・敗戦のとき、僕は19歳でした。
僕は「終戦」と言わないで「敗戦」と言うのですが、それは戦争に負けて、てのひらを返すように態度を変えた大人たちを見て、ものすごく失望憤慨したからです。
その時その時の状況にうかうかと便乗して、戦意高揚を謳ったかと思えば、反省のひと言もなく、今度は民主主義の時代が来たとしゃしゃと喜んでいる。
なんてだらしなく、浅ましく恥ずかしい人たちだろうと。
・近視が進んだため軍人にはなれなかったけれど、そのままの道を進んでいたら、きっと同級の仲間たちと同様、飛行機乗りになって、あるいはアジア各国に迷惑をかけていたかもしれません。
・軍人を志した同級生たちは、みんな、死んでしまった。自分はその生き残り・・・というより、「死に残り」でした。死に残りの自分は、これから何の償いもせず、出来ず、おめおめと生きているのか。そう思うと、自分が本当にだらしなく、はずかしい大人であり、必要のない人間に思えました。
自分は何をすればよいのか、少しでも償いができるのか。
生きる目的もなくて、なんで生きていけるのか。
どうしたら生きていけるのか。
それは今思っても、なかなか出口が見えない自問自答の日々でした。
親がいたから自殺するわけにはいかないし、自殺する意味も自分にはない。
せめて人間らしい意味あることがしたいと、生きるよすがを必死で探していたのです。
・大人はもう信用できない。飽き飽きだ。自分もその一員だった。大人だけではなく、せめて子どもたちのためにお役に立てないだろうか。せめて自分のような後悔しない人生を送るよう、伝えておきたい。
だんだんとそう考えるようになりました。
これからを生きていく子どもたちが、僕のような愚かなことをしないようにしたい。子どもたちは、ちゃんと自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の力で判断し行動する賢さを持つようになってほしい。
その手伝いをするのなら、死にはぐれた意味もあるかも知れない。
こうして昭和20年から僕の人生がやっと始まったのだと思います。
子どもたちは僕にとっての生きる希望になりました。
・「うちのあんちゃん、兵隊検査に行き前の晩、醤油飲んで行ったんだ。そのお蔭で、兵隊にならずに済んだ」
これは誰にも言ったらダメだぞ。秘密だからな。じゃないと、あんちゃんが牢屋に行くことになる・・・そう言って口止めしたガキ大将の顔は、ついになく真剣そのもので、そんな大事なことをなぜ自分に言うのだと思ったけれど、誰かに言わずにいられなかったのでしょう。
・「自分がこんなふうになったのは親のせいだ」とか「世の中が悪い」「時代が悪い」と自らの不備を棚上げにして嘆いたところで、人は、生まれる場所を選ぶことは出来ません。
どんな境遇であろうと、その人の心がけ次第で、思いやりがあって、おおらかな、素晴らしい人間になることはできる。あんちゃんは、僕に後ろ姿で教えてくれたのです。
・長屋のあんちゃんの影響もあって、僕は子どもの頃から絵を描くのが大好きでした。
・僕は、小学校4年の時に板橋第一小学校から板橋第六小学校に移ったのですが、新設校だったせいか、先生方は新しい教育観を持っていました。特に美術と音楽の先生が非常に熱心で、僕が絵のコンクールで力を発揮できたのはそのおかげだったかも知れません。
絵のうまい子を選抜して、放課後、希望者を居残りさせるのです。3時くらいに授業が終わると、4時とか5時まで写生をして、先生がポイントを指導してくれました。
「こういうところは、お前、一番くらいところだから、黒く、キュッとやるんだよ」
先生のアドバイスは的確で本格的なものでした。
・大学卒業後、昭和電工に就職したものの、出来ることなら子どもたちに関わることがしたいという思いを抱いていた僕は、人形劇団の手伝いを続けていたのですが、そこにいた準劇団員の一人に「子ども会を手伝ってほしい」と言われて行ったのが大井町のセツルメントでした。
・平日は会社勤めがありましたから、紙芝居をつくるのは仕事を終えて、古市場の隣町にあった会社の独身寮に帰ってきてからでした。土曜日はまだ半ドンではなかったので早く帰ることが出来ず、徹夜して描くこともありましたが、全然苦になりませんでした。
・6年生のケンちゃんは、学校一のワルだと校長先生から注意をうけた噂のある子だったので、その子がくると子ども会も勉強会もガタガタになるとセツラーたちが警戒をしていたのです。
僕は千載一遇のチャンスだと思って、ケンちゃんがそばに来た時に、わざとパッと手を放して「あ、しまった、ケンちゃん、すまないけど、幕のそっち側を引っ張ってくれない?」と頼んでみたのです。すると、
「いいよ」
文句も言わずにやってくれました。
「ありがとう。助かったよ。もうちょっとすると、皆がくるんと思うんだけど、玄関でわーっと一斉に靴を脱ぐから、いつもぐちゃぐちゃになるんだよ。ケンちゃん、悪いけど、玄関で靴をきちんと脱ぐように見張っててくれない?」
「いいよ。わかった。まかしとけ」
幻燈を観ようと張り切ってやって来た小さい子どもたちは、玄関に学校一腕力が強いケンちゃんが待ち構えているのを見て、シーンとなりました。
いつもならそこらじゅうに脱ぎ散らかす靴も、ケンちゃんに「ちゃんとしろ」と言われて、きちんと揃えたりして、いつになく行儀がいいんです。大人に言われても、たぶんこうはいかなかったと思います。
映写が始まっても、ケンちゃんは、自分は観ないでそのまま玄関でじっと見張りを続けてくれました。そして、それが自分の役割だと思ったんでしょうか。翌日から学校が終わるとセツルに常駐として、ほかの子どもたちの面倒をみるようになったのです。
子どもというのは、そんなふうにふとしたきっかけで、自分の居場所やしたいことを見つけていくものです。
・成長とは、自発的に花開くこと
・目の前にいる、この川崎セツルメントの30人とか40人の子どもたちに届くものがつくりたい。ただ、この一念で続けてきたのです。
・その頃、僕は、会社の仕事がとても忙しかったんです。というのも、技術者として「学位論文を書け」と会社から発破をかけられていたからです。僕は、旧制の大学を出たのですが、これからは新制の学位制度のドクターの資格を持たなければ技術者として通用しない時代となっていました。
論文の締切はどんどん迫ってくるし、でもそのために子ども会を休むはどうしても嫌だったので、窮余の策で、書きかけの学位論文の白い裏に、黒一色の走り書きでかいたのが『どろぼうがっこう』でした。・・・
ところが案に相違して子どもたちは大喜び。
・初めての絵本『だむのおじさんたち』が松居さんの御計らいで出版できたのは、長女が誕生した二年後の昭和34(1959)年でした。
・結婚するにあたって、「自分はセツルメントの活動を最優先する」旨を、家内には通達してあったので、家内としては、あまりいい父親でもないし、夫でもないんだけど
「まあ、しょうがない」と諦めていたようです。
日曜日にはセツルメントがありましたから、家族だんらんができない。その言い訳として「本当は昭和20年死んだ人間なんだから、我慢せい」と突っぱねたこともあった。
・100%どころか、120%出して、何かあっても「文句があるか」と、こちらが開き直れるくらいの仕事ぶりを発揮した上で、やらなければならないと考えたのです。
それが出来ないんだったら、どっちをやるのか、ハッキリ選ばなければ二足なんかはく資格がないと思って勤務をしていました。
それで朝は誰よりも早く30分前には出社して、残業も一切断らないようにしていたし、週に2,3回は、飲み屋に部下を連れていって、愚痴を聞いてやる。そういうこともサボらなかった。むしろ人が嫌がることは人より率先してやるようにしたのです。
・45歳で退職しようと思ったのは、定年まで会社勤めを続けたのでは、自分のやりたいことをやりきることはできないと考えたからです。
当時は55歳が定年ですから、それよりも10年早いわけです。
結局、当時手掛けていた仕事の区切りをつけるのに、それからもう三年かかって、円満に退職したのは昭和48年47歳の時でした。
・僕は、いつか「戦争」を描いた絵本をだしたい、出さなければ、と思い続け、何回も企画を立てては、自らボツにして、いまだに果たせずにいます。
・脅かすわけではないけれど、僕は、子どもたちに、自分がなんであるか、どういう生き物であるかをしっかり知って欲しいと思います。
自分が生きている社会をよく見つめ、観察し、より良いものに変えていってほしい。
現実が見難く思えることもあるかもしれない。
しかし、それは今の現実に過ぎず、今をどう生きるかで未来は変えてゆけるはずなのです。
生きるということは、本当は、喜びです。
生きていくというのは、本当はとても、うんと面白いことで、楽しいことです。
もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どもたちから教わりました。遊びの中でいきいきと命を充足させ、それぞれのやり方で伸びていこうとする。子どもたちの姿は、僕の生きる指針となり、生きる原動力となりました。それを頼みとして、僕は、ここまで歩いてきたのです。
だから僕は、子どもたちには生きることをうんと喜んでいてほしい。
この世界に対して目を見開いて、それをきちんと理解して面白がってほしい。
そうして、自分たちの生きていく場所がよりよいものになるように、うんと力をつけて、それえをまた次の世代の子どもたちに、よりよいかたちで手渡してほしい。
感想;
未発表の絵本を娘さんが発見し、それが発行されました。
まさにそれは戦争のお話でした。
かこさとしさんの新しい絵本『秋』には、絵本作家としての思いがつまっている。
毎日曜日はセツルメント(今でいうボランティア)の活動。
土曜日会社が終わってから(当時はまだ半ドンでない)、紙芝居を作って、それを日曜日に披露していました。
そして子どもたちの反応から学ばれました。
その仲間の女性が出版社に働き、かこさとしさんのことを社長に話、絵本の依頼が来ました。
それが絵本作家としてのスタートになりました。
どこにどんな縁があるか分からないものです。
仕事しながらセツルメントの活動は大変だったと思います。
私もいろいろなボランティアをしました。
目の不自由な人への朗読ボランティア
留学生に日本語を教えるボランティア
入院児と遊ぶボランティア
相談ボランティア
文京区のボランティア祭実行委員やボランティア交流会の司会なども社協のボランティアセンターの依頼で行ったこともあります。
平均すると月に約20時間ほどボランティア活動に使っていました。
それが仕事とボランティア活動の限界でした。
残業も60~80時間ほどやっていました。
かこさとしさんはセツルメント活動に40時間以上/月使われていたと思います。
それが苦にならなかったとのこと。
使命を感じてそれが生きる証でもあったのでしょう。
そこから絵本作家との道が拓かれて行きました。
子どもたちの可能性を信じ、子どもたちへの愛情を注ぎ来られたようです。
かこさとしさんは2019年5月にご逝去されました。
かこさとしさんの絵本は今も教育現場で活用されているそうです。
「かこさとしと紙芝居 創作の原点」かこさとし・鈴木万里共著 "子どもたちの成長に絵本を通して尽力”
僕は「終戦」と言わないで「敗戦」と言うのですが、それは戦争に負けて、てのひらを返すように態度を変えた大人たちを見て、ものすごく失望憤慨したからです。
その時その時の状況にうかうかと便乗して、戦意高揚を謳ったかと思えば、反省のひと言もなく、今度は民主主義の時代が来たとしゃしゃと喜んでいる。
なんてだらしなく、浅ましく恥ずかしい人たちだろうと。
・近視が進んだため軍人にはなれなかったけれど、そのままの道を進んでいたら、きっと同級の仲間たちと同様、飛行機乗りになって、あるいはアジア各国に迷惑をかけていたかもしれません。
・軍人を志した同級生たちは、みんな、死んでしまった。自分はその生き残り・・・というより、「死に残り」でした。死に残りの自分は、これから何の償いもせず、出来ず、おめおめと生きているのか。そう思うと、自分が本当にだらしなく、はずかしい大人であり、必要のない人間に思えました。
自分は何をすればよいのか、少しでも償いができるのか。
生きる目的もなくて、なんで生きていけるのか。
どうしたら生きていけるのか。
それは今思っても、なかなか出口が見えない自問自答の日々でした。
親がいたから自殺するわけにはいかないし、自殺する意味も自分にはない。
せめて人間らしい意味あることがしたいと、生きるよすがを必死で探していたのです。
・大人はもう信用できない。飽き飽きだ。自分もその一員だった。大人だけではなく、せめて子どもたちのためにお役に立てないだろうか。せめて自分のような後悔しない人生を送るよう、伝えておきたい。
だんだんとそう考えるようになりました。
これからを生きていく子どもたちが、僕のような愚かなことをしないようにしたい。子どもたちは、ちゃんと自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の力で判断し行動する賢さを持つようになってほしい。
その手伝いをするのなら、死にはぐれた意味もあるかも知れない。
こうして昭和20年から僕の人生がやっと始まったのだと思います。
子どもたちは僕にとっての生きる希望になりました。
・「うちのあんちゃん、兵隊検査に行き前の晩、醤油飲んで行ったんだ。そのお蔭で、兵隊にならずに済んだ」
これは誰にも言ったらダメだぞ。秘密だからな。じゃないと、あんちゃんが牢屋に行くことになる・・・そう言って口止めしたガキ大将の顔は、ついになく真剣そのもので、そんな大事なことをなぜ自分に言うのだと思ったけれど、誰かに言わずにいられなかったのでしょう。
・「自分がこんなふうになったのは親のせいだ」とか「世の中が悪い」「時代が悪い」と自らの不備を棚上げにして嘆いたところで、人は、生まれる場所を選ぶことは出来ません。
どんな境遇であろうと、その人の心がけ次第で、思いやりがあって、おおらかな、素晴らしい人間になることはできる。あんちゃんは、僕に後ろ姿で教えてくれたのです。
・長屋のあんちゃんの影響もあって、僕は子どもの頃から絵を描くのが大好きでした。
・僕は、小学校4年の時に板橋第一小学校から板橋第六小学校に移ったのですが、新設校だったせいか、先生方は新しい教育観を持っていました。特に美術と音楽の先生が非常に熱心で、僕が絵のコンクールで力を発揮できたのはそのおかげだったかも知れません。
絵のうまい子を選抜して、放課後、希望者を居残りさせるのです。3時くらいに授業が終わると、4時とか5時まで写生をして、先生がポイントを指導してくれました。
「こういうところは、お前、一番くらいところだから、黒く、キュッとやるんだよ」
先生のアドバイスは的確で本格的なものでした。
・大学卒業後、昭和電工に就職したものの、出来ることなら子どもたちに関わることがしたいという思いを抱いていた僕は、人形劇団の手伝いを続けていたのですが、そこにいた準劇団員の一人に「子ども会を手伝ってほしい」と言われて行ったのが大井町のセツルメントでした。
・平日は会社勤めがありましたから、紙芝居をつくるのは仕事を終えて、古市場の隣町にあった会社の独身寮に帰ってきてからでした。土曜日はまだ半ドンではなかったので早く帰ることが出来ず、徹夜して描くこともありましたが、全然苦になりませんでした。
・6年生のケンちゃんは、学校一のワルだと校長先生から注意をうけた噂のある子だったので、その子がくると子ども会も勉強会もガタガタになるとセツラーたちが警戒をしていたのです。
僕は千載一遇のチャンスだと思って、ケンちゃんがそばに来た時に、わざとパッと手を放して「あ、しまった、ケンちゃん、すまないけど、幕のそっち側を引っ張ってくれない?」と頼んでみたのです。すると、
「いいよ」
文句も言わずにやってくれました。
「ありがとう。助かったよ。もうちょっとすると、皆がくるんと思うんだけど、玄関でわーっと一斉に靴を脱ぐから、いつもぐちゃぐちゃになるんだよ。ケンちゃん、悪いけど、玄関で靴をきちんと脱ぐように見張っててくれない?」
「いいよ。わかった。まかしとけ」
幻燈を観ようと張り切ってやって来た小さい子どもたちは、玄関に学校一腕力が強いケンちゃんが待ち構えているのを見て、シーンとなりました。
いつもならそこらじゅうに脱ぎ散らかす靴も、ケンちゃんに「ちゃんとしろ」と言われて、きちんと揃えたりして、いつになく行儀がいいんです。大人に言われても、たぶんこうはいかなかったと思います。
映写が始まっても、ケンちゃんは、自分は観ないでそのまま玄関でじっと見張りを続けてくれました。そして、それが自分の役割だと思ったんでしょうか。翌日から学校が終わるとセツルに常駐として、ほかの子どもたちの面倒をみるようになったのです。
子どもというのは、そんなふうにふとしたきっかけで、自分の居場所やしたいことを見つけていくものです。
・成長とは、自発的に花開くこと
・目の前にいる、この川崎セツルメントの30人とか40人の子どもたちに届くものがつくりたい。ただ、この一念で続けてきたのです。
・その頃、僕は、会社の仕事がとても忙しかったんです。というのも、技術者として「学位論文を書け」と会社から発破をかけられていたからです。僕は、旧制の大学を出たのですが、これからは新制の学位制度のドクターの資格を持たなければ技術者として通用しない時代となっていました。
論文の締切はどんどん迫ってくるし、でもそのために子ども会を休むはどうしても嫌だったので、窮余の策で、書きかけの学位論文の白い裏に、黒一色の走り書きでかいたのが『どろぼうがっこう』でした。・・・
ところが案に相違して子どもたちは大喜び。
・初めての絵本『だむのおじさんたち』が松居さんの御計らいで出版できたのは、長女が誕生した二年後の昭和34(1959)年でした。
・結婚するにあたって、「自分はセツルメントの活動を最優先する」旨を、家内には通達してあったので、家内としては、あまりいい父親でもないし、夫でもないんだけど
「まあ、しょうがない」と諦めていたようです。
日曜日にはセツルメントがありましたから、家族だんらんができない。その言い訳として「本当は昭和20年死んだ人間なんだから、我慢せい」と突っぱねたこともあった。
・100%どころか、120%出して、何かあっても「文句があるか」と、こちらが開き直れるくらいの仕事ぶりを発揮した上で、やらなければならないと考えたのです。
それが出来ないんだったら、どっちをやるのか、ハッキリ選ばなければ二足なんかはく資格がないと思って勤務をしていました。
それで朝は誰よりも早く30分前には出社して、残業も一切断らないようにしていたし、週に2,3回は、飲み屋に部下を連れていって、愚痴を聞いてやる。そういうこともサボらなかった。むしろ人が嫌がることは人より率先してやるようにしたのです。
・45歳で退職しようと思ったのは、定年まで会社勤めを続けたのでは、自分のやりたいことをやりきることはできないと考えたからです。
当時は55歳が定年ですから、それよりも10年早いわけです。
結局、当時手掛けていた仕事の区切りをつけるのに、それからもう三年かかって、円満に退職したのは昭和48年47歳の時でした。
・僕は、いつか「戦争」を描いた絵本をだしたい、出さなければ、と思い続け、何回も企画を立てては、自らボツにして、いまだに果たせずにいます。
・脅かすわけではないけれど、僕は、子どもたちに、自分がなんであるか、どういう生き物であるかをしっかり知って欲しいと思います。
自分が生きている社会をよく見つめ、観察し、より良いものに変えていってほしい。
現実が見難く思えることもあるかもしれない。
しかし、それは今の現実に過ぎず、今をどう生きるかで未来は変えてゆけるはずなのです。
生きるということは、本当は、喜びです。
生きていくというのは、本当はとても、うんと面白いことで、楽しいことです。
もう何も信じられないと打ちひしがれていた時に、僕は、それを子どもたちから教わりました。遊びの中でいきいきと命を充足させ、それぞれのやり方で伸びていこうとする。子どもたちの姿は、僕の生きる指針となり、生きる原動力となりました。それを頼みとして、僕は、ここまで歩いてきたのです。
だから僕は、子どもたちには生きることをうんと喜んでいてほしい。
この世界に対して目を見開いて、それをきちんと理解して面白がってほしい。
そうして、自分たちの生きていく場所がよりよいものになるように、うんと力をつけて、それえをまた次の世代の子どもたちに、よりよいかたちで手渡してほしい。
感想;
未発表の絵本を娘さんが発見し、それが発行されました。
まさにそれは戦争のお話でした。
かこさとしさんの新しい絵本『秋』には、絵本作家としての思いがつまっている。
毎日曜日はセツルメント(今でいうボランティア)の活動。
土曜日会社が終わってから(当時はまだ半ドンでない)、紙芝居を作って、それを日曜日に披露していました。
そして子どもたちの反応から学ばれました。
その仲間の女性が出版社に働き、かこさとしさんのことを社長に話、絵本の依頼が来ました。
それが絵本作家としてのスタートになりました。
どこにどんな縁があるか分からないものです。
仕事しながらセツルメントの活動は大変だったと思います。
私もいろいろなボランティアをしました。
目の不自由な人への朗読ボランティア
留学生に日本語を教えるボランティア
入院児と遊ぶボランティア
相談ボランティア
文京区のボランティア祭実行委員やボランティア交流会の司会なども社協のボランティアセンターの依頼で行ったこともあります。
平均すると月に約20時間ほどボランティア活動に使っていました。
それが仕事とボランティア活動の限界でした。
残業も60~80時間ほどやっていました。
かこさとしさんはセツルメント活動に40時間以上/月使われていたと思います。
それが苦にならなかったとのこと。
使命を感じてそれが生きる証でもあったのでしょう。
そこから絵本作家との道が拓かれて行きました。
子どもたちの可能性を信じ、子どもたちへの愛情を注ぎ来られたようです。
かこさとしさんは2019年5月にご逝去されました。
かこさとしさんの絵本は今も教育現場で活用されているそうです。
「かこさとしと紙芝居 創作の原点」かこさとし・鈴木万里共著 "子どもたちの成長に絵本を通して尽力”