幸せに生きる(笑顔のレシピ) & ロゴセラピー 

幸せに生きるには幸せな考え方をすること 笑顔のレシピは自分が創ることだと思います。笑顔が周りを幸せにし自分も幸せに!

「未来のだるまちゃんへ」かこさとし著 ”子どもたちのために、子どもたちから学びながら”

2022-09-12 17:44:44 | 本の紹介
・敗戦のとき、僕は19歳でした。
 僕は「終戦」と言わないで「敗戦」と言うのですが、それは戦争に負けて、てのひらを返すように態度を変えた大人たちを見て、ものすごく失望憤慨したからです。
 その時その時の状況にうかうかと便乗して、戦意高揚を謳ったかと思えば、反省のひと言もなく、今度は民主主義の時代が来たとしゃしゃと喜んでいる。
 なんてだらしなく、浅ましく恥ずかしい人たちだろうと。

・近視が進んだため軍人にはなれなかったけれど、そのままの道を進んでいたら、きっと同級の仲間たちと同様、飛行機乗りになって、あるいはアジア各国に迷惑をかけていたかもしれません。

・軍人を志した同級生たちは、みんな、死んでしまった。自分はその生き残り・・・というより、「死に残り」でした。死に残りの自分は、これから何の償いもせず、出来ず、おめおめと生きているのか。そう思うと、自分が本当にだらしなく、はずかしい大人であり、必要のない人間に思えました。
 自分は何をすればよいのか、少しでも償いができるのか。
 生きる目的もなくて、なんで生きていけるのか。
 どうしたら生きていけるのか。
 それは今思っても、なかなか出口が見えない自問自答の日々でした。
 親がいたから自殺するわけにはいかないし、自殺する意味も自分にはない。
 せめて人間らしい意味あることがしたいと、生きるよすがを必死で探していたのです。

・大人はもう信用できない。飽き飽きだ。自分もその一員だった。大人だけではなく、せめて子どもたちのためにお役に立てないだろうか。せめて自分のような後悔しない人生を送るよう、伝えておきたい。 
 だんだんとそう考えるようになりました。
 これからを生きていく子どもたちが、僕のような愚かなことをしないようにしたい。子どもたちは、ちゃんと自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の力で判断し行動する賢さを持つようになってほしい。
 その手伝いをするのなら、死にはぐれた意味もあるかも知れない。
 こうして昭和20年から僕の人生がやっと始まったのだと思います。
 子どもたちは僕にとっての生きる希望になりました。

・「うちのあんちゃん、兵隊検査に行き前の晩、醤油飲んで行ったんだ。そのお蔭で、兵隊にならずに済んだ」
これは誰にも言ったらダメだぞ。秘密だからな。じゃないと、あんちゃんが牢屋に行くことになる・・・そう言って口止めしたガキ大将の顔は、ついになく真剣そのもので、そんな大事なことをなぜ自分に言うのだと思ったけれど、誰かに言わずにいられなかったのでしょう。

・「自分がこんなふうになったのは親のせいだ」とか「世の中が悪い」「時代が悪い」と自らの不備を棚上げにして嘆いたところで、人は、生まれる場所を選ぶことは出来ません。
 どんな境遇であろうと、その人の心がけ次第で、思いやりがあって、おおらかな、素晴らしい人間になることはできる。あんちゃんは、僕に後ろ姿で教えてくれたのです。

・長屋のあんちゃんの影響もあって、僕は子どもの頃から絵を描くのが大好きでした。

・僕は、小学校4年の時に板橋第一小学校から板橋第六小学校に移ったのですが、新設校だったせいか、先生方は新しい教育観を持っていました。特に美術と音楽の先生が非常に熱心で、僕が絵のコンクールで力を発揮できたのはそのおかげだったかも知れません。
 絵のうまい子を選抜して、放課後、希望者を居残りさせるのです。3時くらいに授業が終わると、4時とか5時まで写生をして、先生がポイントを指導してくれました。
「こういうところは、お前、一番くらいところだから、黒く、キュッとやるんだよ」
先生のアドバイスは的確で本格的なものでした。

・大学卒業後、昭和電工に就職したものの、出来ることなら子どもたちに関わることがしたいという思いを抱いていた僕は、人形劇団の手伝いを続けていたのですが、そこにいた準劇団員の一人に「子ども会を手伝ってほしい」と言われて行ったのが大井町のセツルメントでした。

・平日は会社勤めがありましたから、紙芝居をつくるのは仕事を終えて、古市場の隣町にあった会社の独身寮に帰ってきてからでした。土曜日はまだ半ドンではなかったので早く帰ることが出来ず、徹夜して描くこともありましたが、全然苦になりませんでした。

・6年生のケンちゃんは、学校一のワルだと校長先生から注意をうけた噂のある子だったので、その子がくると子ども会も勉強会もガタガタになるとセツラーたちが警戒をしていたのです。
 僕は千載一遇のチャンスだと思って、ケンちゃんがそばに来た時に、わざとパッと手を放して「あ、しまった、ケンちゃん、すまないけど、幕のそっち側を引っ張ってくれない?」と頼んでみたのです。すると、
「いいよ」
文句も言わずにやってくれました。
「ありがとう。助かったよ。もうちょっとすると、皆がくるんと思うんだけど、玄関でわーっと一斉に靴を脱ぐから、いつもぐちゃぐちゃになるんだよ。ケンちゃん、悪いけど、玄関で靴をきちんと脱ぐように見張っててくれない?」
「いいよ。わかった。まかしとけ」
幻燈を観ようと張り切ってやって来た小さい子どもたちは、玄関に学校一腕力が強いケンちゃんが待ち構えているのを見て、シーンとなりました。
 いつもならそこらじゅうに脱ぎ散らかす靴も、ケンちゃんに「ちゃんとしろ」と言われて、きちんと揃えたりして、いつになく行儀がいいんです。大人に言われても、たぶんこうはいかなかったと思います。
 映写が始まっても、ケンちゃんは、自分は観ないでそのまま玄関でじっと見張りを続けてくれました。そして、それが自分の役割だと思ったんでしょうか。翌日から学校が終わるとセツルに常駐として、ほかの子どもたちの面倒をみるようになったのです。
子どもというのは、そんなふうにふとしたきっかけで、自分の居場所やしたいことを見つけていくものです。

・成長とは、自発的に花開くこと

・目の前にいる、この川崎セツルメントの30人とか40人の子どもたちに届くものがつくりたい。ただ、この一念で続けてきたのです。

・その頃、僕は、会社の仕事がとても忙しかったんです。というのも、技術者として「学位論文を書け」と会社から発破をかけられていたからです。僕は、旧制の大学を出たのですが、これからは新制の学位制度のドクターの資格を持たなければ技術者として通用しない時代となっていました。
 論文の締切はどんどん迫ってくるし、でもそのために子ども会を休むはどうしても嫌だったので、窮余の策で、書きかけの学位論文の白い裏に、黒一色の走り書きでかいたのが『どろぼうがっこう』でした。・・・
ところが案に相違して子どもたちは大喜び。

・初めての絵本『だむのおじさんたち』が松居さんの御計らいで出版できたのは、長女が誕生した二年後の昭和34(1959)年でした。

・結婚するにあたって、「自分はセツルメントの活動を最優先する」旨を、家内には通達してあったので、家内としては、あまりいい父親でもないし、夫でもないんだけど
「まあ、しょうがない」と諦めていたようです。
日曜日にはセツルメントがありましたから、家族だんらんができない。その言い訳として「本当は昭和20年死んだ人間なんだから、我慢せい」と突っぱねたこともあった。

・100%どころか、120%出して、何かあっても「文句があるか」と、こちらが開き直れるくらいの仕事ぶりを発揮した上で、やらなければならないと考えたのです。
 それが出来ないんだったら、どっちをやるのか、ハッキリ選ばなければ二足なんかはく資格がないと思って勤務をしていました。
 それで朝は誰よりも早く30分前には出社して、残業も一切断らないようにしていたし、週に2,3回は、飲み屋に部下を連れていって、愚痴を聞いてやる。そういうこともサボらなかった。むしろ人が嫌がることは人より率先してやるようにしたのです。

・45歳で退職しようと思ったのは、定年まで会社勤めを続けたのでは、自分のやりたいことをやりきることはできないと考えたからです。
 当時は55歳が定年ですから、それよりも10年早いわけです。
 結局、当時手掛けていた仕事の区切りをつけるのに、それからもう三年かかって、円満に退職したのは昭和48年47歳の時でした。

・僕は、いつか「戦争」を描いた絵本をだしたい、出さなければ、と思い続け、何回も企画を立てては、自らボツにして、いまだに果たせずにいます。

・脅かすわけではないけれど、僕は、子どもたちに、自分がなんであるか、どういう生き物であるかをしっかり知って欲しいと思います。
 自分が生きている社会をよく見つめ、観察し、より良いものに変えていってほしい。
 現実が見難く思えることもあるかもしれない。
 しかし、それは今の現実に過ぎず、今をどう生きるかで未来は変えてゆけるはずなのです。
 生きるということは、本当は、喜びです。
 生きていくというのは、本当はとても、うんと面白いことで、楽しいことです。
 もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どもたちから教わりました。遊びの中でいきいきと命を充足させ、それぞれのやり方で伸びていこうとする。子どもたちの姿は、僕の生きる指針となり、生きる原動力となりました。それを頼みとして、僕は、ここまで歩いてきたのです。
 だから僕は、子どもたちには生きることをうんと喜んでいてほしい。
 この世界に対して目を見開いて、それをきちんと理解して面白がってほしい。
 そうして、自分たちの生きていく場所がよりよいものになるように、うんと力をつけて、それえをまた次の世代の子どもたちに、よりよいかたちで手渡してほしい。

感想
未発表の絵本を娘さんが発見し、それが発行されました。
まさにそれは戦争のお話でした。
かこさとしさんの新しい絵本『秋』には、絵本作家としての思いがつまっている。

毎日曜日はセツルメント(今でいうボランティア)の活動。
土曜日会社が終わってから(当時はまだ半ドンでない)、紙芝居を作って、それを日曜日に披露していました。
そして子どもたちの反応から学ばれました。
その仲間の女性が出版社に働き、かこさとしさんのことを社長に話、絵本の依頼が来ました。
それが絵本作家としてのスタートになりました。
どこにどんな縁があるか分からないものです。

仕事しながらセツルメントの活動は大変だったと思います。

私もいろいろなボランティアをしました。
目の不自由な人への朗読ボランティア
留学生に日本語を教えるボランティア
入院児と遊ぶボランティア
相談ボランティア

文京区のボランティア祭実行委員やボランティア交流会の司会なども社協のボランティアセンターの依頼で行ったこともあります。
平均すると月に約20時間ほどボランティア活動に使っていました。
それが仕事とボランティア活動の限界でした。
残業も60~80時間ほどやっていました。

かこさとしさんはセツルメント活動に40時間以上/月使われていたと思います。
それが苦にならなかったとのこと。
使命を感じてそれが生きる証でもあったのでしょう。
そこから絵本作家との道が拓かれて行きました。
子どもたちの可能性を信じ、子どもたちへの愛情を注ぎ来られたようです。

かこさとしさんは2019年5月にご逝去されました。
かこさとしさんの絵本は今も教育現場で活用されているそうです。

「かこさとしと紙芝居 創作の原点」かこさとし・鈴木万里共著 "子どもたちの成長に絵本を通して尽力”

「#太田光をテレビに出すな」がトレンド入り…爆笑問題・太田光の統一教会&国葬発言に視聴者から反発の声 "太田光さん出演のTVを見ないことで抗議を表す”

2022-09-12 09:56:44 | 旧統一教会
https://article.yahoo.co.jp/detail/ba72e9048625e3943395b1e75242860a12ca59a0 9/12(月) 7:00 New's

爆笑問題の太田光(57)が11日、『サンデー・ジャポン』(TBS系)に出演。自民党が世界平和統一家庭連合(旧統一教会)と179人に接点があったと公表したことや安倍晋三元首相の国葬の是非について私見を述べたところ、視聴者から反発の声が殺到。ツイッター上に「#太田光をテレビに出すな」というハッシュタグが登場してトレンド入りするなど物議を醸している。

この日の『サンデー・ジャポン』は冒頭から旧統一教会と自民党の関わりについて特集。自民党の茂木敏充幹事長が8日、旧統一教会および関連団体と179人が何らかの接点があったとの“点検”結果を公表し、「関連団体の会合に出席をした。ただ、その時点において、(旧統一教会)関連団体であるという認識がなかったという人が大半。だいたい9割近くがそのような状態だった」とコメントしたことに対し、ジャーナリストの鈴木エイト氏が「今回の自民党調査は(100点満点中)10点です。茂木氏が9割は統一教会との関係を知らなかったと言っているが、実際はこれ逆だと思う。9割は知っていたが正しい。よって評価は10点」と酷評。さらに「自己申告だと正直に申告しない議員が相当いる。代表格はマザームーン発言の山本議員で、統一教会が主催した1万人規模の集会に参加したのに点検結果に名前がないのはおかしい」と指摘するなど新たな疑問を投げかけていた。

太田の発言が物議を醸したのは、岸田首相が「故人なので限界がある」として安倍元首相と旧統一教会の接点を調査しないことを述べた部分だった。太田は「中途半端なことをするから安倍さんが濡れ衣着せられる」としたうえで「逆効果になって反感をかってしまう国民に。森友問題でも割とそういうところが自民党の調査の仕方の中に(あった)。要は公文書改ざんも安倍さんがやった、指示だったのか指示じゃなかったのかというのは、昭恵さんの名前があそこにあったのを消したということを、それを言いたくないがために、消したのは実は誰だったのか、まだわからないわけで。その辺を有耶無耶にするから余計、安倍さんが全部、指示したんじゃないかと(濡れ衣を着せられる)」と自論を展開した。

さらに太田は、国葬費用の高騰について「思想で反対してる人が多いけど、(国葬は世界各国から)要人が来るイベント。テロ対策などの警備は我々の税金で、国費で賄うべき」「国葬については統一教会の問題と切り離して考えるべき」だとした。

太田のこうした発言に対し、ツイッター上では「もういいよ爆笑問題。いくら逆張り・屁理屈が芸風とはいえ、もはや見るに堪えない」「そもそもなんで太田光だけ誰にも口出しされずに、誰にも反論されずにべらべらと喋ることができるの?」「ビートたけしっぽくふるまってるけど、世相を斬るようなかっこいい芸人にはほど遠いと感じるなあ。 権力側に立って毒舌です、言われてもね」「これBPO案件ですね。通報します」など異論が噴出。「#太田光をテレビに出すな」というハッシュタグがトレンド入りするなど、12日現在も炎上を続けている。

感想
なぜもっと、森友学園問題の真実を明確にせよと自民党に言わないのでしょうか?

赤木さんの裁判でも国は明確にするのを避けています。
佐川氏は裁判にも出てきません。
それをなぜ抗議しないのでしょうか?

濡れ衣ではなく、明確になるから調査しないのです。
それが太田光さんはわからないのか、わかった上でいっているのかわかりません。

抗議に一番よいのは、太田光さんがでている番組を見ないことです。
見ているから、視聴率が良いから言いつづけられるのです。
炎上ビジネスに近いかもしれません。

国葬は「三権の了承必要」、過去に内閣法制局長官が見解 関係者証言 ”岸田首相の状況判断力の無さが露呈!”

2022-09-12 01:05:55 | 旧統一教会
https://news.yahoo.co.jp/articles/63148728d0d407f258892ed855372291a43e31b8 9/7(水) 21:00 朝日新聞デジタル

 1975年に佐藤栄作元首相が死去した際、当時の吉国一郎内閣法制局長官(故人)が国葬について「法制度がない」「三権の了承が必要」との見解を三木武夫首相に示していたことが分かった。自民党の実力者だった前尾繁三郎衆院議長の秘書を務めていた平野貞夫元参院議員が朝日新聞に証言した。こうした指摘を受けて三木政権は国葬を見送り、国民葬とした。

【写真】「岸田首相は焦りすぎた」 吉田茂氏の国葬は野党から内諾

 当時の報道によると、佐藤氏が死去した75年6月3日、政府や自民党は約1時間半にわたる協議で政府、自民党、国民有志が主催する国民葬の実施を決定。平野氏によると、その結果を伝えるため三木首相が衆院議長室を訪れた。

 前尾氏は不在だった。三木首相は、前尾氏の信頼が厚かった平野氏に「国葬はやるつもりはない」と伝言を求めたという。佐藤氏は当時、連続在職日数が7年8カ月で現憲法下最長。ノーベル平和賞を受賞し、党内からは国葬にすべきだとの意見も出ていたが、吉国長官が「法制度がないので、国葬とするには立法、行政、司法の三権の了承が必要」と語ったと伝えた。これが国葬見送りの理由になったとも語った。野党は国葬に反対していた。

 佐藤元首相の国葬見送りをめぐって当時の朝日新聞は「決め手となったのは『法的根拠が明確でない』との内閣法制局見解だったといわれる」と記している。今回の証言で、佐藤氏の国葬を見送った三木内閣の意思決定過程の一端がより明らかになった形だ。

感想
内閣法制局の見解が時の首相の考えで、過去からの一貫した考えも逆転させるようにしたのが安倍元首相でした。
安倍元首相の意思に反する判断をする長官の首を変えるのですから。
その悪しきことを岸田首相は引き継いでいます。

英国でエリザベス女王の国葬が予定されています。
お金を使うので国会の審議が必要とのことです。

日本では国会で審議もせずに、内閣法制局の過去の一環した考えに反することを行うのですから、法治国家とは言えません。
それと何より、安倍元首相は国会で118回も嘘の答弁をしてきた方です。
かつ森友学園問題での記録の改竄指示。
加計学園ではお友だちの学校だけ獣医学部認可。
桜を見る会では違法な講演会接待。
それより大きのは旧統一教会に協力してきた売国行為です。
そんな人は国葬するに値する人ではないです。
岸田首相の状況判断力がひどすぎます。
このまま日本のかじ取りを任せることがとても不安に思います。