俄然正義の味方になり、全体として勧善懲悪の「かちかち山」、つまりわれわれのしている話になる。そして「日本昔話大成!」を見ると、このタイプの類話も、日本中では相当多く語られていることがわかる。
・トリックスター
「亀に負けた兎」の話に出てくる兎は、典型的なトリックスター(いたずら者)である。
・影の恐さ
「恐いものなしのジョヴァンニン」の結末はどうなったであろう。「恐いものなしのジョヴァンニは、あの金貨で大金持ちになり、仕合せにその屋敷で暮らした。そしてある日のこと、振り向きざまに、自分の影を見てひどく怯え、そのまま死んでしまった」・・・
恐いものなしのジョヴァンニの怯えた「影」とは、いったい何だろう。すべてのものには-人間も含めて-影がある。影がなかったら平板になってしまう。影によってはじめて、それは三次元の存在になる。
スイスの分析心理学所ユングは、人間はすべて「影」をもっていると考えた。彼はそれをまず簡単に言って、その人の生きていない反面であると述べた。それぞれの人はその人生を生きている。生涯のなかで実にいろいろなことをかんがえ、思い、感じ、また行動してきている。しかし、その人はまだ多くのことを「生きていない半面」としてもっている。人間は自分のできることすべてを「生きる」ことは、もちろんあり得ない。
「影の反逆」ということがある。生きて来なかった半面が急に全面に押し出てくる。それが特に感じられる年齢のひとつとして、中年がある。これまでまったくの堅パンで、異性のことなど無関心と思われていた人が、急に誰か異性に心惹かれる。こなると周囲の人々にとっては、その人が狂いだしたとしか思えない。「なぜ、何な人に」と言いたくなるが、その恋人こそ、彼または彼女にとって生きて来なかった半面を生きる相手としてふさわしい。影は長い間抑え込んでいるほど極端化し、強力になる傾向をもっている。従って、それは常識的な価値観や判断とは異なることが多い。
・思春期の子どもたちで、自分の内界に生じていることにつかまってしまったものは、身動きのとれぬ状態になるか、無茶苦茶な暴発的な行動をとることになる。
・影とのつき合い
「前向き」の姿勢でばかり頑張らずに、ときどきは影の方を見て、それと上手につき合うことだろう、と言っても、それはなかなか難しい。うっかり影と仲良くなってしまったら破滅の道をたどることになる。とってずっと無視し続けていると、ジョヴァンニのように、突然死することになる。
・「べに皿かけ皿」
・「白雪姫」や「ヘンゼルとグレーテル」の物語は、もともとは実母の物語であったのに、グリム兄弟がこれを継母に変えてしまったことを指摘した。グリム兄弟は実母がこれほどひどいことをするはずがない、と思ったのである。しかし、実際はそうではなく、実の親と子の間でも、いろいろな心の葛藤が生じ、母親が自分の子どもを殺したくなるような気持ちさえ生じることがある。
母であるということは、複雑なことである。それを無理に割り切ろうとしても相反する二面性をもっていると言うべきである。「べに皿かけ皿」の話においても、継母は冷たいが、べに皿が一人になって会った一軒家の婆さまは、それとはまったく反対である。・・・この対立する二つの女性像は、母なるものの二面性を際立った形で示している。
・もともと矛盾した存在であるものを、そのままで受けいれるか、何とかして明確に分割して理解するかは、人間い課せられた永遠の課題かもしれない。
・「灰坊」
・ケルトたちは「輪廻転生」を信じていた。
・「カムイユカット昔話」
アイヌの昔話は、現在に生きる者に直接的に役立つ形で語られている。
・クマ神はクマの姿をとってこの世に現れ、人間に殺されることによって、その皮や肉を提供し、神の国に帰っていく。時がくれば、それはまたこの世に現れるだろう。生と死、人間世界と神の世界が見事に循環しているのだ。
・私の人格形成に果たした「おはなし」の役割は実に大きいと言わねばならない。・・・
私の専門の臨床心理学は、「人生学」のようなところがあるので、おはなしのもつ人生の知恵によって助けられることが多いわけである。
感想;
昔話は絵本などから知ります。
入院児と遊ぶボランティアをしていたことがあり、そこにはたくさんの絵本があり、子どもたちに絵本を見せながら話しました。
自然と多くの絵本を知りました。
大学の小児科の教授が遊びのボランティアのメンバーに「花さき山」を紹介しながら、「皆さんが子どもたちと遊んでくれていることがいかに子どもたちにとって大切か」を話されお礼を言われました。
単にお礼を言われるより、絵本の内容から、より多くの感謝の気持ちが伝わってきました。
絵本をこのように活用することができるんだと思いました。
小さいときに何度も見た「ちいさいおうち」を60年後に改めて見ました。
柳田邦男さんが「大人も絵本を」と言われていますが、その通りだと思います。
グリム兄弟が少し話を変えていることを知り、「本当は怖いグリム童話」を読んだりしました。
なんで昔話は怖いものがあるのだろうと思ったりしていました。
今回河合隼雄さんの昔話の解釈を読み、そのことを少し知り改めて昔話は奥が深いなと思いました。
「日本書紀」を見ると、「混沌として鶏の卵のように形も決まっていなかった」とある。
ところで、ギリシャ神話のオヴィディウスの「変身物語」のはじまりを見ると、「海と、大地と、万物をおおう大空が存在する以前には、自然の相貌は全世界にわたって同一だった。ひとはこれを『混沌』と呼んだが、それは、何の手も加えられず、秩序だてられてもいない集塊にすぎなかった」とある
旧約聖書
「はじめに神は天と地を創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、紙の霊が水のおもてをおおっていた。神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。神はその光とやみとを分けられた」
これはさきに示した自然発生型の話とは、まったく異なっている。はじめにあるのは「神」であり、その神がすべてを創造する。
・徳島県三好郡
「桃太郎は遊んでばかりいる。爺は桃太郎に仕事をしろという。桃太郎は山へ行くが、木や柴の切り方を知らない。株になるような木を根元から引き抜いてかついで帰る。家に着き、木を家にたてかけると、家がつぶれて、爺はめしぞうげ(夏に飯を入れておく籠)に、婆は雑炊鍋に首を突っ込んで死ぬ」
こんな話を読むと、私などはすぐ最近の家庭内暴力の例を想起する。子どもはせっかく「神の子」として生まれてきたのに、親は人間のはからいで「よい子」に育てようとする。
・日本の海軍の軍艦は戦うことを第一義としているので、軍人の寝食については最小限にしているために、その分だけ武器を多く積める。それに対してアメリカ軍の軍艦は、兵隊の移住スペースを多く使っているので無駄なのだと。その結果がどうなったかは皆さん御存知のとおりである。
・高校生の娘が陸上競技部に入りたいと言う。「そんな激しい運動は、健康のためによくありません」と母親が禁止する。娘が恋愛すると、「あんな男と結婚すると不幸になるにきまっています」と反対する。そんなときに、母親は娘の魂をにぎりつぶすようなことをしてはいないだろうか。・・・
白雪姫は殺されることは逃れたものの、結果的には家出をしてしまったことになる。
・西洋の昔話では、最期は結婚でめでたしめでたしと終わるのが多い。それに比して、日本の昔話は皆さん御存知の「夕鶴」などのことを考えていただくとよくわかるとおり、結婚によるハッピーエンドの物語とはなっていない。・・・
しかし、日本の昔話で「米福粟福」などの話は最後に娘が離婚して終わりになる。これは「継子いじめ」の果てに、いじめられていた継子が幸福な結婚をする「シンデレラ」型の話である。
・「落窪物語」では・・・継母に対してつぎつぎと復讐するところが語られている。・・・その「復讐」もやたらに厳しいものではなく、最期のところでは、継母と和解することになる。これあh「白雪姫」の物語で、継母が結婚式に招かれた、行ってみると、真っ赤に焼かれた鉄の靴をはかされ、たまらなくて荒れ狂って死んでしまった、とういうのと好対照をなしている。
・「絵姿女房」
・「花咲爺」
動物の声をきいたり、理解したりして、それが成功のヒントとなる話は昔話に多い。
この爺さんのもうひとつの特徴は過去にこだわらないことである。大切な犬が殺される。しかし、それについて隣の爺さんと争うよりも、犬を葬ってやってそこに木を植えることに心を使う。臼を燃やされたときも、その灰をもらってくる。過去にこだわったり、不幸な出来事にこだわったりせずに、そのことを受けいれて、それを前進の手がかりにしている。老人が過去にこだわり出したり、「せっかく・・・したのに、駄目になってしまって」などと嘆きだすと、ものごとが停滞しはじめる。
前進する、と言えばむしろ若者のこと、と考えられる。しかし、この爺さんは自分の意思や意図に従って前進しようと努力しているのではない。動物の声に従ってみたり、思いがけない不幸をそのまま受けいれて。その流れに従ったりして進んでいく。ここに老人らしさがあり、若者のそれとは一味違ってくるのである。これをやり抜こうとか、こうしなくてはならない、というような若者らしい前進の姿勢と異なり、そこには老人の知恵がある。物事を進めてゆく原動力を自分の意思におくのではなく、犬の意思や、隣の爺さんの行為の結果などにおいている。
・ナホバの物語全体について、ゾルブロットが「この物語(最初の女)の中心的主題は、ちょっと他の言語には翻訳しにくい言葉で、ホズク(Hozhg)という、英語ならbeauty(美)、balance(均衡)、harmony(調和)、これらの三つの言葉を組み合わせて、どうやらやっとその真意に、ある程度近づけるような観念だと言える」と述べているのは、実に卓見であると言わねばならない。
「物語を通じて起こるすべての事柄は直接的にも間接的にも、男と女との間の、まことに微妙なバランスに関わっている」。そして、そのなかに両性具有の話が出てくるのである。
・「かちかち山」
「日本昔話大成!」を見ると、こちらは全国で採集された「かちかち山」の類話が沢山所収されている。それを見ると、兎がやってきて元気づけるどころか、爺さんが狸にだまされて婆汁を食ったところで話が終わりになっているのが、多くあることがわかる。・・・
岩波文庫に掲載されているもうひとつの話を見ると、確かに「かちり山(かちかち山)」「ぼうぼう山」という言葉は出てくる。しかし、これは兎と熊のおはなしで、われわれの知っている「かちかち山」の狸と兎の話によく似ているが、この話では熊は別に悪いことをしたわけでもなく、さんざん兎にいたずらをされるだけ、兎は悪者の熊をこらしめるためにしているのではに。この独立した二つの話をひとつにし、狸と熊とを同一として結びつけると、兎は俄然正義の味方になり、全体として勧善懲悪の「かちかち山」、つまりわれわれのしている話になる。そして「日本昔話大成!」を見ると、このタイプの類話も、日本中では相当多く語られていることがわかる。
・トリックスター
「亀に負けた兎」の話に出てくる兎は、典型的なトリックスター(いたずら者)である。
・影の恐さ
「恐いものなしのジョヴァンニン」の結末はどうなったであろう。「恐いものなしのジョヴァンニは、あの金貨で大金持ちになり、仕合せにその屋敷で暮らした。そしてある日のこと、振り向きざまに、自分の影を見てひどく怯え、そのまま死んでしまった」・・・
恐いものなしのジョヴァンニの怯えた「影」とは、いったい何だろう。すべてのものには-人間も含めて-影がある。影がなかったら平板になってしまう。影によってはじめて、それは三次元の存在になる。
スイスの分析心理学所ユングは、人間はすべて「影」をもっていると考えた。彼はそれをまず簡単に言って、その人の生きていない反面であると述べた。それぞれの人はその人生を生きている。生涯のなかで実にいろいろなことをかんがえ、思い、感じ、また行動してきている。しかし、その人はまだ多くのことを「生きていない半面」としてもっている。人間は自分のできることすべてを「生きる」ことは、もちろんあり得ない。
「影の反逆」ということがある。生きて来なかった半面が急に全面に押し出てくる。それが特に感じられる年齢のひとつとして、中年がある。これまでまったくの堅パンで、異性のことなど無関心と思われていた人が、急に誰か異性に心惹かれる。こなると周囲の人々にとっては、その人が狂いだしたとしか思えない。「なぜ、何な人に」と言いたくなるが、その恋人こそ、彼または彼女にとって生きて来なかった半面を生きる相手としてふさわしい。影は長い間抑え込んでいるほど極端化し、強力になる傾向をもっている。従って、それは常識的な価値観や判断とは異なることが多い。
・思春期の子どもたちで、自分の内界に生じていることにつかまってしまったものは、身動きのとれぬ状態になるか、無茶苦茶な暴発的な行動をとることになる。
・影とのつき合い
「前向き」の姿勢でばかり頑張らずに、ときどきは影の方を見て、それと上手につき合うことだろう、と言っても、それはなかなか難しい。うっかり影と仲良くなってしまったら破滅の道をたどることになる。とってずっと無視し続けていると、ジョヴァンニのように、突然死することになる。
・「べに皿かけ皿」
・「白雪姫」や「ヘンゼルとグレーテル」の物語は、もともとは実母の物語であったのに、グリム兄弟がこれを継母に変えてしまったことを指摘した。グリム兄弟は実母がこれほどひどいことをするはずがない、と思ったのである。しかし、実際はそうではなく、実の親と子の間でも、いろいろな心の葛藤が生じ、母親が自分の子どもを殺したくなるような気持ちさえ生じることがある。
母であるということは、複雑なことである。それを無理に割り切ろうとしても相反する二面性をもっていると言うべきである。「べに皿かけ皿」の話においても、継母は冷たいが、べに皿が一人になって会った一軒家の婆さまは、それとはまったく反対である。・・・この対立する二つの女性像は、母なるものの二面性を際立った形で示している。
・もともと矛盾した存在であるものを、そのままで受けいれるか、何とかして明確に分割して理解するかは、人間い課せられた永遠の課題かもしれない。
・「灰坊」
・ケルトたちは「輪廻転生」を信じていた。
・「カムイユカット昔話」
アイヌの昔話は、現在に生きる者に直接的に役立つ形で語られている。
・クマ神はクマの姿をとってこの世に現れ、人間に殺されることによって、その皮や肉を提供し、神の国に帰っていく。時がくれば、それはまたこの世に現れるだろう。生と死、人間世界と神の世界が見事に循環しているのだ。
・私の人格形成に果たした「おはなし」の役割は実に大きいと言わねばならない。・・・
私の専門の臨床心理学は、「人生学」のようなところがあるので、おはなしのもつ人生の知恵によって助けられることが多いわけである。
感想;
昔話は絵本などから知ります。
入院児と遊ぶボランティアをしていたことがあり、そこにはたくさんの絵本があり、子どもたちに絵本を見せながら話しました。
自然と多くの絵本を知りました。
大学の小児科の教授が遊びのボランティアのメンバーに「花さき山」を紹介しながら、「皆さんが子どもたちと遊んでくれていることがいかに子どもたちにとって大切か」を話されお礼を言われました。
単にお礼を言われるより、絵本の内容から、より多くの感謝の気持ちが伝わってきました。
絵本をこのように活用することができるんだと思いました。
小さいときに何度も見た「ちいさいおうち」を60年後に改めて見ました。
柳田邦男さんが「大人も絵本を」と言われていますが、その通りだと思います。
グリム兄弟が少し話を変えていることを知り、「本当は怖いグリム童話」を読んだりしました。
なんで昔話は怖いものがあるのだろうと思ったりしていました。
今回河合隼雄さんの昔話の解釈を読み、そのことを少し知り改めて昔話は奥が深いなと思いました。